推理小説とは? ~定義をめぐって~ 2
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前段落に続き、ここでもう少し、月見がなぜ定義づけが大切と思っているかを述べさせてもらいます。ひとつは、前記しましたように好みの問題のせいです。話しているうちに相手がミステリファンだとわかって、同好の士だと思って話し込むと、なんだか話がちぐはぐになってしまった経験ありませんか。そして同じミステリファンでも好みがちがうんだと、納得してしまう。すると話はそこで終わってしまうんです。好みで話すからなんです。しかしそこに、定義(だけとは限っていません)みたいなものがあると、それで話ができ、それを元に相手のいろんな考えを得ることができます。月見の場合は、ハードボイルドファンの方と話すときに便利です。ハードボイルドは推理小説か、の問答で話がつきません。また、ハードボイルドファンの方からは、推理小説は小説といえるかと突っ込まれたりします。そうやって見識広がっていきます。
次に、これもやはり人の好みが関わってくるのですが、推理小説の裾野の問題です。どこまでを推理小説とするかです。推理小説でない小説を、推理小説にしたがる人の多いこと。しかもそれを推理小説だと信じている。裾野が広がりすぎたんですね。自分の好みで推理小説にしてしまう人が多いんです。そのためジャンルの特性が混乱してきているのが現状です。特性をある程度認識していないと、ジャンルの把握はできません。定義とは、その特性を明瞭にするためのもので、それで必要なのです。定義があったらそれを基準にして、選別もできるなら、ジャンルについて考えることもできるのです。
これに関しては例を挙げます。人気のある作家さんのほうがインパクトがあるので、米澤穂信さんの著作を、月見の定義をもとに考えてみます。
で、まずは「さよなら妖精」ですが、これは推理小説ではありません。青春小説と捉えたほうが正解です。推理部分もあるのですが、謎解きの面白さを主眼としてはいません。作者の書きたいものはべつなことです。推理部分はスパイス程度です。彼女がいまどこにいるのかを探し出そうとする話が軸になっているので、推理小説の形式にはなっていますが、形式どまりです。串団子に例えると、青春小説が団子の部分で、推理小説は串なのです。団子をつなぐためのね。作者が食べさせたいのは、もちろん団子で、串ではない。食べたほうも、団子を食べたはずで、串ではないはず。それなのに、串を食べたと思う人が多いんです。ちがうって、あなたが食べたのは団子のほうなの。過去にあった青春シーンを語りたいがゆえに、彼女探しの話が設定されているのであって、彼女探しを目的としているがゆえに、過去を追跡しているというふうにはなっていないのです。もし後者のように彼女探しを目的としていたら、過去の語りはそれに沿ったものになるはずなのに、そうなってはいません。また、探す相手の彼女が国外にいて、それを探している場所が日本国内の喫茶店では、緊迫感に欠け、クイズどまりです。現地で一刻も早く探し出さなければいけない状況の話なら、ぜんぜん違うものになっていたと思います。
ただ誤解なきよう。月見は「さよなら妖精」が推理小説ではないと言っているだけで、小説の良し悪しを言っているわけではありません。この小説を好きな人はたくさんいますし、若い方の支持も得ています。ですから、現代青春小説としてはよく出来ているのだろうなと判断しています。月見にわからないのは、なぜこの小説を推理小説のカテゴリーに入れたがるかです。はっきり言います。推理小説と見た場合、出来よくないですよ。面白さの軸が完全にはずれています。串団子でいうなら、団子にするほうと串にするほうを間違っている。それなのに、なぜ推理小説として高評価を与えたがるのか?
いや、おまえが間違っている。「さよなら妖精」みたいなのが、これから先の新しい推理小説であって、それをおまえが理解していないだけだ。
ならば言います。基準を逸脱しているのなら、それはもうべつの小説なのではないでしょうか。それを無理やり入れようとしているから、「新しい」という言葉をつけなくてはいけないのではないでしょうか。また、それを新しいこれからの推理小説とされるなら、あなたの推理小説の定義はなんなのですか。ジャンルの特性をどこにされるつもりですか。「さよなら妖精」を読んで、あなたは推理小説として感心しましたか、ほんとうは青春小説として感銘を受けたのではないですか。
つぎに「インシテミル」。これは間違いなく推理小説です。趣向からいって、メタ推理小説といってもいいでしょう。個人的な感想としては、米澤さんが正面から推理小説に挑んできた作品だと思っています。好みかそうでないかはべつです。
で、「折れた竜骨」です。ファンタジー世界での犯人当て小説。これは判断が難しい。月見としては、これが米澤さんの作品の中では一番面白かったです。推理小説のカテゴリーの中に入れられても文句は言えない。そのへんがよく出来ているんですわ。ただね。ファンタジーのストーリー部分が面白すぎるの。やっぱ推理小説の箇所は、串団子の、団子でなく串の部分なんですよね。ただその串が、「さよなら妖精」と違って美味しいんです。串だけでもベロベロ舐めていたい。ファンタジーと推理小説の融合した作品として、高評価が与えられたのにもうなずけます。が、月見はやはり一抹の疑問を感じてはいます。推理小説とファンタジーのどちらに分類するべきか。
そういうことをウジウジ考えているからいけないの。融合作品なんだから分類できるわけないでしょう。バカじゃないの。
うんうん、それはわかるんですよね。でもなんか落ち着かないんだよな。ファンタジー小説ファンの人に聞いてみたい。「折れた竜骨」、ファンタジーとしてはどうなんですか?
ジェイムズ・P・ホーガンに「星を継ぐもの」という名作があります。月面で発見された五万年以上前の人間の死体の謎を解くという、壮大なストーリーです。話の軸は、ほとんどその謎の解明で、SF的な設定の論理的な推理によるもの。推理小説の醍醐味ここに在りです。で、この作品、ジャンルとしてはSFに分類されています。月見はそれが正しいと思っています。SFとすることに賛成です。
米澤さんの作品の感想文みたいになってきました。主旨である、定義の必要性に話を戻します。米澤さんの作品をここで取り上げたのは、ボーダーライン上の作品が多く、適していると思ったからです。定義を元にすれば、いろいろ考察ができるのがおわかりいただければそれでけっこうなのです。面白かった、よかった、だけでない、先の思考ができるんですね。ここで述べたのは、推理小説の定義をもとにしたら米澤さんの小説はどうなるかという、狭い思考での試みであることもお忘れなく。小説としてどうという話ではありません。それと、米澤さんの著作はボーダーライン上ですが、ほかの作家さんが書かれたもので明らかに推理小説でないのが、推理小説とされていることが多々あります。それがジャンルを混沌化させ、誤解を生んでいるので、それらを見極めるためにも、ある程度の境界を示した定義は必要です。フィーリングで判断するのはよしましょう。新本格系列の作家さんが書かれているからそれは推理小説、これ絶対やめましょう。
定義を持つことの意味を、もうひとつだけあげさせてもらいます。推理小説を創作する際に役立ちます。分けて、考えることができるんですね。いざ書こうとする段に、頭の中で整理整頓できていなかったら、一向に思考が進みません。これはこう、あれはこうだと、考えていくためには分けてたほうが便利です。定義があったら、推理小説にするための必須条件がわかり、それを満たせばいい。で、それを面白くするには、「発端の不可思議性」「中途のサスペンス」「結末の意外性」を盛り込めばいいと、考えを進めていくことができます。実際にはこう簡単にいきませんが、たとえば最初に「意外な結末」を思いついたとした場合、「意外な結末」というのは面白くするためのものであって、それを推理小説にするには、必須条件を利用すればいいのだから……、というふうに持っていったほうが効率的です。また発想の段階でも、「意外な結末」は面白さのひとつとして捉えたほうが浮かびやすい。推理小説だから「意外な結末」にしなくてはいけないと考えると、なかなか難しい。「意外な結末」が面白さなのだと把握ができておらず、推理小説の要素と考えてしまうせいで思考の袋小路にはまってしまいます。それと、「意外な結末」というのは、ショートショートでも要求されることが多いもので、推理小説の専売特許ではありません。つまり「意外な結末」を思いついてそれを書いたとしても、推理小説になるとは決まっていないのです。うまい作者なら、ありふれた結末でも、推理による論理的な面白さで読ませることもできるのです。そういうことに気づくのも、分けて考えるという思考によるものです。
ここまで、推理小説を定義づける意味について述べてきました。簡単にいうと、四つ足で目が二つあって全身に毛がふさふさしているから、イヌはネコであるみたいな判断はしないようにしましょうということです。同じ部分だけを見て判断するのでなく、違う点に注目すべきです。それをいくらかでも指摘するのが定義です。それがあったら、イヌをネコと見誤るミスを防ぐことができるのです。創作における思考もスムーズにいきます。「発端の不可思議性」「中途のサスペンス」「意外な結末」の三項目をクリアしたホラー小説が、たくさんあることに気づいてください。でもそれはホラーであって、推理小説ではないのです。三項目は、推理小説にかぎったものでなく、小説を面白くする要素なのです。
つづく




