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紫羅義  作者: 海道 睦月
70/125

その70

 用水路計画や新規農地造成に役立てるために、国内の地理、地形を調べる者の中に(ほう)(さん)()という者がいた。彼は若い頃からその役に従事し、その真面目さと能力を買われ、今では総責任者になっていたが、山々を歩くのが好きで、自ら城の外に出て、国内の地理を調べ歩いていた。

 西から戻れば、今度は東へという具合に、出て行っては戻り、出て行っては戻りを繰り返し、城内の人間は皆、彼のことを真面目で堅実な男と評価していたのだが、彼が城から出て行くのには山歩きが好きというほかにもう一つの理由があった。

 朱浬の都から南に少し行ったところに(ぶん)(れい)という地があり、その村に(しゅう)()(ほう)という若い娘がいて、彼は国土を見て回るという名目で城を出てはそこに通っていたのだ。

 鵬山雅はもう三十歳をとうに過ぎていて、妻もいたが、秀美芳には独り身であると嘘をついていた。

 鵬山雅の妻の実家は富豪と呼べる家であった。

 妻の父は今では引退しているが、以前は朝廷の役職についていて、鵬山雅の勤勉さが気に入り、娘を嫁にと押し付けてきたのだが、彼はその娘に対して好きという感情は沸いてはこなかった。だが、鵬山雅の家は父が他界しており、母は病弱、弟たちは働くのが嫌いで、兄である鵬山雅の収入に頼るというかなりの貧乏家族であったため、金を持っている家との縁談はありがたく、彼はその娘を妻として迎えることにした。

 妻の家からかなりの援助を受け、その後、仕事も順調でそれなりの立場になり、金もかなりの金額をもらい受けるようになってはいたが、我が儘に育った妻の浪費、母の薬代、そして、弟たちは遊興の徒と交わり博打にのめり込み、そのために今に至るまで妻の実家からの援助は続いていた。

 秀美芳に近づき、それが発覚すれば、何もかも失うとわかってはいたが、鵬山雅の気持ちはもうそれらを押えきれないところまできていた。

 秀美芳の両親は通ってくる相手が朝廷のかなり上位の立場の人間であるとわかり、なんとかうちの娘を彼の妻にと考え、二人の逢引を黙認していた。

 鵬山雅はそろそろ本当のことを話し、身を引かなければ、と思いながらも、若く美しい秀美芳に身を寄せられると、その思いは霧散してしまった。それどころか日が経つに連れて彼の頭の中を邪な考えが占めはじめていた。

「何か理由をつけて妻の実家から大金を貰いうけ、妻を亡き者にする、いや、それでは金を返せと言われる、ならいっそ妻の両親も……」

 前に広がる山々を見ながら鵬山雅はそんなことを考え始めるようになっていた。

 秀美芳を自分の妻にと考える彼は、もはや以前の山歩きが好きで、堅実な鵬山雅ではなくなっていた。

 そんな話が司鬼一族の耳に入った。

 羽宮亜と神羅威が心配していた通り、司鬼軍の者は、農民や商人に姿を変え、村々に入り込んでは、朝廷の弱みになることはないかと情報を収集していた。

 さすがに警備が厳重な朱浬の城には近づくことはできなかったが、地方の城内に忍び込み、相手の力を削ぐような弱点はないかと探っていた。そんな中で、ある村の娘と朝廷の重臣とも呼べる者が不義密通をしているようだとの報告が天祥の元に届けられた。

「ほ~密通か、利用できるかどうかはわからんが、その者達の身辺を詳しく調べよ」

 鵬山雅の身辺を調べ、これは利用できると思った天祥は、どんな些細なことも報告せよと、改めて配下に命じ、数名を鵬山雅に張り付かせた。

 妻を持つ身でありながら、仕事中に不義密通を繰り返し、妻の実家からは多大な援助を受けている。もし、発覚すれば、離縁となり援助も受けられなくなるばかりか、解任され、場合によっては牢に入れられるであろう。

 鵬山雅はいつも数人の側近と測量や木を切る道具などを詰め込んだ荷馬車、そして幾人かの雇われ人夫とともに出歩いていた。

 雇われ人夫たちは全てを知った上で鵬山雅と行動を共にしていた。

 天祥の配下はその人夫の一人に金を掴ませて話を聞きだし、それを天祥に報告した。

「人夫の話によれば、妻を事故にみせかけ、殺す方法はないものかと、そんな話を冗談のように言っていたそうです」

「使えるな、その男。天祥殿、その鵬山雅という者、弱みがあり、さらに他の人間の力を借りたがっているようです。しかも、報告によれば数人の人間が十分に入れる大きさの荷馬車をたいして調べられることもなく出入りさせている様子、暗殺部隊を城内に送り込む絶好の手引き役です。人質を取り、脅して、という手もありますが、それより弱みを完全に握り、手引き役にした方が言うことを聞かせ易いでしょう」

 参謀格の者が天祥に進言した。

「いいだろう。よし、わしが直々に交渉してやろう」

 参謀格の男を見ながら天祥はニヤリと笑った。

 鵬山雅は勤めを終えた帰り道で異様な気配に気がつき足を止めた。もう日も暮れ、あたりは薄暗い。

 目の前に青白い炎が浮かび、それがいくつにも別れて鵬山雅を取り囲んだ。

「狐狸妖怪の類か、何の用だ!」

 鵬山雅は険しい顔で叫んだ。

 彼は山歩きをするだけあって、色々な獣に遭遇することもあれば、山の中で日が暮れて野宿することもあり、度胸はなかなか据わっていた。

揺らぐ炎の向こうから一人の男が現れた。

「鵬山雅殿か、おれの名は()(げん)と言う。お主は何か願い事があるのだろう、それを聞き入れてくれる仙人をお連れしたのだ」

 浮幻がそう言うと、鵬山雅を囲んでいた炎は一箇所に集まり、そこに白い着物に白く長い髭、そして不思議な形をした杖を持った背の高い老人が現れた。

「願い事とは何だ? 俺には願い事などは無い」

 鵬山雅ははっきりした口調で答えた。

「この炎を見よ、願い事はあるだろう。心の奥底にある願いを言ってみよ、さあ、全ての思いを吐き出せば、仙人様がその願いを叶えてくれる、答えよ」

 浮幻が炎を操ると、揺らぐ炎を見つめる鵬山雅の体から力が抜けた。

「秀美芳と一緒になりたい」

「そうか、秀美芳と一緒になりたいか。だが、その女と一緒になるには邪魔者がいる、そうであろう、その邪魔者は誰だ、どうして欲しいのだ」

 浮幻はさらに尋ねた。

「妻と、その両親がいなくなれば、俺は秀美芳と一緒になれる」

 鵬山雅は虚ろな目で答えた。

「仙人様に願うのだ、そうすればお前の想いは成就する」

 浮幻の言葉とともに仙人が鵬山雅の前に立った。

「願いを言ってみよ」

「……妻とその家族を俺の仕業とわからぬよう亡き者にしてくれ」

 鵬山雅は感情のない目で老人に願いを言った。

「わかった、おまえの願いを聞いてやろう。明日、妻が実家へ行くような用事を言いつけるのだ。そうすれば全てが上手くいく、これでお前は秀美芳と一緒になれるぞ」

 仙人はそう言うと身をひるがえし、闇夜の中に吸い込まれるように消えた。

 鵬山雅が我に返った時、そこにはもう炎も浮幻の姿も無かった。

「俺は何を言ったんだ、今のは夢か」

 鵬山雅はとしばし呆然としていたが、首を大きく左右に振り、頭を抱えて歩き始めた。そして、家に着くと笑顔で妻に言った。

「実は今日、城に出入りしている商人から良い着物を見せられてな、お前に買ってやろうと思うのだが、その、なんだ、金がな、少し足らんのだ、明日、義父上のところに行って、すこしばかり借りてきてくれぬか」

 鵬山雅の口から、驚くほど簡単に言葉がでてきた。

「まあ、着物を!」

 鵬山雅の妻は目を輝かせた。

 彼女にしてみれば父へのおねだりなど朝飯前であった。

 高価な着物などいくらでも持っているのだが、夫が買ってくれるというのはまた別の話なのだ。

「じゃあ、ちょっと余分に借りてきましょうかね。あたしが言えばお父様はいくらでも貸してくれるわ」

 妻は満面の笑顔を見せた。

 寝る前に、鵬山雅は腕を組み、布団の上に座って考え込んでいた。

「さっきのあれは現実だったのか。明日、妻が実家に行くように話はしたが、これでどうなるんだ? わからん、あの仙人は俺の願望が作り出した幻だったのか?」

 鵬山雅は身を震わせると、布団の中に潜り込んだ。


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