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紫羅義  作者: 海道 睦月
100/125

その100

「引け!」

 薜戒蒋が叫ぶと、惨霧の兵たちは馬に向かって走り出した。

 兵を引かせるのは次の戦いに少しでも兵力を温存しようとする策であり、盗賊集団が逃げるのとは意味が違っていた。

 薜戒蒋の率いる兵たちは、馬の飛び乗って駆け出し、猛崔申は両膝を付き、剣を大地に挿してなんとか体を保っていた。

「俺も元は国の兵を率いる立場だった。しかし、賄賂を要求する奸臣に罪を捏造され、投獄されてしまった。その間に子どもは病死し、妻も後を追い……それからずっと戦いを求め、死に場所を探していた。これで妻と子の元に行ける」

 猛崔申はそう言いながら前のめりに倒れ肘を付いた。

「夏遼甫と洪殻宝という者が二百ほどの兵を連れてくることになっている、参謀の巴錘碧は兵が五百になったら隣国の瑞に侵攻するつもりだ。そこで国王を取り込み、志芭国に向けて侵攻を開始すると言っていた」

 言い終わると、猛崔申の肘は崩れ、体は横倒しになった。

「お主の武運を祈ろう」

 それが彼の最後の言葉であった。

 紫羅義は肩で大きく息をしながら猛崔申を見下ろしていた。

「この男も、賄賂と利権に固執する腐った重臣共の犠牲者だったか。国の中に蔓延る奸臣共、許してはおけん」

 紫羅義は拳を握り締め、怒りを顕にした。

「皆、怪我はないか?」

 紫羅義は三人を見回した。

「かすり傷程度さ」

 羽玖蓮が言うと、羽皇雅も史蘭も頷いた。

「引きあげよう、今後のことを考えなければ。この男の言ったことが本当なら何か手をうたなければならない」

 四人は村に戻って行った。

 その日の夕刻、紫羅義は史蘭を誘い、近くの小さな川の縁まで行き、そこで二人並んで腰を下ろした。

「史蘭、これからの戦いは益々厳しいものとなるだろう、前は剣の使い方も満足に知らない盗賊共だったが、奴らは本腰を入れて皇帝の座を目指すことを決め、軍経験者を集めだしたようだ。いつこの命を落とすかもしれん、今のうちにはっきりさせておきたい。史蘭、戦いが終わったら俺の妃になってほしい。今言うのは無責任かもしれないが、どうしてもお前に気持ちを打ち明けておきたかった」

 紫羅義は史蘭が同意してくれるなら彼女を唯の国へ帰そうと思っていた。これからの厳しい戦いを生き抜くのは「女」を目覚めさせてしまった者には無理であった。

 史蘭は微笑むと、右手を紫羅義の胸の前に出し、彼に向かって掌を見せた。

「ん? 握れと言うのか」

 紫羅義は彼女の手に自分の手を合わせ、二人はお互いの手を覆うように強く握り合った。

「戦いの中で死ぬ覚悟はできています。あなたと共に戦って死ぬのなら本望です。もし、あなたの妃になれないのなら、現世でそれが叶わぬのなら、来世で私を捜して下さい。来世が駄目なら、そのまた次の来世で。私はずっとあなたのそばにいたい」

 史蘭は絡め合った手を見つめながら言った。

「ずいぶん先の長い話だな。わかった、約束しよう」

 紫羅義が笑いながら史蘭を見ると、彼女も満足そうに微笑んだ。

「史蘭、頼みがある。惨霧軍が何を企み、何処へ向かおうとしているのかはわかったと思う。数百の兵が集まり、さらに瑞の兵が惨霧に取り込まれれば、我らの力ではもう抑えるのは無理だ。明日、神澪とともに唯の国に向かい、事情を説明して、史瑛夏将軍に出陣するよう頼んでほしいのだ。数千の兵を動かすとなれば朝廷の承認が必要だが、今はそんな時間はない。唯の国王宛てと、朝廷宛てに手紙を書く。唯の国で使者をたて、朝廷にも手紙を届けるよう頼んでくれ」

 紫羅義が唯の国への使者を頼むと、史蘭は紫羅義の顔を瞬きもせずに見つめていた。

 彼女は紫羅義が自分を国に帰し、もう戻らないことを望んでいるのだろうと、すぐにそれを理解した。紫羅義は父である史瑛夏に要請してくれと言ったが、父の軍勢を引き連れてとは言わなかった。おそらく手紙には史蘭をもう戻さないでくれと書くはずだと、彼女はそんなことを考えていた。

「私も再びここに戻ってきてもよいのですね?」

 そう聞けば紫羅義が困ることはわかっている。

 史蘭は父の軍が準備を整えている間に、単身で戻ってくることを決めた。

「わかりました。明日、神澪殿と出発します」

 史蘭は川面に視線を落としながら返事をした。

 翌日、神澪は頼心に、史蘭は秀白に跨り、四人に見送られていた。

「頑張れよ、頼心、秀白もな、二人を急いで唯の国まで連れて行ってくれ」

 緋備輝が顔を撫でると、二頭は心得たとばかりに頭を下げた。

「こいつらはやっぱり人の言葉を理解しているのかなぁ」

 羽玖蓮は腕を組んで首を傾げた。

 神澪と史蘭は史瑛夏将軍の軍勢に出陣要請をするために村を急ぎ後にして、唯の国に向かった。

 それから暫くの間、紫羅義たち四人は惨霧軍の捜索の目を掻いくぐりながら、近隣の村を略奪者から守るために巡回していたが、敵と遭遇することはなかった。

「おかしい、城にはかなりの人数が集まってるいるはずだ、奴らはどこから食料を手に入れているのだ」

 紫羅義は危険を承知で城の近辺で様子を探ることにした。

 巴錘碧は()(しゅう)(むら)という小さな村を占領し、誰にも気づかれないように、注意深くそこから食料と惨霧の糧となる娘を調達していた。

 紫羅義たちが城に近づいたとき、二百ほどの騎馬隊が北玲の城に到着した。

「あれが、夏遼甫と洪殻宝という者が連れてきた兵か、だとすると、惨霧軍は瑞の国に向けて侵攻を開始するのか」

 紫羅義は城に吸い込まれるように入っていく騎馬隊を険しい表情で見ていた。

「これで、城の中の兵は四百から五百になるだろう、小隊で村を襲うこともないようだ。今の我らではどうすることもできないな」

 羽玖蓮も険しい表情で、騎馬の一団を見つめていた。

「今は奴らの動きを見張っているしかない、瑞の国に向けて移動するなら、それを追い、史瑛夏将軍に奴らの動きを伝えなければならない。あまり長くここにいるのは危険だ、引こう」

 紫羅義は馬を返し、他の三人も後に続いたが、彼らの後姿を見ている三つの影があった。

 巴理無と巴呂無の兄弟は父である巴錘碧に命じられ、身を潜め、城の周辺を監視していたのだ。

 紫羅義たちは南里村に居れば村人に迷惑がかかると思い、さらに城に近い場所に荒れ寺を見つけ、そこを住処としていたのだが、その場所を二人の兄弟に知られてしまった。

「親父にこのことを知らせに行ってくれ」

 巴理無は伝令要員として連れてきていた兵を城に走らせた。

 援軍が来るまでと、二人の兄弟は寺の様子を伺っていた。どれほど時が経ったろうか、巴理無が呟いた。

「四人なら一人一人片付ける手はある。俺たちでやるか」

「そうだな、例の手を使うか」

 巴呂無も同意した。

 紫羅義たちが寺の中で頭を突き合わせ相談していると、外から何やら叫び声が聞こえてきた。四人が剣を掴み外へ出ると、向こうの林の前で一人の若い男が手を振っていた。

「何者だ? 子どものようだが」

 四人は辺りを警戒しながら男に近づいていった。

「俺は惨霧軍の巴理無という者だ、徒党を組んで動くのは好きではないんでね、一人で戦いを挑みにきた。ここはまだ惨霧軍に知られてはいない、俺を倒せば、この場所は安泰だぜ。どうする、逃げてもかまわんよ。一人相手に四人で逃げるとは、後世に語り継がれる笑い者になるだろうがな」

 巴理無は四人を挑発した。

「怪しい話だな。敵を見付けたなら、気付かれる前にその位置を報告する、こいつは本当に最初から一人だったのか?」

 羽皇雅は信用できんという顔だった。

「とりあえず、林の中に兵が潜んでいる気配はないぞ」

 緋備輝は林の中を凝視していた。

「逃げるわけにもいくまい」

 そう言って紫羅義が前に出た。

「協議は終わったか? 一人づつでも、四人まとめてでもかまわないぞ。ここではさすがに不利だからな、こっちで戦わせてもらうぜ」

 巴理無は林の中に入って行った。

「この中での戦いなら俺の出番だな、手出しは無用に願うぜ」

 緋備輝も林の中に飛び込んだ。

 一対一の戦いと緋備輝が宣言した以上、他の者は手出しするわけにはいかない、紫羅義たちは林の中に立つ二人を静観した。

 林には腰の高さほどの低い木や雑草が茂り、木も多く、戦い始めた二人の姿は直ぐに見えなくなり、剣と剣が弾けあう音が聞こえてきた。

 緋備輝はすでに手傷を負っていた。

 巴理無の動きは速く、前にいたと思うとすぐに後方から斬りかかってきた。右に気配が消えたと思うと左から攻撃された。林の中での戦いを得意とする緋備輝でなければ、とうに勝負はついていただろう。

 巴理無と巴呂無の兄弟は一人のように見せかけながら攻撃し、予想以上に強い緋備輝に手を焼き、致命的な打撃となるはずの足への攻撃ができずにいたが、一瞬の隙を突き、巴呂無が足に向かって攻撃を仕掛けた。辛うじて深手を負うことは避けられたが、緋備輝は浅いながら、膝の部分を斬られてしまった。

「今の攻撃は……こいつの狙いは足か」

 緋備輝は低い姿勢で剣を正面に構え、周囲の気配に神経を集中させた。

「おかしい、二つの気配を感じる」

 巴理無と巴呂無は自分の気配を消す術を心得ていたが、予想以上に手こずり、息も乱れ、動きも身の隠し方も雑になっていた。

「そうか、二人いたのか」

 緋備輝は相手が二人いることに気づき、林の外でも紫羅義がそれに気づいた。

「奴らは二人いる」

 紫羅義が険しい顔で林の中を睨むと、羽玖蓮も羽皇雅もその言葉に頷いた。

「確かにあれは一人の動きじゃない」

 羽玖蓮が剣を抜くと、紫羅義も剣を抜き、二人は林の中に飛び込んだ。

 二人は林の中で身構え、周囲を凝視すると、紫羅義が叫んだ。

「緋備輝、伏せろ!」

 緋備輝の姿が消えると同時に、二人の剣は左右に開くように孤を描き、周辺の木が音を立ててぶつかり合いながら倒れ、巴理無と巴呂無が姿を現した。

「ちっ、見破られたか」

「勝負はここまでだ、そのうち、お前らの首はとってやるぜ」

 二人が顔を合わせて頷き、逃げようとした瞬間、体がのけ反るように震え、二、三歩後ろに下がるとそのまま仰向けに倒れた。


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