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推理小説の仕分け 3-1 推理小説

     3


 この段落では、推理小説、本格推理、本格ミステリ、探偵小説を、作品名を挙げることによって、いくぶんイメージとして具体化してみようかと思います。ただし、それは月見カラーのもので、どの作品、どの作家を、どこに仕分けするかの、参考以上のものではありません。


 1 推理小説――推理による論理的な謎解きの面白さを主眼とした小説


 最初のほうでも書いたようにこれの代表作家はアガサ・クリスティです。「スタイルズ荘の怪事件」を初めとした、「アクロイド殺し」「青列車の謎」「ABC殺人事件」「オリエント急行殺人事件」「カーテン」といったポアロもの、「鏡は横にひび割れて」「牧師館の殺人」「スリーピング・マーダー」といったミス・マープルもの、これら全部を月見は推理小説と考えています。その典型的な代表としてです。

 クリスティの作品は本格に属するものだろうという意見もあるでしょうが、月見の考えでは、クリスティは本格というほど特化していないと思います。馴染みやすいし、読みやすいし、わかりやすい。論理もトリックもほどほどにほどこされていて、犯人当て(フーダニット)がたっぷり楽しめます。クイーンやカーとはそのへんがちがう。なぜって。二人は本格だからなの。ところで本格って、推理小説の中でもひときわ優れているわけじゃないんですよ。良し悪しはどこに分類されるかとは関係ないことです。分類は、あくまでただの分類。ここで書いておきますが、クイーンにもカーにも、フーダニットの要素はあります。しかしそれよりも、クイーンの場合は、緻密なまでの論理による推理が読み所ですし、カーの場合は、不可能興味とそれを支えるトリック、加えるに作品に漂う怪奇・ロマン趣味が読み所です。そのへんで特化しているので、月見はお二人を本格の重鎮としているのです

 その点クリスティは、どの作品もシンプルなフーダニットの興味で全編が貫かれています。いったい誰が犯人なのだで、読者は翻弄されます。プロットも人物の配置もそのためのものです。それのスペシャリスト。推理小説の女王の呼び名は、女史のためにだけあるといえます。


 *フーダニットという点で抜き出ているから、推理小説と言っているわけではありませんので、注意してください。それが関連していないわけではないんですけど、クリスティの作品は、読み終わったあとに、ああ、推理小説を読んだという実感に浸れるんです。その点で、クイーン、カーより上なんです。クイーンとカーは、読後感が本格を堪能させてもらいましたという感じになります。ま、月見の感覚的なものですけどね。

 じつは月見は、推理小説の神殿を夢想する時に、ポーやドイルを天空にし、その下にそびえる三つの御柱を、クリスティ、クイーン、カーの三人にしたものだと思っています。推理小説、本格推理、本格ミステリ、の三つに分けているのも、そのお三方をそれぞれの御柱に当てはめたいためなのです。月見の個人的な思いですが、それだけは譲れません。


 で、日本での推理作家の代表格は横溝正史を挙げます。反論が出るでしょうね。横溝正史こそ、日本の本格ミステリの大御所とする人が大半でしょうから。確かに、「本陣殺人事件」「獄門島」「悪魔の手毬唄」あたりは本格ミステリとしても遜色ないです。「蝶々殺人事件」は本格推理の草分け。しかし、「八つ墓村」「犬神家の一族」あたりだと、ちょっと本格とは言い難い。それに横溝正史は、カーほど怪奇趣味が濃厚なわけでもない。乱歩のほうが趣味・嗜好に走っている。「本陣殺人事件」は正史本人が、カーに触発されたものと述べられていますが、正史の資質そのものは推理小説タイプではないかと、月見は思っています。坂口安吾が正史を高く評価しているのですが、安吾はクリスティの大ファンでした。月見は、技巧の面から、クリスティと正史に似たものを感じています。そういう点から、横溝正史は、作家としては推理小説の大家とするほうがいいのではないかと思っています。本家と分家の陰湿な確執や日本人の土着性にばかり目を向けていたら、横溝正史を、いまひとつ把握できないでしょう。都会を舞台にした「白と黒」のほうが、作品としてはかなり見劣りしますが、正史の資質がよくわかると思っています。ただ、推理小説でない「鬼火」「蔵の中」のような作品においては、正史はまぎれもない幻視者です。

 では乱歩はどうか。資質的には、本格ミステリ作家でしょうね。しかし実際にものにしたのは、推理小説。それも短編のほうだけで。長編の「蜘蛛男」から始まった「黄金仮面」「黒蜥蜴」「孤島の鬼」などは、メチャ面白いけど、やはり通俗スリラーでミステリの範疇だと思っています。本格ミステリの資質でありながら、それが果たせなかったのが、乱歩ではないでしょうか。また乱歩自身が、本格ミステリよりも理知的な推理小説を書いてみたいと思っていたような気がします。長編の推理小説をものにできなかったのが残念だと、乱歩は述懐しています。ただ、そういう矛盾を抱えたあたりが、乱歩の小説を乱歩ならしめていて、誰にも追いつけないとこまでいっちゃっています。乱歩の独壇場ともいえるエログロにしても、そこばかりが強調されてはいますけど、底のほうに少年の無邪気さというか清純さというか、そんなものがあります。ほんとうに少年の心を失っていないの。だから、「怪人二十面相」を書けたんですね。もし乱歩がいまの時代の人だったら、すごいライトノベルをものにしたかもです。また、推理小説界で、ご本人は意識していなかったみたいですけど、結果として一番文学に近い位置にいるのが乱歩です。


 ところで、いろいろ書いていますけど、基準にしているのが、定義や分類であるのはわかってもらえているでしょうか。月見がここでしているのは、それらをモノサシのように使って、作品や作家を考えてみようという例を提示しているのです。おわかりのように、ひとりの作家、ひとつの作品を、定義や分類に収めようとしても無理難題です。そういう行為が不毛でしかないように思えるほどです。では、ほんとうに無意味なことなのか。正直言って、推理小説を読んで楽しむだけなら、定義とか分類にこだわる必要はないと思います。ただ、書いてみたいとか、研究してみたいとか、テクニックを盗みたいと思うなら、必要でしょう。定義や分類があったら、作品を計れるんですよね。ほんとモノサシ。そして計りきれない部分があったりしたら、意外とそこにヒントがあったりします。横溝正史の場合で言うと、本格ミステリのモノサシでは計りきれない部分があって、その部分に推理小説のモノサシをあてがうとしっくりくる。そういう、いままで見えてこなかったものが見えてくるんです。で、推理小説を書く際に、正史みたいなものにしたいと思った時、その見つけたものが役立ってきます。

 正史については、それはおまえの解釈だろうと言われればその通りですが、そうでなくて、そういう個人的なモノサシを持つことの意味をここでは言いたいわけです。

 横溝正史でもう少し話を続けさせてもらうと、「本陣殺人事件」と「蝶々殺人事件」は、ほぼ同時期に「宝石」と「ロック」に連載されたもので、「本陣」がカーだから、それと同じものになっちゃ困る、それで全然別なスタイルで書いたのが「蝶々」とご本人が言われており、「蝶々」がクリスティのような作品と評されているのにも納得されています。このへん、分類が頭にあったらよくわかります。ちなみに、「本陣」が探偵作家の支持を得、「蝶々」が安吾をはじめとした文学者の支持を得たのも面白い点です。「獄門島」も、クリスティの「そして誰もいなくなった」を読んだのがきっかけで、その前に読んでいたヴァン・ダインの「僧正殺人事件」のマザーグースの趣向が自分の好みに合ったものの、しかしそういう趣向は二度と使ってはいけないと思っていたら、クリスティが同じことをやっている、それでは自分もやっていいのだと思って、あの方向性が決まったそうです。驚くべきは「八つ墓村」にもクリスティは関連してきます。坂口安吾の「不連続殺人事件」の三回までを読んだ正史は、「ABC殺人事件」の複合化だと安吾の意図を見破り、その時考えていた作品を、「ABC殺人事件」の複合化で案を練り始めた、それが「八つ墓村」だと言われています。以上のことは、正史大先生が対談やエッセイで述べられていることです。「本陣」の冒頭と最後を読んだら、正史が、推理小説を書く際にクリスティを意識していたのは明らかです。旧家を舞台に、おどろおどろしい雰囲気と、どろどろした人間関係を使えば横溝正史の真似ができると思っている人に、はっきり言います、とんだ間違いです。大事な点を見逃しています。分類というモノサシがあったら、そういうことが見えてくるのです。着眼点に変化が出ます。


 *月見の使っているモノサシは、クリスティ、クイーン、カー、の三本のモノサシがおもです。違うモノサシもありますが、推理小説を読み解くさいには、その三本を利用しています。読み解くことの重要性は、「小説作法の本について」で述べた通りです。


 いかん、いかん。だいぶ寄り道をしてしまいました。好きな作家や作品になると熱弁をふるいたくなるのが、推理小説ファンの悪い癖です。話の軸を戻すとして、ここまでで推理小説の名探偵型を中心にしてきましたので、凡人型にも言及したいと思います。

 代表はクロフツです。「樽」「マギル卿最後の旅」「フレンチ警部最大の謎」などなど。クロフツの作品の難点は、海外が舞台なので土地鑑のない日本人には、アリバイ崩しがよくわからないという点です。それで月見も数点しか読んでいない。ジョルジュ・シムノンのメグレ警部ものも、凡人型に属していると言っていいと思うのですが、メグレものは推理的興味は希薄で、ここに挙げるのにためらいがあります。で、凡人型推理小説の代表として、松本清張の「点と線」「時間の習俗」「砂の器」を挙げておきます。清張の作品というのは、名探偵型の推理や論理を期待するとコケますが、それでいて意外なほどに謎やトリックや論理があるところが読み所です。いまの若い人は清張を読んでいない方が多いのですが、乱歩、正史と並んで、必ず読んでおくべき作家のひとりです。

 清張が絶賛していた海外作家が、「百万に一つの偶然」などの迷宮課シリーズのロイ・ヴィカーズです。迷宮課は倒叙モノですが、そのすごいところは、迷宮入りした事件が偶然をきっかけにして解明されるという点です。論理に頼らず偶然に頼るんです。それでいて推理小説になっているんですね。月見の定義に反するようだけど、確かにコロンボのような推理を楽しめます。クイーンが序文を献上しているぐらいですから、推理小説であるの間違いありません。凡人型の代表として迷宮課も挙げていいと思います。

 宮部みゆきさんの「火車」も凡人型の優れた作品です。東野圭吾氏のデビュー作の「放課後」「卒業」「魔球」などもそうです。ガリレオシリーズは名探偵型ですね。赤川次郎氏の「幽霊列車」からの幽霊シリーズは、凡人型と名探偵型の複合です。

 しかし、いまこれ書いていて思っているんですけど、意外なほどに凡人型ので、これぞという作品はないですね。森村誠一氏、佐野洋氏、大谷洋太郎氏、斉藤栄氏なんかがそうなんですけど、これといってタイトルが浮かんでこない。というより、タイトル挙げても、ほとんどの人が知らないだろうから挙げられないのです。でも、じつは凡人型の作品ってかなり多いんです。江戸川乱歩賞受賞作のうちの、推理小説と呼べる作品のほとんどが、凡人型です。皮肉なことに、落選作のほうに名探偵型が多い。どうしてかというと、乱歩賞がまず小説であることを重視しているからです。凡人型はそれに秀でています。ただそのせいで、推理小説というよりミステリ仕立てになってきます。また、凡人型は警察小説へと流れています。警察小説と推理小説の違いというのは、警察小説は警察という組織の話で、推理より捜査で解決するんですね。捜査の中には推理的な部分もありますが、推理による論理的な面白さを主眼とはしていません。

 「猫は知っていた」から始まる、仁木雄太郎と悦子の兄妹を探偵役にした仁木悦子の作品は、名探偵型にしたほうが適切かと思いますが、市井の名探偵ということで、凡人型に入れてもいいかもしれません。仁木女史の作品は日常を舞台にしていて、その観点から描かれています。刑事事件を扱っているので同系と見なされていませんが、その作風は「日常の謎」と同じスタイルだと月見は考えています。先駆的作品として、「日常の謎」がお好きな方や書いてみたい方は、仁木女史に一度は触れておかれるべきでしょう。


 とりとめがなくなってきたので、このへんでやめます。

 月見の考えでは、最初に述べたようにクリスティの諸作が「推理小説」の典型です。ポワロ・マープルなどが名探偵型で、ごく普通の人物が探偵役の時は、凡人型のものになっています。トミーとタペンスなんかがそうです。ですから、クリスティを読めば、推理小説の基本、及び名探偵型と凡人型の違いも把握できると思います。


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