序
だいぶ前に書きあがったものですが、未熟な自分への戒めとして投稿したいとおもいます。
不幸中の幸いとは不幸な出来事の中に一筋の救いがあることらしい。
だが桔乃の場合、先に立つ不幸が少しばかり大きすぎた。
とはいえ、目の前の救いに飛びつかない選択肢などかけらもなかったけれど。
時は江戸後期 ―――――― 。
時世を騒がす黒船はいまだ参らず、化政文化、華やかなりし頃。
庭橋桔乃は、本所深川に住まう町医者の一人娘として生まれた。
御家人、庭橋家の次男として生まれた桔乃の父、庭橋亮衛は高名なご藩医の元で修業した後、本所深川に小さい診療所を開いた。
藪医者だらけだったと言われる当時、腕も確かで、貝原益軒の“医は仁術なり”を地で行く亮衛は半年も経たず深川一の名医と呼ばれた。
数年後、彼は出入りの薬種問屋の娘を娶り、医師としても家庭人としても順風満帆と思われたのだが、妻が身籠った頃より豹変する。身体の弱い妻が出産で命を落とすことを異常に恐れたのだ。
ならば夫婦の交わりなどしなければよかったようなものだが、そこが男の勝手。彼は月のものの時でさえけして妻を離さなかった。
十月十日、月満ちて娘が生まれる。
やはり出産に耐えられず妻は鬼籍の人となる。
するとたちまち亮衛は狂気に沈んだ。
生まれたばかりの己が娘を絞め殺そうとしたのだ。
「ひいっ!」とあられもなく叫んだ産婆がほうほうの態で人を呼び、ことなきを得たものの、目を血走らせ、娘をくびり殺そうとする亮衛に近隣の者は恐れ慄いた。
しかも、娘から離そうとすると鬼神のごとく暴れまわる。ようやく大の男が五人がかりで押さえつけたが、ほんのわずかも目が離せない。
その常軌を逸した様子に周囲はほとほと困り果て、庭橋本家に使いを送った。
日本橋から夜をついでやって来た彼の兄は詳細を聞いた途端、容赦なく弟を殴りつけた。
「お前の妻はお前の子だから命を懸けて産んだのだ!
そんなこともわからないのか、この大馬鹿ものが!」
亮衛は自身も幾人かの子を持つ兄に夜通し言い聞かせられ、常のふうに戻ったようだったが、それでも親戚中の、いいや、町内中の不安は一向に去らなかった。
なにせ生まれたばかりの赤子である。
それでなくても男手に余るのに絞め殺そうとした父親の手にゆだねられるわけもない。
急遽、親族会議が招集される。
その協議の結果、桔乃はある程度の年齢に至るまで庭橋本家、すなわち日本橋に住む伯父夫婦の元で養育されることとなった。
庭橋本家の当主である伯父は亮衛の兄であり、先般、亮衛を容赦なく殴りつけた人物である。
当時、伯父には三人の実子がいた。
けれど、桔乃は預けられて以来、どの子供とも分け隔てされたことがない。あまりの区別のなさに『庭橋は変人ぞろいだから』と陰口を叩く人もいたが、当の伯父はまったく気にする様子がない。おそらく『そんなこと、いちいち気にしてられないよ』とか思っているだろう。
庭橋本家は御家人であっても譜代御家人。
石高も三百石と御家人としては非常に高かった。
実は物心ついた時分、桔乃はどんなお役目についているのか伯父に訊ねたことがある。子供の目から見ても他を圧倒するほど美々しい伯父がどんな役目を負っているのか単純に知りたくなったのである。
伯父はなんと答えるべきかしばらく頭を捻っていたが、ようやくうまい返事を思いついたのだろう、小鼻をぴくぴくうごめかした。
「簡単に言うと害虫退治だな。
上様のおわす江戸城に入り込む悪い虫を片っぱしから退治するのがわたしのお役目なのだよ」
「そうなのですか?」
桔乃はそう反射的に言い返し、きょろきょろ庭を見回した。けれど今は冬。虫どころか一輪の花さえ咲いてはいない。
もしかしたら偉い人が住むお城は一年中花が咲き、実が実るのかしらん?
今度は桔乃が考え込む番だった。
伯父は「うーん」と唸ったままの桔乃に「宿題だよ~」と一声かけると「うー寒い」と文句を言いながら母屋に戻ってしまった。
だいぶ後になってから、伯父が出した宿題の答えを知ることになるのだが、伯父はというか、庭橋家は代々、江戸城に起こる変事を片付ける御庭番だった。
御庭番と言えば、諸国など巡り、諜報活動を行うものだが、伯父は変事にのみ対応する。変事、すなわち物の怪など人の手に負えない事件の解決だ。それ故、他と比べ石高が高く、常に上様との直答を許されるのだと。
そう言えば、伯父は以前非常に不遜なことを言ったことがある。
「上様に妾が四十人もいるとさ、おちおち昼寝もしてられないんだよ~」
確かに当代の上様は非常に艶福家である。
だが、そんな無遠慮なことを子供たちに言ってのける伯父は確かに変わりものだろう。
けれど、そんな変人であっても伯母とともに桔乃を本当にかわいがってくれた。
それでも年を追うごとに実の父に会いたいという思いが膨らんでくる。
八歳の頃。
伯父はまだ見ぬ父を慕う桔乃の気持ちを察してくれたのだろう。
「父親のところへ行くか?」と、ぽつりと訊いた。
桔乃が「はい」と弾むように返事をすると、いつも飄々としている伯父は一瞬酢を呑みこんだような顔になり、
「そうか、わかった。
でもいつ帰って来てもいいんだからな!」と、ひどく淋しそうに言った。
その半月後。
桔乃は伯母に送られ、生家に戻って来た。
駕籠に乗っている間もドキドキが止まらなかった。伯母が「あなたのお父様は偉いお医者様でうちの旦那様に似た様子のいい殿方なのよ」と教えてくれたから。
だから勝手に伯父と同じように優しい人だろうと思っていた。伯父が『いつ帰って来てもいいんだからな』といった理由や伯母の憂い顔の訳を考えず。
「父様……!」
桔乃は両手を広げ、猫の仔のように走り寄って、ふいに立ち止まった。
本当にこの人が自分の父親なのだろうか?
四十路近いというのに二十代半ばにしか見えない、雛の節句に飾るお内裏様のごとき美しい男性が。
背は五尺七寸ほど。
体格は痩せぎす。
面長の顔に、透き徹るほどの白い皮膚と紅の口唇。そして刷毛で描いたような切れ長の瞳。
やはり兄弟、伯父と似通った容姿だったが、父には伯父の持つ愛嬌が少しも感じられない。よく言えば玲瓏とした他を圧倒する美貌。
でも自分が傍に行けば笑ってくれると思った、お役目から帰った伯父が子供たちを認めると笑顔になってくれるように。
けれど……
桔乃を一瞥した淡褐色の双眸は一瞬で侮蔑の色に染めあげられた。
いいや、侮蔑というより全力の拒絶と言った方が正しい。
にわかに桔乃の全身が凍りつく。
なぜ?
なぜ初めて会ったというのに父はあんな冷たい目で自分を睨むのだろう?
わからない、わからない。
けれど、これだけは幼い桔乃にもわかった、父が自分を凄まじく憎んでいることだけは。
「今日からお前を我が弟子とする。
よいな、子として甘えることは断じて許さぬ。
もしそれが嫌ならとっとと伯父のところへ戻るがいい!」
それは初めて父に会った子供に対し、あまりにも非情な言葉だった。
桔乃の膝ががくがくと震えだす。
ああ、そうだったのか。
自分はいらない子だったから伯父の家に預けられていたのだ。
男手ひとつで赤子を育てるのは無理だからというのは自分向けの方便だったのだ。
「……わかりました」
それ以外の言葉を返せるはずもない。
真一文字に口唇を引き結んで桔乃は表通りに飛び出した。
なぜ父は自分をあそこまで嫌いなのだろうか?
自分が悪い子だからだろうか?
なぜ、なぜ、なぜ?
答えの出ない「なぜ?」で頭がいっぱいになる。
けれど、パンパンの頭のまま走りだそうとした桔乃を優しく捕まえた腕があった。
「桔乃ちゃんでしょう?
どうしたの? 何があったの?」
優しく問いかける声に涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げると、白い前掛けをかけた小母さんが心配そうに桔乃を見ていた。
目線を合わせるようにしゃがみこんだ小母さんは壊れた井戸のように涙を吹きこぼす桔乃の顔を前掛けの端で丁寧に拭ってくれた。
もう一度「どうしたの?」と訊かれたが、父に言われたことなど話せなかった。口に出せば、この小母さんにまでいらない子と思われるような気がして。
けれど、彼女は桔乃の事情などとうに知っていたのだろう、何も言わず桔乃の手を引いてお茶と干菓子をふるまってくれた。
「わたしはお園。桔乃ちゃんちのお向かいで金物屋をやっているの。
もし桔乃ちゃんがよかったら、小母さんと仲良くしてくれる?」
ぎゅうと手を握られ、その温かさにまた涙が零れる。それでも桔乃はうんうんと懸命に頷き続けた。
その後、泣きすぎてしゃっくりが止まらなくなった桔乃は金物屋の店先に座らせてもらっていたのだが、すぐしゃっくりなど気にならなくなる。通りがかる女の人たちが小母さんと同じ温かな笑顔と温かな手で頭を撫でていってくれたから。
わたし、ここにいてもいいのかな。
そう思えた。
実の父親にお前など我が子ではないと突き離され、孤児同様になってしまった自分だけれど、町内のおかみさんたちが実の母か伯母のように温かく面倒を見てくれた。
一カ月が経った頃、なぜ父が自分を憎むのか知り、『自分など生まれなければよかった』と思い悩んだ時も彼女らは『あたしたちは桔乃ちゃんがいなかったら淋しいよ』と口々に言ってくれた。
だから桔乃は『お前さえ生まれなければ』と、父から向けられる無言の威圧に耐えることが出来たのだ。
そんな父との闘いの日々が繰り返され、桔乃十八歳。
父の弟子となった八歳の頃、あまりにも冷ややかな父の態度に傷つき、陰に隠れて幾度も泣いた。
けれど、一年も過ぎるとようやく諦めがついた。
いいや、諦めがついたというより諦めをつけたといった方が正しいかもしれない。
毎晩、布団に入ってから自分に言い聞かせたのだ。あの男は父ではない、ただの医術の師であると。
それにもし、丁稚奉公に出たなら厳しい主人も意地悪な先輩もいる。そう考えれば、高度な医術が身につくこの診療所はいい職場だろう。
そう思い定めたせいか、父からの叱責が激減した。
そして此の春、父から医者を名乗ることを正式に許されたのだ。
桔乃はとうとうある決意をする。
長いこと、父親を見ていたせいか桔乃は『好いた腫れた』という感情が好きではなかった。過ぎた執着は父のように身を滅ぼすもの。
そのせいか年頃と言われる年齢になっても異性に興味が持てない。たぶんこれからもそれは変わらないだろう。
だから決意したのだ。
嫁になど行かず、この場所でみんなに恩を返して行こうと。
町内のおかみさん達は『桔乃ちゃんは町内の小町娘だよ』などと世辞を言ってくれるが、桔乃は自分の可愛げのないきつい顔立ちが嫌いだった。その上、女としては高すぎる身の丈だ。男性からは遠からず敬遠される。
ならば、自分はここで手足が動かなくなる時まで医者として働こう。
そんな折も折、元気だったと思えた父が頓死した。
いつまでも起きてこないことをいぶかって室に入ると、父は寝床に入ったまま眠るように亡くなっていた。白皙の面にうっすら笑みすら浮かべて。
ああ、父はずっと母の元へ行きたかったのだ。
押しかけ女房だったと噂に聞くが、父は母を愛していた。桔乃がどんなにせがんでも母の思い出を一切口にしないほどに。
そして、妻の命を奪った憎い娘であっても妻が命をかけた生んだ娘だから成人するまで責任を持とうと考えるほどに。
だから、これはたぶん自殺だ。
すべてが整頓された室内を見れば、なおさらその思いは強くなる。
けれど、桔乃は父の死を病死と届けた。
『父は常々目眩がひどいとこぼしていましたから』と言い添えて。
そして……それからだった。
桔乃がすべてを捨てて家を出ようと考えるほど追いつめられていったのは。
読んでくださってありがとうございました。