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推理小説の仕分け 3-2 本格推理


 2 本格推理――推理小説の中でも、特に高度な論理性を有する(形式の)小説(学術論文などは除外)


 島田荘司氏の考えに準じて、推理小説のうちでも論理性に力を入れた作品を本格推理とします。月見の考えに沿った場合、ある意味、これこそ本道だと思っています。推理と論理による面白さを追い求めようとしているのが本格推理です。これの雛型は、前にも出した、ポーの「マリー・ロジェの謎」です。

 「マリー・ロジェ」は、副題として「モルグ街の殺人」の続編というのが添えられています。デュパンの登場する二作目で、明らかに続編を意識して書かれています。ここでのポーは、「モルグ街」で示した、推理という思索行為のみを見せつけようとしているかのようです。余分なものまったくなし。どうやってそれをしているかというと、当時実際にニューヨークで生じたメアリ・シシリア・ロジャーズ殺人事件を、新聞記事から、推理のみで解明しようとしているのです。日本の三億事件や××殺人事件といった現実に起こった事件を、小説でマジで解いてみようという試みです。現実の事件において、どこまで素人探偵が推理を駆使できるかですから、究極の推理小説みたいなところがあります。ポーは、新聞記事から得た情報でデュパンの推理を構成するので、当時の一般大衆と同じ条件ということになります。つまり、フェアプレイ。ですからこの小説は、肝心な結末のない、尻切れトンボな推理で終わりを迎え、その後はデュパンの推理通りだったという、とってつけたような虚構の記述で終わります。なんなのこれ? ですが、新聞記事から得られる情報からでは、当然推理に限界があり、その時点で終わりなのも、本物の推理を見せようとしているなら仕方ないのかもしれません。ほんとうに読者とデュパンが同じ位置に立って、推理をしてみようという趣向なのです。

 この作品が当時どれだけの評判になったのかはわかりませんが、現実の事件をモデルにしているセンセーショナルな内容ですから、それなりの反響はあったろうと想像はできます。しかしこの小説、いまは評判悪いんですよ。ポーの失敗作といわれている。江戸時代あたりに起こった実際の殺人事件なんてこちとら知るよしもないし、面白くなくても当然。乱歩ですら、「マリー・ロジェ」は低評価。しかしですね。いま紹介した通り、「マリー・ロジェ」は純粋な推理のみで成り立っている小説なのです。混じりっ気のない、純粋培養の推理小説です。特化しているもなにも、推理しかないような小説なのですから、これが本格推理の雛型であると言っても間違いないと思います。

 で、どうぞみなさん「マリー・ロジェの謎」を読んでみてください。そして、その面白くなさを存分に味わっていただきたい。いやあ、ほんとつまんないですよ。(月見はちょっと面白かったりしています)純粋な推理小説って、こんなにも面白くないもんなんですね。なにが言いたいのかというと、推理小説というのは、ごくほんのわずかな人たちを除けば、面白くない、それどころか退屈な小説であるということです。それをぜひとも知っておいてもらいたいのです。つまり、純粋な推理小説なんて誰も読みたくないような代物なんです。で、その推理部分が特化した「マリー・ロジェの謎」の系譜を引き継いで、果報に挑戦しているのが本格推理です。

 それなら本格推理って、退屈でどう仕様もない推理小説かというと、そうではありません。「マリー・ロジェ」のつまんなさを克服しようとしているのです。推理ってものは元来学術論文みたいに退屈なところがあるから、それを面白く読ませようと工夫を凝らしているのが本格推理だと思ってください


 本格推理の代表作家は、エラリー・クイーンです。クイーンの国名シリーズはその典型的な作品で、これぞ推理小説の真髄といわんばかりの推理と論理で、読者を唸らせてくれます。退屈でしかない推理を、どうやって面白くしているのかを吟味されてみてください。「フランス白粉の謎」「Zの悲劇」のクライマックスの謎解きは、この手の作品のかがみです。クイーン読んだら、クリスティ、カー、は論理性でいまいちに思えてきます。ただし人には好みというものがあり、本格推理の王道といわれているクイーンの諸作には、砂を噛むような味気なさをおぼえる読者が、けっこういるのも事実です。ベストテンの中で、常に「Yの悲劇」が選出され、なぜ国名シリーズが食い込んでこないのか。それを考えてみるのも一興です。

 短編集なら、ハリィ・ケメルマンの「九マイルは遠すぎる」が典型とするにふさわしい出来栄えです。表題作の「九マイルを遠すぎる」を含む八編の純粋推理が楽しめます。序文が、これまた面白い。

 S・S・ヴァン・ダインのファイロ・ヴァンスものは、推理小説か本格推理のどちらに入れるか迷いましたが、マニア好みの傾向が強いということで、本格推理のほうにしました。知的で論理的な雰囲気を漂わせた推理小説としては、ヴァン・ダインの作品はピカイチです。ただ、論理的な解決とするのには、ほんとうはダインの作品は弱いんです。それなのに、さも本格推理を読んだような満足感があります。本格推理の衣装をまとっているからなんですね。ペダントリーと、人を見下した、鼻持ちならない名探偵のヴァンスの魅力という衣装です。本格推理を書く際のコツのひとつです。ペダントリーを散りばめて書くから、知的に見えるのです。麻耶雄嵩氏の「貴族探偵」では、ヴァンスの直系の、しかも究極的な探偵に出会うことができます。東川篤哉氏の「謎解きはディナーのあとで」の執事も、ヴァンスの子孫です。

 日本で名探偵型の本格推理の作家としては、法月綸太郎氏と有栖川有栖氏のお二人の名を挙げておけば十分でしょう。

 凡人型では、コリン・デクスターのモース警部シリーズを代表に挙げます。名探偵型かもしれませんが、そのへんは大目に。デクスターの特徴は、とにかく目まぐるしいまでの仮説の応酬にあります。仮説が出され、その仮説がひっくり返され、また新たな仮説がという連鎖ワザです。つぎつぎと繰り出される推理に、読者は論理の迷路に迷い込んだような気持ちにすらなります。それを楽しむのがデクスターの小説です。普通の推理小説とはちがうところがあるので、くれぐれも用心のほどを。「キドリントンから消えた娘」が代表作で、二年前に失踪した少女は生きているのか? 死んでいるのか? を巡っての一大論理パズルは、まるで、簡単なことをわざと複雑にしているかのようですらあります。それをしているのがモース警部。あ、ユーモアミステリではありませんので、間違えないようにしてください。英国製の本格推理小説です。

 アントニー・バークリーの「毒入りチョコレート事件」も、ひとつの事件に六人の探偵の六様の推理という驚愕の設定で、凡人型の優れものとしていいのではないかと思います。クリスチアナ・ブランドの「緑は危険」「はなれわざ」「ジェゼベルの死」などの諸作も、一応ここに入れることにします。

 さて日本の凡人型の本格推理作家として、まず鮎川哲也氏と土屋隆夫氏を挙げておきます。両氏とも手堅い本格推理の書き手です。新本格とは違った、それ以前の本格の味わいがそこにはあります。鮎川氏を凡人型に入れるのは不遜な思いもしますが、ま、そうしておきます。

 鮎川氏の代表作は「黒いトランク」です。氏の代表作にとどまらず、時刻表の本格推理の、いまでも頂点ではないかと月見は思っています。読むさいにメモがいると言う人がいるほどのレベル。そこがいいんですよ。鬼貫警部シリーズは、大地康夫さんが演じたテレビ番組がありますが、それとはちがう、ココアを愛する独身の鬼貫に会って欲しいものです。あ、「黒いトランク」は、まず映像化不可能。だから本で読むしかありません。死体の入った大型の黒いトランクが発見されるところから始まる物語は、クロフツの「樽」の影響を受けてはいますが、着想自体は横溝正史の「蝶々殺人事件」のコントラバスからだということも、ついでに覚えておきましょう。

 鮎川氏は根っからの本格推理作家で、「リラ荘殺人事件」の名探偵・星影龍三もの、三番館シリーズなど、すべて本格です。それらは凡人型でなく名探偵型です。で、一言いいます。鮎川哲也を知らずに本格を語ることなかれ。これ、決して言い過ぎではありません。氏が熱愛していた作家が、クイーンであるのも重要な点です。

 土屋隆夫氏は、鮎川氏と同じく本格の雄のもうおひと方です。本格を語るうえで忘れてはいけません。氏の特徴は、本格推理と文学の融合を目指されたというものです。代表作は「危険な童話」。限定された場所での殺人事件に仕組まれた二重三重のトリック、そして各章の冒頭に記された童話という趣向です。文学との融合に成功しているかというと、月見は疑問に感じていますが、そういう試みの結晶した小説であることは間違いないと思います。氏が本格推理において重要な作家であるのは、そういう点からです。本格推理で文学しようなんて、できるもんじゃないんです。生半可の腕や気概で挑戦なんてできない。推理小説は文学になりうるかは、月見の考えでは、いまだに誰一人として成功していません。推理小説で芥川賞獲るようなもんなのよ。それに果報に挑戦し続けた土屋氏は、もっと重要視されてしかるべきです。氏の諸作を読むことによって、本格推理と文学の融合を目指した先人の業績を目の当たりにすることができます。「危険な童話」だけでなく、「影の告発」「赤い組曲」「盲目のカラス」も読んでほしいものです。

 両氏のあとの世代の、笹沢佐保氏も本格推理の指向の強い作家の方です。「招かれざる客」「空白の起点」「霧に溶ける」は押さえておきたいです。結城昌次氏の「ひげのある男たち」「長い長い眠り」「仲のいい死体」も好例の作品です。

 あと、都筑道夫氏の存在もはずせません。「七十五羽の烏」、キリオン・スレイシリーズ、退職刑事シリーズがあります。都筑氏については、月見は考え方で影響を受けていますので、章を改めて述べてみたいと思っています。


 東野圭吾氏の「どちらかが彼女を殺した」が、これぞ本格推理の真髄だ! の掟破りの秀作であることも付記しておきます。未読の方は、ぜひ読んでみてください。


 ここでちょっと、月見が挙げている作品が、どれもこれもひと昔ふた昔前のものであることについて述べておきます。いま現在出版されている推理小説を読みなれたみなさんの目からしたら、月見が紹介している本は、古びた、いまさら読むに値しない作品ばかりかもしれません。しかし逆も真で、それらを読んできた月見の目から見たら、時代背景・時代感覚が変わっているだけで、いまの作品のほとんどは、本質的なところでは、過去の作品のバリェーションばかりなのが実状です。みなさんが古い作品を読んで、いまさらねという同じ思いを、月見は新作のほうに感じています。どちらを先に読んでしまったかの世代ギャップの問題ではありますが、新作よりも、過去の名作・名品と呼ばれている作品のほうに普遍性がそなわっているのはわかられると思います。賞味期限がない、恒久的な特質がですね。古典も読みましょうというのはそういう点からです。実際古典のほうが、そういう特質を知るのには最適です。またここで、お馴染みの作家さんよりも、知らない作家さんのことを紹介したほうが、知識としては有益ではないかと思っています。知っていることよりも、知らないことを知ったほうが、そりゃ知識は増えますからね。

 たとえば、いま挙げた鮎川氏・土屋氏・笹沢氏・結城氏などは、松本清張が登場して、猫も杓子も社会派一辺倒みたいになり、本格のような作品を書くのが困難な出版状況の中で、それでもそれに合わせながら本格を書いてきた作家の方たちです。いまの書き手の方たちとは違う本格スピリットを、作品を通じて味あうことができます。


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