推理小説とは? ~定義をめぐって~ 1
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やっとこさ、推理小説の話へと進むことができました。
推理小説とはなんぞや? みたいなことを、乱歩の定義を取っかかりにして、こんがらかりながらも考えてみようかと思います。
では、江戸川乱歩による有名な推理小説の定義です。
「探偵小説とは、主として犯罪に関する難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれて行く経路の面白さを主眼とする文学である」
昭和二十六年に発刊された「幻影城」による定義で、頭が探偵小説となっているのは、当時まだ推理小説という用語が使われていなかったからです。さすが乱歩、いまでも礎となるべく定義です。推理小説の道標として肝に銘じるべしですね。久しぶりに読んで月見も、ここに初心忘れるべからず、があるよなと感慨にふけっております。
で、月見が問題ありと思っているのは、この定義に付属してよく言われることとして、「発端の不可思議性」「中途のサスペンス」「結末の意外性」の三つが、推理小説の条件とされていることなんです。おわかりの通り、乱歩は定義のなかでそんなこと言っていません。それなのに、その三項目が推理小説の必須条件みたいに指摘されることが多い。さも、当然というふうにです。
どうしてそうなったかのかというと、乱歩は、先の定義を解説する文章のなかでこう述べているんですね。
「私は探偵小説の面白さの条件として、出発点に於ける不可思議性、中道に於けるサスペンス、結末の意外性の三つを挙げる。この三つのどれが欠けていても、謎小説としては物足りないのである。併し、世界のベストテンの中にも、三つの条件を完全に備えているものは半分にも足りないであろう。三条件を備えながら、且つ小説として優れたものを書くことは、それほどむつかしいのである」
これが一緒に書かれているものだから、混同されて、推理小説の定義としてまかり通るようになったんですね。月見は、それが問題じゃないかと思うわけです。なぜなら、その三項目で推理小説を論じようとしたり、その三項目さえあればいいんだと思っている人が多いからです。ちがうの。その人たち間違っている。乱歩は、探偵小説を面白くする条件として、その三項目を挙げているんです。自分が好きな推理小説がそれだと言っているだけなんです。つまり三項目は、推理小説を推理小説成らしめる、必須条件というわけではないんです。あくまで、推理小説を面白くする三要素なの。意外性なくても、推理小説は成立するの。ただ面白くないだけ。
なんでそんな些細なこと気にするわけ。そんなことにこだわってもなんにもならないじゃん。面白いほうがいいんだし、いい条件だと思うよ。
ええ、それはそれでわかります。しかし月見はこだわるんです。なぜなら、それによって誤解や弊害が生まれていると思うからです。密室さえ投入すれば推理小説になっているとか、サスペンスを作るには連続殺人にしなくてはいけないとか、意外性のためには記述トリックをすればいいとか。そういった考えがはびこっている。悲しむべきことです。推理小説とはそういう姿勢から生まれるものではありません。それと乱歩も述べているように、三項目を満たすのはベストテン級の作品でもむつかしいのです。高度な技術力なしで出来るものではない。
好み、感想というものは個人的なものと考えますが、評価・批評・研究においては、個人的な思いをべつにして考えなければならないのではないでしょうか。読み解くには、どう考えどう捉えるべきかが大事です。読んで面白かった、こんなのが好きだは、確かに小説を書く際の強い原動力になります。しかし、技術の向上を視野に入れるときには、個人の好みだけでない観点から小説を読み取ろうとする必要があります。「小説作法の本」で取り上げた評論家の眼というやつですね。
そういうことを考えると、推理小説とはなんぞやの定義も必要となってきます。個人個人でご自分の定義を作られてみてください。考えが一歩進んで、書くときに影響与えてくれますから。土台がしっかりしていたほうが、その上に家を建てる際に安定します。逆に土台がぐらついていたら、どんなりっぱな家を建ててもぐらぐらします。
これ以後の内容は、月見の考える推理小説とはなんぞやですが、疑いの目で見られ、好みでなく思考で、自分の定義を作られるための参考と思って読んでくださることを望みます。
さて、乱歩の定義の前ではいささか気おくれしますが、月見の定義を提示します。
「推理小説とは、推理による論理的な謎解きの面白さを主眼とした小説」
実際のところ、定義というより、それが推理小説の神髄だと思っています。神髄とは、肝心な点という意です。ですから、推理小説にとっては、推理による論理的な謎解きの面白さが肝心な点ですよ、というふうに解釈していただくのが適切です。
乱歩の定義と、言葉を変えているだけでほぼ同じです。違うのは、「難解な」と「徐々に解かれて行く経路」を省き、「推理による」を加えていることです。そのことについて述べてみます。
まず定義というものは定義であるということです。定義にすぎないものでもあります。定義とは、ひとつの概念をどこまでの範囲で一括りにし、限定するかです。もっとわかりやすくいえば、仕分けするさいの基準です。この場合ですと、小説のうちのどれを、あるいはどこまでを推理小説とするかということになります。ただ、首と肩の境目をどこにするかが難しいように、はっきりと線引きできない部分もあり、しかしながらそれでも、それを承知のうえで境目を作ろうとしているわけです。
その定義を作るさいに気をつけないといけないのは、面白さや好みで決めてはならないことです。つまり、読んで面白くない、出来の悪い推理小説をも、推理小説の範疇に含めることができる定義にすることが重要です。だってそうでしょう。イヌとかネコを定義するのに、個人の好き嫌いは入れられませんよね。ところが、そのことを忘れて、好き嫌いで推理小説とはなんぞやを定義する人が多いこと。気持ちはわかるんですよね。誰だって自分の好きな小説について語りたいし、自分の好みを力説したいですもんね。でも定義って、それとはちゃいます。自分が嫌悪する作品も、それが推理小説ならば、それを認めざるをえません。定義の大事な点って、じつはそこにあるのではないかと月見は考えています。好み優先になりがちな自分の見方を諌めてくれます。逆に、自分の好みがはっきりする場合もあります。少なくとも、推理小説を考えるときのモノサシにはなってくれます。
そういう考えから月見は、読んで面白くないけど推理小説には違いないよな、と思える小説を元にして定義を作りました。不可思議性なくても、サスペンスなくても、意外性なくても、推理小説している作品ごろごろあります。それで、三項目を排除し、「難解な秘密」と「徐々に解かれていく経路」を省きました。難解でないのたくさんあります。唐突に最後に探偵が出てきて、じつはこうこうでしたとする話もたくさんあります。面白くはなくても、推理小説であることは認めざるをえません。そうやって、推理小説を形成している必須条件となっているものを抜き出したのが月見の定義です。
つづく




