弐
板戸の向こうでせわしない雀の鳴き声。
朝日はとう昇っていたようだ。
桔乃は子供のように膝を抱えたまま、一晩中、考えこんでいた。
一太郎に『金輪際お前のものにならない』と断言する前まで『どうしよう?』と悩みながらも、それで周囲に恩が返せるなら一太郎と祝言を上げるかと考えていたと思う。
けれど今はそう思えなくなっていた。
一太郎の好き勝手に生きる様を見たせいだろうか。自分も嫌なものは嫌と言いたくなったのだ。
けれど、一番の理由は『一太郎と祝言を上げる気はない』と幾度も声を上げてるのにも関わらず勝手な思いこみで添わせようとする周囲の方がおかしいと気付いたからかもしれない。
元々生理的嫌悪を感じる男との祝言である。
ならば、未来に待っているのは間違いなく不幸だ。不幸になって恩返しとはヘソが茶を沸かす。
だから、桔乃はほとぼりが冷めるまで本所深川から逃げることにしたのだ。
もちろん強硬に断ることは可能だ。庭橋の伯父に頼めばしごく簡単に解決する。
だが、周囲の『二人は祝言を上げるべき』という恐ろしい意気込みを退けたら周囲と修復不可能な溝が出来てしまうだろう。
そしてそれはこの場所で医者を続けたい桔乃の将来を閉じてしまうに違いない。
そんなあれこれを考えていたらあっという間に一番鶏が鳴く時刻になっていた。
桔乃はぱんぱんと両頬を叩くと、勢いをつけて立ち上がった。
冷たい水で顔を洗えば、わずかに躊躇う気持ちは水と一緒に流れていく。
ふっと笑いがこみ上げる。
それはなんと馬鹿なことに悩んでいたのかという自嘲の笑みだ。
おそらく自分はこの診療所にやって来た時からどこか病んでいたのだろう。
桔乃はめったに袖を通すことのなかった濃紫の小袖に着替えると、診療所の入り口に『しばらくの間休診します』の張り紙を張った。
そしていつもより大きな歩幅で日本橋に向かって歩き始めた。
「おちおち悲しんでもいられないな」
つい愚痴が零れる。
山吹色の草履の先で小石を蹴れば、小石は面白いほど転がってお寺さんの堀の中でとぷんと音を立てた。
出来るなら父の死を整理する時間が欲しかった。
例え親子として齟齬があろうと自身の持てるものすべてを与えてくれた師匠の死が辛くないわけもない。
それでも声を上げて泣くことが出来ないのは泣けば自死しただろう父をこの世にとどめてしまうのではないかと危ぶんだからだ。
「父母が蓮の台で幸せに暮らせますように」
桔乃は寺門で小さく祈ると、堀に沿って植えられた柳の木をいくつも辿りながら再び歩きだした。
*****
「御新造様、診療所の桔乃様がおいでになりました」
店先の掃除をしていた小僧が呉服問屋井筒屋と書かれた暖簾をひょいとめくって声をかけた。
「桔乃ちゃん、いらっしゃいまし」
すると、若女房といった態の女が上り框に膝をつき、伸びやかな声をかけて来る。
彼女の名は美代、父の兄の娘だ。
美代とは伯父の元に預けられていた時分より姉妹のように育った。
愛想のない竹のようにぐんぐんと背丈を伸ばした桔乃とは逆に、美代は小柄でたいそう愛らしかった。
けれど、可愛いもの、美しいものを落としめたいと思う輩はどこにでもいるもの。
美代が寺子屋に通うようになった十歳の頃。
小さい美代を与しやすいと見た悪童どもからしつこい嫌がらせを受けるようになった。
最初はていよく泣かされていた美代だったが、一週間も過ぎる頃には言われた分を言われた分だけ言い返すようになり、そして一月も過ぎる頃には彼女に嫌がらせする輩など一人もいなくなっていた。
もともと賢い美代のこと。一点の方向性が与えられれば、水を得た魚も同然。
彼女の策謀に引っ掛かって完膚なきまでに悪童たちはやり込められた。
それを見た桔乃が美代だけは敵に回すまいと思ったのは言うまでもない。
そんな悪の参謀といった態の美代が商家の嫁になると聞いた時、顎が外れるほど驚いた。しかも縁談相手がたってと望んだというのだから。
かつての悪の参謀は今、桔乃の前でしとやかに膝をつき、老舗の呉服問屋の若女将に化けおおせている。
己の価値を正しく認めてくれた夫を得た今、美代は幸せなのだろう。彼女の一挙一動から身も心も愛された女だけが持つ落ち着きと余裕が滲みでている。
そんな幸せの中でも昔馴染を忘れないでくれた従姉。
父の死の知らせを聞いて取るもの取りあえずといった様子で駆けつけてくれた美代の顔を見た時の安堵感は言葉に尽くせない。
彼女は突然の不幸に茫然自失となっていた桔乃の代わりに父の葬儀を万事取り仕切ってくれた。
その上、美代は昨日の帰り際、周囲の様子に何かを感じたのだろう。『気軽に訪ねてくださいましね』と小声で耳打ちしてくれたのだ。
「ああ、遠慮しないでやって来たよ」
案内されたのは落ち着いた雰囲気の茶の間。
「それで一体どうしましたの?」
今だ年端のいかない下女が茶と茶菓子を置いて下がって行くのを見届けて美代がそう口火を切った。
そりゃあ昨日の今日で訪ねてきたのだ、相当切羽詰まっていると見るのが当然だ。それとも勘のいい彼女のこと、相談の中身におおよそ察しをつけているのかもしれない。
桔乃は大ぶりな湯呑に用意された冷茶を一息に飲んでしまうと、美代に今までの顛末を話して聞かせた。
置き屋の用心棒、一太郎に言い寄られているが、どうしても好きになれないこと。
周囲はすべて一太郎の味方でこの縁談を断ると、皆から総スカンを喰らうだろうことを。
「昨日、大家さんに、
『一太郎殿をわしの養子に迎えることにした。
じゃから身分のことは心配せんで桔乃ちゃんの婿に迎えればいい』と言われたんだ」
「あらっ。あの大家さん、名字帯刀でしたかしら?
ついでに桔乃ちゃんの後見になろうっていう算段ですわね」
「たぶんな……」
「でも後見はとうにうちの父に決まっていますわ。大きなお世話ですったら!
それにしても一太郎って男、恐るべき手腕ですわね。それとも外法でも使いましたのかしら? 桔乃ちゃんの周り全部を自分の味方につけるなんてこと、普通ではできませんもの。
そういえば……」
と、そこで美代は声を潜める。
「実はお通夜の晩、小耳に挟んでしまったのですけれど。
町内の小母様方、まるで亮衛叔父様が亡くなったのが都合いいみたいに『四十九日が開けたら祝言だ』なんておっしゃっていましたわ。
そんなことをおっしゃるような方々でしたかしら? 合点がいきませんわ」
美代がついと小首を傾げる。
桔乃はそれに頭をひとつ振ってからいつもより低い声で答えた
「わたしにもわからない。
なんでひとり残らずあの男の味方になってしまったのか。
いくらその気がないと言っても聞かないし、一度『一太郎殿と所帯を持つ気はありません』とぴしゃりと言ったらその場の空気が凍ってしまった。
その後も口々に言われたよ。
『恥ずかしがるにもほどがある』とか、『いい加減素直にならないとダメだ』とか。
すべてわたしがあの男を好いているという言う前提なのだ。こっちは目も合わせたくないほど大嫌いだというのに。
ああ、美代ちゃんの言う通り、陰陽師か破戒僧が外法でも使ったようだよ」
ふうと肺からすべての空気を吐き出すように桔乃はため息をついた。
「とはいえ、結論は出ましたのでしょう?
桔乃ちゃんのお願いはなんですの?」
ちゃぶ台に身を乗り出す従姉の口調はいっそ無邪気、けれど正反対の真っ黒い笑みがそこにある。もし、その対象となったのが自分だったら一目散に逃げ出したいほどの。
桔乃は久しぶりに会った従姉が通常営業だったことにほっとした半面、彼女の夫の胃の腑の将来を案じないではいられなかった。
そのため、少しばかり返した笑みが歪んだ、かもしれない。
「実は近いうちにあの家を出ようと思っている。
美代ちゃんには後の面倒を頼みたい。頼めるだろうか?」
「ええ、それはもちろん。
出る理由も予想が付きますけれど、桔乃ちゃんの口からぜひとも訊きたいですわ」
「ああ、面倒をかけるな。
わたしが出奔する理由は……あの男との祝言を断っても断らなくてもろくな結果にならないからだ。
もし、断ったら周囲すべてを敵に回す。もうあの場所で医者を続けることは出来ないだろう。そうしたらもう恩を返すことが出来ない。
だから、昨日まではどんなに嫌だろうと祝言を挙げるしかないと考えていたんだ。
でも、あの男に触れられたら絶対に無理だと思った。もし一緒になったらわたしは嫌悪感のあまり死んでしまう!」
桔乃は絶叫した。
一太郎に触れられた途端、まるで千匹の百足が背中を這った様で本当に死んでしまうと思った。凄まじい拒絶感に身体は勝手に動いて、つっかい棒を大上段から振りかぶっていた。
「わたくしも女ですもの。桔乃ちゃんのその気持ち、なんとはなしにわかる気がしますわ。
えーと、話は変わるようですけれど、わたくし達のお祖母様が霊力の強い歩き巫女だったと知っていまして? 揚羽御前と呼ばれたお祖母様は人ではないものを滅するのを生業にしてらしたそうですの。
だから、桔乃ちゃんがその男を生理的に拒絶するのはそのせいかもしれませんわ。
それにもしかしたらですけれど、亮衛叔父様も桔乃ちゃんと同じ様子だったのではありませんの?」
「うーん、そうだったかもしれない。
あの男が診療所に来ると、いつもたいして良くない機嫌がさらに悪くなったしな。いつだったかは物を落としただけでえらく怒られたよ。
それに、わたしに関心がないせいかと考えていたんだが、おかみさんたちに一太郎との縁談の話をされてもいつもはぐらかしていた気がする」
桔乃は懸命に思いだしながらそう答えた。
けれどその刹那、世にも恐ろしいことが頭に浮かんだ。
もしかしたら―――――― 。
父は、縁談に乗り気でなかったせいで一太郎に殺されたのだろうか?
桔乃の手がにわかにぶるぶると震え、持っていた湯呑みがちゃぶ台の上でカタカタと耳障りな音を立てた。
今、自分はどんな顔をしている?
美代が座布団を蹴って抱きしめてくるくらいだから相当ひどい顔をしているに決まっている。
「父上はもしや……一太郎に殺されたのだろうか? 」
心底から青ざめきった顔で訊ねる桔乃に美代は彼女だけが知る昔話をしてくれた。
「ええ、おそらくそうですわ。
だって叔父様は自殺などなさいませんもの。いいえ、どんなになさりたくても出来ないんですわ。桔乃ちゃんのお母様に後を追わないと約束なさったから。
実はわたし、ずっと昔に、たぶん十年位前だと思いますけれど、叔父様に『なぜ叔父様はずっと若いままですの?』と訊いたことがありますのよ。
そうしたら叔父様はこう答えてくださいましたの。
『妻が桔乃を身籠った時にね、彼女が死んでも後を追わないって約束させられたんだよ。彼女がいない世界でひとり生きろというのだからまったくひどい女だと思わないかい?
でもそのせいかな。妻が死んでからわたしの時は止まってしまった』って。
ですから自殺などなさいませんわ。
でも桔乃ちゃん、聞いてくださいまし。
叔父様はやっと叔母様の元に逝けると喜んで死んでいったと思いますの。だから桔乃ちゃんが悲しんでやる必要などありませんわ!」
そう長話を終え、ほんのわずかも桔乃が悲しむのは嫌なのだと切羽詰まった顔を向けて来る美代の小さな手を両手で包み込んでやる。
「美代ちゃん、ありがとう。
確かにあの人は自殺にしろ他殺にしろ喜んで母の元へ旅立ったろうね。残されて悲しむもののことなど一片も考えずに」
「本当にそうですわ。
亮衛叔父様はわたしたちのこと……少しも考えてなんか…… 」
美代はそこで言葉を途切らせる。
嗚咽が押さえきれなくなったのだ。
ああーと唸るように泣きだした美代は桔乃にしがみついて来る。
そんな彼女をよしよしと抱きしめてやりながら、桔乃は美代の初恋がうちの父だったことを思いだしていた。
父にいつも傍若無人にふるまう癖に、問いかけられると顔を赤らめた。
そんな幼い、けれど真剣な想いを寄せた相手に逝かれてずっと泣くのを我慢していたのだろう。ここが婚家だった故に。
子供のようにしゃくりあげはじめた美代の背中を繰り返し撫でてやる。
けれど、桔乃はふいにその手を止めた。
頭の中に大きな疑問がわき上がってきたせいで。
なぜそこまでして一太郎は自分なんぞを娶りたいのだろう?
自分に好意があったとしてもそれは興味の範囲。数多の人を惑わし、殺人を犯してまで娶りたい理由がわからなかった。
桔乃は再び手を動かし、美代の背中を撫でてやりながら、そのことをずっと考えていた。
*****
「どうだ?」
「まるで八百屋お七に出て来る吉三郎みたいですわ」
若衆姿になった桔乃が両袖を広げて見せると、美代は思いっきり頬を緩め、パチパチと手を叩いてくれた。
あれから ―――― 。
泣き続ける美代を慰めるのに半刻もかかった。
そして泣いたカラスは大福餅を五個ほど腹におさめた後、先日行った芝居の絵草子をうっとり眺め、にこにこと笑っている。
美代はその中の一枚、寺小姓姿の役者絵を見ていたのだが、「そうですわ!」と急に声を上げた。
「ねえ、桔乃ちゃん。男装して出かけたらいかがですの? 女のひとり旅なんですもの、そのほうがずっとずっと安全ですわ」
「えっ!?」
身の危険を感じた桔乃はちゃぶ台からぱっと身体を離した。
絵草子を手に持ち、きらきら瞳を輝かせる女のやりたいことなど簡単に想像がつくからだ。
「行くのは近場だ、男装は断る!」
ここで断固として断らねば着せ替え人形になる定めが待っている。
それでなくとも子供時代、『桔乃ちゃんって亮衛叔父様にそっくりですわ』と言われ、散々着せ替え人形にされたのだ。
けれど、子供時代も今も美代の我が儘を退ける才能が桔乃にはなかったらしい。
「わたくし、桔乃ちゃんがどこに行くのかすら教えていただけない、取るに足らない人間ですもの。診療所の面倒など見れないかもしれませんわ~」
と、美代はわざとらしく言う。
確かに桔乃は自分が出奔する間のことを美代に頼みに来たし、彼女が巻き込まれることを考えれば行先すら告げられない。だがそこを美代に突かれるとは。
「……五着までだぞ!」
桔乃がそう白旗を上げるとまるで用意がされていたごとく目にも綾な衣装の数々が運ばれてくる。さすが今評判の呉服問屋である。
「これなんかどうですかしら?」
そう言って美代が示したのは紅の牡丹が描かれた派手な振り袖。
「それは出奔するのに派手だろう!」
それでなくとも男装に不似合いだからと下げ髪にくくられ、不機嫌だった桔乃はけんもほろろに言い返した。
だいたい、なんで振り袖なのか。
芳町の陰間じゃあるまいし。
けれど、美代は桔乃の反対など聞いちゃあいなかった。
「きっと似合いますわぁ~」と、派手な振り袖を衣紋にかけながら、下女と一緒にきゃっきゃっとはしゃいでいる。
桔乃は二人の後方から回り込むと、従姉の耳をぐいぐいと引っ張ってやった。
「この耳は飾り物か?」
美代と手伝いの下女の手が凍りついたように止まった。
「桔乃ちゃん……?」
「お嬢様……?」
ぎぎと音がしそうなほどぎこちなく二人の女が後ろを振り返ると、看板役者も真っ青になるほど美々しい若者が地獄の閻魔大王の態で嗤っていた。
「ごめんなさい」
「申し訳ございません」
ふたりが真っ青な顔になって謝ったのは言うまでもないだろう。
*****
(帰って来なけりゃよかった……)
桔乃は心中深くため息を吐いた。
美代の家に一晩泊めてもらい、翌日早々診療所に帰って来た桔乃だったが、待ってましたとばかりおかみさんたちに囲まれてしまった。
彼女らの口から出るのは決まって祝言のこと。
日取りは父の四十九日の翌日と勝手に決められていたから、「仲人は?」「婚礼衣装は?」「新居は?」とおしゃべり雀のごとくさえずってくる。
それらのさえずりを「今は父のことしか考えられません」としおらしく答え、なんとか全員引き下がらせた時には着せ替え人形にされた時以上に疲れ切っていた。
やはりこの家を出よう。
この家の後始末は美代が引き受けてくれたからあと数日の辛抱だ。
必死にそう言い聞かせてみたけれど、この押さえきれない怒りはどうしたらいいのだろう。
いっそ一太郎のもとへ押しかけて『人殺し』と罵ってみようか。
ついでに『一太郎と祝言を上げるくらいなら江戸湾に飛び込んで死にます』とぶちまけたらどれほどすっきりするだろう。
けれど、そのどちらを為しても完全に孤立する。
だから、どんなに腹立たしくても桔乃は何も言わず何も為さずここから消えねばならないのだ。
卯月十四日の夕七つ。(午後四時頃)
家の片付けもすべて済んで蕎麦でも食べてから家を出るかと考えていたちょうどその時、「桔乃ちゃん、いる?」という声が勝手場の方からした。
声の主は向かいの金物屋のおかみ、お園。
子供のいないお園はいっとう桔乃を可愛がってくれたのだが。
「小母さん……?」
声に警戒が混じる。
今の彼女は一太郎との縁談を押し付けて来る筆頭だった。
お園は持参の風呂敷を板の間に広げると、中からいそいそと絹の着物を取りだした。
「これなんだけど。
わたしが主人に嫁いだ時のものなのよ。
古いけど物はいいから桔乃ちゃんにどうかと思って」
それは長寿と和合の象徴とされた鶴が刺しゅうされた豪華な打掛。たぶん生まれて来る娘にと大事に取っておいたものなのだろう。
お園の裏心のない満面の笑顔と同時に差し出された花嫁衣装。
桔乃の胸はつきりと痛んだ。
彼女の自分に対する愛情はほんの少しも失われていなかったのだ。
「ありがとう、小母さん」
「んじゃ、一太郎さんとの祝言にはこれを着てくれるかしら?」
桔乃はその言葉に答えることが出来ず、ただ黙って十年もの間、母代わりだった婦人を見つめ続けた。
「桔乃ちゃん……?」
長い間にいぶかしんだ声が掛けられ、桔乃は慌てて笑顔をつくろった。
「本当にありがとうございました」
深々と頭を下げる。
それは花嫁衣装に対するものではない、今までの愛情に対する感謝。
けれど、お園に花嫁衣装に対する礼と勘違いさせるもの。そうと知っても桔乃は礼を言わずにいられなかった。
「祝言の日が本当に待ち遠しいわ」
そう言って弾んだ様子で帰る彼女の背中を見送ればなおさら胸が痛くなる。
自分はこれから彼女を、彼女たちを裏切るのだ。父に愛されなかった桔乃に愛情深い夫を与えたいと願った彼女たちを。
なんと恩知らずな……。
そうだ、いっそ彼女らの望み通り、あの男と祝言を挙げてしまおう。
そうすれば万々歳ではないか。
あの男が自分に情欲を持っているのは確かなのだし、何よりも皆が喜ぶ。
たとえ、祝言の最中、胃の内容物どころか、胃液まで吐こうとも。
たとえ、あの男と床をともすれば気を失う絶大な自信があろうとも。
例え ―――――― あの男と日々を過ごせば、あまりの生理的嫌悪で死んでしまうとしても。
はは、こう並べたててみると笑えるくらい無理だ。
それに、もし自分が死んだら祝言をごり押しした彼女らは一生消えない傷を負う。ならば一時、裏切り者と罵られようとも出奔したほうがずっといい。
桔乃は暮れ六つ(午後六時)、書置きを幾つか残すと、ひょいと近所に買い物でも行くような出で立ちで診療所を出た。
翌朝、明け七つ(午前四時)。
美代の家で旅支度を済ませた桔乃は店のくぐり戸まで見送りにでてきた美代に軽く頭を下げた。
「手をかけるがよろしく頼む。
それから……」
桔乃は少しばかり言い淀んだ。
好いた夫と幸せに暮らしている従姉をこれ以上巻き込むことを怖れて。
だから一度は口を閉ざそうとした。
けれどここまで巻き込んだ以上、情報を与えない方が彼女の身を危険にさらす可能性が高い。
「この数日、ずっと考えていたんだが、一太郎はたぶん人ではない。
もし人なら、好いているわけでも金があるわけでもない女を娶るために殺人は犯さない。
それに一太郎を人外と考えれば、すべての符号がピタリと嵌まるんだよ。ヤツにずっと感じている生理的嫌悪も、ヤツが周囲を操れる力を持っていることも。
それからこれが一番ヤツを人外と決定づけた理由なんだが、一太郎はうちにやってきた時、提灯を持参してこなかった。
戌の刻(午後八時ごろ)だぞ。あたりは当然真っ暗だ。
その闇の中を手ぶらでひょいひょいとヤツは帰っていったよ。つまずくこともなくな」
そうなのだ。ヤツが帰っていく姿をちらと見た時、どこか不自然さを感じた。
あの時はそうと気付かなかったのだが、一太郎はもしかしたら人外?と考えた時、あの晩の不自然さが頭によみがえった。
人は真っ暗闇の中、猫のようにすいすい歩けたりはしない。
もしそんなことが出来るなら、その者はそういった訓練を積んだ者、すなわち伯父のような御庭番か忍びの者。あるいは人外だろう。
一太郎には訓練を受けた者特有の身のこなしを感じない。大体、あんなにドタドタ歩く忍びがいてたまるもんか。
それ故、人外だという結論に至ったのだが、今のところ、推測でしかないそれを思い切って美代に告げたのは、彼女ならきちんと対策を取るに違いないと信頼しているからだ。
「やはりそうですの。
もしその男が人外なら桔乃ちゃんを花嫁と定めた理由はお祖母様の、歩き巫女だった揚羽御前のせいかもしれませんわ。
くれぐれも気をつけてくださいましね。人外ならあだやおろそかなことであなたをあきらめたりしませんから」
「ああ、気をつける。
美代ちゃんもなるべくうちの診療所へは近寄らないでくれ」
「ええ……」
桔乃を見上げ、目を潤ませて頷く美代の小さな手を手甲をつけた手で軽く握ってやる。すると寝巻のままの美代が胸に飛び込んできた。
「わたくし、ずっと前から桔乃ちゃんが大好きでしたのよ。
もしあなたが殿方だったら絶対に嫁いでいましたわ。
だから、無事に帰ると、わたくしの元へ絶対に帰ってくると約束してくださいまし」
自分にひしと縋る美代の身体を抱きしめ返して桔乃は、
「立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む
これでいいか?」
と、百人一首のひとつを詠んだ。
あなたが待っていると聞いたならすぐ帰って来ようという歌を。