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すっかり日が落ちて久しい戌の刻。

父の初七日を無事終え、仏壇の灯明がもたらす薄明かりの中、桔乃は薄茶を啜りながら喪服を畳んでいた

ふいに板戸をきしむほど叩く音がする。

 今時分、誰だろう?

 行燈油など灯せない庶民は夕暮れとともに床につくもの。

何か初七日に不備でもあったのか、それとも急を要する患者なのか。


『今、開けます』


桔乃がおそるおそるつっかい棒をはずすと、待ち合いと勝手場となっている土間に男が踊りこんできた。

訪ないも告げぬとはずいぶんと無作法。よほど急ぎの用事なのだろうか?

 桔乃がいぶかしんで燭台を向けると、薄明かりに白地に龍の描かれた着流しの男が浮かび上がった。

 刹那、身体中が凍りつく。

なぜこの男が……?

 まさか線香を上げに……?

いいや、目前の男に死者を弔う心があるとは思えない。


 桜花の頃、遊び人同士の喧嘩で腹を刺されたこの男は初対面の桔乃に欲情と独占欲の混じったねっとりとした視線を向け続けた。

まるで蛇のよう。

ならば自分は蛇に睨まれた蛙か。

だが、この視線は捕食というより、桔乃という存在すべてを犯して行くよう。

たとえて言うなら侵略。

 桔乃は無遠慮な眼差しを向ける侵略者から必死で顔を背け続けた。

 けれど、そんな過度な緊張は長く続かない。ぶるぶる震えた手からさらしが落ち、足元をころころ転がっていった。


『何をしている、桔乃!』


すぐさま飛ぶ父の叱責に『申し訳ありません』と小さく詫びても手の震えは一向に収まらない。 

今すぐこの場から逃げ出してしまいたい。

父や他の患者たちがいなかったら間違いなく逃げ出していた。

けれど、そんな桔乃とは裏腹に女性陣は彼にたいそう好意的だった。

 

『あの役者みたいな兄さん、桔乃ちゃんに一目ぼれしたんじゃないかい?』

『ああ、そうみたいだねぇ、あんなに見つめちゃって。うらやましいったら』

『ほんとにいい男だねぇ。

あたしが二十年若かったらほっちゃおかないのに』

『何言ってんの。あんたのご面相じゃ二十年若くても相手にされないよ』

『ふん、あんただって人のこと、言えないだろが!』


 いつもの、常連の患者とおかみさん達の、年中行事のような軽口の応酬。

それなのに今は耳を閉じてしまいたい。

なぜ彼女らはあの蛇のような視線に気付かないのだろう?

 見つめられると怖気が立つのに。

本能が逃げろと警鐘を鳴らすのに。

 わからない、わからない。


 それからも男は治療と称してたびたび姿を現した。

 一途に桔乃を恋慕う男の仮面を被って。

 ふと気付いた時には周囲すべてが男の恋を応援する側に回っていた。

 桔乃がどんなに迷惑そうにしても、所帯を持つ気がないと断じても、その言動のすべてが『恥ずかしがっているんだよ』の一言で切り捨てられる。

 どうしたらいいのだろう。

 こんな時、実母がいたら相談出来たのだろうか?

 このままではどんどん外堀が埋められていってしまう。

 桔乃は生まれて初めて心からの孤独を味わっていた。


その男が今、目前にいる。

女たちがこぞって岡惚れするような様子のいい男なのに同じ場所にいるのさえ耐えられない。今にも震えが起きそうになる。

けれど、この男に弱みを見せたらつけこまれるどころか、骨までしゃぶりつくされるに違いない。だから、いつも通りの声を出せたことが心底ありがたかった。


「一太郎殿、いかがなさいました?

 刺された腹の傷が痛むのですか?」


 一月も前の、大して深くない傷が今だ痛むはずもなし。

桔乃はそうと知っていながらあえて訊ねた。

 すると、板戸に映った大きな影がゆらゆらと揺れた。

さも可笑しくたまらないといったふうに一太郎が身体を折ってククと笑っていた。


「あんたは俺が線香を上げに来たとは考えないのか?

 一月前の傷よりまずそっちを考えるもんだろう?

 いいや、あんたは俺が線香を上げに来るような殊勝な人間じゃないってよっく知ってるんだよな。まったく面白いぜ」


 まるで桔乃がこの男を好いているかのような言だ。


(おいおい、冗談じゃない。

誰がお前のことなど知りたいもんか!)


思わずそう悪態をつきそうになり、桔乃は右手で掴んだつっかい棒を手が白くなるほど握り締めた。

 大体、この一太郎という男、置き屋の用心棒のせいか、己が思いのままに女人をあやつる、言葉や行動の一つ一つで。

しかも、『今までさんざん遊んで来たけれど、桔乃を一目見た途端、真の恋に落ちた一途な若者』といった役どころを見事に演じている。

 おかげで自分は見事に悪者だ。

 桔乃はとうとうぶち切れて叫んでしまった。


「冗談も休み休み言え! 誰がお前のことなど知りたいもんか。

 そんなに他人に知ってほしいなら猫を被るのをやめたらいいじゃないか!」

「やめるわけないだろう。

 おまえを絡め取る楽しい手妻だというのに」


ふふんと擬音さえ付きそうな返事に二の句が継げない。

 この男には人の言葉が通じないのか。

いいや、おそらくわざとなのだ。他人が嫌がれば嫌がるほど楽しいといった態のこの男は。

桔乃はにやにや笑い続ける男を真正面からきっと睨みつけた。


「わたしは金輪際、お前のものにならない!」


 けれどこの男にそんな言葉など馬耳東風。

それどころか人の一番痛いところをついてくる始末だ。


「いいや、あんたは絶対俺のものになる。

……なるしかないんだよ。

みんなの可愛い子ちゃんでいたいあんたはな」


なんとも厭らしい断言に指の先までかっと熱くなる。

知られていたのか、よりにもよってこの男に。

こんな醜い自分など誰にも知られたくなかったというのに。


八歳の時分、桔乃は与えられぬ愛情の代償行為と気付きながらも、周囲から与えられる愛情に飛びついた。

そして十八歳にもなった今も飢え渇く自分がいる。

桔乃は周囲からの愛情を失うことに怯えるあまり、口では嫌だと言いながら一太郎との縁談を受けいれようとしていた。彼らから見捨てられるのが怖いばかりに。

大抵の大人は礼儀正しくて思い通りになる子供が好きなもの。

もし、彼らの思い通りにならなくなったらあっけなく手のひらを返される。だから桔乃は自らの身と心を犠牲にしても『みんなの可愛い娘』のままでいようとした。

 けれど……もう……。


「なあ、桔乃。俺はあんたにぞっこん惚れてるんだぜ。

他の誰でもないあんたが、俺は、(しん)から欲しいんだよ」


いつのまに息が届くほど近くにいた男の、

懇願するように伸びた白い指が頬に触れていた。

月さえ落ちそうな甘やかな声音が、月の嫦娥(じょうが)すら顔を朱に染めそうな笑顔が、桔乃をこの場所に縫いとめる。

ふたりの合わさった額の前で閉じられていく従順な目蓋に薄笑い飲みこんだ口唇が落とされようとした。

その刹那。

ふいに暗闇が落ち、聞こえてきたのは木片を打ちつけたような鋭い音。


「痛っ――――!」


口づけようとしていた相手に左手を打たれたのだと気付いたのは、消えそうになっていた蝋燭が再び光を取り戻してから。

つっかい棒を青眼に構えた女が射殺しそうな顔で一太郎を睨みつけていた。


一太郎は一瞬ポカンとする。

この女は自分に堕ちかけていたのではなかったのか?

わざわざここに足を運んだのはこの女を我がものにするため。そしてそうなることを疑いもしなかった。

なぜだ?

なぜこの女は自分の思う通りにならない?

この世に生まれ落ちて以来、女と寝るなど自分の意思一つだった。

どんなに厭うそぶりを見せても甘い言葉を囁き、熱を帯びた目で見詰めてやれば女など簡単に股を開くもの。それが今までの常。

それなのになぜ目前の女はそうならない?

しかも、最前まで仕方なくとはいえ一太郎を受け入れる様子だったではないか!

なぜいきなり拒絶しはじめたのだ?

自分の最終兵器、高等剣術を使えることすら晒して。

一太郎は左手がじくじく痛みだすのを忘れるほど、桔乃という存在に興味を抱き始めていた。


「その型は北辰一刀流か? 

本当に面白い女だな。

 もし簡単に堕ちてしまうようなら散々に嬲ってやろうと思ってたんだが、俺がここまでしても堕ちないなんてお前は本当に面白いよ。

 だが桔乃、お前は俺のものだ。絶対に逃がしてなどやらない。

四十九日まで待ってやるから近所のババア共と祝言の支度をしておけ!」


そう言い放った一太郎は今までにないほど上機嫌で。派手な着物の左裾をひょいと掴むと「またな」と手を上げ、大股で出ていった。

 

「おとといきやがれ!」


 大声で怒鳴りつける。

女人とは思えない物言いにさぞ驚いたかと思いきや、町内中が起きるんじゃないかと思うほどげらげら笑う声が通りからする。

 ちっ。

ひとつ舌打ち。

桔乃は塩壺を抱えて来ると、診療所の前通り一面に塩を撒いた。『鬼は外』と大声で叫びながら。

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