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小説作法の本について 4 下

 さてさて、「小説神髄」に続いて月見が紹介したい本は、これです。


 「詩学」アリストテレース著 岩波


 大物です。世界的規模で、「小説神髄」を軽く凌駕しちゃっている。「神髄」はなんのかんの言っても、日本国内で通じる本にすぎない。「詩学」はその点、世界を相手にしている。しかも紀元前のものだから、二千年以上前に書かれているんですね。キリスト誕生の前ですよ。邪馬台国が西暦百年から三百年。それ考えると驚嘆するしかない。ハァー!、です。格がちがう。

 二千年以上前の本なんて、知識や教養なしで読めるのだろうか。そんなこと思いながら本を開いたのですが。いや、読みやすい。わかりやすい。「神髄」のほうが読みにくかった。アリストテレスが紀元前の人だなんて、嘘でしょう。聖書より読みやすいよ。それに理知的・論理的。ギリシア文明、恐るべし! 邪馬台国負けている。

 もうそれだけで、この本は読む価値あります。だって二千年前以上の書だよ。それが現在読めるだけでも、すっごいことと思いません。日本でいえば、ほぼ弥生時代の人が書いた本だよ。それが読めるという幸せを、まずは味わってもらいたいです。

 しかも「詩学」ってカッコイイ。おしゃれでもある。鞄のなかに入れておいて、病院の待合室なんかでさりげなく開いたりしたら、周囲に知的オーラが拡散。「小説神髄」ではそうはいかない。ただ地味。「詩学」って、有名ブランドなとこあります。エルメスね。「神髄」は小石原焼か有田焼あたり。鞄から出すならどちらがいいかは、説明の必要ないでしょう。白熱教室のマイケル・サンデルも、著書でアリストテレスを再発見しているから、現代的でもある。政治学のほうでだけどね。しかし「詩学」も、その内容は現代にりっぱに通用するものとなっています。繰り返します、二千年以上も前のものだよ。

 とはいっても、難解なのは当然。(訳注のほうが本文より長い本です)時代も文明も違う。なにしろ言葉ひとつの定義にしても、各人各様の解釈があり、いまだに議論されている本です。ですからこれから書くことは、俗物である月見が、学識、哲学無視して、小説を書くうえで読んで、勝手に思ったことです。

 そもそも「詩学」を読んでみようと思ったのは、「芸術は自然を模倣する」という名言は、正確にはどのように語られていたのかを知りたかったからです。そして読んでわかったのは、どこにもそんな名言ないじゃんということでした。それに関連したことは書いてありますよ。でもその名言は見当たらない。解説で知ったのですが、「自然学」の二巻目に「技術は自然を模倣する」というのがあり、その言葉がのちに「芸術は自然を模倣する」とされるようになったそうです。技術という言葉をどう解釈するかで変わるんですね。また、「模倣」も字義通りに解釈してはいけないらしい。いろんな内容を含んでいる。これまた人によって違う。読みやすいけど、解読するのがどれほど難しい本か納得していただけています。ある意味、暗号なみです。で、月見としましては、基本的に俗語で読ませてもらいます。「模倣」は「模倣」。


 まずは「詩学」とはなんぞやですが、Weblio辞典によると、「アリストテレスの著作。悲劇と叙事詩について論じた部分のみ現存。芸術活動は模倣本能に基づくとし、悲劇の本質をカタルシス(浄化)であると説明するなど、のちの西洋文芸に大きな影響を与えた」本となります。

 基本的に、ギリシア時代の悲劇についての考察の本なんです。ただそこに述べられた概念は、創作全体の普遍的理論として重要なものとされています。だから、二千年経ったいまでも読まれています。もち、小説を書く際の参考書にもなりうるし、実際西洋の小説に多大な影響を与えています。で、月見が勝手な解釈を入れて、勝手に小説と関連づけて、大切だと思うことを書いてみます。「詩学」の内容を解説する文ではありませんのでご注意を。全容を知りたい方は、「詩学」を直接紐解かれることをお勧めします。

 では、恥をかえりみずにおっぱじめます。


「一般に二つの原因が詩作を生み、しかもその原因のいずれもが人間の本性に根ざしているように思われる。

 (1)まず、再現(模倣)することは、子供のころから人間にそなわった自然な傾向である。しかも人間は、もっとも再現を好み再現によって最初にものを学ぶという点で、他の動物と異なる。(2)つぎに、すべての者が再現されたものをよろこぶことも、人間にそなわった自然な傾向である。(中略)

 その理由は、学ぶことが哲学者にとってのみならず、他の人々にとっても同じように最大のたのしみであるということにある」


 詩作の起源に関しての記述で、ミーメーシス(模倣・再現)の概念についての箇所です。「芸術は自然を模倣する」の「模倣する」とはなにかというと、それは人間の本性で、模倣することで人は学び、また模倣されたものを見ると喜びを感じるとしています。つまり、模倣及び模倣作を鑑賞するのは、学びに通じるのだということです。そこに存在価値があるわけです。

 アリストテレスの師のプラトンは、ミーメーシスは所詮模倣であり、その実体は虚であるから、そこに真理はないとし、それどころから、模倣には感覚という曖昧なものが多大に影響するので、真理を歪める可能性もあると、否定論者です。どちらが正しいかは難しいですね。哲学的な思考するとプラントンかなと思うものの、それを言っちゃおしまいよみたいなところもあります。しかし、人と芸術についての考察だとした場合、アリストテレスのミーメーシスの考えは面白いです。芸術作品の存在する意味を、わかりやすく納得させてくれますね。そうか根っこは模倣ね、と。

 で、これって「小説神髄」の写実に通じるとこあります。実から虚を作るですね。

また、「芸術は自然を模倣する」は芸術イコール自然でなく、模倣のさいに、そのまま写すのでなく、プラスアルファがいるとアリストテレスは考えているようです。それをすることによって、芸術になるわけですね。


「したがって、詩作は歴史に比べてより哲学的であり、より深い意義をもつものである」


「また、ゼウクシスの描いたような人物は実際にはありえないかもしれないが、それはよりすぐれている。なぜなら、模範はよりすぐれたものでなければならないから」


 前後を抜かしての抜粋ですが、最初の文では「歴史」を「自然」に、あとの文では「模範」を「模倣」に置き換えてみてください。月見流の解釈で正確さには欠けますが、アリストテレスは、たんに写しただけではダメと考えていたと、月見は思います。

 で、それが「神髄」の、虚から実をなすに相当する。つまり、「詩学」と「神髄」は考え方に通じるものがあると言いたいんです。(ややこじつけがましいですが)もちろんミーメーシスの考え方は詩作の根源となるもので、小説作法とはべつものです。


 「小説神髄」とミーメーシスを関連付けようとする月見の考えには、当然つぎのような反論があると思います。

 ミーメーシスは芸術全般に通じるものなのだから、小説に通じるものがあってもちっとも変じゃない。それを曲解して誇大解釈している。それに、「神髄」が出る前の「八犬伝」などの日本の小説も、ミーメーシスが入っている。ことわけ、「詩学」と「神髄」を直接結びつけるのは大間違い。


 仰る通りです。しかしそれでも、「神髄」の根底に、アリストテレスのミーメーシスが息づいているのを月見は感じます。正確には、坪内先生の小説に関する考えにはミーメーシスがあり、当然それは「八犬伝」にもあるのだが、ミーメーシス(模倣)の方法が間違っている、「主脳は人情にあり」を主眼とし写実をするべきだというのが、「小説神髄」なのではないかと、月見は考えています。

 坪内先生が「詩学」に直接影響を受けたのではありませんから、そこは誤解しないでください。たぶん、坪内先生は「詩学」読んでいないと思われます。「神髄」内において、ギリシア悲劇についての言及はありません。ただ「詩学」が西洋文学に影響を与えていて、「神髄」がその西洋文学をテキストとして書かれていることから、西洋文学にある「詩学」の考えが、自然と間接的に「神髄」に表われたのだろうと、月見は推測しています。


 「詩学」の話を先に進めます。


「悲劇とは、一定の大きさをそなえ完結した高貴な行為、の再現ミーメーシスであり、(中略)あわれみとおそれを通じて、そのような感情の浄化カタルシスを達成するものである」と、悲劇を定義し、悲劇は行為の再現でありと続け、


「行為の再現とは、ミュートスのことである。すなわち、ここでわたしが筋というのは、出来事の組みたてのことである」とし、


 悲劇を、筋、性格、語法、思想、視覚的装飾、歌曲、の六つの構成要素をもつものであり、「これら六つの要素のうち、もっとも重要なものは出来事の組みたてである」としています。

で、なぜ出来事の組みたて(筋)が一番かというと、ここ重要なので引用します。


「なぜなら、悲劇は人間の再現ではなく、行為と人生の再現だからである。幸福も不幸も、行為にもとづくものである。そして(人生の)目的は、なんらかの行為であって、性質ではない。人々は、たしかに性格によってその性質が決定されるが、幸福であるかその反対であるかは、行為によって決定される。それゆえ、(劇のなかの)人物は性格を再現するために行為するのではなく、行為を再現するために性格もあわせて取り入れる。したがって、出来事、すなわち筋は、悲劇の目的であり、目的はなにものにもまして重要である」


 アリストテレスが、筋をどれだけ重要視しているかがわかる文です。そして、


「したがって、筋は悲劇の原理であり、いわば魂である。二番目にくるのは性格である」


 原理、魂とまで言ってくるわけです。二番目が性格、三番目が思想。月見がこの段落で指摘したいのはここです。このあとアリストテレスは、筋の組み立て方の方法をいろいろアドバイスしてくれるのですが、長さはどうだ、統一性とはとか、驚きの要素が必要だとか、認知とか、


「詩人(作者)の仕事は、すでに起こったことを語ることではなく、起こりうることを、すなわち、ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方で起こる可能性のあることを、語ることである」とか、


 叙事詩の章では、


「すなわち詩人は、みずから語ることをできるかぎり避けねばならない。そういう仕方で詩人は再現する者となるのではないからである」


 と、作者が作品内で顔を出すことを否定してみせます。

 とにかく、示唆に富んだ文がいっぱい。さすが二千年以上の年月に耐えた著作のことだけあります。ただ、一度読んでもダメよ。月見、これ書くために三度読みました。しかし、読み返すほど面白いんですね。わかってくる。

 ただ悪いけど、そこはご自分で読んで確かめてください。前述したように、月見がここで問題にしたいのは、アリストテレスが筋を最重要視している点です。そしてここで、「小説神髄」と「詩学」との差が、はっきりとでてきたわけです。人情か筋かです。察しのいい方はおわかりでしょうが、月見は、「小説神髄」と「詩学」を比較して、小説の在り方を考えてみようとしているのです。その弁で、話を進めます。

 月見がここで思ったのは、なるほど、海外の小説と日本の小説の差はここから出ているのだなと思いました。海外の作家さんのエッセイを読むと、ストーリーを、日本の作家さんより重要視している人が多いんです。よく原作が映画化されているリチャード・マシスンがそうです。それに映画の場合ですけど、海外ではシナリオにかなりのウエイトがおかれている。それに引き替え日本は、監督重視です。シナリオライターの価値が低位置なんですね。これって、「詩学」と「小説神髄」の、どちらを信奉するかの差だと思っています。大胆ですが、それが尾を引いたのではないかとです。

 無謀な発言しますが、月見は「小説神髄」によって、ストーリーを重視するのは小説の在り方ではないという考えが、日本の文学界に蔓延したのだと思っています。なにがなんでも人情。そこから自然主義が発生し、心境小説、私小説が、日本独自のものとして発展していった。悪いことばかりではないが、弊害もあったというのが月見の見解です。ファンタジーが日本で長い間発展しなかったのは、たぶんそのせいです。荒唐無稽、嫌われたんですね。(こう書いているからといって、月見がファンタジー路線をいち押ししていると思わないでくださいね。いまの出版界でのファンタジーの在り方には問題があり、逆に「小説神髄」に立ち返るべきではないかと思っています)

 ここで坪内先生の弁護をしますが、先生が「小説の主脳は人情にあり」としたのは、そのころの日本の小説が勧善懲悪の荒唐無稽の小説ばかりだったせいです。で、そういうのも面白いには違いないが、真のノベルはそうであってはならないと、日本における小説の発展を願ってのことだったのでしょう。そのために「八犬伝」を悪い見本としてあげつらい、そのせいで、ストーリー・脚色は小説にとって意味のないものだとなっていったのだと思います。坪内先生が「八犬伝」のファンで、晩年に「私が曲亭馬琴を殺してしまった」と発言されている挿話が残っているとこを見ると、「神髄」を極端に解釈されてしまったという思いがあったような気がします。「小説神髄」の紹介で取り上げたように、脚色の必要性を説かれている点からも、それがうかがえます。

 ここまでで、「小説神髄」が近代小説の祖となったがゆえに、日本の近代小説は、「詩学」でいうところの筋の重要性を無視してしまい、そこに弱点があるという考察をしてきました。それではアリストテレスの言う、筋を一番とする考えが正しいのかというと、月見はそれにもくみしません。

 なぜなら、「詩学」は根本的には悲劇、つまり演劇での考え方だと思うからです。小説だったら、アリストテレスはそう言わなかったでしょう。つまり演劇は、実際の人が舞台上で演ずるがゆえに、性格を筋のつぎにしたのだと思います。しかし小説の場合は、登場人物たちは読み手の頭の中のものだけに、鮮明にイメージを喚起する必要があります。それは、シナリオと小説を読み比べた場合の差でもあります。シナリオは俳優が演技をするのを前提に書かれています。ですから、小説ほどには人物は書き込まれません。月見が小説において、筋を一番重要とする考えに同調しないのはそのためです。(筋は、面白くするための脚色から、構想、意外性などの工夫を含めた言葉です。筋イコールストーリーとは、くれぐれも考えられませんように)


 では月見はどう考えるのか。じつはこの4の段落でしてみたかったのは、「小説神髄」と「詩学」をテキストに、月見版の「小説神髄」をやらかしてみようと思ったのです。な、なんと恐れ多いことを!

 創作の原点にミーメーシスがあって、その手法として「実から虚を作り、虚から実をなす」という小説における写実には賛成です。ただ「小説の主脳は人情にあり」ではなく、「小説の主脳は人情と筋の二つにあり」と書き直されるべきだと思います。つまり、坪内先生やアリストテレスのようにどちらかを一番とするのは間違いで、人情も筋も、甲乙つけがたいほど、どちらも一番であるというのが、月見の小説における考えです。


「小説の主脳は人情と筋の二つにあり」


 これが月見の小説の神髄です。


 最後に蛇足します。

 創作の原点が模倣ネーメーシスであることを述べました。ただね。多くの書き手の人たちが、現在なにを模倣するかで間違っていると思っています。みんな既存の小説ばかりを模倣していませんか。アリストテレスや坪内先生の言う、自然や現実の模倣という観点を忘れていません。そこから小説は生まれるんですよ。既存の小説を模倣することで書き方をおぼえるというのはわかります。必要なことだとも思う。ただいまも言ったように、現実や自然の模倣を忘れてはいけない。ファンタジー世界だろうとミステリだろうと、登場人物の会話ひとつにしても、それは現実の模倣から生まれるものなの。それをしないと、小説書くの上達しないって。オリジナル性も会得できないって。

 古典に学ぶべきはそういうこと。「小説神髄」と「詩学」に、いま一度立ち返ったほうがいいのではないかと、月見は思っています。


 つづく


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