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推理小説の仕分け 2-2

     2―2


 島田氏の考えの基礎となる、「ミステリー」が「幻想小説」を母胎にしているという説には月見も納得です。ただ、だからその母胎である「幻想小説」を継承しなくてはいけないかというと、ムムムムです。論理性を持つことによってその「幻想小説」と分かれた点に注目すべきではないかと、月見は思うわけです。前に紹介した「第三者による論理的な視点と推理」というやつですね。推理小説は、幻想味に関係なく、それが発展したものだと思っています。また島田氏が、幻想味のかけらもない、実在の殺人事件をモデルにした、ポーの「マリー・ロジェの謎」に一言も触れられていないことも気になります。「モルグ街の殺人」が最初だから、そこからのみ考察すればいいという考えなのでしょうか。「マリー・ロジェ」は「モルグ」と同じ、ポーのデュパンものなのですよ。そのへんが月見には疑問です。ですから月見は、「論理性」をDNAとして考え、幻想味は切り離しますから、島田氏のように「リアリズムの小説」と「神話の系譜」のようなルーツは想定せずに、月見が分類するところの「名探偵型」と「凡人型」は同じ血を引くもの同士で、島田氏の言うように別物の平行線のものだとは思いません。ポーもドイルもクリスティもクロフツも、横溝正史も松本清張も島田荘司氏も、「推理による論理的な謎解きの面白さを主眼」にしているなら、全部推理小説。

 では「本格」はと言うと、その推理小説の内の、特定の部分が特化した一群のものだと考えます。そういう推理小説に、頭に「本格」の言葉をつけようということです。ここで注意してもらいたいのは、「本格」は推理小説群の中の一部分を指すのだということです。なにが言いたいのかと言うと、一部分であるがゆえに、「推理小説」という言葉の中には「本格」も含まれているのです。


 1 推理小説として面白く読んだが、本格としてはいまひとつだった。

 2 本格として面白く読んだが、推理小説としてはいまひとつだった。


 2の文が妙なのは感じられていますよね。つまり、推理小説内に「本格」は入っていて、「本格」はそれの一部なものだから、2の文は違和感があるのです。月見の考える「本格」は、そういう推理小説の内側にあるものです。言い方を換えると、「本格」はすでに「推理小説」としての形式を備えておかねばならず、それがあったうえでの「本格」という分類になります。

 その「本格」の種別に関しては、島田氏の考えに月見は準じます。「本格ミステリ」と「本格推理」の二つです。ひとつにせず分けて考えたほうが、理解を深めるのに役立ちます。また、「推理小説」を分類のひとつとして想定しているのは、「本格ミステリ」と「本格推理」の二つだけでは、分類としてはどこか不備な気がするからです。その二つだけでは、許容できない「推理小説」なるものがあるということです。松本清張氏の「点と線」を、「本格推理」とは呼べないと思うのです。やはり、「推理小説」とするのが一番しっくりきます。で、「推理小説」と「本格ミステリ」と「本格推理」、それと後述する「探偵小説」に分けて考えている次第です。この分類の仕方が正解と言うわけではありません。あくまで月見の場合は、そう考えているというだけのことです。


 ちなみに「幻影城」での乱歩の分類を紹介してみます。


 第一、ゲーム探偵小説――月見の「名探偵型」みたいなものです。手がかりを提示し、フェアプレイを守る必要があります。

 第二、非ゲーム探偵小説――月見の「凡人型」みたいなものです。クロフツを代表としています。ホームズとブラウン神父もこれとされています。

 第三、倒叙探偵小説――犯人側から書かれた探偵小説です。


 以上の三つが乱歩の分類です。ゲーム性から分けたもので、すごくわかりやすいですね。乱歩、島田氏、月見、どの分類が正しいなんてことは言えません。個人の感性・観点から分類はあっていいものです。自分が重点をおきたい観点からの分類が、一番自分に合っているはずです。

 島田氏の「本格ミステリー宣言」は、平成元年の、いまから二十年前以上のものではありますが、分類にとどまらず、推理小説を考えるうえでの有益な本です。ここでは紹介しきれない内容があり、宣言でなく、本格ミステリの書き方になっているとこがミソです。ぜひ、ご一読を。また、島田氏の主張される「幻想味・詩美性」を、月見は推理小説を面白くするための要素のひとつと考えていて、その点あたりを別にすれば、本質的には島田氏と月見の考えは大差ないと思っています。(好みはちがいます)いま現在島田氏が、考え方を変えられたかどうかは把握していませんが、二〇〇七年の「島田荘司のミステリー教室」の内容紹介分を読む限りでは、それほど変わっていないという印象を持ちました。


 ところで、どうしてこんなにまで執拗に、月見が「本格ミステリ」と「本格推理」の説明をしたのかを、ぼやいちゃいます。それは昨今その二つが、意味を省みられることなく、使用される風潮になっているからです。早い話が、同じものとして認識されてしまっている傾向が強い。分類や定義なんてものは、いらないと言ってしまえばそういうものです。規制があるわけでなし、どう使おうと自由。しかしね。二つを一緒くたにされては不都合なこともあるんですよ。本格ミステリを本格推理として紹介されたのでは、えっ? となったりするの。月見としては、チョコレートと思って食べたらキャラメルじゃないか、商標に偽りあるじゃん、となるわけ。チョコレートを知らない人だったら、キャラメルをチョコレートと思い込むこともあったりする。そうなってくると、認識に食い違いがおこり、チョコレートの話をしているつもりが、相手はキャラメルの話だったりして、その逆も生じてくる。

 また、語呂がいいのと、字面のイメージがとっつきやすいせいで、本格ミステリの言葉がいま一人歩きをしています。ミステリという言葉の許容が広いので、それならなんでも許されると勘違いしている。警察小説で、サスペンスで、恋愛要素も入って、謎解きもあるから、本格ミステリにしようという感じですね。つまり、「本格ミステリ」って使い勝手がいいの。だから猫も杓子も、自分が書いた謎解き話は「本格ミステリ」と称するようになるわけです。「本格推理」は言葉の敷居がいささか高い感じがするので、敬遠されてしまう。「本格ミステリ」イコール「本格」(島田氏による本格ミステリーと本格推理の複合の意)ぐらいならいいんですけど、論理なくても謎が解けたら、それは「本格ミステリ」という風潮はなんとかならいものでしょうか。それと、それによって「推理」という要素の重大さが見失われつつあるんですよ。目にしないものだから、気にしなくなってくる。月見の定義では「推理」って、推理小説を成らしめている肝心要の要素なの。それを忘れてもらったのでは……。「この推理小説には推理はありません」というのを平気で言われたりしたら、なんのこっちゃと、月見は嘆くしかないのです。それはあんたの勝手さと言われればそうだけど、なら推理小説でなくミステリとしろよという月見の考えは、そんなに独断と偏見に満ちていますか。

 ハハハ、ぼやいちゃいました。ここまで読んでくださっているみなさん方は、どうぞ月見の考えを、心にとどめておかれるようにお願いする次第であります。


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