序章 2
次に少女が目を覚ましたのは、見覚えの無い石牢の中だった。
むき出しの石壁は鉄格子の無骨さもあって、見栄えは素晴らしく悪いが、牢の頑丈さは見ただけで嫌と言う程伝わってくる。
牢の広さはそれほどでも無いが、この部屋全体は広そうに感じる。だとすると、この鉄格子の石牢はそれなりの数があるのだろう。
少なくとも少女が鉄格子を見た時、向かいにも同じ様な鉄柵が並んでいるのも見えた。
部屋に窓や光源は無いものの、夜目の利く少女は周囲を観察しようと思えば出来たのだが、そうする体力もそうしようという気力も湧いてこない。
少なくとも生きているという事を考えると、最後の状況を思い出すとこの場所もすぐに見当がつく。
亜人収容所。
外観は木造四階建て。少女は学校を連想したところだが、一般的な学校は石牢の様な施設や部屋などを用意しない。折檻部屋と言うには余りにも物々し過ぎる。
不良の更生に備えるには、やり過ぎだ。
天井や壁も同じ石であり、空気の流れも感じられず小窓すら無いところを見るとここは地下なのかもしれない。そうなると、いよいよ学校とは言えないだろう。
少女はしばらく天井を見ていたが思考は働かず、また、すでに考える必要性すらも無くなった以上、消耗し尽くした状態では集中した思考など働くはずもない。
少女は体を起こす気にもならなかったので、横になったまま目を閉じる。
どれくらいそうやって休んでいたか分からない。疲労の極みにあったので眠気はあったのだが、体中の痛みと強烈な空腹感でとても眠る事も出来ない。
思考もまとまらず、ただ絶望感だけが募っていく。
そんな中、石牢の部屋のどこかで重い音が響く。
その後にわざとらしい足音が複数響いてくるのを聞くと、この収容所の所員達が新たに捕獲した亜人の品定めに来たのだろう。
今のこの状態では、下手に動いたところで逃げ切る事など不可能な事は理解出来る。今出来る事は逃げるより状況を把握する事の方を優先するべき時だ。
少女は自分に言い聞かせる。
収容所の場所は分かっているし、外観で建物にイメージは出来ている。少女の知識の中に地下牢の情報は無かったし、ここを守る所員達の人数や装備、人員の配置なども知りようが無い。
そんな中で無理矢理逃げようとしても、余程の奇跡が起きない限り逃げ切る事など出来るはずも無い。
少女は幸運と言うモノを信じていない。
人により運の良し悪しがある事はわかるし、それが重要なファクターになり得る事も知っている。知ってはいるが、それを当てにするなど有り得ない事も分かっている。
幸運に期待などしてはいけない。
少女はあの街での逃亡生活で、その事を嫌と言う程味わった。
街に潜む亜人は、何も少女一人であるはずも無い。ある時は集団で、ある時はそれぞれ単独で逃げ回るのだが、中には幸運に恵まれて逃げ延びるモノもいた。度重なる偶然で逃げ延びたモノもいた。
だが、それは真似出来る事では無いし、そう言っていたモノからいなくなっていく事が多かった。
少女もかなり長い事逃げていた方だが、捕まらなかった亜人の共通点は情報を分析する事を怠らない者だった。
少女はその幸運に恵まれずにここに捕らわれる事になったが、彼女に体力さえあれば逃げ切る事も可能だった。それは彼女が、正しく情報を活用したからである。
ここで重要なのは忍耐と情報収集と分析能力。
近付いてくる複数の足音が、少女の牢の前で止まる。
「コレが捕らえた者ですか?」
重く響く、魂まで凍える様な冷気を含む異様な声だった。
「さして珍しい亜人というわけでは無さそうに見えますが?」
「コレは眼に特徴があるんです」
慌てて言い訳をしている声に、少女にも聞き覚えがあった。少女を追い立てていた追手の中の一人だ。
その男が言い訳がましく言い立てている相手なので、冷たい声の男はこの収容所でも相当偉い人物。おそらくは収容所の所長なのだろう。
そう思うと、少女も多少の興味が湧いてきた。
この収容所において、亜人達の生殺与奪の全てを握る男をこの目で見ておきたかった。
「ほう、確かに珍しい眼ですね」
特に声を荒げていると言う事では無く、異様に冷たい声で少女に向かって言う。
その男の外見に、声ほど特徴は無い。歳の頃は五十前後かと思われる。痩せた体型だが、背筋は伸びて独特の迫力があって大きく見える。
見た目には正直なところ大した特徴のない男性だが、異様な迫力と冷た過ぎる声は相手に恐怖心を植え付けるので、一目見て忘れられなくなる人物である。
「それでは、一ヶ月後にはコレを見せる事にしましょう。見た目にさえ珍しければ、さぞかし喜ばれる事でしょう」
口調は丁寧だが、そこには有無を言わさぬ迫力がある。
少女ですらこの男の雰囲気に呑まれそうになる。
それでも少女は男達を睨む。
(この程度の、追手にもいた所員達は問題にならない。だけどあの所長は別格ね。ちょっとやそっとじゃ、出し抜ける相手じゃない)
その考えがすでに雰囲気に呑まれているとも思えるが、相手を過小評価しても何も良い事は無い。敵というモノを正確に把握していなければ、裏を衝くつもりが逆に踊らされる事になる。
男達が牢を去っていく。
扉が閉まる重い音が聞こえてしばらく待ってみたが、特に男達が戻ってくる気配は無い。他の牢を回った様子も無ければ、物音一つしないところを見るとこの部屋には、少女一人しかいない様だ。
(さて、どうしようかな)
少女は、ぼんやりと石牢の天井を見上げて考えていた。
後頭部は痛むが、後頭部に限らず全身が痛い。それだけではなく、疲労感も体中を支配している。空腹も手伝って、起き上がる気力さえも湧いてこない。
今の彼女はそれが全てであり、明晰な頭脳も正常に働いていない。
(お腹空いたな)
そんな事を考えていると、思わず笑ってしまいそうになる。
収容所に入れられる経緯を考えると、いつまで生きていられるか分からない。警棒で成人男性が力任せに後頭部を殴るなど、殺すつもりだったとしか思えない攻撃だ。
収容所に入れる前段階でそれなのだから、収容後の人目に付かないところになっては、悪い予想しか湧いてこない。
そんな絶望的な中でも空腹を訴えている自分に、少女は呆れていた。
気力の湧かない少女は石の天井を見たまま、その模様に何か似た形を見立てると言うまったく無意味な事をしていた時、また扉の開く重い音が響くと足音が聞こえてくる。
先ほどの連中が戻って来たのかとも思ったが、人数や足音の重さが違った。
体を起こすのは面倒だったので、首だけを動かして鉄格子の向こうへ目を向ける。
鉄格子の向こうに現れたのは、所員と思われる制服姿の長身の男と、防寒用のマントを身に纏った少女だった。
長身の男は服装からも分かる通り所員だろうが、あの追手達や異様に冷たい声の男と違い、理知的な雰囲気を持ち、コチラを見る目にも敵意や害意が無い上に亜人を差別し蔑むところがなく、むしろ同情の色さえも見て取れる。
もう一人のマントを纏った少女は、驚く程美しい亜人の美少女だった。
見た目は十代後半。粗末な服装と薄汚れたマント、髪も最低限整えた程度であり、化粧だってしていない。
それであっても輝くばかりの美貌と、十代の少女とは思えない気品の様な、人を平伏させるほどの雰囲気をすでに身に付けていた。
少なくとも牢に入れられている少女は、人間にしても亜人にしても、これ程美しい人物を見た事が無かった。
「酷い怪我です。早く診療所へ連れて行かないと」
外の美少女は、急いで牢を開けようとする。
「待て。その前に確認しておきたい事がある」
美少女に対して、所員の男は冷静に言う。
「まだ生きていたいか、すぐに死にたいか。その確認はこの場で済ませておきたい」
「そんな事、今この場で、ですか?」
「ここでの生活は生きている事を後悔する事にもなるだろう。助けた事を恨まれるのなら、この場で楽になると言う選択肢は与えておくべきだ。特に恨まれるのは俺では無く、君になるのだから」
牢の外で二人は軽くではあるが、口論している。
しかし、奇妙な口論をしているという感覚を少女は覚えていた。二人が話している内容の違いは、美少女は亜人の少女を心配し、所員の男はその美少女を心配して発言している。
所長に媚びていた追手も兼ねた所員達の様に、自分達の事だけを考えた言動とは違う。
男の言葉は冷たく残酷に聞こえるが、その選択肢を与えなかった事を後悔しているのだろう。
また、そのために美少女が恨まれる様な事になった経緯もこれまで見てきた事も、その言葉になっている。
その消えない罪悪感と責任感がありながら、それを背負って立っている。
この男も見た目はともかく、内面的には美少女と同じ様にこれまでに見た事も無い様な人物らしい。
しかし、与えられるまでその二択を真剣に考える様な事は無かった。
まったく無意識に、無条件に生き延びる事だけを考えてここまで来たが、それをこの場で終わらせて楽にするのを選ぶ事は、その価値があると思われる。
ただ、楽になるのはいつでも出来る。少女は物心ついた時にはすでに反逆者であり、抗い続ける事で生き延び続けてきた。
何もせずに楽になるという生き方を選ぶのならば、ここに捕らえられるのはもっと早かっただろうし、それ以前にこれほど生きていられなかったはずだ。
「言葉は分かるか? 死んだ方がマシと思える生き方であっても生きたいか、それともここで楽になるか。楽になりたいと言うのなら、俺が今この場で責任を持って楽にしてやる。どうだ、生きたいか、死にたいか。選ぶが良い」
男は少女に言葉を投げかける。
冷たい言葉は少女に突き刺さるが、それは絶望感を与える痛みでは無い。
男の言葉に、少女はノロノロと起き上がってくる。
瀕死の重傷と負い、衰弱も著しい。並みの少年少女であれば、とっくに死んでいてもおかしくない。生き延びたとしてもこれではまともに動く事も出来ず、走り回る事など通常では有り得ない。
それでも少女は立ち上がり、歩いて鉄格子を掴んで牢の外の二人を見る。
その目を見て、美少女は怯えた表情になり、無意識に僅かに後退する。
少女の最大の特徴であるその瞳は、本人には分かりづらいが見る者を圧迫する。その上に苛烈なまでの狂気も含まれているからこそ、余計に恐ろしさを感じるのだ。
「生きる、と言う事だな」
所員の男の言葉に、少女は鉄格子を掴んで力強く頷く。
死にたくない、と懇願するのとは違う。生きる事に意味を見出したい、と言う程、高尚なモノでもない。生きる目的というモノが必要なら、ただ楽に終わらせるつもりは無いと言うだけの事だ。
生きるというただそれだけの事を、苦痛と共に続けている。もしそのための目的が必要と言うのであれば、彼女はこの苦痛を他の者にも味あわせてやりたい。
そういう負の感情の方が圧倒的に強い。
「メルディス、診療所に連れて行く」
その負の感情を読み取っているのかは分からないが、所員の男が美少女に指示を出した後、自らが鉄格子を開ける。
美少女はボロボロの少女を、持ってきた毛布で包む。
まったく意識していなかったが、少女は全裸だった。
ここに運ばれた時の少女はただでさえ泥だらけだった上に、抵抗を続けたとされて追手から暴行を受けて血塗れだったので、体を洗われた後、この牢に放り込まれたのだ。
痩せ細った身体を包む毛布を掴む弱々しい力しか出せない少女を、メルディスと呼ばれた美少女が支えてやる。
美少女メルディスも見た目の通り腕力に優れるという訳では無いが、それでもこの少女が恐ろしく軽く感じられる。
見ただけで分かる痩せ細った少女ではあったが、それにしても軽過ぎる。
それは、メルディスに体を預け手を借りなくても、ある程度自立して歩けると言う事だ。
「詳しい事は後日改めて説明する。ただし、ここで長生きしたいのであれば騒ぎは起こさない事だ」
所員の男は、ボロボロの少女に向かって言う。
おそらくそうだろうと言う事を、追手から逃げている時から予想はしていた。また、追手や目の前の男の制服を見る限りでは、どう考えても学校の先生などではなく軍人や看守の類だ。
街の中ですら人権など無かった亜人達である。ここで騒ぎなど起こそうものなら、容赦する必要も無い。
絶望しかないこの収容所だが、無理にでも明るい材料を探すとするなら、それは一部例外はあるとは言え亜人は生け捕りにするという事である。
忌み嫌われている亜人種であるが、例えば害虫駆除などを行う場合であれば生かして捕らえる手間をかける事はしない。
亜人を収容所に集めるには、理由がある。
亜人種の大半は純粋な人間と比べると、何かしら優れたところを持っている。ある種は身体能力に優れ、ある種は魔術を使う際に人間より数倍強力であり、夜目が利き変身できる能力を持った種さえもいる。
一対一で戦った場合、鍛え上げられた人間の兵士より、今日初めて槍を持った亜人の方が強力な事は珍しい事では無い。
さらに亜人の中には『不死王』の秘密があると考え、研究している機関が存在する。
そう言う研究機関であれ、兵士として使い潰されるにしても、ここで『商品』として取り扱ってもらえるのなら、価値さえ見出してもらえば生き延びる事は出来る。
生き残るのは楽ではない。その道は狭く険しいが、確実に存在する。
それが分かっただけで、ひとまずは良しとするしかなかった。
「私はメルディス。貴女の名前は?」
美少女メルディスは少女に話しかけるが、少女はその質問に答える事が出来なかった。
少女は一時的に意識が戻っただけで、また意識を失っていた。体力の消耗も激しく、見ただけでわかる栄養失調状態、全身の打撲跡などは生きている事がすでに有り得ないくらいである。
しかし、少女は健康であったとしても、メルディスの質問には答えられなかった。
少女には名前が無いのだ。