その54
荀宇宝は新国王になり、これで弟である閣信が命を狙われこともなくなると安堵したが、彼の考えは甘かった。
永淑妃は後継者指名における憂いを取り除くだけでなく、自分が子を身ごもったときに寵愛を受けた側室を許さず、その子どもである荀閣信の存在をも許してはいなかったのである。
荀宇宝は新国王になっても、弟である閣信のことを気にはかけていたが、立場上いつもそばにいるわけにもいかず、不安な日々を送っていた。
そんなある日、閣信の訃報が届いた。
「まさか、そんなことが!」
荀宇宝は両の拳を握り締めて叫んだ。
閣信が池に落ちて溺死したと報告が入ったが、母親に取り入る者たちに消されたのは間違いない、しかし、そんなことを言葉にすれば母は息子である宇宝でさえ幽閉するかもしれない。
荀宇宝は耐えるしかなかった。
「迂闊なことを言ってはなりませぬ、命さえ危うくなります」
荀宇宝は自分の教育係りだった者にも諌められ、絶望感と恐怖で奥に閉じ籠り、家臣の前に姿を見せなくなった。
紫羅義が青弧から旅立ったとき、宗国の城は荀宇宝の母である永淑妃により、完全に支配されていたのである。
宗国は大国であったが、魏嵐が帝位を略奪したとき、城内は永淑妃の台頭で揺れていて、外に向けて力を使う余裕はなく、直ぐに新朝廷に恭順の意を示した。その後も魏嵐皇帝に形だけは服従しており、そんな宗国にも朝廷から反乱軍討伐の命が下った。
紫羅義たちは永淑妃という魔物が支配する宗国の領内にすでに入っていおり、宗国の城内にいる羽宮亜の手の者から、既に内部の様子は義勇軍に伝えられていた。
内部の状況を聞き、羽宮亜も神羅威も腕を組み、首を捻りながら唸っていた。
「五万か」
「ああ、だが、ただの五万ではなさそうだ」
羽宮亜と神羅威は険しい表情で顔を見合わせていた。
「五万だろうが、十万だろうが我らは戦うのみだ、腕が鳴るぞ」
話を聞いた、趙子雲、馬元譚、黒雲臥、叙崇国、そして、冷静な将軍であったはずの史瑛夏までもが、ワイワイガヤガヤと、早く戦わせろと言わんばかりに騒いでいた。
二人は頭を掻きながら、皆を見回した。
頼もしい限りの面々であった。
この広大な基治の大陸の中でも、ここまでの強さを持つ軍勢はまずいない、局地戦においては比類無き強さを持ち、相手が単なる五万の軍勢であれば蹴散らすことも可能かもしれない。しかし、宗国の軍はただの五万の兵ではない、魔物に魅せられてしまい、永淑妃のためならばと、命を投げ出してかかってくる者たちなのだ。そんな宗国の兵と正面から戦えば、たとえ勝ったとしても、義勇軍の被害も甚大なものとなり、その先にある天命の成就など、とても成しうることなどできない。
二人は正面からの戦いを避けるための糸口を模索していた。
羽宮亜と神羅威は情報を分析し、内部分裂という策を見出した。
永淑妃は間接的とは言え、国王の子どもらを全て亡きものとしているばかりか、正室までも暗殺している。その事実が公になれば目を醒ます者が多数いるはずだし、城内には永淑妃に反目している家臣や勢力もあるはずなのだ。
国王である荀宇宝を奮い立たせて号令をかけさせれば、魔力に引き込まれた者と、国王を担ぎ上げ、宗国を正そうとする者の戦いが始まる可能性は十分にある。
羽宮亜はさらに城内の人間を詳しく調べさせ、重臣の中で楊修諫という者と、荀宇宝の教育係である崔史栄と言う者が、永淑妃に対抗する反対勢力の筆頭であるのを突き止め、接触することを試みた。
羽宮亜は那岐一族を城内に潜入させ、楊修諫との接触を計り、なんとか連絡を取り合うことに成功した。
楊修諫は前国王である荀宇桂が若かった頃の教育係で、その後も、ずっと国の中核を支えてきた元老であり、その人格により、誰からも一目置かれていた。
永淑妃にとっては邪魔な存在ではあったが、さすがに彼女も、その取り巻き連中も、楊修諫には迂闊に何かを仕掛けることはできなかった。
楊修諫は前国王を幼少の頃から教育し、弟のように思いながら、長い時間を共用してきた。そんな楊修諫にとって前国王の子どもたちは自分の甥や姪と同じなのだ。
最初の子どもが生まれたとき、荀宇桂と楊修諫は手を取り合って喜んだ。その子やその後に生まれた子どもたちの成長を、楊修諫は我が子を見るような目で見ていた。その子どもたちが事故や病気で次々とこの世を去った。
楊修諫には何が起こっているのか、察しはついていたが、証拠もなければ、実行犯も特定できない、病気、事故とされれば、彼にはどうすることもできなかった。
残った子どもたちを守ろうと目を光らせていたが、いつも一緒にいるわけにはいかず、結局、永淑妃の子どもである荀宇宝を除く全ての子どもが世を去った。荀宇宝一人だけが残っている事実が、永淑妃の仕業であるという証拠なのだが、まさか、そんな理由で彼女を取り調べるわけにはいかないし、何より彼女の取り巻きがそれを許さなかった。
楊修諫は悔しい思いと国の行き先を憂い、日々、胸を痛めていが、そこへ義勇軍の手の者が接触してきたのだ。楊修諫は荀宇宝の教育係である崔史栄や、考えを同じくする同士と相談してある結論を出し、羽宮亜に伝えた。
「国王の子どもたちを暗殺した実行犯を捕らえて差し出すこと。ただし、誰にも知られずにそれらを遂行すること。それができるのであれば、我らは内部から義勇軍に呼応することが可能である」
この難題に羽宮亜は可能であると返答し、那岐一族の者を再び城内に潜入させ、彼らは至る所で闇から闇に動き回って情報を収集した。波流伽も一緒に潜入し、女たちの住む屋敷の中に忍び込み、あるときは屋根裏に潜み、あるときは下働きの下女に化けて、女たちの話から情報を得ようとした。
十日ほど後、那岐一族は実行犯と特定した者のうちの三人を人知れず拉致し、羽宮亜は那岐一族とともに楊修諫の屋敷にこの三人を送り届けた。
「お前たちがやったのか?」
楊修諫は三人の顔を知っていた。
知っているどころではなかった。彼らは後継者として指命されていた長男のそばについて、その身の回りの世話をしていた者たちだった。
長男は病死であった。
「毒を使ったのか?」
楊修諫は体を震わせながらも、努めて冷静な口調で尋ねた。
「何回にも分けて使った。病気と思わせるために」
三人のうちの一人が無表情のまま答えた。
「お前たちの意思ではなかろう、誰に頼まれたのだ?」
「林啓徳だ」
「林啓徳だと!」
楊修諫は愕然とした。
「林啓徳は国を支える重臣の一人ではないか」
薄々とは感じていたが、やはり三人からその名前を聞くと大きな衝撃を受けた。
「彼に頼まれなくても、我らは永淑妃様のためにいつかはその使命を遂行しただろう」
「他の兄弟たちもお前たちの仕業か?」
「我らではない、我らのほかにも同じ考えの者は多くいるのだ」
三人との問答で楊修諫は慌てた。
三人が小さくなり、事実を隠そうとすると思っていたが、彼らは堂々と全てを話し、林啓徳という重臣の名前まで出した。
平然と暗殺を認め、全てを話すということは、宗国の城内が既に魔物の力に覆われていることを示していた。
「この三人のような者たちが他にも多数いて、城内を歩き回っているのか」
楊修諫は身震いした。
「すぐにでも決断し、実行しなければ手遅れになる」
楊修諫は急いで屋敷を出て、崔史栄の元に向かった。
三人のことを話すと、崔史栄も驚いた。話の内容よりも、隠さず平然と答えたと聞いて、やはりかなりの危機感を持ったのだ。
現国王である荀宇宝の教育係である崔史栄が永淑妃に取り込まれていなかったことは大きな希望であった。崔史栄は現国王に何でも話すことが可能な立場であり、荀宇宝も崔史栄のことを最も信頼していた。
戦うにはどうしても国王の力がいる。
楊修諫と崔史栄は信頼できる者だけを集め、これからどうすればよいかを相談し、結論を出したうえで、密かに国王の元に集まった。
国王である荀宇宝も、自分のために兄弟たちは抹殺されたのか、そして、指示をしたのは母なのか、と思っていたが、それが事実とわかると動揺を隠すことはできなかった。
そんな荀宇宝国王を楊修諫と崔史栄は瞬きもせずに凝視していた。
なんとしても国王を説得して決起しなければ、永淑妃の妖力により宗国は崩壊するかもしれない、彼女は皇帝の座さえ狙っているふしがあったからだ。いくら大国とはいえ、朝廷を敵に回すとなれば、ただで済むはずはない。
永淑妃には政治世界の裏や、国家の大計などわかるはずもなかった。
このままでは国は滅びる、楊修諫と崔史栄はなんとか国王を説得しようとしたが、荀宇宝はまだ国王になって日も浅く、しかも、敵に回そうとしているのは実母であり、なかなか決断することができなかった。
「では、奥の間に引き籠り、未来永劫、彼らとともに暮らすのですね」
暫しの沈黙の後、楊修諫は荀宇宝の後ろを右から左まで見回すように首を動かした。
「彼らとは?」
荀宇宝は振り返って、辺りを見回してから、怯えたような目で楊修諫を見た。
「謀略のために世を去ったご兄弟たちです。後ろに並んであなたを見ていますよ」
荀宇宝の後ろを見ていた楊修諫が国王に視線を戻しながらそう答えた。
「馬鹿を申すな!」
荀宇宝は怒鳴った。
「本当の話です、私には見えるのです。皆があなたのことを無念そうに見ています。ただ一人を除いては」
楊修諫は無表情のまま答えた。
楊修諫には国王の後ろに並ぶ兄弟たちが本当に見えていた




