その69
隆徹は立ち上がった。
波邪斗の後ろにいた一族の者も一斉に立ち上がり、周りにいた警備の兵は波邪斗を取り囲み、身構えた。
「お静かに。この者は悸翠ではない」
波邪斗の言葉に一同はさらに驚き、困惑した表情でお互いの顔を見合わせた。
波邪斗は頭を全部出していたが、他の那岐一族は黒装束に身を包み、顔は目、鼻、口までしか出してはいない。顔が全部見えないとはいえ、そこに平伏していた者が悸翠ではないとは皆にはとても信じられないことであり、波流伽でさえ、顔の一部を見て悸翠と認識していたのだ。
「迂闊でございました。まさかあのときに悸翠が倒され他の者が成り代わっているとは。陛下のお命を危険に晒したことは万死に値します。いかようなる処罰もお受け致します」
波邪斗はその場に再び平伏した。
「処罰などよい。それより、私にもそこにいる者は悸翠の顔のように思えた。義父殿はなぜわかったのだ?」
隆徹は手で合図をして警備の兵を下がらせながら尋ねた。
波邪斗は悸翠の顔を覆っている被り物を剥ぎ、右手の甲を持ち上げ隆徹に向けた。
血を洗い流した手の甲は全体が薄赤く見えたが、中央にだけは、はっきりと赤く小さな鉤十字のような模様が見え、その模様を見たとき、隆徹の後ろに立っていた波流伽はその場に崩れ落ちるように膝をついた。
「幼き頃より一緒に鍛錬した波流伽もこの意味は知っているはずです。この模様は悸翠の最後の技なのです。もし、手の甲に血染めの十字をつけた者が現れたら、私はその者に倒され、もうこの世にはいない、即座にその者を倒してくださいと、悸翠はそう言っていたのです。平伏するために手を伸ばしたときに気がつきました」
波邪斗は悲しげな表情で娘の波流伽に目をやった。
話しているうちに、悸翠に化けた男の顔は徐々に変わり始め、悸翠とは似てはいるが、別の顔になっていた。
隆徹も羽宮亜も神羅威も目を丸くして、ただ、その男の顔を見ていた。
「なんと恐ろしい。このような者が現世にいようとは」
宰相の汪白邦はその場にへたりこんでしまった。
「敵ながら見事としか言いようがありません、陛下の命を奪うため、単身ここまで乗り込んで来るとは。これからの戦い方も考えなければ」
神羅威が険しい表情で話したその後ろで、波流伽は顔を手で覆い泣いていた。
那岐一族には、任務の間、一切の感情を出すなという教えがあった。
戦いの中で仲間が倒されたとき、感情に支配されれば隙が生まれ、動きも鈍り、敵にそこを突かれるからだ。彼らは仲間の死に対して驚き、悲しみという心を表には出さない訓練をしており、波流伽も幼き頃よりその訓練を受けていた。しかし、朱浬の都で暮らし、二児の母となっていた彼女は、兄弟同様に育った悸翠の死の悲しみを、もう抑えることはできなくなっていた。
那岐一族は初戦から思いもよらない手痛い打撃を被り、朝廷は改めて司鬼軍の恐ろしさを知ることとなった。
それから数日後、神羅威は中庭にある池の前に座り、腕を組んで、左右上下に首を忙しく動かしていた。
離れた場所から隆徹と羽宮亜がその後姿を見ていた。神羅威がこのような仕草をしているときは過去からの知識、経験を振り返り、何かを必死で模索している姿であり、こんなときは羽宮亜だけでなく、隆徹さえも声を掛けなかった。
神羅威が動きを止め、大きく息をついたとき、二人は近づき声を掛けた。
振り返り、隆徹の姿を見た神羅威はその場に平伏した。
「我らだけのときは平伏などせんでよい、何か良い考えは浮かんだか?」
「波邪斗殿と相談し、那岐一族の半数を反乱軍の探索に、半数を城内の警備に回してもらいました。そして、唯の国や宗の国にも援軍を求めようと思っています。しかし、策を講じるにはやはり、外に探索に出た那岐一族の者が反乱軍の動向を掴んでからとなります。それよりも、彼らが今、何を考えているのか、それが気になります」
神羅威は隆徹の問いに答え、表情を曇らせた。
「君もそう思うか、彼らは地方に出没しては打撃を与えて姿を消す。それを繰り返して、朝廷の威信を失墜させようとしているが、そろそろ次の手を考えている頃だろう」
羽宮亜も神羅威の意見に同意した。
「次の一手とは何だと思う?」
隆徹が尋ねると、二人は何かを言いたげだったが、言葉を出なかった。
「俺が邪悪な反乱軍を率いる頭目ならば、皇帝の命を狙うであろうな。それが一番早い、そういうことであろう」
隆徹の言葉に、二人は無言で頷いた。
「陛下の命とまではいかなくとも、敵が城内に忍び込み騒ぎを起こせば、皆が浮き足立ちます。警備が厳重になればなるほど、内部に侵入された衝撃と警備に対する不信感は大きくなるのです。叙崇国殿に頼んで城内を見回る兵の数を倍に増やしてもらい、そして波邪斗殿を筆頭に那岐の一族には夜間の警備をお願いしました。そう簡単には外部から浸入できはしないでしょうが、まだ気になることがあります」
「内部からの手引きか」
神羅威の話を聞いて、羽久亜が冷ややかに言った。
「いると思うか、内部で敵と呼応する者が」
隆徹は二人の顔を交互に見た。
「わかりません。わかりませんが、今までの敵の戦い方を見ていると、反乱軍はかなり戦いと兵法に精通しているようです。敵の頭目か、そばにいる参謀かはわかりませんが、兵法を駆使して戦うものならば、必ずと言っていいほど相手の内部の弱点を探って、それを利用しようとするはずです、この内部にも、弱点となる者がいないとは限りません」
神羅威は複雑な表情で城を見回したが、彼の心配は現実のものとなりつつあった。




