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水曜日の授業は灰色と称される。
水曜日の授業は数学国語国語英語数学社会の六時限授業であり、気の休まるような美術や理科、体育の授業がないかららしい。
反対に、火曜日である今日は虹色と呼ばれていた。国語理科英語美術総合の五時限授業であり、座学が比較的少ないのだ。
だがあたしに言わせればそれらは真反対だ。火曜日の授業が憂鬱で、授業をただこなすだけの気持ちではいても、気が滅入る。原因は美術だ。
美術の授業は美術教師が毎時間課題を出し、生徒達はそれの指示通りに手を進めて絵を描いたり物を作ったりする。特に器用でも不器用でもないため、作品を賞賛されることもからかわれることはない。そもそもそこまで話しかけてくる友達もいないこともあるかもしれないが。問題は作品製作後、授業終盤における発表の時間だった。発表は立候補数人とランダムに選ばれた数人の合計八名の生徒で行われ、黒板の前に立って各々の製作のこだわりや製作過程を口頭で伝える。
あたしが製作した作品にはこだわりなんてものはない。オリジナリティなんてものはないし、ただ出された課題を受け止めてこなしているだけなので答えようがないのだ。創意工夫なんてものはどうやればよいのか分からない。
「荒々しさを表現するためにココを激しく描いてみました」「わたしにはこの部分にキュンキュンときたので可愛くなるように優しく描きました」「この部分を描いているうちに長さの間隔がずれちゃって、ちょっと横長になっちゃいました」よくすらすらと出てくるものだと素直に感心する。あたしは絵を描いても物を作っても特に想い入れたことはない。
絵はその人自身を素直に表すと聞いたことがある。腕の優劣こそあれ、あたしの絵には特徴なんてなにもなく、本当にあたし自身を表していると納得した。そんな何の特徴も思いいれもないものに関して何を語れと言うのだろう。
今日の美術の授業ではあたしは発表の側に選ばれなかった。そのため黒板の前に立ったクラスメイトの発表と合間に挟まれる教師のコメントと教室中に響く拍手を聞いて、授業を終えた。
四時限目の授業が終わったので次は給食だ。
使った美術道具を片付けながらそう考えていると、黒板の上につけられた古いスピーカーから音声が流れた。
「三年二組鹿津芽衣さん、至急職員室まで来てください。繰り返します、三年二組鹿津芽衣さん、至急職員室まで来てください」
教室中の視線があたしに集まるのを感じた。だがその視線はすぐに霧散し、皆片づけを再開し、終わった者から次々に美術室から三年二組教室へ帰っていく。
あたしも片づけを終わらせ、三年二組教室に筆記用具や教科書を置くと、放送の指示に従い職員室へと向かった。