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小説作法の本について 3 中

 さて、月見が「それでも」と「本気で」で得たことなどをいくつか話してみます。参考にされてみてください。


 この二冊の本の著者のお二人は、現役作家の方でなく、評論家の方だというのが読むためのキーです。だから容赦ないの。また、実際に書くためには役立たないの。かえって、書けなくなるぐらい。これから小説を書こうとする人は読まないほうがいい、というレビューが多いのもうなずけます。しかし同時にそこが、この本の特出とっしゅつしたとこだと月見は考えます。どういうことかと言うと、つまりこのお二人、小説を書くことでなく、小説を読むことと、小説の構造を解析する達人だということですね。

 いかに読むか、いかに書くかのふたつです。その技術だけの本といっていい。ですから、それを得るつもりで読むというのが重要です。

 で、まず、いかに読むかですが、この本での読み方というのは、楽しんでとか味わって読むという行為ではありません。作品をいかに読み解くかという、まさに評論家の読み方。この本でそれに接することができます。理論がバックボーンにあるので、書評家さんたちとはちょっと違う。そしてその読み方を習得しようとするのが、この本の正しい使い方です。読み方を学ぶ本ね。本を読むなんて、誰にもできると思っているので、普通習おうなんて考えないんですが、よりよく、より深く読むためには、やはり修練が必要なんですね。目利きになるためのものと思ってください。


 たとえば、「私はドアを開けた」と「私がドアを開けた」の違いわかりますか。情報量は同じで、「私は」と「私が」の、「は」と「が」の違いだけですよね。だからなんなのと言いたくなる。それぐらいの違い気にしていたんじゃ、読めもしないなら、あるいは書けもしないよ。ところがなんです。大きく違うんです。小説における遠近法とかいう手法なんですが、「私」という一人称を使っているので、どちらも作者の位置が「私」に近いところにあるのはわかりますよね。で、「私は」のほうが、作者と「私」の距離がかなり密接しているのがわかりますか。「私」イコール作者ぐらい。それに引き替え「私が」のほうは、やや距離が離れ、客観的に「私」の行動を見つめているところがある。


「私はドアを開けた」「私がドアを開けた」

ついでに、「彼はそう言った」「彼がそう言った」「日は昇った」「日が昇った」


 そして、その作者の距離が、おのずと読者の位置に反映してくるわけです。「は」のほうが近く、「が」のほうが離れている。この遠近感覚を意識しましょうと、本の中で著者は言ってくるんです。月見は、この本読むまで、そういうことに気づいていませんでした。迂闊に本読んでいました。読み方があると思いましたね。そういうことを頭に入れて、この本を読むと、有益なヒントてんこ盛りです。読むという行為はあたりまえすぎる日常行為のため、読み方なんぞ教わろうとは思わないのですが、よりよく読むためには有識者の知恵を借りる必要があるんですね。これ重要です。

 そして、いかに読むかは、いかに書くかに通じます。読み解くことで、書くことが上達につながります。


 ここでちょっと寄り道します。地の文が苦手な人、書けない人っておられますよね。月見もその一人なんですが、それを克服すべく最良の方法を提言します。それって、ズバリ本をたくさん読むことです。地の分の説明を聞いたり、ハウツー習っても、まずダメです。要するに、地の文が苦手の人って、読書量が足りないんです。そのせいで、表現するための語彙の蓄積が不足しているんです。語彙が不足しているから、ハウツー習っても進歩しません。材料なしで、ものを作ろうとするようなものです。月見もそうなのですが、情景描写とかしようとする場合、それを表現しようとする言葉が浮かんでこないことがしょっちゅうです。言葉自体がですね。つまり語彙が足りないの。どれほど素晴らしいイメージを思い浮かべても、それを表現する語彙を持っていなかったら、なんにもならないんです。身も蓋もない話ですが、それが事実です。(会話文が書きやすいのは、会話を日常使っているから、ただそれだけです。ただし、うまい会話文書こうと思ったらかなり難しい)

 月見と同じような思いしている人、真摯にそれを受けとめ、本をよく読みましょう。それしか問題解決の方法はないです。某作家の先生は書かれていました。書くためには最低千冊は読んでおかないといけない。千冊ですよ、千冊! がっくりくる必要はありません。それをすれば、地の文うまくなる可能性があるんですから。頑張りましょう。読むということが、書くうえで大事なのおわかりいただけていますか。


 で次に、いかに書くかです。

 この本で学ぶことができるのは、書き方でなく、いかに書くかです。書くとは、いかなることかというようなもの。それを基礎として、テクニックの解説があるわけです。とにかく、小説とは書く技術のうえに成立するものであるという考えに徹しています。もっと大胆にいえば、いかに書くかで小説は決まる。


 「そう書くからそうなる」のであって、「そうだからそう書く」のではないということです。


 どう違うんだって思うでしょう。こういうことです。幻想小説を例にします。

 「幻想的に書くからそうなる」のであって、「幻想だからそう書く」のではないということです。

 わかりますか。つまり、いかに書くかが、小説の最優先事項という考えなのです。まさに、技術至上主義。内容とかお話とかテーマでなくて、いかに書くかが小説のかなめなわけです。えっ! て感じですけど、読み手が実際に目にするのは文章だけなのですから、考え方としてあたってないとはいえない。

 この考えをもとにして、例文を作ってみます。「そう書くからそうなる」を頭において読んでみてください。


 ミコちゃんの家は、お父さんとお母さんの三人暮らしです。家の庭には花壇があって、いつも花を咲かせています。ミコちゃんは小学三年生で、お父さんは課長さんで、お母さんは、いつも家にいてくれるセンギョウシュフです。家ではみんなが笑顔で、不平や人の悪口を言ったりすることは決してありません。ゴハンもおいしいなら、テレビも面白いし、みんな幸せでした。これで犬を飼えたら、もっと幸せなんだけどなと、ミコちゃんは思っていました。

 しかしミコちゃんは気づいていませんでしたけど、お父さんには悩みがあったのです。お父さんはまえまえから思っていたのです。ミコちゃんと、やってみたいと。

 それはとてもいけない考えでした。やってみたいだなんて。ミコちゃんは小学三年生。しかもじつの娘なのです。ヘンタイもいいとこです。そんな思いがするたびに、お父さんは自分のことを恥ずかしいと思っていました。しかしミコちゃんを見れば見るほど、押えれば押さえるほど、やりたい気持ちはつのるばかりでした。

 やりたい、やりたい、やりたい、お父さんの頭の中はそれでいっぱいでした。苦しいほどです。そんなことを思っている自分が情けなくて、ひとりで泣いたこともありました。

 そんなある夜のことです。お父さんが仕事を終えて、いつも通りに帰ってきていると、家の近くの公園に、ミコちゃんと同じくらいの女の子が一人でいるのが目に入りました。あたりには誰もいません。お父さんの胸の中で、いままで押さえてきたものが、むらむらむらと湧き上がりました。止めることなどできませんでした。やりたい気持ちは、そうやっていつか飛び出るのをじっと待っていたのです。

 お父さんはあたりを見まわして、女の子へと近づきました。

 気配を感じ、ハッとしたようにして女の子はお父さんのほうを見ました。

「こんなに遅くになにしているんだい」お父さんは、興奮した息遣いを隠しながら、やさしく声をかけました。

 女の子は黙っています。

「ひとりなのかい。ひとりでここにいるのかい」

 女の子はやはり黙っています。

「よかったら、おじさんと遊ばないかい」

 お父さんはもう一度あたりを見まわすと、やおら背広のポケットからトランプを取り出しました。

 女の子は、ぎょっとしました。

「好きなものをなんでも買ってあげるから。オジサンとトランプをしよう」

 お父さんの声はうわずっていました。

 この国では、男と女がトランプで遊ぶのは淫らなこととされていました。大人の男が、小さな女の子とするなんて、それはもうハンザイでした。

 逃げようとする女の子の腕をお父さんはつかみました。

「怖くないから触ってごらん。汚くないんだよ。ほら、ほら」

 いやいやを繰り返す女の子に、お父さんは手にしたトランプを無理やり触らせようとしました。


 調子に乗って、例文としては長くなりすぎました。おわかりの通り、童話調・ほのぼの調で書いていますので、そうなっています。内容はそれと相反した、真っ黒の、反ほのぼのです。つまり、「ほのぼの調で書くからそうなる」のです。「ほのぼのだからそう書く」ではないのです。つまり、ブラックな内容でもほのぼの調で書けば、ほのぼのになるということです。「そう書くからそうなる」が少しはわかってもらえたでしょうか。もしミコちゃんの例文が、ハードボイルド調で書かれていたら、あるいは写実調だったら、またあるいはルポルタージュ調だったら。それを想像してもらえば、「そう書くからそうなる」がよくわかり、また、いかに書くかが、小説においてキーポイントになることはわかられると思います。

 厳密にいうと、小説というものは、語られるもの(ストーリーや内容や人物など)と、それをいかに語るか(書き方)の相関で表象されるものであり、語られるもの一方だけではなく、それをいかに語るかで、表象そのものがいかようにも変わるものである。となります。(ちょっと自信ないけど、こんなとこです)で、その、いかに語るかを重視しているのです。

 また、「そう書くからそうなる」の見本としては、翻訳小説を手に取ってみてください。同一小説で、訳者が違うのを二冊です。それを比較すると、訳者の書き方で小説のイメージがころりと変わるのがよくわかりますから。たとえば、レイモンド・チャンドラーの一冊。清水俊二氏の訳したタイトルは「さらば愛しき女よ」で、それを村上春樹氏が訳すと「さよなら、愛しい人」となります。タイトルだけでも、受け手としてはかなりイメージがちがうのがわかるでしょう。で、その冒頭の大鹿(へら鹿)マロイが登場の場面です。


「もう一人その看板を見上げている男がいた。彼は自由の女神をはじめて見る移民のように、汚い窓を熱心に見つめていた。六フィート五インチはあろうかと思われる大男で、ビール会社のトラックのような感じだった。(中略)

 彼の皮膚は、青白く、ひげを剃ってなかった。いつでも、ひげのあとが眼につく男にちがいない。髪は黒くちぢれていて、濃い眉毛が肉の厚い鼻にとどくほど垂れさがっていた。耳はからだに似合わず小さく、眼は、灰色の眼によくあるように、涙に似た光沢を見せていた。その男は彫像のようにそこに立ちつくしていたが、やがて微笑を浮かべた」(清水俊二訳)


「一人の男が同じようにそのネオンサインを見上げていた。彼はうっとりした表情を顔に貼りつけ、頭上の汚れた窓を熱心に見つめていた。自由の女神像をはじめて目にしたヨーロッパからの移民みたいに。大男だが、身長は二メートルより高くはないし、肩幅はビールの配達トラックほど大きくはない。(中略)

 肌は青白く、無精髭がのびていた。いついかなるときにも髭剃りが必要に見えるタイプなのだろう。髪は黒い巻き毛で、眉毛は濃く、いかつい鼻の上で、今にもひとつに繋がってしまいそうに見えた。身体の大きなわりに、耳は小ぶりで端正だった。目には涙が潤んだような輝きがあったが、それは灰色の瞳にしばしば見受けられるものだ。彫像のように男はそこに立ちすくんでいた。ずいぶん経ってから、微笑みが顔に浮かんだ」(村上春樹訳)


 チャンドラーの人物描写があまりにうまいもんで、長い引用になってしまいました。

次にシャーロック・ホームズの「高名な依頼人」の書き出し部分。


「もう弊害はあるまいよ」

 というのがシャーロック・ホームズのそのときの意見だったが、私はこの十年ばかりのあいだに十回くらいも、これから話す事件を公表する許しを求めて、やっと承諾を得たわけなのである。(延原謙訳)


「もういまとなっては、べつに害はあるまいよ」というのが、友人シャーロック・ホームズ氏の見解であった。長年私がそれをくりかえして、そのときがもう十回めぐらいだったろうか、以下に語る物語を公表する許しをもとめたときのことである。(深町眞理子訳)


「今となっては別段、誰かが傷つくということもあるまい」以下の物語を公表させてもらいたいと私がシャーロック・ホームズに許可を求めるのも、この長の年月、もうこれで十度目というとき、ホームズがもたらした言葉がこれであった。(小池滋訳)


 いかに書くかで、イメージが変わるのがわかってもらえていますか。正確にはいかに訳すかですが、そこはいかに書くかで、マロイとホームズのイメージの差ができているところをお楽しみください。「そう書くからそうなる」のです。語り口の重要性です。


 あと、スティーヴンスの「宝島」ですが、あの小説は回想なんですね。つまり大人になった主人公が、少年のころの冒険を思い出して語っていることになっています。で、語り手が「私」と「僕」の二種類の訳があるのですが、「私」と「僕」では、読んだイメージが、驚くほどガラッと違います。


 「そう書くからそうなる」の例文をあとひとつやってみます。月見が話者と思って読んでみてください。


 先述したミコちゃんの例文なるものは、ほのぼのの文体で書かれたブラックな内容のものである。作者は、作文を意識した説明文を多用することで、その効用を引きだそうと試みている。書き出しの文は、その説明されている内容より、文体から表出する表象を重要視しているのであって、花壇に花が咲いていることも、ミコちゃんが小学校三年生であることも、ゴハンがおいしいことも、じつはどうでもいいことなのである。また、そういった、ほとんど紋切り型の幸せと平穏じみた言葉を並べることによって、それが後半のブラックな内容への、皮肉な伏線となることも考慮している。そういう言葉を並べるからには、後半でこれが様相を変えるのだろうという暗示を与えるように計算しているのである。犬を飼えたらは、幸せの幸せを提示し、より読者に身近さを感じさせるためのものにすぎない。そして話は、お父さんの、やってみたいという内心の告白を迎えるわけであるが、作者の狙いが、その時点で、ほのぼのとブラックの衝突技法にあることは明らかである。とはいっても、以上のことは、すでに手垢のついた手法と言わざるをえず、なんら目新しい工夫があるわけでない。


 月見がミコちゃんを批評するという例文にしてみましたが、語り口を変えることによって、月見の人柄の印象が違ったものになっているのに気づいてもらえたでしょうか。(そうなっていればいいのですが)つまり、文は人なりなのです。文章にはその人の人柄がでるものであり、人柄がよければ文章もよくなるという、格言めいた意味ではありません。文章には人柄がでる、ただそれだけです。いかに書くかで、その人柄は変化する。それを言いたいのです。そしてこのことから、じつは小説の個性というものは、書き方に宿っているのだということが、わかってもらえるでしょうか。やはりこれも、「そう書くからそうなる」のです。


 まとめをします。

 あなたが美少女を表現したいとします。で、それを思い浮かべ、アーモンド形の目をした少女と書いたとします。するとそれは、受け手にとってアーモンド形の目をした少女になるのです。あるいは、目がぱっちりした少女と書くと、目がぱっちりした少女になります。これが、「そう書くからそうなる」の原理です。あなたが思い浮かべた美少女は、書いたことでそうなってしまうのです。「そうだからそう書く」ではないことに注意してください。美少女だからそう書くということにはならないのです。なぜなら、美少女を表現するには、アーモンド・ぱっちり以外にたくさんの言葉があります。どうするかはあなたの自由です。どの言葉を使おうかとあなたは考えます。選択肢は無限にあります。しかしです。しかしそれをあなたが言葉で書いた時点で、その美少女の特性は決定づけされてしまいます。アーモンドとかけばアーモンド美少女に、ぱっちりと書けばぱっちり美少女にです。つまり、そう書いたからそうなったわけです。そう書くからそうなってしまったのです。「そう書くからそうなる」を認識しておくのが、重要なことである理由がそこにあります。

 そして「そう書くからそうなる」の原理が必然的に働くからには、「いかに書くか」が小説の決め手になり、それを学ぶ気持ちが、小説を向上させるためには必要なわけです。

 そして「いかに書くか」を探究するには、「いかに読むか」が必須となり、小説を読み解くことでその技法を習得し、さらに習得した技法を使用することが重要となるわけです。


 以上のことが、月見が「それでも」と「本気で」の本から教わったことです。といっても、ここで書いたことはほんの一部にしかすぎません。内容の紹介にまったくなってないほどです。なにしろ中身が濃すぎるんですわ。「いかに読むか」と「いかに書くか」の、尖がった技術本だと思ってください。興味を持たれた方はご参照のほどを。


「そう書くからそうなる」は、実技としては、「そう書くからそうなる」のだから「いかに書くか」が重要で、そうなるように書かなければならない、としたほうが適切です。

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