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卯月十五日はあいにくの雨模様。

夜半から降り始めた雨は日本橋を渡る頃、小やみになっていた。

けれど近時、冷え込む日が多かったせいか、雨はたいそう冷たかった。しっかり雨支度してこなかったら寒さに震えていただろう。

美代の細やかな心遣いに感謝しながら桔乃は肩で風を切ってすいすい歩いた。

弾むような心地で歩く凛々しい若者に衆目が集まらぬはずもない。笠で顔が隠れているというのにすれ違う男女が申し合わせたように振り返った。

けれど、桔乃がそんな視線を気にするはずもない。ただただ今日泊まりの白子宿を目指して歩いた。

日本橋から中山道に入り、板橋宿、平尾追分の分岐を北上して川越街道へ。

向かうの武州川越だ。

川越には薬種問屋を営む母の弟がいる。

叔父は商用で診療所に来る度、桔乃を可愛がるよう父に意見するのだが、父はそんな説教など聞いちゃあいなかった。

そのことに叔父も気付いたのだろう。

桔乃が分別の付いて来た十二歳の頃、叔父に甘味屋に誘われた。

そして叔父はお汁粉を食べ終わった桔乃の頭を幾度か撫でてから言ったのだ。


『この先、辛くて仕方がないと思う時が来たらいつでもわたしを頼っておいで。

おまえはわたしのたったひとりの姪なのだからね』と。


母とそっくりだという叔父の大きくて温かい手。その手を頬に寄せて思わず泣きそうになった、身内の温かさに。

 だから、家を出ようと考えた時、まずの叔父の顔が頭に浮かんだのだ。


今日の泊まりは白子宿(現在の埼玉県和光市)と、思っていたものの。下練馬宿近くの浅間神社に詣でてから道行があやしくなった。

どう考えても一本道の街道を迷うはずもないのだが。

七つ下がり(午後四時過ぎ)を過ぎても桔乃は本街道に戻れなかった。

このままでは日が暮れてしまう。

仕方ない、あの丘に上がって道を見つけよう。

そう思ったのがそもそもの間違いだった。

 端から道などない丘のこと。しかも夜半からの雨をたっぷりと含んでいるとなれば、どんなに慎重に歩いてもぬかるみに足を取られる。

桔乃は一歩一歩慎重に歩いてようやく小山の頂上に着いたのだが、靄のせいでたいそう視界が悪かった。

そしてどうにか見えないかと伸びあがったのがさらなる過ち。

落とし穴のような落ち葉だまりに足を取られ、斜面を転げ落ちてしまった。


「うっわぁああああっ……!」


 ごろごろと面白いように転げ落ちていく。

このまま落ちるのは嫌だと思って手を伸ばしても掴めるのは笹ばかり。

両手に傷をこさえただけであっという間に登り口にあった道祖神の像まで戻ってしまった。


「つっ……!」


痛い。身体中がひどく痛かった。

山から転がり落ちる時、全身をぶつけたのだろう。

桔乃は反射的に胎児のように丸まって痛みを逃がそうとした。

けれど、痛みに強い桔乃でさえ、うめき声を出さないのがやっとというほどの激痛。左足はくじいたようで特に痛みがひどかった。

さらについていないことに小ぶりだった雨はじゃんじゃん降りの態。


(だからといっても動けないしな。

 このまま雨に打たれているしかないか)


桔乃は開き直って雨に打たれていたのだが、四半時も過ぎた頃、ようやく痛みが治まって来た。

 このままここに転がっていても誰かが助けに来てくれるわけでもなし。

しかも長いこと雨に打たれていたせいで半合羽どころか小袖までびっしょりという始末。

このままでは十中八九風邪を引く。なんとか起き上がらなくては。

丸まった姿勢からそろりそろりと足を伸ばし、道祖神に縋ってゆっくりと立ち上がる。

ああ、よかった。

あちこち痛みはしても歩けぬほどではない。

桔乃は杖の代わりに適当な長さの棒を拾うと、その棒に縋りながら一歩ずつ亀の歩みで歩きだした。


「なんとか雨が凌げるところを探さないといけないな」


 雨の日は暗くなるのが早い。

この際、雨に当たらない場所なら朽ちた神社でも大木の下でもいいから。

 そんなわずかな望みで道なき野原を行く桔乃の耳に聞こえてきたのは水の流れる音。足が痛いのを忘れ、思わず早足になる。


「澄んだ水だな……」


 くじいた左足を小川につけるとほうと放心のため息が出る。

 ついでに泥だらけになった顔や手足も洗って人心地ついた桔乃はあたりをきょろきょろと見回した。

なんと、十尺ほど先、野原が開けた辺りに小さな小屋があるではないか。


「こういうのを不幸中の幸いっていうのだろうな」


 安心したせいかひどく身体が重かった。一歩進む度、つんのめりそうになる。

それでも最後の力を振り絞り、今にも折れそうな棒に縋って歩いた。


「ああ、やっと……」

 

小屋の戸を開け、力なく板の間に身を横たえる。

桔乃の記憶はそれきり途絶えた。



 *****

 


「う、うん……?」


重たい目をようやく開けると、蜘蛛の巣の張った見慣れない天井。

 丸太梁が渡されただけの簡易なそれは黒く煤けていた。


(ここはどこだ?)


 桔乃はしばらく寝起きの頭を捻っていたのだが、もやもやしていた頭の霧が急に晴れた。

ああ、ここは昨日見つけたきこり小屋か。

自分は道に迷った上、小山から転がり落ちたのだった。

それにしても今何刻だろうか。

小屋の隙間からは明るい初夏の日差しが差してはいるけれど。

桔乃は身体を労わるようにゆっくり起き上がると杖代わりの棒を拾い、土間に降りてみた。

やはり左足はひどく傷む。

けれど手甲と脚袢に加え、合羽まで着ていたせいか思ったより傷が少なかった。しかも濡れたまま寝てしまったというのに風邪も引いていない。


(とはいえ、取りあえず手当だな)


道中籠と手桶を手に持つと昨日お世話になった小川へ向かう。

びっこを引きながら恐る恐る歩き始めてみれば、歩行は昨日よりずっと楽になっていた。

小川で手早く洗面を済ませた後、手足に出来た擦り傷や裂傷を清水で丹念に清めていく。そして薬草袋から傷にはヨモギ、捻挫にはびわの葉を貼りつければ治療は完了だ。


「こりゃあ、いい天気だな」


 昨日の雨がまるで嘘のよう、青く澄んだ空は目に痛いほど。

 すっかり乾いた草の上にごろりと寝転がれば、白く大きな雲がもこもこと膨らんでいくのが見える。

 

「ああ、なんて気持ちがいいんだろう」


 そう声に出してみると心穏やかな自分がいる。

 雨の中、道に迷って小山から転がり落ちて怪我をして、その上どこかわからない場所にいるというのになぜ心はこんなに凪いでいるのだろう。

 さてと、桔乃は杖を引き寄せ、小屋へ戻るため立ちあがろうとした。

途端、お腹がぐうと鳴る。


「このまま食事にするか!」


 確か干し柿があったはず。

道中籠の中をごそごそ探っていると案の定、油紙に包まれた干し柿が五つ。白く粉を吹き、みるからにうまそうだ。


「いただきます」


 一口齧ると素朴な甘さが身体だけでなく心の疲れまで癒してくれるよう。

大ぶりな干し柿を二個ほど食べ終えた桔乃はうーんと全身で伸びをした。

  

「まずは小屋の掃除だな!」


 日はすでに中天。

小屋に戻った桔乃は板戸と連子窓を次々と開け放していった。


「ここは以前誰かが住んでいたようだな」


小屋の奥まで日差しが入ると、板の間に切られた囲炉裏と勝手場に少なくない生活用品。土間には薪とわらが積まれている。

ついで光にきらめく埃が舞う土間をひと廻り。

部屋の隅でつと立ち止まり、杖で柱や壁を強めに叩けば、すぐ硬質な音が返ってくる。


「案外頑丈なつくりだな。

 これならしばらく住めるか」


この足では当分旅は出来ない。仕方ない、しばらくここで養生しよう。

そう決めると、少しだけ愛着が沸いて来た小屋から埃まみれの生活用品を全部外へ運び出した。そして藁束で作った簡単な箒で天井の蜘蛛の巣や汚れを落とし始める。

くじいた左足を庇いながらだから至極ゆっくりだけれど、それでも少しずつ小屋がきれいになっていくのは楽しい。

ついでに板の間と土間も掃き出し、板の間をよく洗った雑巾で念入りに拭いていく。

ここまでにかかったのは二刻ほど。

ようやく室内の掃除が終了し、次は洗いものだ。

桔乃は外に出した生活用品を小川に運んで、片っぱしから洗っていった。


「やれやれ……」


ずっと中腰だったから腰が痛い。

とんとんと腰を叩きながら起き上ると、そよそよと渡る風が汗まみれの身体に心地よかった。

けれど、お日様はすでに西。

桔乃は洗い終えた生活用品を背負い籠に片っぱしからぶち込み、いったん小屋に戻ることにした。

やはり連子窓から入る陽光は橙色で見違えるほどきれいになった室内を照らし出していた。思わず笑みがこぼれる。


「次はわたしだな」


 小袖も袴も見事!と言いたいくらい泥と埃まみれ。

先ほど小川で顔と手足は洗っておいたから、囲炉裏で沸かしたお湯で丹念に身体を拭き、新しい小袖と袴に着替える。

実はさらに着せ替え人形になりそうで美代には言わなかったが、この若衆姿は気に入っていた。動きやすいのはもちろんだが、何よりも自分らしくいられる気がして。

 かつて美代のようになりたいと思った。

美代は父のお気に入りだったから、彼女のようになれば父も振り向いてくれるのではないかと考えて。

 けれど、どんな容貌であっても自分が自分である限り、父は桔乃を憎み続ける。そう気付いた時、美代を真似るのがばかばかしくなった。

 たぶんその頃だったのではないかと思う、患者だった老人に誘われ、剣術の道場に通い始めたのは。


「もういい年じゃし、門下生を取るのはやめたんじゃよ。

だが、お主一人くらいなら教えられんこともないのでな」


 そんな老人の誘いに乗ったのはたまたまだった。

というより断るのがただ面倒だっただけ。

 けれど、お付き合い程度の気持ちで始めた剣術が日を追うごとに楽しくなった。

竹刀を無心に振る時、桔乃は桔乃であって桔乃でないものになる。

それが快感だった。道場に通うのが楽しみでならなくなるほどに。

好きこそものの上手なれ。

老人が「うれしい誤算じゃな」と言うほど、桔乃の剣術の腕はメキメキと上がっていった。

 そして五年の後、桔乃十七歳。

老人から北辰一刀流の三段階目、「大目録皆伝」を伝授される。

その時、師は初めて桔乃を弟子とした本当の理由を話してくれた。


「初めて会うた時、お主はすべて諦めきった顔をしておった。

 わしは大人として子供にそんな顔をさせておくわけにはいかんかったのじゃよ」


 ああ、なるほど。

だから女の自分に禁忌ともいえる剣術を教えてくれたのか。

 確かにおかみさん達のおかげで毎日の生活に不便はないし、診療所の仕事もやりがいがある。

けれど、いかに愛されるのを諦めたといっても父から死ねよがしの目を向けられる毎日は涙が出るほど辛かった。

 あの時の自分は避難場所を必要としていたのだ。

 老人はたぶんそんなことどもを一瞬で見抜いて、桔乃に居場所を与えてくれたのだろう。


「ありがとうございました」


老人から免許を受け取った桔乃は膝を揃え、深々と頭を下げた。

けれど、最後の弟子に免許を与えた一カ月後、ふとした病から老人はあの世の住人となってしまった。

我が師よ、わたしはあなたのおかげでこうして生きています。

いったん身を引いて自分に有利な場が来るまで待つ合理性も、北辰のごとくけしてぶれない精神も、すべてあなたが教えてくれたもの。

もし、あなたがいなかったらわたしは大嫌いな男と祝言を挙げ、すぐにも父の後を追うこととなったでしょう。

ありがとう。いつもいつも一言多かったけれどわたしはあなたが大好きでした。

 

 じゅじゅっ……。

 鉄鍋から粥のふきこぼれる音にはっとする。

 なるべく物事を深く考えないように生きてきたのに、あの男が現れてから考え事ばかりしている。

 桔乃は鉄鍋を慌てて火から下ろすと、適当に千切った野芹(のぜり)を加え、ぐるぐるとかき回した。

野芹のさわやかな香りが鼻孔を刺激する。

それに食欲を誘われ、桔乃は粥を三杯ほどがつがつと食べた。


「我ながらよく食べたなぁ~」


そう言ったそばから欠伸が出る。

やはり怪我をおして働いた身体はくたびれはてていて、桔乃は後片付けもそこそこに干した藁の中にもぐりこんだ。

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