推理小説とは? ~定義をめぐって~ 3
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さて、月見の定義の解説を再開します。ここからが、この章においてのメインです。推理小説を、推理小説成らしめているものを説明したいのです。もう一度月見の定義を出します。
「推理小説とは、推理による論理的な謎解きの面白さを主眼とした小説」
これの「推理による論理的な謎解き」。これが、推理小説を推理小説成らしめている肝心な点だと月見は思います。これが抜けたら、それは推理小説とは呼べないでしょう。推理小説をほかの小説と分け隔てする境界線でもあります。その面白さを主眼としなくてはいけないのです。
なんだ、あたりまえのことじゃん。それに、解説って、読んだだけじゃん。
その通りですね。しかしじっくり考えてください。トリック入っていませんよね。乱歩の定義もそうなっていますけど、トリックも、推理小説の必須条件じゃないんですね。乱歩の定義に再度登場を願いましょう。
「探偵小説とは、主として犯罪に関する難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれて行く経路の面白さを主眼とする文学である」
ね、トリック入っていないでしょう。トリックに関しては後述させてもらうとして、話を進めます。「推理による論理的な謎解き」の「推理」は、辞書によるとこうなります。
1 わかっていることをもとにして、まだわかってないことを考えること。
2 あらかじめ与えられた何らかの前提から新しい結論を論理的に導き出す働き。
この1・2が意味するとこの「推理」が、推理小説の要だと月見は考えます。その「推理」をもとに、論理を駆使して、謎の意味を解き明かすことの面白さを主眼とするのが、推理小説の、ほかのジャンル小説と違うところです。推理と論理による謎の究明ですね。あたりまえのことばかりを何度も言ってるとうんざりされているかもしれませんが、ここはすごく重要な点です。意見が分かれるほどです。探偵役が直観で解決するのをどう判断するかです。ここまで読まれていて、あたりまえのことばかりだと感じられている方は、それは違うだろうと判断されていると思いますが、ことはそう簡単ではありません。
ここに密室の謎があったとします。その部屋からどうやって出たのかがわからない謎です。探偵役が登場して、論理的に、じつはこういう方法だったんだと解いてみせます。これは推理小説でしょうか。論理は入っていますが、推理は入っていない。つまり、部屋からの脱出方法の説明は論理的だが、どうして探偵にそれがわかったのかという推理の道筋が入っていない。もしくは、それは直観とされる。こういうのを直観型推理としますが、それは推理小説として正しい遣り方でしょうか。推理でなく、直観でわかることがです。
1 推理や経験によらず、直接的・瞬間的に、物事の本質をとらえること。
2 知識の持ち主が熟知している知の領域で持つ、推論など論理操作を差し挟まない直接的かつ即時的な認識の形式。
辞書による「直観」の解釈です。「推理」や「論理」が排除されています。すでに直観型推理という言葉自体、矛盾を抱えています。
しかし、直観型推理の推理小説がどれほど多いことか、ごまんとあります。古今東西の名作にも数知れないほどです。トリックの宝庫と言われるチェスタトンのブラウン神父シリーズが、直観型推理の代表格です。解明は論理的なのだが、どうしてブラウン神父にそれがわかったのかの説明はほとんどなく、直観と経験によるものと考えるほかありません。また、どの推理小説においても、なぜ? なぜ? なぜ? と、どうしてわかったのかを追求していくと、最終的に直観と経験に辿り着いてしまいます。つまり、直観と経験をゼロにできるような、推理だけの解明は無理なわけです。乱歩の定義に「論理的な」はあるのに「推理」という言葉がないのは、そのためではないかと月見は思う次第です。「推理」で限定すると、推理小説として残る作品はほとんどなくなってしまうんです。現実としては月見も、直観型推理を承認せざるをえません。それなのに、どうして月見の定義には「推理による」がつけ加えられているのか。それは、たとえそれによってすべての推理小説が除外されようとも、推理小説を推理小説成らしめているのが「推理による」ものだと、月見が信じているからです。それだけは絶対に忘れてはいけないことだと思うからです。つまり、月見の定義には理想も入っているのです。「推理による」を省くか、「主に推理による」かに書き改めたほうが、定義としてはより正確になりますが、省いたり弱めたりするのは、いけないと思ってそうしています。それほど重要なものだと考えています。そのことについて説明します。
あ、テレビの二時間ドラマのミステリもののように、探偵役が偶然と直観で事件を解決していくような話は論外ね。推理小説かどうか以前の話。
社会学や心理学、あるいは歴史学、または哲学の本を読んで、推理小説を読んでいるような気分になることってありますよね。「まるで推理小説を読んでいるかのような面白さ」と評される本です。「学」がついた本って、論理的な記述が多いからですね。観察も入っているなら、推理も入っています。ある現象を見て、それがどういう意味をもつのかを理性的に見極めようとしたりしています。歴史学の邪馬台国論争なんて、ほとんど推理小説といっても過言ではないでしょう。ではどうしてそんな学問の本に、推理小説的な面白さを感じるのか。読んでいて推理の興奮を味わえるのか。答えはそのままです。ただたんに、推理による論理的な思考があるからにほかなりません。トリックも、サスペンスがなくても、そうなります。ならばそこから、学問の本でも推理の楽しみを味わえるなら、それが推理小説の本質だと類推することができます。つまり、推理による論理的な思考がです。それさえあれば、小説でなくても推理の面白さは出せるわけです。月見が、推理小説において「推理」が肝心要の点だと考えたのはそういう理由からです。
「ゴッホの遺言」というノンフイクション小説があります。二〇〇〇年度の日本推理作家協会賞を受賞しています。推理畑の作品でないのにの受賞ですから、今作が推理小説の面白さを体現しているものであることはご理解いただけると思います。
その内容ですが、ゴッホ作とされている一枚のスケッチを贋作と証明するものです。美術館に所蔵されているものを贋作とするのですから、恐れ入ります。生半可な気持ちでは書けません。しかもどうしてそれを贋作としたのかというと、直観なんです。見て偽物だと思った。それでそれを証明するために、著者の小林英樹氏は、絵画理論などによる執拗なまでの推理を展開し、読むほうは圧倒され放しで、こりゃ贋作としか思えないになります。ちょっと触れておきますが、意外な結末でないことに注意してください。冒頭のほうで直観で贋作と見抜いたことが提示され、それを証明するための推理という構成になっています。つまり、意外な結末を最後に用意しなくても、面白い推理小説は書けるのです。推理が素晴らしいものだったら、満足感を与えることができるのです。
つぎに、梅原猛氏の「隠された十字架」。法隆寺を、聖徳太子の怨霊を鎮めるための寺とする仮説を打ち出しています。史料を駆使した、ペダンチックに溢れた推理を展開し、ええっ、ええっの連続で、よくぞこれだけ風呂敷を広げたもんだと感心してしまう。法隆寺に門がないとか知ってました? いやあ、面白い。発表当時は、ミステリマガジンの書評で取り上げられ、これこそ推理小説を読む楽しみだと、現行ミステリへの皮肉を込めて称賛されていたのをおぼえています。
海外作品から、デズモント・モリスの「裸のサル」。動物行動学から見た人間の生態を述べた本です。男女でなく、雄雌で表記されています。人間の雄は……、という文章。なぜ寺や教会の門や柱は、あんなに大きいのか。そりゃ、威光を示すためだろう。大勢の人が入りやすくするためだろう。モリスの考えはちがいます。そこに住んでいる人の身の丈に合わせてあるのだと言います。えっ! です。 なぜ人間は二足歩行をするようになったのか。道具を使うようになったから。ブー。火を使うようになったから。ブー。水陸両棲生活の時期があったからだそうです。チンパンジーと共通する祖先のサルが海辺で餌を取るようになり、それがだんだんと餌を得るために海に入っていき、深くなるにともない二本足で立つようになってきた。人間というサルに毛がなくなったのは、海で活動していたからだ。すごい推理です。謎が解けたカタルシスがあります。
あと、NHKスペシャルで放送された、報道カメラマンのロバート・キャパの有名な一枚の写真を、先端の科学技術を用いて、キャパの撮影したものではないという推理と証明をしてみせた番組も、お見事な出来でした。
以上の三作品とテレビ番組、真偽のほどはべつにして、並みの推理小説の二冊三冊ぶんぐらいある、スリリングな推理を楽しめます。推理による論理的な謎解きに満ちているからです。つまり、推理の楽しみってそれなんです。そしてそれを小説の形式で表現したのが推理小説にほかならないんです。「推理」が肝心要で、それがなかったら推理小説として成立しないのがおわかりいだけたでしょうか。
つづく




