その92
神澪の策、劉比青の采配により桂国軍は完全勝利し、総崩れとなった惨霧軍は、一目散に城を目指し、城内へ逃げ込んだ。
「戻った者は五十騎にも満たない。どうすりゃいいんだ。直ぐに桂国軍がここに来るぞ!」
宝徳賢は頭を抱えた。
暫くすると、彼の予測通り、青弧城の前に桂国軍がその姿を現した。
先頭に立つ劉比青は険しい顔で城を睨みつけていた。
「奴らは城に残した者も含め、百人にも満たないはずだ、この勢いで城を奪回する」
劉比青は息巻いたが、神澪はそれを押し留めた。
「将軍、自軍の数が敵を上回まわる勢いがあるとはいえ、城を攻めるとなればこちらの被害も大きくなります。惨霧がいる限り、降伏の説得にも応じるとは思えません。彼らが自分で城から出てくるように仕向けましょう」
「出てくるのか? 自分から」
劉比青は城を睨みながら神澪の言葉に疑問を投げかけた。
「出てきます。近くの村に行って、土を掘る道具や木を切る道具を借りてこなければなりませんから、多少時間はかかりますが」
神澪の言葉に兵たちは顔を見合わせた。
「穴を掘る、木を切る? それで奴らが城から出てくるのか、何をしようってんだ?」
羽玖蓮がまったく意味わからんぞ、という口振りで尋ねた。
「あの山の陰で川が大きく曲がります。あそこに堰を作り、水を貯めて、この盆地のようなところに水を流し込みます。止水用の堰と、それと、一気に流し込むための放出用の堰を作り、雨の日に放出堰を破壊し、水を流し込めば彼らは動きが取れなくなる前に城を捨てるでしょう。城を水没させるわけではありません、水位が上がり続け、彼らに疑心を与えるだけですからあの川の水量で十分です」
神澪の策を聞いて、皆は口を開けて城の周辺を見回した。
確かに青弧城は低い山に囲まれた窪んだ場所に建っていた。水を流せば、城の周囲は水浸しになるのだ。
「なるほど、奴らが城から出てきたところを囲んで叩くのか」
「いいえ」
劉比青の言葉を神澪はあっさりと否定した。
「出てくるのが通常の者ならばそれでもいいでしょう、しかし、相手はまともな者ではなく、追い詰められた者たちです。惨霧が後ろにいる限り投降はしないでしょう。彼らの抵抗はどれほどのものになるか予測がつきません」
神澪は大きく首を横に振った。
「城からの道は二つあります。一つの道を潰し、もう一つの道に兵を隠し、彼らが通過するときに一斉に矢を放ちます。先ほどの戦いで側面の伏兵に対し、弓矢を使わなかったのは、この攻撃に矢を回すためです。矢で惨霧を倒せるとは思いませんが、彼を丸裸にするのは可能でしょう。林に潜ませる兵以外は道の先で待ち、単騎になった惨霧に総力で向かい彼を討ち果たします」
劉比青は神澪の策を聞き、驚きの顔で彼を見ながら呟いた。
「この若者は……ここまで先を読んでいるとは。まるで大国の軍師のような才ではないか。いったい何者なのだ?」
「道具を調達しに行きましょう」
神澪の指示で兵たちは近隣の村に散って行った。
付近の農民たちの力と道具を借り、堰作りが始まった。
神澪は桂国軍の半数を城の前に立たせ、見張っているぞ、と意思表示をして、敵を釘付けにして、川の工事を相手に気取られないようにした。
三日ほどで工事は完成し、あとは水を貯めて、雨の日をまつばかりとなった。そして、数日後、雨が降り始め、次の日には、水は満水となり、止水、放水の二つの堰を水が越え始めた。
「放水堰を破壊せよ」
劉比青の命令で堰が壊され、川の水は青弧城を囲む盆地へと流れ込んでいった。
さすがに惨霧も今度ばかりは篭城することを余儀なくさ、城の中では桂国軍の攻撃に備えるために宝徳賢の支持の元、兵たちが走り回っていた。
宝徳賢は目を凝らして城の周囲を隅々まで見渡したが、動くものは何も見付けることはできなかった。しかし、このとき、彼の死角となる北側から大量の水が城に向かって流れ込み始めていた。
雨は一晩中降り続きそのまま朝を迎えた。夜明け前、城壁の上に見張りに立っていた者が宝徳賢の部屋の扉を叩いた。
「川が氾濫したようです。城の前が池のようになっています」
「なんだと! まさかそんな。この程度の雨で川が氾濫するはずはない」
城壁の上に登った宝徳賢は自分の目を疑った。
城の周囲は見渡す限り一面の水であった。
「なんたることだこれは! 深くはなさそうだが、このまま水かさが増えれば、城は孤立し、食料調達にも行けなくなってしまう。ここの地形ではなかなか水は引かんぞ」
宝徳賢は池のようになった城の周辺を睨みながら腕を組んで唸った。
自然相手ではどうしようもないが、あまりに水位があがると食料調達にも支障が起きる。しかし、桂国軍も動くに動けないであろうと考え、宝徳賢は様子をみることにした。
周囲の様子を見回っていた宝徳賢は、水の増加に伴い、外からの水圧によって城門が破壊されるだろうと考え、門を開けさせ、外に対する見張りを強化するよう命じた。
昼になると雨は小降りになったが、山側に降った雨は濁流となって下流に押し寄せ、城のある盆地に流れ込んだ。
水位は急激に上がり始め、次の日の夜明けには、馬の足が沈むのではないかと思う深さにまでなっていた。
「このままではまずい。雨は止んだがどこまで水位は増すのか。水が引くまで何日かかるのかもわからん、一旦、城から出るしかない」
宝徳賢は城から一旦離れるよう惨霧に進言した。
「この城が沈むことはありませんが、水位が増せば、水が引くまでどれほどかかるかわかりません、食料が不足します。一旦この城から離れましょう」
宝徳賢が進言したが、惨霧はまともに聞いていないようだった。
「奴らの、あの剣はなんだ?」
惨霧は虚ろな表情で天井を見上げ、何かを追うように目を動かしていた。
「は? 剣とは?」
紫羅義と羽玖蓮の剣を知らない宝徳賢には、何のことか分からず、言葉を失った宝徳賢と虚ろな顔で天井を見上げる惨霧を静寂が押し包んだ。
たいした時間ではなかったが、宝徳賢にはそれが異様に長い時間に感じ、いたたまれなくなった彼は、もう一度城を離れることを進言した。
「俺は別に……食料には困らんがな」
惨霧の言葉に宝徳賢は焦点の合わない目で床を見下ろし、そして、全身を震わせた。
「どうしても城から出なければ。我らの命が危うい」
宝徳賢は必死に城から出る理由を考えた。
「ここから馬で五日ほど行ったところに北玲という地があり、そこには若い女が沢山います。この辺りの若い女はもう狩りつくしました、どうでしょうそちらに移られては。そこには無人となった城もあるのです。労なくして根城を得ることもできます」
宝徳賢の言葉を聞いて、虚ろな目で天井を見ていた惨霧の目が正面を向いた。
「これ以上水位が上がれば身動きがとれなくなる。この城を捨てるぞ、急いでここから出る準備をしろ」
宝徳賢は兵たちを集め、城から離れるよう命じた。
「敵を迎え撃つ準備が終わったところなのに、それを無駄にして敵が待ち構えている外に出るのか?」
ざわつく兵の中からそんな言葉が飛び出してきた。
「陛下は言われたのだ。何日ここに留まろうと、自分は食料に困らないと。お前たちはその意味がわかるか? それでもここに残るのか?」
宝徳賢に言われ、兵たちは絶句した。そして、そそくさと城から出る準備を始めた。
宝徳賢に周囲の様子を見て来いと命じられた者が戻り報告した。
「城壁の上から見回す限り、敵軍の姿はどこにも見当たりません」
「そうか、他に何か変わったことはあるか?」
様子を見に行った兵は南東側の道に巨木が倒れ、通れなくなっている旨を報告した。
「ちっ、雨と水で地盤が緩み老木が倒れたか、それとも奴らがあちらの道に誘い込みたいがために切ったか。まあいい、手はある」
宝徳賢は渋い顔をした。
劉比青たちは林の陰から城を見張っていた。
「出てくるかな、南東側の道は我らが潰したと思うはずだ。敵が待っているとわかっているこちらの道に進んで来るであろうか?」
劉比青は腕を組んで水の上に建つ城を見ていた。
「出てきます。惨霧に食われるのと、敵と戦うのと、将軍ならどちらを選びますか?」
神澪の言葉に劉比青だけでなく、その場にいた紫羅義たちや他の者も皆、同時に頷いた。
「そりゃそうだ。食われるよりは、不利でも戦いの場に走った方がましだな」
羽玖蓮は腕を組んで、呆れたような表情で言った。
そのとき、開け放たれている門の向こうで馬と人が動いた。
「出てくるぞ、配置につけ」
劉比青は馬を返し、部下たちに命じた。
惨霧軍は全員が城から出て南西側の道に向かった。
水は既に馬の脚が見えなくなるほどまで上がってきていた。
惨霧の軍勢は道の入り口で止まり、前方に敵の姿がないか注意深く確認し、そして、前に進み始めた。
「敵はこの道が終わるところで待っているはずだ」
宝徳賢の予測通り桂国軍は城へ続く道の終わりで待ち構えていた。だが、彼は、林の中で弓を持った兵が潜んでいることまでは予測できなかった。
桂国軍は神澪の策に従い、二百の兵が弓を持って林の中に潜み、残りは道の終わりで惨霧たちの一行が矢に追われてくるのを待ち構えていた。
惨霧軍は道に入り、辺りに注意しながら慎重に進み始めた。
「奴らは知らない、もうひとつの道があることを」
宝徳賢は道の先を見つめ、注意深く馬を進めながら呟いた。
惨霧が青弧城を奪ったとき、足の遅い文官や太守の側近はみな斬られたが、一人だけは情報を吸収するために斬られずに幽閉されていた。その男から宝徳賢は、限られた者しか知らないある情報を聞き出していた。




