小説作法の本について 4 上
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今回は、小説を書く際の参考書にでもしてもらいたい本を紹介します。
まず、最初の一冊は、
「小説神髄」坪内逍遥著
すごい本でてきましたね。自分で書いてびっくりです。でも、月見はこれ読んでいるんです。前回紹介した「それでも作家になりたい人のガイドブック」に、とりあえず読んでみるのが一番みたいなことが書かれていて、それじゃあと、言われる通りに読んでみたわけです。書かれたのが言文一致運動の前ですから、擬古文です。それだけで月見にはお手上げ。なにが書かれているのか、ようわからん。くくく……。ですから、現代語訳つきで読ませてもらいました。
説明の必要はないと思いますが、この著作から近代小説が始まっています。開祖的な存在です。そもそも現代の小説はどこから始まったのか。それを知るための貴重かつ重要な資料で、現代小説の原点に回帰して、とっくりと小説というものについて考えてみたいと思う人には最適の書だというのが月見の読後の感想です。
内容について触れると、「小説神髄」は上下の二部構成となっていて、上巻のほうで、小説とはなにか、いかにあるべきかといった、坪内先生の小説論が書かれていて、下巻のほうでは、それに基づいての小説の創作の仕方が説かれています。砕けた言い方させてもらうと、なんのことはない、「小説神髄」って小説作法の本なんですね。それの第一号。それなら、このエッセイで取り上げておくのも一興かと思った次第です。
明治十八年に書かれたものであり、さすがに現代には適合しないことが多々あるのですが、いまでも示唆される箇所や、現代と相通ずるような箇所もあり、そうやって読むと面白い。むかしはそうだったんだなとか、これはいまでも言えてるよねとかですね。
たとえば、なぜ坪内先生が「神髄」の執筆の必要性を感じたのかというと、巷にあふれているのが、相も変わらず荒唐無稽の話ばかりで、これはいかん、真の小説はそういうものではないと、その日本の現状をなんとかせねばと一発奮起されたのですね。これって、現代に通じているとこあると思われません? いまジャンル小説のあらゆるものが、そのジャンルの特性を失って荒唐無稽な設定・内容のものにばかり傾き始めているとは。そう感じているのは月見だけでしょうか。または、もしかしたらあなたの本棚は、荒唐無稽の話の本ばかりで埋まってはいませんか。荒唐無稽が好きだし、小説の本分は現実逃避であるを信条にしているんだと言われればそれでもいいのですが、それは消費者一辺倒の場合の言い分で、小説を書きたいという気持ちがあったら、それでいいのでしょうか。平たく言わせてもらうと、あなたの書いている小説は大人の鑑賞に堪えるものですか。いや、子供向きに書いているのだから大人のことなんか関係ない。ならば、芥川龍之介の「トロッコ」や「杜子春」、太宰治の「走れメロス」、新美南吉の「ごん狐」、小川未明の「牛女」「金の輪」、そういった子供向けに書かれた内容の童話が、大人の鑑賞にも堪えられる作品になっていることをどう思われます? ま、これ以上は、いたちごっこになりそうですのでよしましょう。
「神髄」の内容に戻ると、先に書いた動機で執筆されているので、真の小説とはなにかを追求し、それをするにはどうしたらいいかというスタンスです。ノベルは美術とし、そのノベルがどうやって成立したかの歴史が説かれ、そこから日本のノベルがいかようになるべきかが考察され、下巻においてそれの具体的な方法が述べられています。その詳しい内容に関しては、「神髄」を読んでもらうしかありません。ここでは、古典として埃をかぶらせておくには、もったいない内容を含んでいることを指摘しておいて、月見が読んで思ったことをいくつか書いてみます。
最初のほうで坪内先生は、ノベルが、ロマンス(空想的な、現実離れした物語の意)から寓話などを経て変遷していったものであると解釈されています。ここはわりと読み所で、月見としてはいろいろ考えることがありました。それで、「神髄」に書かれていたことを参照にして、月見の考えている、小説とは、を述べてみます。「神髄」に書かれていることでなく、あくまで月見流の考えです。ロジャー・フォン・イーク著の「頭にガツンと一撃」から引用した話を、まずはお読みいただきたい。
ある禅の高僧が、弟子のひとりを拙宅に招いた。弟子の、教えを得るにはどうすればいいかという悩みを話し合ううちに、さすればと、高僧はお茶を用意した。そして師は弟子の茶碗にお茶を注いだ。一杯になっても、まだ注ぎ続けた。お茶は茶碗からあふれて、卓から床へとこぼれた。
とうとう弟子は言った。「もうおやめください。お茶はあふれております――もう茶碗には入りません」
師は言った。「よくぞ見てとった。お前についても同じことが言える。私の教えを得ようと思うならば、まず、頭の茶碗を空にしなさい」
教訓――人の教えを得るためには、まず自分の頭を空にしなくてはいけない。考えや知識を一時期的に忘れないと、お茶と一緒で、いくら注いでもあふれこぼれるだけ。
月見なりにアレンジしています。「頭にガツンと一撃」は発想に関するビジネス書で、ここでの教訓は、発想を得るには一度既成事実を忘れることが大事だとされています。トリックやアイディアのために、月見はその手の本も読んでいるんですね。
で、それはいいとして、小説に話を戻すと、月見はこの挿話みたいなものが、小説の原型、原石なのではないかと思っています。
小説が成立する前に、まず言語が発生していないとダメだというのはわかられますよね。そしてその言語によって、情報の伝達が進化した。伝えるべく情報にはさまざまなものがあり、そこのなかに、教えがあったと思えます。村の長老が若者に、こうしちゃいかん、こうすればうまくいくとかいうことを、経験をもとに伝授したわけですね。経験があるから、そこにはやはりストーリーらしきものも入ったでしょう。その時わしがこうしたらっていう感じですね。口承による知恵の伝授です。しかし、なにもそんな経験談まじえなくても、ストレートに、たとえば、信号が赤なら渡っちゃいかんと言えばすむことです。が、そうはならない。なぜなら人間は動物の一種で、基本的に感情、もしくは感覚の生物なんですね。理性だけでなく、感覚で捉えたほうがよくわかるし、伝わる。それでお話による臨場感が求められるわけです。信号でいうなら、わしが赤で渡ろうとしたら、もの凄いスピードの車が突っ込んできて、運が悪けりゃ死ぬとこじゃったと話したほうが、聞き手にとっては効果的に伝わるんです。小説の効能って、そういうことだろうと月見は解釈しています。先の高僧の挿話でいうと、人の教えを得るには頭を空にしなくてはいけないと、そのまま言われるより、お茶と茶碗を使った話として聞かされるほうが、なるほどねと納得できるわけです。しかも面白いし、強く印象に残る。その効用が、言葉として文章化されていった過程において、そのまま引き継がれ、小説というものになってきた。なんて、いうふうに思っています。つまり、もともとは実用だったんだとですね。
高僧の挿話は教訓のある寓話どまりですが、伝達したい情報は単純なものから複雑なものへと変化し、それにともない小説という形が出来上がってきた。生きるって素晴らしいということを、人に伝えたいとします。その時に、そのまま「生きるって素晴らしい」と言うより、失意の青年と車椅子の少女の物語にしたほうが効果的というわけです。なかには、ただ面白いだけを伝えたい趣旨のものもあるでしょう。
しかし、そうやって進化したものの、原石にある、より効果的に伝えるためのものという構造はいまだに変わっていないと思います。ただしこの考えは、小説にかぎらず、芸術を含む文化というものすべてにおいてであります。小説という媒体において、伝えるべき情報としてなにが一番適しているかは、そこから先の考察がいります。
ちなみに「神髄」のほうでは、ロマンス→寓話→演劇→小説といった変遷で、小説は出現したとなっています。変遷した理由は、それが時代のニーズにそぐわなくなったからとしています。
次に、「小説神髄」を読んだからには、ぜひとも触れておきたいことについて述べます。上巻(三)小説の主眼の項目の、最初の一行のこれです。
「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ」
でました。これぞ「小説神髄」の名言。これが日本の小説の方向を決定づけた。いや、いまも綿々と受け継がれている。
で、この名言ですが、本文で、「世態風俗これに次ぐ」に関しては、坪内先生ほとんど語られていません。もっぱら、「小説の主脳は人情なり」ばかりです。ここで書かれている「人情」とは、欲望を含んだ心理のことを指します。あの人は人情に厚いの、「人情」ではありません。小説で一番大事なのは、人の心を書くこととされているのです。
坪内先生は、人の本質は情欲であると述べられます。どんな人も心の内に入ればそれが渦巻いている。それなのに、どうして賢人、善人、悪人などと分かれて世界を形成しているのかというと、人は情欲のほかに、良心や道理というものを持ち合わせていて、それによって情欲の表出が変わる。良心が強ければ情欲は抑えられるだろうし、情欲のほうが強ければ、そのまま行為へと突っ走る。人には、そういった心中の思想的戦いがあり、それを書くのが小説の本分だとしている。で、「小説の主脳は人情なり」となるわけですね。それを第一義とするということです。
そしてそれを書く際に、勧善懲悪話になってしまってはいけない。勧善懲悪は善人と悪人の話で、人の心の内の話ではない。だから真のノベルとなっていない。つまり坪内先生は、人の心にある葛藤を描けと激奨されているのです。それが真のノベルだと。で、それの書き方ですけど、写実なんですね。空想に頼らず、現実から写し出せとされているわけです。ノベルは現実を模倣するべしですね。ただ写実には、それだけでなく、ノベルとは写すものであることを認識しておかねばならないという面があります。写実の解釈としては、こちらのほうが重要です。引用します。
「されば小説の作者たる者は専ら其意を心理に注ぎて、我が仮作たる人物なりとも、一度編中にいでたる以上は、之を活世界の人と見做して、其感情を写しいだすに、敢ておのれの意匠をもて善悪邪正の情感を作設くることをばなさず、只傍観してありのままに模写する心得にてあるべき」
つまり、登場人物の心理を作者の勝手に動かしてはならないとしている。ただ、その心の動きを写すことのみに専念しろとですね。これが写実です。この文のあとに、写実の例として、将棋の観戦者の如くとしています。人が将棋を指すのを横から見ながら、こう指せばいいのにと思っても余計な口出しはせず、その差し手が、どう考え、どう駒を動かしたか、それだけを忠実に写すのが作者のすることだと説かれています。なるほど、近代文学のスタンスです。
ここ読んで思ったのは、日本文学に坪内先生は大きな影響を与えているんだなということでした。(当然かも)日本独自の私小説はここから始まっているんでしょう。また、私小説が多いのもこのせい。「小説の主脳は人情なり」、いまでもこれ引き継がれています。手法だけでなく、小説に対する考え方もです。いまだに、人物が描けているか描けていないかが、小説の評価の重要なポイントとなるのも、そこからきているのだなと思いました。
坪内先生の考え方が正しいかどうかは、判断がむずかしいところです。正しいと思っているところもあるが、それが日本の小説の可能性を、一方で広げ一方で狭くしてしまったという気がします。いまは、そこまででとどめます。
ただ触れておきたいのは、坪内先生は写実に徹するように言いながらも、小説を退屈でないものにするために、脚色や技巧の必要性を述べられています。ここもちょっと引用します。
「よしや小説の目的たる人情世態は写しいだして其真髄に入るよしありとも、脚色繁雑しければ読むに煩わしく、布置法宜しきを得ざるときには奇しき話譚もあぢはひ薄かり。読者もかかる物語は中道にして読むに倦みて、いまだ佳境に入らざる前に全く巻を擲抛べし。故に小説を綴做すは、猶ほ一大文章をものするがごとし。結構布置の法なかるべからず、起伏開合の則なかるべからず、趣向に波瀾あり頓挫あり、記事に精疎あり繁簡あり、且つまた模写する情態にも斟酌の法存すればこそ、よく読む人を感動して音楽、詩歌にも恥ざるべき美術の誉れを得ることなれ」
(なぜかここだけ訳をこころみます。 【現代語訳】うまい具合に小説の目的である人情世態を写しだし、その描写が対象の真相にふれることができたとしても、脚色が長すぎたり細かすぎたりしてくどいものになっていたら読むのにわずらわしいし、人物や事件を筋書きに配置するやり方がうまくいってなかったら素晴らしい話の味わいも薄いものになってしまう。読者もそういった物語は途中で読むのに飽きてしまい、話が佳境に入る前に投げ出してしまう。だから小説を書き上げるのは、一大文章を仕上げるようなものである。作品構成の要となる筋書きや、人物・境遇・事件などの設定の仕方がないといけない、筋書きの起伏・人物の離合がないといけない、筋書きの組み立て方には波瀾や頓挫があり、ことがらの叙述には、くわしいとこやおおまかなとこ、繁雑なとこや簡略なところがあり、かつまた、写し出す情態にも取り捨ての加減をすれば、初めて読む人を感動させることができ、音楽・詩歌にも負けない美術の誉れを得ることができる。)
ですから、ほとんどストーリーらしきもののない、変化のない日常を描けと言っているわけではありませんので、そのへんは誤解なきよう。小説に一等大事なのは「人情」を描くことで、そのつぎに「脚色」。そういう考えと思っていいです。それまでの日本の小説は、脚色こそが小説の神髄とされていたわけです。
意外と、坪内先生って愉快な人みたいです。たとえば春本について述べている箇所と思うのですが、そんなのを読みたがる読者が悪い、作者はそのつぎとされているんですね。読者のほうが悪いとするとこが、じつに面白い見方だなと感じました。また、曲亭馬琴の「八犬伝」を悪い見本としながら、ほんとうは大ファンなんですね。それと、「八犬伝」をおとしめる意図はなくて、「八犬伝」のような小説もあっていいが、それだけではダメだという考えです。いまで言えば、エンタメばかりじゃダメ、純文学も売れないとみたいな意見ですね。
ここで坪内先生の小説作法について簡単に総括すると、「小説の主脳は人情にあり」を第一とし、実から虚を作り、その虚を実にする方法ということになると思います。現実から虚構を作り、その虚構を文章化することで実(現実)にするというものです。そして、そこに写実というテクニックが入ってくる。月見の解釈が間違っている可能性はなきにしもあらずですが、ま、そんなところだと思います。(間違っていましたら、すみません)
あと、下巻の文体論の項で「文は思想の機械なり、粧飾なり」はいいフレーズです。ただしそれに続く文体論は、さすがに言文一致前なので、現代には適合しません。和文を研究して、文章力向上に努めようとする人は参考になるかも。
べからず集みたいなものがあり、そこのところは、いまも言えることがいくつかあります。学識誇示、矛盾撞着とかですね。明治から、言われていることは同じ。どうしてそうなのかを考えてみるのも、興味深いです。
以上が、月見が「小説神髄」を読んでから述べてみたかったことです。古いが、改めて考えたほうがいいこともあるなという感じです。いまの時代にこそ、「小説神髄」は読まれたほうがいいような気もしています。
月見が、「小説神髄」で重要と思った点は三つです。
1 小説の主脳は人情にあり。
2 写実。
3 実から虚を借り、虚から実(真実)をなす。
この三点を踏まえて、つぎの本を紹介したいと思います。