ピックアップ式日本推理小説小史 2-1 ヨンゲルキダン
2-1
国の始まりが大和なら、日本の探偵小説の始まりは江戸川乱歩。
そう発言してもおかしくないほどに、乱歩の功績には大きいものがあります。しかし、時系列でいくと、乱歩が大正十二年に新青年に発表した「二銭銅貨」が、必ずしも国内での創作探偵小説第一号というのではありません。それなのに、あたかもそう思われたりしているのは、当時の探偵小説壇にとって「二銭銅貨」は、まばゆいぐらいに斬新で革新的だったんですね。エポックメイキングな作品として不動の位置を得ているわけです。
「日本の近代探偵小説は江戸川乱歩氏によって創始され、その礎がきずかれたといってもまちがいはないだろう。
江戸川乱歩氏が出現するまでの日本の探偵小説壇は少数の飜案作家によって糊塗されていた。それらの作品はタネが海外のものにあるにもせよ、あまりにも日本の日常生活とかけはなれていた。
その当時にあっては、われわれが日常起居しているこの開放的な日本家屋を舞台としては、謎とトリックを生命とする、純粋な探偵小説は書けないだろうと信じられていた。
そういう時代に江戸川乱歩氏が天衣無縫の空想力をひっさげて、探偵作家として誕生したのだが、そのさい江戸川乱歩氏が奔放な空想力の所産になる探偵小説を書くにあたって、ありそうもないことを、いかにもありそうに書いていく、谷崎先生の筆法を学ばなかったとはいえないのである。これはおそらく江戸川乱歩氏もみずから認めていることだろう」
(「谷崎先生と日本探偵小説」より、谷崎潤一郎全集第十巻)1959年 昭和34年
横溝正史による一文です。後半は谷崎潤一郎の影響力についてになっていますが、乱歩の出現がいかに画期的だったのかがうかがえます。当時を体験しているだけに、率直かつリアルです。
正史大御所がそこまで仰られているぐらいですから、推理小説小史を述べるにあたって、「二銭銅貨」を避けて通るなどできるはずがありません。月見もそこから始めるのが順当だと思っています。が、ストレートにその紹介をするのでなく、「二銭銅貨」を時間軸の柱にして、それ以前と以後という形式でやらかしてみたいと思います。
で、まずは「二銭銅貨」以前の日本の探偵小説はどのようなものであったのか、からです。
「岡田が古本屋を覗くのは、今の詞で云えば、文学趣味があるからであった。しかしまだ新しい小説や脚本は出ていぬし、抒情詩では子規の俳句や、鉄幹の歌の生れぬ先であったから、誰でも唐紙に摺った花月新誌や白紙に摺った桂林一枝のような雑誌を読んで、槐南、夢香なんぞの香奩体の詩を最も気の利いた物だと思う位の事であった。僕も花月新誌の愛読者であったから、記憶している。西洋小説の翻訳と云うものは、あの雑誌が始て出したのである。なんでも西洋の或る大学の学生が、帰省する途中で殺される話で、それを談話体に訳した人は神田孝平さんであったと思う。それが僕の西洋小説と云うものを読んだ始であったようだ。そう云う時代だから、岡田の文学趣味も漢学者が新しい世間の出来事を詩文に書いたのを、面白がって読む位に過ぎなかったのである」
森鴎外の小説「雁」の冒頭附近からの一節です。ここで主人公が述べている花月新誌という雑誌に掲載された「なんでも西洋の或る大学の学生が、帰省する途中で殺される話」が、日本における翻訳探偵小説の第一号とされているものです。明治十年九月発行の第二十二号から、翌十一年二月の第三十六号までの連載で、題は「楊牙児奇獄」。ヨンゲルキダンと読み、楊牙児がヨンゲルに相当する部分で、これは人名です。小説作法の本の章で取り上げた「小説神髄」が明治十八年刊行ですから、それより八年も前のことになります。しかし驚くなかれ、活字になったのが明治十年(1877)から翌年(1878)であって、初めて訳されたのは江戸時代の文久初年(1861)ごろというから唖然としてしまいます。訳したのは神田孝平。
そのへんの事情を話すと、まず神田孝平が「和蘭美政録」(おらんだびせいろく)と題した訳述の稿本(写本)を、文久初年に著したわけです。それには「楊牙児奇獄」と「青騎兵並右家族供吟味一件」(あおきへいならびにみぎかぞくともぎんみいっけん)の二つの話が入っていて、その稿本を借覧したのが成島柳北なる御仁。柳北はとてもおもしろく読み、将軍家に見せるのですが、維新の混乱にまぎれて「和蘭美政録」はどこにいったのかわかんなくなってしまいます。
その後、柳北の友人が書店で、「和蘭美政録」の一篇である「楊牙児奇獄」の写本を見つけ、亡くなる前に形見として柳北に贈ります。そして柳北が、明治十年、彼が当時主催していた雑誌の「花月新誌」にそれを掲載したという次第です。
こうやって、日本初の翻訳探偵小説「楊牙児奇獄」が活字デビューしたことになります。ただ柳北が掲載したのは、神田孝平が訳したのを添削したもので、孝平の文体とは異なる、カタカナと漢字の混合文となっています。鴎外が読んだと思われるのは、柳北のほうだと考えられています。「楊牙児奇獄」は明治十九年に一冊の本として刊行され、ネットで、その現物を見ることが出来ます。便利な時代になったもんです。有難いですね。
○和蘭美政録/揚牙児奇獄
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0000203KDS&C_CODE=YMNK-00022&IMG_NO=8&IMG_KIND=JPEG
国会国立図書館の近代デジタルライブラリー「楊牙児奇談」の検索でも見れます。
神田孝平――幕末明治期の洋学者、啓蒙思想家、開明的官僚。福沢諭吉とともにイギリス自由主義経済学移入の先駆者。
成島柳北――江戸末期の将軍侍講。漢詩人、随筆家。徳川家定・家茂に経学を講じる。文久三年(1863)、狂詩により幕府を諷したかどで、閉門。慶応元年(1865)再び登用され、外国奉行、会計副総裁などを歴任。維新後は明治七年(1874)『柳橋新誌』を刊行、同年九月には『朝野新聞』の主筆として迎えられ、諷刺に富んだ文章で名声を博す。十年には文芸雑誌『花月新誌』を創刊。
ほぼコピペです。神田さんも成島さんも、すごい大物。こんな人たちが探偵小説の歴史に関わっていたんですね。
それはいいとして、話を続けると――。
神田孝平は、柳北が添削したのが不満だったらしく、文章はいいが、事実を減らしたのは遺憾だとして、明治二十四年に「日本之法律」という雑誌に、保存していた原本の訳稿を、訳稿通りに掲載します。「楊牙児奇獄」だけでなく「青騎兵並右家族供吟味一件」の二篇をです。しかし時代はすでに黒岩涙香の翻案ものの時代になっていて、人目を惹くことはありませんでした。神田孝平は、明治三十一年、六十七歳で死去します。
時は移り、大正十年の冬、本郷の古本屋で吉野作造氏が、神田楽山著の「和蘭美政録」という写本を手に入れます。
吉野作造――大正デモクラシーの旗手。政治学者、思想家。明治文化研究会の中心人物。大正十年の冬は東大教授。現在、「読売・吉野作造賞」という学術賞があるほか、宮城県に記念館もあります。
これまたすごい人ですね。吉野氏は、「和蘭美政録」という題から政治に関する本で、著者は神田孝平先生ではないかと思いながら読み、その内容に驚いてしまいます。
「さて歸って讀んで見ると、何の事、政治とは沒交渉の探偵小説めいたものであった。一時は失望したが、又之が若し神田先生の筆のすさびだとすると別の意味で面白いと思ひ直して」
そう感じた吉野氏は、著者の神田楽山が神田孝平のことなのか調べるけどわからず、神田家のほうに手紙で問い合わせます。しかしわからないとの返事。が、その後神田家から二度目の返事がきて、土蔵を調べたらこんなものがでてきたと、孝平直筆の「和蘭美政録」が一緒に送られてくるにいたって、吉野氏は二人が同一人であるのを確信します。
そして昭和二年刊の明治文学全集に、「和蘭美政録 全」のタイトルで「楊牙児奇獄」を「ヨンケル・ファン・ロデレイキ一件」として掲載します。吉野氏は掲載にあたり「和蘭美政録解題」という序文をつけていて、ここまでの吉野氏の話はその解題によるものです。解題の中で、「青騎兵並右家族供吟味一件」は見つけることができなかったとし残念がられていますが、のちの昭和四年に発見し、「明治文化」という雑誌に掲載されています。こうやって、ようやく神田孝平の訳した「和蘭美政録」が、昭和の時代にふたたび日の目を見たわけです。月見が最初のほうで書いた森鴎外の「雁」の一節についても、吉野氏が解題で触れていることをつけ加えておきますね。
それで、「楊牙児奇獄」が翻訳小説なら、その原本の洋本のほうはなにか? この時点ではまだ不明だったんですね。原本が残っていないと思われていたからです。
判明したのは昭和五年の暮れのことです。神田孝平の稿本や蔵書を大学に寄贈する際に、その検分にあたった吉野氏は、「千八百三十年刊行、死刑彙案」と、孝平直筆の毛筆でしたためた題箋のある本が目に入り、ページをめくると、なんとそれが原本だったのです。死刑彙案とは、死刑囚の事件のうちで興味深いものを集めたものというような意味だそうです。
著者の名前はクリステメイエル、オランダの作品で、初版の刊行が1820年となっているから、ポーの「モルグ街の殺人事件」より二十年ほど前です。
その後研究が進み、ここからは、その原本に関して、一足飛びに現在判明していることを述べます。大学教授の宮永孝氏によるものです。勝手に紹介しています。宮永氏は、神田孝平が訳したのと同じ版本を入手されていますので、これはもう、すごいを通り越して完璧です。
大きさは、27センチ×12.5センチ。厚みは約3.3センチ。総ページは424。表紙には、「体制の執行の物語のうちの重要な場面――ならびに秘かな犯罪生活のうちの注目すべき特性――十二の物語」。著者イエー・ベー・クリステエイメル。第三版。アムステルダムのイエー・セー・ケステレン社。1830年刊。もちろん、オランダ語でそう書かれているんですね。十三の短編が入っていて、「楊牙児奇獄」が八番目、「青騎兵並右家族供吟味一件」が九番目の話となっています。
つぎに、作者のクリステエイメルについてわかっていることは、ヤン・パスティアン・クリストエイメル、1794年生まれ、1872年(明治五年)に死去。享年七十七歳。ワーテルロの戦いのときに伍長として従軍。戸籍によると職業は無職。著書は二十数冊あって、小話・小説・詩集・学術書など多岐にわたっている。というふうになります。




