序章 1
2012年夏頃に投稿させていただいた「生命の花」を、大幅に加筆改稿したものです。
既読の方にも楽しめる様に、頑張ります。
タテ書きの方が若干見やすいかもしれません。
生命の花 改訂版
序章
コレは異世界の話。
少女は雨の中を追手から逃げていた。
季節で言えば春に入ったというのに身を切る様な冷たい氷雨の降る街を、薄汚れた少女は走る。
街はかつて栄えていた時代もあったのか建物は高い物が多く、また乱雑な程街壁が立ち並び、まるで巨大な迷宮の様相を呈している。
建物の数に対して空家が多く、街に寂れた雰囲気を醸し出し余計に不気味な雰囲気を出している。
少女は追手が来ているのを足音だけで察知し、熟知した街で身を隠し追手から逃れる。
これまでもやって来た事だ。
そう、これまではそうやって逃れて来た。少女は小柄で身軽、街の細部まで熟知しているので追手から逃げ隠れするのは、これまでなら難しいながらも不可能では無かったので、少女はまだ街に隠れ住む事が出来ていた。
だが、今回は違った。
これまでの追手は一人、多くても二人程度で追い立て方も仕事で仕方なく、といったモノで簡単に諦めていた。
が、今は最低でも五人程のチームで動いている。
逃走を始めて二時間は経っていると感じているが、追手は諦める気配を見せない。
事の発端は少女が果物を盗んだ事から始まった。
とはいえ、それは建前でしかない。
少女は亜人だった。
純粋な人間では無い少女は、この街で役人に追われ捕らわれる事に理由は必要無い。ただ、たまたま今回は罪状があったというだけの事。
この地域では亜人を見かけたら役人に通報する義務があり、街に住む純粋な人間達からは害虫の様な扱いを受けていた。一方、追い立てる役人達には捕捉して収容所へ送る事が職務に含まれている。
しかし、そこに与えられている『職務を行うに対し、危害を加える者、強い抵抗を示す者、職務を行うに際し妨害行為を行う者、またその可能性の高い者に対し、実力を持って排除し職務執行者の安全を守る事を第一とする』という権限を見る限りでは、亜人には人権が無い事を表している。
言葉は飾っているが、亜人に対して無条件での暴行さえも法的に許している文言である。
チームでの捜索、しかもそれぞれが屈強な成人男性と言う事もあり、小柄で華奢な少女では正面からの勝負になっては万に一つの勝目も無い。
この時点では少女に勝ち目が無い様に思えるが、可能性だけの話をすれば逃げ切る事も絶対不可能では無い。
相手が屈強な男達であるのなら、その体の大きさでは追えない隙間の様な道へ逃げ込めば良い。
街道を捜索するチームに対し、少女は本来繋がるはずが無い道を見せる逃走経路を示せば、チームは捜索範囲を広げざるを得なくなる。
もちろん五人くらいのチームで捜索範囲を広げては目の届かないところも出て来るし、場合によっては人員補充も必要になる。
人員が増えればその分不利にはなるが、チームのメンバー以外の人員を街から徴収した場合、見える範囲は広がるが、実は密度が薄くなる恐れがある。
捜索チームは役人とはいえプロであるので、捜索のコツを分かっている。しかし、増やした人員は素人であり、逃げるスキと見回ったけれどいなかったと証言させる事、またその油断を誘う事さえも出来る。
あくまでも理論上の話であり、実行して必ず上手くいくという事も無い。可能性はゼロでは無い、と言うだけの話なのだ。
逃げている少女も、それがいかに希望的観測に基づくものなのかを理解している。理解していながらも、それに縋ってでも逃げなければならない。
この地域で亜人が迫害されているのには理由がある。
この地域に限った事では無く、この世界では『不死王』と言われる神話がある。
場所によって多少のブレはあるが、本筋はほとんど一緒である。
『最初に現れるのは破壊、世界が恐怖に覆われる。やがて多くの血が流れ、全てに死が訪れたとき、不死王が現れる』
と言うのが、伝えられる『不死王』の概要なのだが、世界中にいる不死王研究家の研究の結果、『不死王』には『破壊』『恐怖』『血』『死』という四人の部下がいると伝えられている。
この地域ではその『不死王』にまつわる不幸の象徴が亜人であるとされ、街に害を及ぼす前に収容所に集めているという事らしいが、捕らわれる亜人にとって、そんな背景はどうでもいい事だ。
街の中ですら害虫の様な扱いを受け、その捕捉を任される役人達には亜人の人権は考慮するに及ばない。
そんな亜人達が集められる収容所の暮らしを少女は知らないが、それでもこの街の方がまだマシだと言う事くらい簡単に予想が付く。
少女は外観だけなら、収容所を見た事がある。
異様に高い塀に囲まれた敷地と、その高過ぎる塀の上には有刺鉄線まで張り巡らされている。見ただけでわかる、入って来る事に備えた物ではなく出て行く者を妨げる為の備えである。
立地も世界地図の北西の端であり、これより西には世界を分断する壁があるのみ。壁の向こうには呪われた大地が広がるとされ、そこでは生物が生きる事を許さない環境だと伝えられている。
異様に高い塀は、世界を分断する壁の高さ程では無いにしても、近い高さがある。その塀の向こうには飾り気の無い、木造の四階建ては有りそうな建物があった。
家と言うには違和感があり、窓がズラリと同じ方向を向いているところを見ると、建物には同じ方向を向いた部屋が並んでいると言う事だ。
少女はその建物に学校を連想した。
夜中に忍び込んだもあり、構造上視界は通りやすくなっているが、小柄な少女一人くらいが身をひそめる事は難しくない。
また多くの書物があるため、少女は必要に迫られた場合、学校を選んで隠れる事が多かった。
木造の建物なので足音や軋みの音などで身動きが取りづらいという欠点はあるが、少女はそんな中でも一切の物音を立てずに移動出来る特技がある。
元々身軽な上に、逃走生活を続ける上で自然に身に付いたモノでもある。
塀の奥にある建物の外観は学校を連想させるが、その敷地内には生命の活気は無い。
生徒のいない学校の様な建物は、高過ぎる塀や頑丈である事だけを考えた門などからも廃校、もしくは隔離施設の雰囲気である。
多くの亜人を収容しているはずの収容所だが、広い敷地にも高い建物の中にも活発さどころか生命活動そのものが感じられない。
そんな所へ収容される訳にはいかない、と少女の生存本能が伝えてくる。
少女は瞬発力に優れた身体能力だけではなく、天才的な勘の良さも備え、街の地理も熟知し、追手のチームの情報収集も逃走しながらでも行なっていた。
追手の五人は、亜人狩りに慣れた雰囲気はあり、体の小さい俊敏な亜人は細い路地に逃げ込むと言うセオリーも、しっかり分かっている。
だが、それぞれに自意識が高過ぎて連携は必ずしも良くはない。チームを相手にする場合、個々の能力の高さも然ることながら何よりも連携の良さこそが大きな問題になる。
むしろ能力が高く連携の低い個人技集団の方が、逃げる側からすると逃げやすい相手だ。プロ意識が高ければ高いほどチームとして動く事を意識して、お互いの死角を消す事が出来る事を知っている。
だがこの追手達にはその動きが無く、ただ功名心のみで亜人の少女を追い、手柄の奪い合いを行なっている程度のチームである。
死角は必ずある。五人でも十人でも構わない。とにかく逃げ切る事だ。
だが、この日の少女には致命的な読み違いがあった。
一つには、何故この追手のチームがそれぞれに手柄に焦り連携が取れていないのか、という事。それは、焦らなければならないほど彼らが追い詰められていると言う事だった。
焦りが先立つ連中は、通常では考えられない程に近視眼になる。自分達の状況を正しく把握出来ないのだ。
少女は細い路地に逃げ込んだのだが、追手の大男は体を壁に擦り付けながらも追ってくる。
もちろん速度は極端に落ちるが、少女としてはまさかここまで深追いするとは思っていなかったので、自ら退路を塞いでしまう形になった。
街に熟知する少女は、このいかにも何処かに繋がっていそうな細い路地に入ると、出口を抑えに走ると思ったのだが、まさか追手が体を削りながらでも追いかけてくるなどとは、考えもしなかった。
この路地はそのまま進むと行き止まりになっている。
少女としてはトラップのつもりだったのだが、自分から袋小路に飛び込んでしまった。
しかし、引き返そうにも退路は肉の壁に塞がれている。
だが、逃げ道はまだある。
先まで行くと行き止まりの壁なのだが、路地裏に窓のある建物が壁の近くにある。勢いよく壁を蹴り、三角跳びの要領でさらに高く飛ぶと窓に届くのだ。
目の前でそれだけ立体的に逃げられては、連携の取れていないチームが追う事は極めて困難になる。
それが少女の逃走経路だったが、ここで少女は二つ目の致命的な読み違いをしていた。
自分が自覚していた以上に、彼女は弱っていたのだ。
この数日、少女はまともな食事を摂っていない。
飢えを凌ぐ為に残飯を漁る事は日常茶飯事だったが、この数日は監視や警備が厳しくそれさえも手に入らなかった。そのために果物を盗もうとしたのだが、偶然ではあったものの見つかってしまった。
だが、ここを切り抜ければ僅かな時間とはいえ一息つける。休息を取れるだけではなく、盗んだ果物を食べる事も出来る。さらに建物の中や高さを活かせば逃走経路も一気に増える。
少女は壁を駆け上がり、二階の窓へ向かって手を伸ばす。
いつもの少女であれば窓まで簡単に手が届くはずだったのだが、壁を蹴る力が想像以上に弱っていたため、窓枠に指がかかる所までしか飛べず、あと僅かというところだったが掴む事が出来ず、少女は地面に墜落した。
背中から落ちた少女は衝撃で呼吸が止まり、視界が白く染まる。
窒息感が少女の意識を一気に消し飛ばそうとするが、激痛と強靭な意思の力が肉体から離れそうになる意識を繋ぎ留め、本来なら動く事も叶わないはずのところだったが、それでも少女は立ち上がる。
逃げるんだ。奴等に捕まる訳にはいかない。
彼女の生存本能が、これまにない危機感を伝えてくる。
朦朧とする意識、残り少ない体力、体を擦る程に道を塞いでいる大男の追手。
逃げ切る事は絶望的だが、少女は諦めない。
諦めるのは、捕縛されてからでも遅くない事を知っている。捕縛されるその瞬間まで足掻いて、もがいて、生き延びるという意思は衰えない。
この状況で活路があるとすれば、体格差。
通常では正面からのぶつかり合いの場合、体が大きい方が圧倒的に有利である。腕力勝負になった場合、追手の大男に対し少女は万に一つも勝目は無い。
もちろんそんなところに活路を求める程、少女は思考が麻痺してはいない。
体格差を活かせる、唯一の活路は股下を潜る事。
どれほどの体格差があったとしても、股下を潜って逃げる事など至難の技である。余りにも困難な逃走経路だが、少女は空を飛ぶ事など出来ないし、壁や追手の体を通り抜ける様な事も出来ない。
それは出来るか出来ないかの問題では無い。最初から諦めてここで捕らえられるか、それが大海に浮かぶ一本の藁であったとしても、最後まで抗い続けるか。
少女にとっては悩むまでも無い二択。
最初から諦めるのであれば激痛に耐える事も、意識を留める必要すらも無かった。無意識にでも痛みに耐え、気を失う事も無かった時点で少女は選択しているのだ。
当然大男もその逃走経路には警戒している事を、少女は予測していた。
少女が大男に突進して行く。
大男は少女に向かって手を伸ばすが、それこそ少女が誘っていた行動である。少女は追手に向かって掴んでいた泥を、大男の顔に向かって投げつける。
小石などであっても大半の人間は避けるか防ぐかしようとする。それが泥であった場合、特殊な装備か訓練を受けた者でもない限り、反射的に手で防ごうとする。
小柄な少女を捉えようとすると大男である追手は前のめりになるが、そこに泥を投げつけられて、とっさに体を起こして泥を防ごうとする。
最初から股下を潜ろうとしてもまず不可能だったが、自らの手で視界を塞ぎ上体を反らせる程起こした体勢であれば、小柄で俊敏な少女が大男の股下を潜る事も出来る。
その一瞬の隙を突いて逃げ延びる。
が、そこにはすでに二人目の追手が待ち構えていた。
一人目よりは小さいものの、平均的な中肉中背の成人男性の体型なので、壁に体をこする様な事はないが、だからと言って少女がぶつかり合って勝てる相手では無い。
そもそも、どんな相手であっても正面から腕力勝負になった時点で、少女にとっては負けなのだ。
少女は考える間も無く、二人目の追手の左手側の壁に向かって飛んで壁を蹴り上がり、追手の肩を足場にして二人目の背面へと飛び降りる。
ここまでの動きで、すでに少女は超人的身体能力を見せていた。
体力の消耗の激しい状態で、かつ建物の二階程の高さから背中から落ちたダメージさえも受けた小柄な少女が、一人は股下を潜り、もう一人の追手は自分の身長より高い男の肩を利用して逃げ延びようとしているのだから、ここまでで十分な奇跡である。
だが、少女の奇跡もここまでだった。
そこには三人目の追手がいたのだ。
少女は驚いたが、それより驚いているのは三人目の追手である。
身軽な少女である事は知っていたはずだが、まさか空から少女が降ってくるという事など予想もしていなかったらしく、文字通り豆鉄砲を喰らった様な顔をしている。
逃げられる。
追手より先に我に返った少女はそう感じ、棒立ちになっている三人目の足元をすり抜けようと身を低くして地面を蹴る。
が、その蹴り足が泥にぬかるみ、僅かに出遅れた。
逃げ切れたかもしれない瞬間の、運命を分けた一歩の、一瞬の出遅れ。
少女は転びそうになりながらも体勢を立て直し、二歩目を踏み出したが、三歩目でスピードに乗ろうとした正にその時、後頭部に強烈な衝撃が走る。
三人目の追手が我に変えるより先に、二人目の追手が振り返って少女の後頭部を警棒で殴りつけたのだ。
いかに少女が華奢な外見とは裏腹に頑強な身体を有しているとはいえ、警棒の様な鈍器で後頭部を力任せに殴るなど殺意を持っての攻撃であり、追手にとって少女の生け捕りと言う目的さえ消えていた一撃だった。
意識が朦朧としているところへの、少女の命の軽さを証明している様な殺意の一撃は、どれほど強靭な意思を持つ少女でも意識を刈り取るには十分過ぎる一撃であった。