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紫羅義  作者: 海道 睦月
65/125

その65

 隆徹には二人の言いたいことがわかっていた。だが、この場では宰相の面目も立ててやらねばならない。隆徹は羽宮亜と神羅威を交互に見て、無言の返事を返した。

「宰相にお任せする。だが、一つだけ聞いてくれ、討伐軍を率いる者は(よう)(しん)(らん)将軍にしてもらいたい」

 隆徹はそう条件を付けた。

 蓉真蘭将軍は隆撤が幼い頃にすでに将軍として軍を率いており、もうすぐ六十歳になろうかという老将軍であった。

 彼は朝廷が魏嵐に乗っ取られた時も特に騒がず、頭が変わったとて、今まで通り、我は我のやるべき事を遂行するだけだと、そのまま魏嵐に従ってきた人物だ。場合によっては簡単に敵に寝返るかもしれないと思われ、全面的には信用できない人物だが、今までの経験から総合的に判断した場合、抜群の指揮能力を有するであろう将軍であった。

 国同士が戦う混沌とした状態では寝返る恐れのある者に兵は預けられない、だが今回の相手はそのような心配は無く、軍を率いて戦うことに於いては蓉真蘭将軍の右に出る者はいないであろうと隆撤は思っていた。

「仰せの通りに致します。では、蓉真蘭将軍に一万五千の兵を預け、反乱軍討伐に向かわせます」

 宰相は後ろに並んだ重臣や将軍達の中から蓉真蘭将軍を呼び出した。

「必ずや反乱軍を殲滅してまいります、宰相は一万五千と言われましたが、一万の兵で十分です」

 蓉真蘭はそう言って、皇帝に心意気を示した。

 数日後、蓉真蘭は一万の兵を率いて城を後にし、反乱軍のいるであろう地を目指したが、その軍勢の動向を遠くから見ている者がいた。

 天祥は城を見張らせていた。

 偵察の者はすぐに戻り、城から軍勢が出発したことを天祥に伝えた。

 蓉真蘭がある村に立ち寄り、二千ほどの軍勢を見なかったかと尋ねると、二日ほど前まで、ここにいて、食料を調達していたと農民は答えた。そして南へ向かったと。

 将軍はそこで野営をして、早朝、さらに反乱軍を追ったが、司鬼軍の偵察隊はその様子もずっと見続けていた。

 次の日の昼に討伐軍はついに反乱軍に追い付いた。前方に土煙を上げて進む軍を見つけたのだ。

 後ろから追ってきた一万の軍勢を見て、反乱軍は逃げに逃げた。

 戦う準備ができていないところに、後ろから何倍もの兵力を持つ討伐軍が現れたのだ、もう逃げるしかない。討伐軍の誰もがそう思って疑わなかった。

 反乱軍は山が両側に迫る場所に走り込んで行った。山と言うより、両側に岩肌を剥き出した崖が迫ると表現した方が良い場所ではあるが、広さは一度に数百騎が通れるほど十分な幅はある。だが、将軍は入り口から少し入った所で軍を止めた。

 ここに伏兵がいて上から矢を放たれればかなりの被害が出る、たとえ矢でなくても、上から石を投げつけられれば、致命的な傷を負わされることも考えられる。迂闊に進入しない方が良いと考えたのだ。

 反乱軍は討伐軍が止まると、適当な距離をおいて止まり、振り返った。

「誘っているのか?」

 将軍は両側の崖の上を見回したが、伏兵らしき者の気配は感じられなかった。止まって討伐軍を見ている反乱軍の数も報告にあった二千ほどの数であった。

「待ち伏せの兵がいるわけではないのか? なぜ奴等は止まっている? 誘うにしてはあまりに芸が無さ過ぎる。油断するな、周囲を警戒せよ」

 蓉真蘭はそう命じ、腕を組み、考えていた。

 兵法には、太陽と風は背負え、水は背負うなという常識がある。太陽が背にあれば、相手とっては逆光となり、こちらが見えにくくなる、風が背から吹いていれば、砂煙が巻き上がった時、相手は視界を遮られることになる。だが、水面が背後にあれば、こちらの逃げ場はなくなってしまう。そして、もう一つ、軍が長く伸びるような狭い場所には伏兵がいると思えという常識があった。それゆえ、蓉真蘭は軍勢を止めたのだ。

 狭い場所に全軍で入らなかった蓉真蘭の考えは正しかった。

「振り返ってみれば、反乱軍に追いつくのが早すぎる。彼らは農民の口を借り、逃げる方向を知らせ、わざと追いつかせ、この場所に誘いこんだのだろう。狭いといっても、それなりの幅はある、伏兵がいる気配はない、しかし、何かおかしい」

 蓉真蘭は兵法の常道に一つ反していることが気になっていた。

 その日は風があった。風は谷間に集まり、かなり強いものとなって、討伐軍の正面から吹いていた。

 二千対一万で土煙を起こしたところでそれほどの効果はない。まして、この場所でそれほどの土煙が起こることもない。だが、彼らは留まって討伐軍を誘っている。

「引け、引くのだ!」

 蓉真蘭の決断は早かった。

 馬を返し、引こうとした時に、討伐軍の兵士たちに異変が起こった。兵士たちは手で目を覆い、喉を苦しげに押え、その異変は後方にも広がっていった。お互いに掴み合い、庇い合い、なんとか狭い所から脱出した。

「後方にいて異常が起きてない者は防衛に回れ!」

 蓉真蘭はそう叫び、そのまま気を失った。

 幸い敵は襲って来ることはなく、なんとか窮地を脱し、城まで逃げ帰った。

 将軍と兵の半数近くは数日の間、高熱を発し寝込んだが、命を落とした者はなく、全員が生きて帰還したことになる。しかし、完全なる朝廷軍の敗北であった。

 他の将軍であれば、その状況からして、そのまま追い続けたか、あるいは判断に迷い、被害はもっと大きくなっていたであろうことは誰にも容易に推測ができた。

「風上に立ち、毒を流したのでしょう」

 羽宮亜のその言葉に汪白邦は驚き、そして、崩れるように隆撤の前に平伏した。

「全て私の責任です。いかなる処罰もお受け致します」

 汪白邦は平伏したまま拳を握り締め、体を震わせた。

「蓉真蘭将軍の迅速な判断により、被害は最小限に留めることができました。司鬼軍は風の吹く日を待ち、わざと討伐軍に追いつかせ、谷間に誘い込み、風上から何かしらの毒を粉末にして巻いたのでしょう。蓉真蘭将軍の軍勢がそのまま追いかければ、彼らは毒を撒き散らしながら逃げ、毒を吸い続けた討伐軍は谷間の中で全滅していたかもしれない。彼らが追いかけて来なかったのは、追撃すれば、自分達も毒の影響を受けると思ったからでしょう」

 神羅威は放心したように言った。

 その場にいた全員が自分の耳を疑うような顔で神羅威の話を聞いていた。言った神羅威自身も、彼の隣で聞いていた羽宮亜も複雑な表情をしていた。

 何倍もの敵に策を巡らして撃ち破ってきた羽宮亜も神羅威も、毒を使うなどとは思いもよらなかったし、考えたこともなかったのだ。

 少量の毒ならなんとか手に入れることは可能であろうが、万の兵に使うほどの大量の毒など手に入れられるわけはない。つまり彼らは何年もの時間を費やし、このような日の為に準備していたことになる。羽宮亜も神羅威も、その事実に驚いたのだ。

「毒を風に乗せて流すなどとは誰も考えつかん。それに、勝負は時の運、宰相のせいでも、蓉真蘭将軍のせいでもない、処罰などは考えておらん」

 隆撤は平伏している宰相に言った。

「はっ、申し訳ありません」

 宰相は顔を上げ、再び平伏し、その身を小刻みに震わせた。

「敵は我々が考えていた以上に恐ろしい力を持っているようだ、今後は力を合わせ戦いに望む、相手は二千の兵力だが、百万の敵と戦うつもりでかかれ」

 隆撤は集まっていた者達全員を見回し、強い口調で言った。

「那岐一族の力を借りましょう、彼らの力が必要です」

 神羅威が進言した。

「わかった、すぐに手紙をしたため、使者に持たせよう」

 隆撤は何も聞かずにそう返事をした。

 隆徹は羽宮亜と神羅威の言葉にはいつも何も聞かずに従っていた。彼らの意見は、今日まで間違っていたことは一度もなく、隆徹は二人に対して絶大な信頼をおいていた。

 使者には叙崇国が選ばれた。

 叙崇国と彼の仲間たちは洸伯昌の食客であり、義勇軍が東進するときはその力を一時的に借りたに過ぎず、事が成就すれば洸伯昌の屋敷に戻らなければならない立場だった。

 隆撤は叙崇国を重臣の一人として迎え入れたいと思っていたが、叙崇国は食客という立場上、朱浬に留まるわけにはいかず、今までの恩を返さなければならないと明言し、洸伯昌の元に戻ったのである。

「朱浬の都に行きたいのであろう、行きなさい」

 屋敷に戻ってしばらくすると、洸伯昌は叙崇国に言った。

「しかし、我らはまだ受けた恩を返してはいません」

 叙崇国は洸伯昌に向かって深々と頭を下げた。

「お前たちは紫羅義殿、いや、隆徹皇帝とともに苦難の道を進み、そして、志芭王朝の復活に力を貸したのだ。お前たちは我が家の誇りだ、末代まで伝えよう、もう恩は十分に返した。こんな地でくすぶっていてはいかん。行きなさい、行って、今度は朝廷のために尽くすのだ」

 洸伯昌は両の手で叙崇国の肩を掴んで揺すった。

 叙崇国は言葉に詰まり、何も答えることができなかった。

 半年も経った頃、彼は仲間を引き連れ再び隆撤の元に戻り、皇帝の周辺を警備する責任者となり、それ以後、城内の警備を一手に引き受けていた。

「では、那岐の村に行ってまいります」

 叙崇国は皆に挨拶を済ませると、十騎ほどの部下を従え、那岐一族の村に向かって出発した。

 朝廷では反乱軍に対してどのような策を用いれば良いのか、日々、論議されたが有効な手段を見出だすことはできなかった。

 その間にも(じゅん)(けい)という地から、反乱軍を確認し、軍勢を繰り出し交戦したが、半数の兵を失い逃げ帰ってきたとの報告が入り、朝廷内部は重い空気に包まれていた。

 反乱軍の二千は常に移動していてその動きは掴めない。だが、司鬼軍が城を見張っているであろうことは、蓉真蘭将軍が敗北したことを考えると明白であった。

 まともに戦えば数で負けることがわかっている彼らは、朝廷軍弱しとの噂がたち、謀反の流れが起こり、その流れが大きなものとなって渦を巻いて、志芭王朝を呑み込もうとするのを待っていた。戦いとなれば、思いもよらぬ戦術で、数で勝る討伐軍に打撃を与えるだけで去ってゆく。そして、その話が広がるのを待つ戦術なのだ。

 司鬼軍から仕掛けてくることはないが、司鬼軍が仕掛けて来ないからといって、放っておけば、朝廷の威信は地に落ち、謀反の芽を育ててしまうことにもなりかねないのだ。

「一つ方法がある」

 趙子雲が口を開いた。

「奴等はこちらが繰り出す討伐軍の数が多いから逃げながら誘い、策を用いて一撃だけ与えて風のように去っていくのだ。ならば奴等より少ない数で城から出て、こちらが待って、誘い込み、正面から戦い、叩き潰せばよい。奴等がこの城の動きを見張っているなら、必ず出てくる。朝廷軍を全滅させたとの話を広める絶好の機会と思い、今度は一撃だけでなく、全力でくるはずだ、俺が行く」

 趙子雲は自分の考えを話した。

「それはいけません」

 神羅威が止めた。

 彼も同数で撃って出て戦うという策は考えていたが、敵の力量が未確認の今、その作戦はあまりに危険であった。

 司鬼軍はあちこちの軍勢と小競り合いを繰り返し、日をおう毎に話は広がって朝廷への不信は大きくなっており、趙子雲はそれを懸念していた。

「神羅威よ、俺を信じてくれ」

 趙子雲が言うと、馬元譚、黒雲臥、劉賢誠、郭斯錘らも前に出て、行かせてほしい、と願い出た。

 神羅威は一同の顔を順に見て目を伏せ、それから隆撤を見た。もう、神羅威には彼らを止めることはできない、後は皇帝に任せるしかないのだ。

 神羅威が隆撤を見ると、趙子雲たちも食い入るように隆撤を見た。


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