第四話 黒い剣-5
「おかえり」
ベッドに横になっていたイリーズが、右手を胸の上に置いた状態のまま言う。
「早かったね」
「頑張ったからね。ほら、これが言ってた剣よね? サラーマとウェンディー……」
彼女はイリーズが横になっているベッドへ駆け寄り、背負っていた剣を見せようとしたが、城へ帰ってきてから感じていた致命的な違和感の正体に気付かされた。
こう言う時に最初に声をかけてくるはずの、赤い髪の妖精がこの場にいない。
その妖精がいるのなら、この部屋は外と同じ様な極寒ではない。もっと暖かく、過ごしやすいはずだった。
「イリーズ、サラーマは?」
イリーズのベッドに来て、彼女は息を飲み、言葉を失った。
イリーズの顔色は生気など皆無であり、異常に白い。目を開こうとせず、顔も動かそうとしないが、それは本人の意図するところではない。動かそうとしないのではなく、もうその動きすらできないのだ。
彼女の声を聞いて、無理にでも答えたのだろう。
そのイリーズだけでも言葉を失う程だったが、それだけでは無かった。
イリーズは右手を胸の上に置いていたのだが、その胸と手の間にウェンディーがいた。小さな妖精だったウェンディーだが、手の平にすっぽりと隠れる様な大きさではない。
「……あ、おかえりなさい。間に合ったんですね」
ウェンディーは目を開くと、虚ろな瞳を彼女に向ける。
青い宝石の様に澄んでいた瞳は濁り、焦点の合わない今のウェンディーには彼女は見えていないだろう。
「お腹空いてますよね? 少し待ってて下さい。すぐにご飯の用意しますからね」
ウェンディーはそう言うが、そのウェンディーもイリーズの手の中から動くことなど出来なかった。
小さなウェンディーが、イリーズの手の平の中に収まっているのは、ウェンディーには下半身が無くなっていたからだ。ウェンディーは下半身だけではなく、左腕も失っていた。
「ご飯って、ウェンディー……」
回復のスペシャリストのはずのウェンディーが、自分の現状を知らないはずはない。食事の準備どころか、日常の生活を送る事すら出来ない事くらいわかっているだろう。
それでもこんな事を言うという事は、それさえも分からなくなっているのだ。痛みも無く、現状の状況を飲み込めず、これまでの日常を繰り返そうとしている。それは彼女の命が尽きていく証拠だった。
「え? ど、どういう事?」
彼女は立っていられなくなり、よろめきながらイリーズが横になるベッドの側にへたり込む。
「こ、これ、黒い剣。コレがあれば治るんだよね? 治せるんだよね? お願い、指示をもらえば私だって何か出来る事があるはずだから」
自分でも驚く程震える手は、彼女の意思を完全に無視して痙攣しているかと思うほど震える。それでも背負った剣を外すと、彼女はまったく力の入らない手でその剣をイリーズに見えるように持ち上げる。
「それはもう、必要無いよ」
だが、イリーズは目を開くことも無くかすれる声で答える。
「必要無いって、治ったの?」
エテュセは有りもしない幻想に縋る。せめてそうであって欲しかった。そんな事など有り得ないのは、誰に言われるまでもなく分かっているはずなのに、甘い希望に縋り付く。
「屍人か。死者の秘法をこの様に使うのは初めて見た。いかな外法とはいえ、使い方によるのだな」
彼女の後ろを付いて来ていた『銀の風』が、イリーズを見て言う。
「この様な事まで出来るようになっていたのだな、ウェウティア」
「お久し振りです、アルジャントリー様」
ウェンディーは視線を彼女の後ろにいる、『銀の風』に向ける。と言っても、やはり焦点は合わず、見えているかも分からない。
「ウェウティア、フーディリウスはどうした」
そう尋ねる『銀の風』に、ウェンディーは何も答えなかった。
「どうしのだ」
「ちゃんと黒い剣を手に入れたんですね。思ってたより早かったですし」
ウェンディーは『銀の風』を無視するように、彼女に言う。
「早かったって、一体何があったの? サラーマは? イリーズはどうなってるの?」
彼女は黒い剣を放り投げると、這う様にベッドに縋り付く。
「あ、そうだ、サラーマを呼ばないと。まったく、いつもご飯に文句ばっかり言うんですよ? 自分で作りもしないくせに」
ウェンディーは微笑を浮かべて言う。
「でも、私は約束を守れたんですよね?」
ウェンディーは彼女を見て微笑むと、ゆっくり目を閉じる。
「お願い! あの剣で何をすれば良いの? どうすればイリーズを助けられるの? 私に出来る事なら何でもするから!」
彼女は矢継ぎ早に質問するが、ウェンディーは答えようとしない。
「ねえ、お願いだから、私にも分かるように説明してよ!」
声が震えるのが分かる。
ウェンディーが答えない理由も、頭では分かる。だが、認められないのだ。
ここでウェンディーが死んでしまった、など、目の前で起きている事でも正しく認識出来ない。
「よせ。もう死んでいる」
後ろから『銀の風』に言われるが、彼女は『銀の風』を睨みつける。
「あんた、一体何なのよ! 黙ってて!」
彼女は噛み付くように『銀の風』に叫ぶ。
頭の中の冷静な部分では、『銀の風』の言う事が正しい事は分かっている。しかし、正しい事は理解出来ていても、それを正しく認識出来ないのだ。
本来なら冷徹な頭脳の持ち主のはずの彼女が、今はその働きを失い、感情のコントロールも意識から外れてしまっている。
「来客ですか。何のお構いも出来ないで、申し訳ありません」
イリーズは目を閉じたまま言う。
「君がイリーズか。ウェウティア、フーディリウスが世話になったようだ」
「貴女は? 僕の知り合いでは無いみたいですか」
「名は、そうだな。『銀の風』と呼ばれる事が多い」
「監視者、ですか。お名前を伺った事はあります。ですが、貴女が言われた方々の名前は聞き覚えがありません。お役には立てなかったみたいですね」
「私の事は好きに呼んでくれ。しかし、ウェウティア、フーディリウスとは無関係だったか。騒がせてすまない」
イリーズは目を開かずに話している。
「そうだ! あんた、回復魔術は使えないの? だって『銀の風』と言えば神の使いなんでしょう?」
彼女は後ろを振り返って、『銀の風』に尋ねる。
「ああ、治癒、再生共に使えるが、それがどうした?」
「使えるの? だったら、イリーズとウェンディーを回復させてよ!」
「回復?」
視線をイリーズとウェンディーに向けた後、『銀の風』は首を振る。
「私の魔術では死者を蘇らせる事など出来ない。残念だが、役には立てない」
「じゃ、ウェンディーは諦める。諦めるしかないんでしょ? それならイリーズだけでも、お願いだからイリーズだけでも助けて!」
彼女は立ち上がって、『銀の風』に掴みかかる。
「言った通りだ。私の術では死者を蘇らせる事は出来ない」
「生きてるじゃない!」
「生きてないんだよ」
イリーズが呟く。
表情が少し和らいで見えるが、苦笑いなのかも知れない。
「元々分の悪い賭けだったんです。全ての賭けで、こちらばかり都合良く勝てるはずもないですからね。僕が下手を打ったせいで、ウェンディーとサラーマを失って、貴女にまでこんなに辛い目に合わせてしまったんです。本当に申し訳ないと思ってますよ」
「わ、私は全然辛くない! だからそんな言い方しないでよ!」
彼女は『銀の風』から手を離すと、イリーズのベッドに倒れこむ様に縋り、イリーズの左手を握る。
驚く程冷たく、硬く、とても人の肌の感触ではない。
それでも彼女は強くイリーズの手を握る。
そうしていなければ、イリーズが目の前から消えてしまうと言う強迫観念に近い恐怖が彼女を襲いかかる。
それは黒い剣によって見せられた絶望の恐怖とは違う。二度と手に入らない、かけがえのない何かを失う、消失の恐怖。
心の中に空虚な隙間が出来る、絶対に埋められない穴が穿たれるのが分かる。
「イリーズ、私が呪いと戦う! 貴方の呪いは、私が全てを引き受ける! だから、だから呪いなんかに負けないでよ!」
「勝負はついているのだ」
後ろから『銀の風』が言う。
「相討ち、か。ウェウティアも大したものだ」
「その通りです。僕の周りの命は全て失われる事になりました」
イリーズは目を閉じたまま答える。
彼女が城を出発した後、イリーズの容態を少しでも安定させるためにウェンディーとサラーマで、イリーズの『魔獣の落とし子』と戦う事になった。体内の『魔獣の落とし子』の強さは別格で、しかも二体を相手にするのだから最初から勝目は薄く、サラーマはそこで命を落としたとイリーズは言う。
サラーマを失った後もウェンディーは戦い続け、ついに二体の『魔獣の落とし子』の撃退に成功した。が、その代償として、ウェンディーも致命傷を受けた。
それだけでなく、イリーズさえ『魔獣の落とし子』に致命的に体内を破壊され、彼女が奇跡的な早さで戻っても、すでに間に合わなかったのだ。
そこでウェンディーが打った最後の手段が、『死者の秘法』と言われるものだった。
それは本来なら不死の魔物を造り出す禁忌の秘術であり、不幸だけを呼ぶ呪いの術。それでもウェンディーは、下半身と左腕を失い、致命的な打撃を受けながらも、彼女とイリーズのために砂時計の砂を止める事にしたのだ。
二人共その代償は分かっている。
この大地では、死者の秘法に手を染めた者は死と言う安らぎさえ失い、不死者の呪いにその魂を失うまで苦しむと言われている。
その呪いを甘んじて受けてでも、この時間を作る事を選んだのだ。
「でも、約束は守れそうですね」
イリーズは目を閉じたまま言う。
今ならイリーズが目を開かない理由も分かる。死者の秘法で不死者となった者は、肉体の腐敗を止める事も出来ない。ましてイリーズは『魔獣の落とし子』の呪いによって、大幅に生命力を奪われている。
イリーズはすでに眼を失っているのだ。だからこそ、瞼を開く事が出来ないのだろう。
「ありがとう。でも、もう剣は必要無いよ。ちょっと物騒だけど僕からの贈り物ですね」
「いらない」
エテュセは、震える声で言う。
「イリーズを助けるために必要だったのに、貴方が助からないのなら、あんなもの要らない!」
エテュセは両手でイリーズの左手を強く握る。
どこか遠くへ行こうとしている。
その予感があったからこそ、彼女はイリーズの左手を強く握る。
イリーズの左手は、砕ける様な音がすると灰になって散っていく。
「ごめん。僕はもうこの通り。これ以上は、嫌われそうだね」
「わかった。私はイリーズの事嫌いになる」
彼女は、灰になったイリーズの左手を見ながら言う。
「だから、私がイリーズの事を嫌いになるまで死なないで」
そう口にした時、彼女の胸にこれまでにない息苦しい痛みが走った。
怪我などの痛みでは無い。収容所の中で四の少女、モーリスが収容所を去ったと知った時に感じた痛みに似ているが、今度のはその数倍の痛みであり、胸が苦しくて呼吸も出来ない。
胸を槍で抉られ、内側から焼かれているかのような痛み。
「せめて、私が貴方の事を嫌いになるまで、貴方が私の事を嫌いになるまで死なないで」
「僕には、貴女を嫌いになれませんよ。僕はこの通り、もう死んでいるんです。このままいったら、僕は腐臭で臭くなっちゃいますからね。それで嫌われるのはキツいですよ」
かすれる声に張りは無く、そこに生命力は宿っていない。それでもイリーズはいつもの自分を演じていた。
せめてこの僅かな時間だけでも、時間を戻そうとしているかのように。
「まあ、それは冗談としても、僕をここに繋いでいるのは『死者の秘法』です。僕の自我もいつまで持つか分かりません。もう少しすると僕は自我を失って、ただの不死者になります。そうなったら、貴女に襲いかかると思いますから」
「それなら、それまで生きて。私が貴方を嫌いになるまで、貴方を助けた事を私が後悔するまで。貴方が生きながら腐臭を漂わせるのなら、その匂いでこの城に住めなくなるまで。生きる気力を失って、貴方が助けた私を恨んで、私が貴方を嫌って、お互いに後悔するまで生きて。私を襲いたくないというのなら、不死者になりたくないのなら精一杯生きてよ」
彼女は、イリーズに訴える。
「私を置いて、行かないで」
伝えたい事は、そう言う事ではなかった。
自分がどれだけ感謝しているかを伝えたかった。これまで生きてきた時の中で、この城で、イリーズ達と過ごした時間がどれだけ幸せだったか。
彼女にとって、これまで生きる事はただ生き延びると言う事だけをさしていた。日常というモノは、明日を迎えるために生き延びる事をさし、それ以上の意味は無かった。
それをイリーズ達は変えてくれた。
本来なら人として当然の日常を。収容所に入れられていた亜人達は当然持っていた、彼女は知らなかった毎日を。生きる事の幸せを。
生きる意味を、イリーズ達は教えてくれると思っていた。
嫌う事など出来ない。嫌われる事など考えたくない。
もし、イリーズが表情を歪ませ、自分を助けた事を後悔しているというのなら、彼女は黒い剣で自分の喉を切る事に躊躇いは無かった。そうする事でイリーズを助けられるのなら、彼女はこの場でそれが出来る。
その想いを伝えたかった。
だが、口から出てきた言葉は、まったく別の支離滅裂な言葉ばかり。訂正しようと口を開こうとしても、そこからは苦痛の吐息が漏れるだけで言葉が出てこない。
「泣かせているみたいですね」
イリーズは優しく言う。
彼はもう、唇を動かす事すら難しくなってきている。
「ありがとう、僕に生きる勇気を与えてくれて」
苦しげな言葉はかすれ、イリーズの魂そのものが吐き出されているかのようだった。
「そうだ。約束を果たさないと」
イリーズは僅かに笑っていう。
「貴女の名前です」
「私の、名前?」
彼女はイリーズを見る。
確かに城を出るときに、彼女の方からねだったモノだった。
「三人で考えたんです。貴女にピッタリの名前。貴女のお陰で、僕は生きる意思を持てました。僕達の考えた、と言うよりウェンディーが考えて僕達が賛成した名前。貴女は『生命の花』を知ってますか?」
イリーズの質問に彼女は頷く。
実在するか疑われている伝説の花で、その花にはあらゆる怪我や病気を治す効果があるとされる一方、その花自体は劇薬であり命を奪う事もあるとされる。
はるか北の天を貫く岩山の頂上に咲くと言われる、伝説の花。
「エテュセ?」
「そうです。貴女にはピッタリの名前だと思いますよ。ウェンディーも、珍しくサラーマも文句を付けてなかったですから、そう名乗って下さい」
「エテュセ。私の名前……」
彼女は自分の胸を抑えて呟く。
「お願い、イリーズ。もう一度、私の名前を呼んで」
彼女は苦しい胸を抑えて、イリーズに囁く。
が、イリーズは僅かに微笑んでいる様に見える表情を浮かべてはいるが、彼女の言葉に応えない。
「イリーズ?」
応えないイリーズに、彼女は震えながら声をかける。
「イリーズ、私、ちゃんと聴いてるから、だから呼んで。イリーズ、お願い、私の声に応えて。私の名前を呼んでよ、イリーズ」
彼女は胸を引き裂かれる様な苦痛を感じながら、それでもイリーズを呼び続ける。
彼もまた、ウェンディーと同じで二度と彼女の声に応える事は無いのは頭の片隅では分かっているが、そんな事を認める事など出来なかった。
「イリーズ、私を置いて、行かないで」
彼女自身は絶叫しているつもりだったが、声は震え弱々しい声が漏れるだけだった。
体中が痙攣していると思うほど震え、手に力が入らず、足元も定まらない状態でイリーズを揺さぶるが、彼は何の反応も示さない。
「お願い、もう一度、もう一度で良いから私の名前を呼んでよ」
彼女はイリーズの亡骸に縋って言うが、イリーズが目を覚ます事は無い。
「離れろ。『死者の秘法』はまだ効果を失っていない。今から解除する」
イリーズに縋る彼女に、『銀の風』が言う。
「何をするつもり? イリーズには指一本触れさせないわよ」
彼女は立ち上がると、コートの中から銀色の柄を取り出し、『銀の風』の前に立ちはだかる。
「何を勘違いしているのだ。その者はこれ以上無く、自身の誇りを見せた。ならば最後まで全うさせてやるべきだ。これほど誇り高い者が、不死者として生者を襲う事をよしとすると思うのか?」
「イリーズは死んでない!」
「お前はその者の最期を看取った者であり、名前を与えられたんだ。ならばそれを背負い、生きろ。それが彼の望みではないのか?」
「ふざけるな! あんたなんかにイリーズの何が分かる!」
「お前は何も見ようとしていない。お前は何者でも無かったかも知れないが、今では『エテュセ』と言う存在になったのだ」
そう言うと『銀の風』は、髪や鎧と同色の白銀の剣を抜く。
「彼が不死者として目覚め、お前に襲いかかるとしたら、彼はどう思う? そんな彼の姿をした不死者に殺されたお前は、彼に会った時に何と言うつもりなのだ?」
「イリーズは眠っているだけで、死んでないんだから!」
彼女はそう叫ぶと、『銀の風』に向かって魔力の鞭を全力で叩きつけようとする。
が、彼女にそんな魔力は残されていなかった。
彼女はそのまま倒れると意識を失っていた。
無理もない。
猛吹雪の中で長時間かけて洞窟まで行った。それだけで体力や魔力の消耗は激しかったが、その洞窟で黒い剣の呪いで更に消耗した。そこから更に大した休憩も取らずに、また同じだけ行動して城に戻って来た。
これだけで本来なら有り得ない、考えられない程の奇跡なのだ。
彼女にはこれ以上魔力が残っていなかったにもかかわらず、魔力の鞭で『銀の風』を攻撃しようとしてきた。
彼女は気づいていなかったが、彼女が『銀の風』を攻撃しようとした時に込めた魔力があまりにも強すぎたので、銀の柄に仕込まれたリミッターが破壊されたのだ。
そのため、彼女の意識を刈り取るほどに魔力を奪われた。
「意図していないかもしれないが、少し休め。今のお前に必要なのは休息だ」




