その85
惨霧は武真郭の振り下ろした剣を手で受け止め、さらに、その剣を掴んでいた。
「そんな、馬鹿な!」
武真郭は後ろに跳び下がり身構えたが、今、目の前で見た光景が信じられず、頭の中が混乱していた。武真郭が上段から降り下ろした渾身の一撃を手で受け止められるわけはなく、彼の気が動転するのは無理からぬことであった。
惨霧は前を向いたままゆっくり起き上がり、その間に、武真郭はもう一撃を喰らわすかどうか迷っていた。しかし、惨霧がこちらを向いた時、武真郭の体は自分の意識とは無関係に外へ飛び出すことを選択していた。
「ひけ!」
武真郭の一言で周囲を見張っていた兵たちは潮が引くように走り去った。
途中で異様な気配を感じた一人の男が寝ぼけた顔で出てきた。
「斬るな、捕らえよ」
武真郭はその男を連れたまま、馬をつないである場所まで全速で走った。
「惨霧様、どうしたのです?」
外に出た彼の元に、異変に気付いた者たちが集まってきた。
「虫がな、一匹入り込んで俺を刺そうとした。刺せずに逃げていったがな、ちょっと針が小さかったな、はっはっは」
惨霧は逃げていく武真郭たちを見ながら笑った。
「なかなかやるじゃないか、もっと仲間を連れて戻って来い、俺を楽しませてくれ」
惨霧は遠くに走り去っていく武真郭たちを笑いながら見ていた。
他の者であれば自分の命を狙ってきた者に対して、なんとしても斬れと手下に命じるところであろうが、惨霧にしてみれば人間は虫けら同然なのだ。逃げて行く虫けらなどいつでも叩き潰せるし、追う気にもならなかった。虫けらでも数が集まればそれなりの力を持つ、それまで待ってやると、余裕で武真郭たちを見下していた。
自分の食料が十分過ぎるほどあり、それを容易に手に入れられるとわかった今、惨霧は世の中を混沌に導き、戦いと血で退屈をまぎらわせる世界を作り上げる方法を考え始めていた。
自分の軍勢を増やし、自分に反旗をひるがえす者との、世の中を二分する戦い。そんなことを想像すると、惨霧は愉快でたまらなかった。
武真郭たちは馬を繋いである場所まで戻ると、それぞれの馬に飛び乗り走り出した。暫く走ったところで追っ手が来ないことを確認し、武真郭は部隊を止め、逃げる際に捕らえた男の尋問を始めた。
「奴はお前たちに何を話した?」
武真郭は座っている男の前に立って尋問した。
男の両側には兵が立ち、二本の剣が首の前で交差し、顔を出し始めた日の光を反射して輝いていた。男は首をひき、剣を見つめながら、惨霧が現れたときの様子を話した。
「あいつの目的は何だ、何処へ行って、何をやろうとしている?」
武真郭がさらに尋問すると、男は「さあ」と言って、目を泳がせた。
次の瞬間、男は首を伸ばして叫んだ。
「言います、言います、全部話します」
右手にいた兵が剣に力を込め首の皮一枚を切ったのだ。
「頭目は秦諒にいる崔郭霊たちの元に行き、奴等を手下にするつもりです」
男の言葉に武真郭の顔が曇った。
秦諒に反乱を企てている集団がいるらしいことは武真郭の耳にも入っていた、だが、所詮は烏合の衆、動き出せば桂の国軍に鎮圧されるだろうと思っていたが、惨霧がその軍を引き連れるとなれば話は違ってくる。武真郭は今後の対策を太守と話し合うために一旦、城に戻ることにした。
青弧の城に戻った武真郭が状況を報告すると、太守は唸り、すでに桂国軍の五百がこちらに向かっているであろうことを彼に伝えた。
武真郭は桂国軍に状況を報告し、自分が彼らの指揮下に入り惨霧軍と戦う旨を太守に進言し、単騎で青弧城を出発し、桂国軍へと向かった。
駆けながら武真郭の胸にはある不安が徐々に広がっていった。
「俺が惨霧だったらどうするか、五百の手下を得れば、次に考えるのは、そいつらの食い物の確保と、敵に対する備え、さらには侵攻を開始するための拠点……青弧城を襲うかもしれん」
武真郭は全速で桂国軍に向かって駆けた。
桂国軍の五百を率いてきたのは劉比青という将軍で、彼も若いが、その指揮能力、洞察力はずば抜けており、桂の国内においては人格者として多くの臣や兵に慕われていた。武真郭は桂国軍と出会い、劉比青将軍と会うと挨拶もそこそこに今までの経緯と惨霧について説明をした。
劉比青将軍も部下たちも武真郭の話に驚きを隠せなかったが、その反面、そのような者が本当にいるのかという疑問が顔に表れていた。
「信じられないのも無理はありません。私とて自分の目で確かめこの身で体験するまでは半信半疑でしたから」
武真郭は拳を握りしめ、その拳を厳しい表情で見つめた。
「貴殿の話は良くわかった。我らはこれからどう動けば良いのか思案していたところだ。武真郭殿にはこの軍に入り、私の副官として指揮をとってもらいたい」
劉比青将軍は武真郭に指揮下に入るよう要請した。
「そのつもりでここまで出迎えにまいりました。道々、考えていたのですが、もし惨霧が五百の反乱者たちを手下に治めたのなら青弧城を襲うかもしれません。惨霧の手下の中には青弧城の兵もおり、城の内情はわかっているはずですから」
武真郭の言葉に劉比青将軍も危機感を覚え、全速で青弧城に向かうと、全軍に号令をかけた。
武真郭の予測は当たっていた。その頃、惨霧も五百の反乱軍を我が物とし、彼らを従え、青弧城を目指していたのである。
惨霧が取り込んだ反乱軍と称する崔郭霊の集団には盟主がいた。
名を超王元と言い、志芭王朝の創始者である超月誕の末裔であり、子孫であることは違いなかった。しかし、皇帝には代々子どもが沢山いて、十数代も続けばその子孫は数千人を数え、農民やわらじ売り、盗賊になるものまでいて、すでに子孫とは名ばかりの者が大勢いたのである。
超王元もそんな中の一人であり、彼は詐欺行為をしながら、あちこちを流れ歩いていた。
ひょんなことから数十人の盗賊集団である崔郭霊たちと知り合い、超月誕の末裔である自分を担ぎ上げれば、何かと楽ができるのだと説いた。
詐欺を生業としていたくらいなので、彼は頭も良く、弁もたった。
崔郭霊の方も、胡散臭い奴だとは思ったものの確かに王朝創始者の末裔を担ぎ上げて、天命に従い世を正すという名目を掲げれば、辺境の地に住む農民たちは、天子様の縁者が遠征に来たとばかりに歓迎するだろうし、食べ物と女に不自由はしないと考え、超王元を盟主として担ぎ上げることにした。
お互いに危ない橋を渡らず、楽をして食べ物にありつこうという思いが一致したのだ。
楽して食べ物と女にありつけるのは確かなのだが、盟主を担ぎ上げるのは諸刃の剣であり、反乱軍と見なされれば、討伐のための軍勢が繰り出され、捕まれば二人は間違いなく処刑される。
二人ともそんなことは重々承知であったが、数十人で天子の御威光をかさに村々で食べ物にありつき、やばくなったら即解散と、そんな程度にしか考えてはいなかった。
最初は思った通りことが運び、食べ物と女に不自由はしなかったが、天子の縁者の名は二人が思っていたよりはるかにその効力を発揮し、あれよあれよという間に彼らの元に人が集まってきてしまった。
戦乱の世ならそれなりの人物や兵も集まってきたかもしれないが、隆徹の治世で世の中は安定しており、集まってきたのは頭のできが悪い不良兵と、まともに働く気もなく天子の威光で楽をして良い思いをしようという博徒や盗人のような者ばかりであった。
崔郭霊と超王元は困っていた。
天子様の縁者巡行は二人が思っていた以上に効果があり、人間が集まり過ぎたのだ。
話を聞き付けた野盗集団や無頼の者たちで集団は急速に膨れ上がり、その数は五百を超え、二人は逃げるに逃げられない状態に追い込まれてしまった。
ここまで人数が増えて目立ち始めると、天子の名を語る詐欺集団、あるいは反乱予備軍とみなされ、いつ討伐の軍が出てくるかわからない。二人はなんとか集団から逃げようとは考えていたが、その気持ちとは別に、今まで天子の名の恩恵により良い思いをしてきたことが忘れられず、それを捨てるのは惜しいと思い、離れるに離れられずにいた。
そんな彼らの前に惨霧と彼の率いる五十名が姿を現し、超王元の前に立った。
「俺の名は惨霧、お前たちの明日を楽しいものにしてやるために来たのだ」
惨霧はかったるそうに首を回しながら、皆を見回した。
「楽しい明日だと、こりゃ愉快だ」
聞いていた者たちは一同に笑ったが、超王元だけは笑わずに真顔で尋ねた。
「たとえばどのようなことです?」
「こいつらの食い物はどうしている、困ってないのか。この先々、食い物に困らず良い思いができる手さ」
惨霧は超王元を品定めするように見ながら答えた。
「どんな手です?」
超王元はさらに尋ねた。
「これだけの人数がいてなぜ青弧城を盗らねえんだ、簡単に盗れるだろう」
惨霧はあっさりと言い放った。
「馬鹿な事を言うな、確かに城の中の兵は我らより少ないだろうが、城など簡単に 陥とせるもんじゃない。それに、そんな事をすれば我らは完全な謀反人となり、万 余の軍勢に取り囲まれることになるぞ」
集団の中からそんな声が聞こえた。
「彼の言うとおりです、青弧城は堅固で、天然の砦のようなものと聞きます、我らで城攻めなどとても無理でしょう」
超王元は首を大きく横に振りながら答えた。
彼は青弧城に行ったことはなかったが、そこに出入りしている商人から城の様子を聞いたことがあるのだ。
青弧城は北側に大きな川が流れ、東、西、南側は山に囲まれた盆地の中央に建っており、城へ続く道は南西方向と南東方向の二本しかなく、しかも、その道は狭く、さらには登り下りも多く、攻める側にとっては非常にやっかいな城なのだと聞いたことがあった。
戦乱の時代、桂の国の王は自国の城が攻められ、危機に陥った時に逃げる先として天然の砦になりそうな地を何ヵ所か探して城を建てよと命じた。それが青弧城なのだ。
攻めることは考えず、防衛のみに主眼を置き、攻める側は二本の道から城の前に出てくることになるが、城門の前の広場は狭く、一度に大勢が攻められない地形になっていた。
戦乱の世が終わると、城は青弧の地を治める太守の居城になった。
こんな城を落とすなど、烏合集団ではとても無理な話であった。
「だいたい青弧城への道を知っている者だっていない」
超王元が城の概要を説明し、そう言うと、惨霧は後ろに首を向けて「おい」と手下を呼んだ。
後ろから数人が出てきて惨霧の後ろに立った。
「こいつらは俺を捕らえに来た青弧の兵だ。叩きのめしたら、みんな逃げたが、何人かは俺の手下になりたいと残ったのさ。こいつらに案内させれば迷うことはないぞ」
惨霧の言葉に皆は信じられんという顔をして彼を見た。
「俺の力を信用しないらしいな、おい」
惨霧が呼ぶと後ろに立った者が剣を抜き、いきなり惨霧の体を後ろから剣で貫き、四本の剣が惨霧の体の中で交差して先端が前に飛び出した。
超王元も他の者も腰を抜かさんばかり驚いたが、惨霧は平然とした顔で二、三歩前に進み出た。
「まあ、こんなもんだ。俺が本気になれば城に忍び込んで占領するなど容易いことだが、その先、皇帝になるには人手は必要なんでな。どうだおまえら、先は皇帝軍になりたいと思わないか」
惨霧の体から突き出る剣と、その言葉に皆はどうしていいかわからず、ただ、ただ、口を開けて見ていたが、一人だけ惨霧の前に進み出た者がいた。
「皇帝! 今、皇帝と言ったのか?」
崔郭霊であった。




