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紫羅義  作者: 海道 睦月
58/125

その58

「何を言い始めたんだ、うちの大将は?」

 皆は口を開けたまま馬上の紫羅義を見上げた。

「すまなかった。本当の名を伏せて生きよと、私を育てた李玄朴という者が他界する前に私に言い残したのだ」

 紫羅義は自分の生い立ちを語り始めた。

 彼の父である前皇帝の超太幻は側室である()(よう)()という女性を深く愛し、二人の間に生まれた子が超隆徹、つまり紫羅義であった。

 皇帝には正室のほかに十数人の側室がいて、皇帝の血を絶やさぬために多くの子どもを作るのも大事な仕事であり、正室の目を気にせず、どうどうと側室たちの部屋に通うことは何の問題もないことだった。

 正室は(りん)(ぎょく)(せん)と言う女で、すでに隆徹より十歳以上年上の男の子がいた。この子が魏嵐に皇帝の座を追われた超月章であった。

 正室の子であり、長男であるこの子が皇太子に指名され、次期皇帝になるのは当然のことではあったが、この長男はできが悪かった。超太幻はこの長男が十五歳になった頃に皇太子として指名しようとしたが、心の中には愛する扶蓉華の子である隆徹をなんとか後継者にしたいという想いがあり、重臣たちに相談した。

「月章はあまりにできが悪い、どうしたものか。国の先行きを考えると、とてもあの子を指名する気にはなれぬのだ」

 皇帝は渋い顔で重臣たちの顔を見回した。

「正室である琳玉泉様の長男が皇太子に指名されなければ、お家騒動の元となります、が、しかしですぞ、確かに陛下のおっしゃる通り、月章様はあまりに問題がありすぎると思われます。それは誰もが知っている周知の事実。ここは思い切って、陛下の意見を押し通し、他のご子息を指名されてはいかがでしょう? 隆徹様などはまだ五歳ですが、とても、利発で、将来が楽しみなお子様でございます」

 重臣たちは口を揃えて言った。

「そうか、そうであろう」

 皇帝の顔は一瞬で明るくなった。

 重臣たちは隆徹を皇太子に指名したいと思っている皇帝の心の中を知っていた。

 皇帝への点数稼ぎもあるが、それ以上に、琳玉泉の子が皇太子に指名されて皇帝になれば、彼女は皇后という立場になり権力を振るいだす。そうなれば親類縁者が多数朝廷に入り込んで来て、自分たちの地位を奪われると思っていたのだ。

 皇帝が病死でもすれば、すぐにでも皇太子は皇帝の座につき、それこそ、一年も経たないうちに、自分たちの粛清が始まる恐れがあった。

 一方、側室である扶蓉華は辺境の小国より、美しいというだけで、品物のように献上された娘であったので、後ろ盾というものが全くない。つまり、皇后になっても今まで通りに自分たちを必要とし、その立場を追われる心配はないのだ。

 理屈としても本音としても当然の如く扶蓉華の子である超隆徹を押そうとし、それで皇帝の意見に同意していた。

 超太幻皇帝は決意し、正式に発した。

「隆徹を皇太子とする」

 他の側室にも隆徹より年上の男子は何人もいた。だが、皇帝の権力は絶対であり、公に異を唱える者はいなかった。

 それぞれの側室にも取り巻きがいて、その子どもを皇太子にと水面下では熾烈な戦いが繰り広げられていたが、公の場で皇太子が指名されれば、その戦いにも終止符が打たれる。

 お家騒動を静めるためにも、早期における皇太子指名は必要なことだったのである。

 琳玉泉も一度は自分の子が皇太子指名から外されたことを仕方なく呑んだが、取り巻きたちは納得しなかった。月章が皇帝になれば、自分たちの地位は飛躍的に上がり、権力を行使することができる。彼らとしては、そう簡単には引き下がるわけにはいかなかった、琳玉泉に詰め寄り、不満を煽るに煽った。

「実家の力を借りましょう、我らも持てる力を全て使って助力いたします」

 取り巻き連中に煽られて、琳玉泉もその気になった。

 彼女の実家は昔からその地方を牛耳る豪族であった。

 琳玉泉がまだ幼さを残す頃、彼女の父親は金の次は名誉と地位を欲し、金をばら撒き、朝廷の重臣たちを取り込んで、十分な根回しをしてから自分の娘を朝廷に入りこませた。そして、頃合いを見計らって重臣たちの口から当時、皇太子であった超太幻の妃にという話を持ちかけさせたのである。

 権威の失墜していた朝廷は金銭面を含み、色々な面で援助を受け続けていたので、前皇帝であった超太幻の父は琳玉泉を皇太子の妃という話を受けるしかなかった。そして、超太幻が皇帝に即位すると琳玉泉は正室となり、男児を生んだ彼女は皇后となるはずだった。

 いかに正室であろうとも後継者である男児を生まなければ、皇后としての道は閉ざされる。正室、側室に限らず、自分の子が後継者である皇太子に指名された者が皇后という立場になり、皇帝に次ぐ権力を振るうことになるのだ。

 正室だからといって安穏とはしていられないし、皇后になったとしても、皇帝存命中に何らかの理由で皇太子指名が他の子に移れば、皇后の立場を追われることになる。

 正室であり、男児を生んだ自分が皇后の立場になると疑わなかった琳玉泉は、いくら絶対権力を持つ皇帝の命令とはいえ、やはり納得できなかった。

 琳玉泉も皇帝が自分の実家に頭が上がらないのはわかっていたので、直ぐに侍従を実家に走らせた。

 彼女の後ろにいる親類縁者も、彼女の生んだ子が皇帝になれば一族の繁栄は思いのままであり、それどころか王朝を乗っ取り、自分らの王朝を開くことさえ夢ではなくなる。どんなことをしてでも、月章を皇太子の座に返り咲かせたいと願うのは当然のことであり、全面的に協力する旨の答えを侍従は持って帰ってきた。

 後ろ盾からの力強い返答を聞き、琳玉泉は超太幻に直訴して食い下がった。

 隆徹を廃嫡し、私の子を皇太子にと琳玉泉に迫られた超太幻は考えた。

 彼女が反意を示せば、実家からの圧力がどれほどのものになるか想像もつかない。地上における神のように絶対的な権力を持つはずの皇帝が、だらしない話ではあるが、琳玉泉の家からの援助が途絶えると、国政はかなりひっ迫したものになるのは間違いがなかった。

「今ここで皇太子を変えれば、再びお家騒動が始まります、琳玉泉様の申し入れは飲んではなりません」

 重臣たちは正論を吐いた。

 だが、皇太子の指名順位第二位をその手に持ち、賄賂を撒き散らす琳玉泉の権力は日を追うごとに強くなり、外からは彼女の一族による圧力と賄賂による裏工作も始まった。そればかりか、隆徹は毒殺されそうになり、超太幻皇帝はこのままでは母子共々暗殺されるだろうと考え、仕方なく隆徹を廃し、月章を皇太子とし、琳玉泉を皇后とした。

 超太幻は皆が寝静まった深夜、起き上って大きなため息をついた。

「隆徹が生きている限り琳玉泉は枕を高くして眠ることはできないだろう。刺客を使い、隆徹と芙蓉華の命を狙うことは間違いない。琳玉泉の息のかかった者は大勢いる。とても防ぐことはできない」

 超太幻はそう呟き、首を何度も左右に振った。

 次の日、超太幻は剣術指南役であり、隆徹の教育係の一人であった李玄朴を呼び、母子二人を連れて密かに国を出るように命じた。

 月章はその後、皇帝になるが、結局は彼も、母の琳玉泉もその座を魏嵐に追われ、琳玉泉の実家も略奪者の群れに蹂躙されてしまった。

 隆徹と扶蓉華、李玄朴の三人は志芭国から密かに脱出し、遠く離れた青弧の地に流れついたのである。

 青弧に着いたとき、隆徹は六歳であった。

 異国の地に流れ着いた三人は誰にも身分を明かさず、ひっそりと暮らしていたが、暮らし始めて二年後、母である扶蓉華は病に倒れ世を去った。

「月章が皇帝になれば、琳玉泉の外戚が朝廷内に入り込み争いが起こります。琳玉泉の一族に帝位は簒奪されるかもしれません。世の中はさらに乱れるでしょう。お前に天下を正そうとする志があるなら、いつか志芭の国を目指しなさい。しかし、その気がないのなら、己の身分と名を明かさず、この地で静かに暮らしなさい」

 病の床で扶蓉華は息子の手を握り、そのまま目を閉じた。

 それが扶蓉華の最後の言葉であった。

 それから超隆徹は母の生まれた地の名である「紫羅義」を名乗り、李玄朴に厳しく育てられた。読み書きから剣の技、兵法に至るまで彼の持つ一切を引き継いだ。

 紫羅義が十八歳になったとき、李玄朴も病に倒れ世を去った。

「紫羅義よ、もし、天命を受け、志芭の国を目指すことになるのなら、自分の生い立ちと、本当の名は最後の最後まで伏せておくのだ。それを明かすとき、超隆徹の名はきっと大きな力を貸してくれる」

 その言葉が李玄朴の遺言となった。

 志芭の国から遠く離れた辺境の地にも、魏嵐が王朝を簒奪したという話は入ってきていた。剣術指南役であり、兵法家でもあった李玄朴は紫羅義が朱浬の都を目指したときの最後の戦いの情景を予測し、そのときに超隆徹という名が全軍の士気を頂点まで高めるであろうと思い、死ぬ間際の床で紫羅義にそれを伝えたのだ。

 李玄朴が他界してから二年後、彼は青弧の地から旅立った。

「では、あなたは世が世なら、皇帝になっているお方ということでは……」

 紫羅義の話を聞いて、隣にいた趙子雲は慌てて馬を降り、その場に平伏した。

 それを見て他の一同も、はっと我に返り、平伏した。

 紫羅義を中心として放射状に、まるで将棋倒しのように平伏する姿が広がっていった。

「皆の者、平伏などやめてくれ、俺は義勇軍の頭目にすぎない。ここに集まった者たちに世を正そうとする志があるのなら、俺にその命を預けてほしい」

 紫羅義は眼下に集う武人たちを見回した。

 一番前では羽宮亜と神羅威が自分のやってきたことは間違いではなかった、これが我らの天命だったのだと、抱き合い、声を出して泣いていた。

 戦うことに命を賭け、死を恐れぬ武人たち、それを押し留め、最後の戦いのために、策により勝ち続け、力を温存しようと全身全霊を傾けて苦難を乗り越えてきた二人。

 板挟みに合いながら、いつも必死で軍を導いてきた、策を誤れば全滅の危険さえある、そんな重圧の中、戦い抜いてきた二人のことを誰もが皆、十分過ぎるほど理解していた。

 抱き合い、声をあげて泣く二人の肩を、周囲の者が、目頭を押さえながら何度も何度も叩いた。

「敵の数は五十万、だが勝つのは我らだ!」

 紫羅義が剣を抜いて叫ぶと「おおお!」と全軍から声があがり、その咆哮は天を突き抜け、空気を震わせ、遠く離れた朱浬の都にまで届いた。


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