コーヒーブレイク その2 下
星先生が時事風俗を取り入れない方針なのは有名なことなのですが、だからといって無関心ではなかったみたいです。それどころか、世の中に向ける視線はかなり鋭いものがあります。
『思いついた極論だが、歴史教育なんてものは、危険思想の発生源である。それぞれの国が自国中心の歴史教育をやっていたら、国の対立はいつまでも消えない』
ええっ! というほどの鋭さです。これほど的確で中立な意見述べる人って、いまいます。日中韓の関係がぎくしゃくしている現在、ご存命だったら、ぜひともテレビのコメンテーターをして欲しいほどです。別なエッセイでは、モーパッサンの言葉が引用されています。
『戦争は愛国主義という卵から生まれてくる。――モーパッサン「ソテネス叔父さん」』
若いみなさん、これから先の将来を見据えて、この言葉をおぼえておきましょう。愛国心が悪いわけではないけど、戦争がそこから発生するのも事実なのね。こんな言葉を「八月、その戦争と平和――ひまにあかせての産物――」というエッセイ(?)で、星先生は引用されています。
『私が酔ってしゃべることは、私が小説に書かないことにしている、時事風俗にからんだ愚にもつかない問題ばかりなのである』
「意外な素顔」からの引用です。どうやら星先生は、時事風俗に無関心どころか、かなり興味をもっておられたようです。しかもそれに対して、鋭い考えを持たれていた。僕が今回気づいたのは、それが星先生のショートショートを成立させている源なのではないかということです。星作品に漂っているアイロニーや風刺精神は、先生が書こうとしなかった時事風俗への、ひとかどならぬ関心と意見だったのではないでしょうか。そういった意味で星新一ショートショートは、夏目漱石の「我輩は猫である」に通底するものがあると思えます。時事風俗を書かなかった作家というより、常にそのことに鋭い目を向けていた作家として解釈されるべきではないかと、遅まきながら気づいた次第です。
また、星先生はショートショートの神様として人々に知られているのですが、そしてそれは間違いではないのですが、その面からばかり見ているせいで、星先生が、じつは日本では珍しい、稀有な異色作家であることを見逃していることに気づきもしました。
たとえば、星先生の作風はとてもドライです。言葉の選び方からしてドライ。一歩距離を置いた書き方というか、客観視的な印象を受けます。おかげで、読者は感情移入させられるというより、主人公や物語を外から見ているような感じになります。そして日本人は、ドライよりウエットなほうが好きなんですね。情、涙、感動に、どっぷりつかった話が好き。それなのに、星先生はドライな作風で通しています。読んでくださったみなさんの心に響くようナンタラカンタラ……みたいなことを言わないなら、そもそもそういう気持ちで書かれていない。
それに、日本という国は人形商法が好きで、お家芸の域にまで達しているのですが、星先生はそれもしていない。人形商法というのは、要するにキャラクター商法のことです。古くは不二家のペコちゃん人形ですね。福助も招き猫もそう。それに日本人は特化しています。海外にももちろん人形商法はあり、ハリウッドのスターシステムなんかもその一例でしょう。ただ日本は、なんでかんでも人形商法にしてしまうような国民性があります。現在のゆるキャラがそうだし、アニメとゲームとラノベも、それで商売している。それぐらい日本人は人形が好きで、アニメが世界一なのもそのせい。どうしてそうなったのかというと、僕の考えとしては、日本独自の、かわいい文化が関係しているのではないかと思っています。以前新聞でアイドル工学論の概要を読んだところ、韓国のアイドルが完成型なのに対して、日本のアイドルというのは未成熟型らしいです。つまり、見ていてなにかしてやりたくなるような気にさせる、応援したくなるアイドルが、日本では好まれるらしいです。AKBはまさにそれですよね。そして未成熟というのは、かわいいの形態のひとつとみていいでしょう。そういった、かわいいものを愛でるという、清少納言の時代あたりから日本で育まれた文化が、人形商法のもとじゃないでしょうか。フィギュアスケートのキム・ヨナ選手と浅田真央選手を思い浮かべたら、理解しやすいと思います。なぜ浅田選手は、日本国内であれほど人気があり支持を得ているのか? キム・ヨナ選手が日本代表だったら、同じような人気を得ることはできただろうか? 浅田選手の人気は、日本の、かわいいものを愛でる人形商法の、典型的な見本と言ってもいいと思います。関係ないですが、僕はキム・ヨナ選手のほうのファンです。
話を戻します。そういうふうな人形商法は、当然小説の世界にもあって、キャラ立ち重視のラノベはそれの代表なら、三毛猫ホームズも十津川警部もそうです。人形商法が他国よりも特化した日本では、キャラを立てて、それをシリーズ化する遣り方が、疑問をもたれることもなく、あたりまえのこととして蔓延しています。そのほうが、売りやすいし受けがいいからですね。ところが、星先生はそれをしていない。エヌ氏をシリーズキャラクターとみるかどうかもありますが、人形商法の要である、キャラクターの魅力で読ませようとは、まったくされていない。それどころか登場人物たちは、簡略化され、キャラクターというより、記号か象徴に近くなっている。つまり、人形商法とは無縁の遣り方です。その代わりに、ストーリーのほうに最大限の比重をかけられています。
ドライな作風に、キャラクターを重視しない手法。この二つの点から考えても、星先生が、日本では変わり種の作家になることはわかられると思います。乱歩が奇妙な味と命名した小説などを書く、海外の異色作家に近い資質を、僕は星先生に見ています。実際に星先生自身も、奇妙な味の作品群に魅かれている旨を書かれたりもしている。星新一イコールショートショート作家であるという図式を取り払い、ショートショート作家である前に異色作家であるというふうに考えたほうが、星新一の作品を読み解く鍵になるのではないか、そちらのほうが重要なのではないかと、いまは思っているわけです。
そして星先生のすごいところは、そういった日本人ばなれした作風でありながら、これほど広く読まれ、いまでも人気があるということです。稀有としか言いようがない。星先生みたいに、奇妙な味などを得意とする作家は、少数派ではあるものの日本にもそれなりにおられるのですが、星新一に匹敵するほど知名度が高くて人気のあるかたは一人もいません。こればかりは、不思議というか、何度も繰り返しますが、『すごい』とするしかありません。異色作家や奇妙な味は、日本では人気がないので、売れること自体がおかしいのに、星新一だけはなぜか別格みたい。星新一オンリーワンで、「星新一」の名前が、一大ブランド名のようなふうですらある。そしてそれは、これから先も続くように思われます。まさに偉業です。江戸川乱歩が推理小説での不動の立場を得ているように、星先生は、ショートショート、奇妙な味、またはSF界での巨人として、揺るぐことのない存在なのだと思っていいでしょう。
いまこれ書きながら、星先生の大きさをしみじみと感じています。考えると、ほんとうにすごい人なんですね。畏れおおくて、めったなことでは近寄れない感じ。さすがショートショートの神様――ほんとうに神様なんですね。そんな雲上の人から僕は、手書きのショートショートを読んでもらえて、選んでもらえたなんて、それを思うと言葉が出ません。
自分ではあまり意識していなかったのですが、今回、ドラマを機に著作を何冊か読み返してみて、自分が星先生の影響をかなり受けていることに気づきました。星新一は、やはり僕にとっては先生ですね。小説を書くきっかけを、そもそももらっていますもんね。書き始めのころに、どんな作品を手本にし、どの作家さんの影響を受けるかはとても重要なことで、初めのころの先生が星先生であった点で、僕は恵まれていました。それもこれも入選の恩恵です。
しかし、いいことばかりではありません。入選したおかげで、身分でなく、才能不相応な夢を見てしまいました。入選などせずに、小説を書く趣味なんて持ちさえしなければ、いまよりずっと幸せだったのではないかと、しょっちゅう思います。一番大切なのは自分を信じること、あきらめなければ夢は叶う、なんて言葉は、成功した人しか口にすることができないものだというのが、僕がこれまでの人生で得た経験です。入選したのは、僕にとって自慢であり、同時に自虐でもあるんです。また、ショートショートが出発点だったのでそれに関わりすぎ、ショートショートと短編小説ばかりやっていて、長編にトライするのが遅くなりすぎてしまったことが、僕にとっては痛恨の思いとなりました。将来デビューしたいと思われている人は、早い時期に長編にトライされたほうがいいですよ。
そういえば最初の入選で、友人たちから、まぐれ、運がよかっただけと言われた僕は、その後も星新一ショートショートコンテストに毎回応募し続け、第八回まで開催されたのですが、もう一度だけ、同じく格下の入選で採用されました。それからは、まぐれ呼ばわりされることはなくなりました。
入選してよかったのかどうか、総体的に考えれば、やはりよかったのだと思っています。あとがどうあれ、たとえ結果が出なかったにしても、いい思い出にはなっています。なんといっても、星新一なんですから。ビッグネームです。入選したことよりも、星先生に読まれて、選ばれたことのほうが、いまの僕には嬉しいです。いま思うと、そんなことがあったのが不思議なような気もします。先生が鬼籍に入られたいまでは、もう二度とない、貴重な体験をさせてもらったものです。
(そうだ! これからはそれを自慢にしてやろう。才能あふれた天才的書き手が今後現れたとしても、星先生に作品を読んでもらう名誉にあずかることは叶わない。そう思うと、たまらなく嬉しいね。その点僕は、読んでもらっているんだ。誉れにあずかっているんだ。ふふふ。若い書き手と会ったら言ってやろう。さりげなく、「僕は、星先生に読んでもらったことがあってね。まあ、たいしたことではないけどね。ハハハ」なんてね。星新一のビッグネームが将来もすたれることはないだろうから、みんな羨ましがるだろうな。ざまあみろって。そうとも、一生もんの自慢話として吹聴しまくって、嫌味な爺さんとして生きてやるんだ)
初心に返る、原点回帰というわけではないけど、星先生のショートショートやエッセイを、読み返したい気になっています。ショートショートを書きたくもなりました。ある程度の年齢に達したいまは、若いときとは違った楽しみ方ができそうです。
最後に、星先生のエッセイから、創作に関しての文章を引用してコラムを締めくくります。
『時どき読者から「量産のひけつはなんですか」という手紙をいただく。簡単な方法があるのなら、こっちが知りたいぐらいだ。第一、量産している気分なんかも、まるでない。あと一作をなんとか仕上げたい。そのつみ重ねにすぎない』
『文体もまた媒体である。よく「まず内容だ」などと言う人がいるが、本当だろうか。私なんか、いかに重要な内容のものでも、文章がつまらなければ、まるで読む気がしない』
『ブラットベリのえらさは、SFのなかにまったく異質なはずの、べたべたのセンチメタリズムを持ち込んだ点にある』
『これまた何回も書くことだが、大変なのはシチュエーション。アイデアと称してもいいのだろうが、異様な出だしといったほうが、私にはしっくりくるのだ』
『よくできた結末。こういうのにであうと、やられたである。そういう体験のつみ重ねが、つまり、ストーリー作りのこつなのだ』
『私はオチを先に思いつく作風ではない』
『これは私見だが、SFを書くのでも、ミステリー的な話の作り方を身につけておいたほうがいいのである』
『世の中には、論理的な推理を好まぬ人だっている、なんとはなしに当てるほうが肌に合う人だっているのだ』
『私がよく引用することだが、アシモフはアイデアの発生に関して「異質なものを結びつけよ」と書いている。必ずしもそればかりとは限らないが、ひとつの原理であることはたしかといえる。
宇宙人となると、SFにおいてはおなじみもいいところ。また、酔っ払いなるものを知らない人はいないだろう。そして、この二つを結びつけると、お話のきっかけとなるわけである。
「どうやったらショートショートが書けるのか」
何回も質問されることだが、これがその回答である。その通りにやれば、だれでも書けるはずなのだ。しかし、作家になれるかどうかまでは保証しない。
いやしくも文章で生活するとなると、ある水準以上のものを書かなければならない。どうすればいいか。その原則も単純である。自分ではこれはどうもという作品は、渡さないことである』
『フィクションの世界に要求されるのは、発想の新鮮な意外さであるが、それにもまして重要なのはストーリーのまとめ方である。フィクションだからこそ、ストーリーが生命で、それにくふうをこらさなければならないのである。
人は眠っている時に夢を見るが、さめてしばらくすると忘れてしまう。ものすごい悪夢でもそうである。それは、夢にはまとまったストーリーがないからである。
だから、フィクションの作家は物語の構成に努力する。そして、あれこれいじっているうちに、めったにないことだが、各部品がぴしりと組み合わさることがある。そのようにしてできあがった作品は、人工的技巧的な感じを与えず、変になまなましい余韻をひびかせるのである。フィクションは現実の世界の投影のはずなのだが、それが現実以上のものとなり、読む者のほうのかげを薄くしてしまうのである』
切りがないので、これでおしまい。




