その37
「あのときはわからなかった。しかし、この村に来て、色々なことを思い巡らせていると、どうも、あのときの経過はおかしいし、自分を煙たがっていた孫夏亮があのような話をしてくるのも変だ。もしや、罠にはめられたのかもしれないと、ずっと思っていたが」
劉健皇は大きくため息をつくと、少し間をおいて使者に話しだした。
「今更どうにもならん。息子には早まったことをするな。時はいつか熟す、そのときまで力を貯めておけと伝えてくれ、わしはここの暮らしが気に入っているとも伝えてほしい」
劉健皇は使者にそう伝言を頼んだ。
その村でも劉健皇は村人たちに慕われていた、博学で行動力があり、面倒見も良かったので、皆から信頼されて、心安らかに晴耕雨読の生活を楽しんでいたが、自分の妻には、腐敗の進む国の行き先を嘆く言葉を伝えていた。
「行ってみませんか、劉健皇将軍の話はきっとお役にたつと思います、私も一年余りお会いしていないので、久しぶりに将軍にお会いしたい、ここから数日ほど行った村なのです、何度か訪ねたことがあるので家もわかっています、私が案内致します、いかがですか」
全李鵬は目を輝かせて紫羅義の顔を見た。
「そうだな、そんな人物なら是非とも会ってみたい」
紫羅義も他の者も、その村に立ち寄ることに異存はなかった。
数日後、一行は劉健皇のいる村の入り口に着いたが、さすがに全員で行くわけにはいかないので、十人ほどで訪ねることにした。目当ての家の前に来ると全李鵬が戸を叩き、姓名を名乗って家人を呼び出した。
十騎の馬が連なって来るなどとはこの村ではめずらしいことであり、村人たちもゾロゾロと集まってきて、遠巻きにして様子を伺っていた。
戸を叩き、しばらく待つと、劉健皇の妻らしき女性が出てきて、全李鵬と楽しげに挨拶を交わし、紫羅義たちを見て頭を軽く下げた。
「この方たちはどなたなのでしょう?」
彼女に尋ねられ、全李鵬が今までのことを話すと、彼女の表情が急に曇った。
「こちらへどうぞ」
夫人は皆を家の中に招き入れた。
家の中に入り、紫羅義たちが見たものは、位牌とその前に置かれた一振りの剣であり、それが何を意味するのか、誰の目にもすぐに理解できた。
「そんな!」
全李鵬は位牌の前で言葉が続かず、がっくりと肩を落とした。
「半年ほど前に病で。息をひきとる直前まで、息子や昔の部下のこと、そして、この国の行く末を気にしておりました、あなたのことも心配していましたよ。知らせようと思ったのですが、あなたの家の所在を知らなくて」
夫人の言葉に全李鵬は声をあげて泣いた。
その泣く声を聞いて、農民たちが入り口や窓から中を覗き、その状況を見て、劉健皇を慕っていた彼らもまた悲しそうな顔をしていた。
「この剣をお借りしたいのですが」
紫羅義は位牌の横にたてかけてあった剣に視線を向けた。
「この剣は、主人がずっと腰に帯びていたものですが、業物でもなければ、名のある剣でもありません、お役に立つとは思えませんが」
夫人は悲しげに剣を見つめた。
「いや、戦いの場で使おうというのではありません。劉健皇殿は世の中の行く末を案じながら、志半ばでこの世を去られたのでしょう、一緒に来てもらい、我らが世を変えるのを見ていただきたいのです」
紫羅義の言葉を聞くと、夫人はしばらく目を伏せるようにして考えていたが、やがて剣を両手で持った。
「どうか、主人も連れて行ってあげてください」
剣を前に差し出し、紫羅義がしっかりとそれを両手で掴むと、夫人は前に差し出していた手でそのまま自分の顔を覆い隠し、体を小刻みに震わせた。
紫羅義は目の前で、顔を覆い、小刻みに体を振わせている夫人の肩に手を延ばしたが、思い直したようにその手を引いた。
迂闊に人の妻に触れるわけにはいかないのだ。手を引くのと同時に、後ろにいた波流伽が夫人に歩み寄り、全身で包むようにして抱きしめた。
「世の中を変えることができたら、私がご主人の魂をここに連れて帰ってきます。いつか、必ず。きっとその日が来ます」
波流伽が手に力を込めると夫人は彼女に抱きついて声をあげて泣いた。
村人たちに慕われていた元将軍、劉健皇の妻、その立場からずっと気丈に、弱みを見せず生きてきた夫人は、紫羅義の心に触れ、厚く凍っていた池の氷が一瞬で春の水に変わるように、張りつめていた気持ちが弛み、波流伽の胸で子どものように号泣した。
家の周りにいた村人の中からも、嗚咽が漏れ、あちこちから泣きながら話す声が聞こえてきた。




