名家令嬢の妻の幼馴染が夫面してきたのに、妻は僕に反省しろと言った
1.警察署で、妻は彼を選んだ
僕と妻の幼馴染である鷹宮怜央は、またしても麻布警察署に連れてこられていた。
怜央は両手をポケットに突っ込み、壁にもたれながら、どうでもよさそうに薄く笑っていた。僕の左手首は骨折していて、痛みで冷や汗が幾重にも滲んでくる。それでも僕は顔を上げず、ただ黙って床を見つめていた。
九条紗良は、すぐにやって来た。
仕立てのいい白いスーツを着て、長い髪を後ろでまとめている。警察署に足を踏み入れた瞬間、当直の警察官でさえ一瞬視線を奪われた。彼女は東京・港区でも有名な名家の令嬢であり、九条ホールディングス唯一の後継者でもある。こんな場所にいること自体が似合わない女だった。
警察官は僕と怜央を見比べてから、彼女に尋ねた。
「九条さん、どちらを迎えにいらしたんですか?」
紗良の視線が、腫れ上がった僕の左手に落ちた。二秒ほど止まったあと、彼女は言った。
「夫を迎えに来ました」
胸の奥に詰まっていた息が、ようやく少しだけほどけた。僕は顔を上げ、立ち上がろうとした。けれど次の瞬間、鷹宮怜央がまっすぐ紗良のそばへ歩み寄り、ごく自然な仕草で彼女の腰に腕を回した。
「紗良、帰ろう。こいつ、今日はわざと絡んできたんだ。俺に手を出させようとしただけだよ。もう甘やかさなくていい。ここで一晩、頭を冷やさせればいいだろ」
紗良は目を伏せたまま、彼の手を払いのけなかった。
否定もしなかった。
その瞬間、左手に走っていた激痛が、ふっと遠のいた。代わりに痛み出したのは、胸の奥で何度も押し殺し、何度も平気なふりをしてきた場所だった。
僕は彼女を見つめ、一語ずつ区切るように言った。
「九条紗良。今日、この場ではっきり言ってくれ」
「君の夫は、僕なのか。……それとも、彼なのか」
彼女の眉がすぐに寄った。けれどその目は僕を見ず、苛立たしげに横へ逸らされた。
「高瀬蓮、いい加減にして」
「私、ここに入ってから一度でも、夫の名前が怜央だなんて言った? 何か認めた? 勝手に騒いでいるのは、あなたでしょう」
彼女の声は冷静で、不機嫌だった。まるで面倒な雑務を処理しているかのようだった。
「それに、今度は離婚を持ち出して脅すの? 怜央の言う通りね。あなたはここで少し、頭を冷やしたほうがいい」
怜央はその言葉を聞くと、さらに笑みを深めた。僕に挑発するような目を向け、それから紗良の腕を取って、親しげに彼女を連れて出ていく。紗良は振り返らなかった。骨折した僕の手に、もう一度目を向けることさえなかった。
彼女にとっては、別の男が夫のような顔で隣に立つことも、裏切りにはならないらしい。
僕がこれまで抱えてきた屈辱も、怒りも、惨めさも、彼女にとってはただの被害妄想だったらしい。
警察署の入口から二人の背中が消えていくのを見つめながら、僕の中に残っていた最後の未練は、完全に消えた。
夫という場所に立つ資格が、僕より怜央にあるというのなら。
彼女との結婚も、もう続ける必要はなかった。
翌朝、警察署を出ると、紗良が門の前に立っていた。
朝の東京の空気は少し冷たい。彼女は黒い車のそばに立ち、コートには塵ひとつついていなかった。まるでショーウィンドウに飾られた絵のように、どこまでも整っている。僕に気づいた彼女の目に、一瞬だけ心配の色が走り、視線が僕の左手に落ちた。
「手、大丈夫なの?」
僕が答える前に、彼女は小さくため息をついた。その声には、いつものような諦め混じりの苛立ちがあった。
「あなたが怒っているのは分かる。でも、怜央だって正当防衛だったのよ。あなたが先に突っかからなければ、警察署に来るようなことにはならなかったでしょう?」
「彼は小さい頃から私と一緒に育ったの。家同士の付き合いもある。私のために、少しは彼とうまくやっていこうと思えないの?」
僕は彼女を見つめながら、急にひどく疲れた。
以前なら、こういう言葉を聞くたびに、僕は説明していた。反論していた。怜央がこれまで何をしてきたのか、一つ一つ彼女の前に並べていた。きちんと話せば、いつかは信じてくれると思っていた。
けれど、そうではなかった。
彼女は理解できなかったのではない。
最初から、僕の側に立つ気がなかっただけだ。
「分かった」
左手の痛みに耐えながら、僕はスマホを取り出してタクシーを呼んだ。自分でも驚くほど、声は静かだった。
紗良は明らかに固まった。
「本当に?」
以前、僕たちは怜央のことで何度も言い争った。怜央は九条家のパーティーで周囲を巻き込んで僕を嘲笑したことがある。深夜に紗良を箱根の温泉へ呼び出したこともある。僕の目の前で、平然と彼女の腰に触れたこともあった。
そのたびに僕が異議を唱えると、彼女はいつも軽く受け流した。
「私たちは昔から近すぎるだけよ」
「彼は私にとって家族みたいなものなの」
「何でも悪く考えすぎないで」
積み重なった失望は、とうに心を麻痺させていた。もう説明する気力さえ残っていない。
「僕が君の交友関係に口を出すべきじゃなかった」
言い終えたところで、呼んだタクシーが路肩に停まった。紗良が一歩近づき、僕の手を取ろうとした。
「車で来たの」
僕はその手を避け、タクシーのドアを開けた。動作を止めることはなかった。
「仕事の邪魔になるから」
紗良の顔色が一瞬で沈んだ。
「高瀬蓮、私は午前の会議をずらしてまで迎えに来たのよ。怒るにも限度があるでしょう」
僕は車に乗り込み、もう彼女を見なかった。
「出してください」
車がゆっくりと動き出す。
バックミラー越しに、警察署の前に立つ紗良が見えた。彼女は険しい顔で車のドアを開け、強く閉めた。
その瞬間、気づいた。
彼女が追いかけてくることを期待しなくなるだけで、こんなにも楽になれるのだと。
2.ひとりきりの結婚記念日
車はすぐに病院へ着いた。
整形外科の廊下に入った途端、数人の看護師が声を潜めて話しているのが聞こえた。
「昨日、九条さんのご主人、ちょっと擦りむいただけだったのに、すごく心配されていたらしいですよ。自分で手当てして、検査にも付き添っていたって」
「九条さんって綺麗で仕事もできるのに、ご主人にもあんなに優しいなんて、羨ましいですよね」
少し年上の看護師が数秒沈黙したあと、気まずそうに言った。
「あなたたち、何か勘違いしてない? 九条さんの法律上の夫は、高瀬先生よ」
若い看護師たちは一瞬で固まった。
「でも……昨日、警察署で九条さんの名前を呼んで、腰を抱いていた人って、高瀬先生じゃありませんでしたよね」
僕は彼女たちの横を、視線を向けることなく通り過ぎた。噂話はぴたりと止まり、廊下には僕の足音だけが残った。背後から向けられる同情と驚きと、気まずさを含んだ視線は、左手の傷よりもずっと惨めだった。
同僚であり友人でもある森下航が、僕の傷を改めて処置してくれた。包帯を外し、腫れた手首を見た瞬間、彼の顔色が沈んだ。検査が終わると、少しだけ安堵したようだったが、それでも眉間の皺は消えなかった。
「自分で簡単に固定していたのが幸いだったな。でなければ、本当に後遺症が残っていたかもしれない。しばらく絶対に無理をするなよ。下手をすれば、整形外科医として手術台に立てなくなる」
僕は頷いた。
「ありがとう」
航は僕を見つめ、何か言いかけて、結局そのまま口にした。
「お前の奥さんと、あの鷹宮怜央って男、いったいどうなってるんだ。病院中に広まってるぞ」
僕は巻き直された包帯を見下ろしながら、昨夜のことを淡々と話した。
航は聞き終えると、深くため息をついた。
「蓮、前にも言っただろ。恋愛でも結婚でも、自分のための逃げ道は残しておけって」
「ああいう名家の人間は、小さい頃から持ち上げられて育っているから、人を傷つけている自覚がないことも多い。彼女が昔、お前を追いかけていたのは本気だったのかもしれない。でも、好きと大切にすることは違う」
僕は口元だけで笑った。
「昔はその言葉で、君と喧嘩したこともあったな。今なら分かる。君の言った通りだった」
航は一瞬、信じられないという顔をした。
「本当に吹っ切れたのか? あの人が少し優しく笑っただけで、また戻るんじゃないだろうな」
僕はすぐには答えなかった。
以前の僕なら、確かにそうだった。紗良が一言優しい言葉をくれるだけで、たとえ誠意のない振り込みでも、高価な贈り物でも、それだけで自分を騙せた。彼女は忙しいだけだ。彼女は気持ちを表現するのが苦手なだけだ。彼女の心には、まだ僕がいるのだと。
けれど、今回は違った。
僕は本当に、疲れていた。
少し前の結婚記念日、僕は長い時間をかけて準備をしていた。
東京湾を望むテラスレストランを予約し、照明と花と小さな花火の演出まで手配していた。あの夜、風は穏やかで、テーブルのキャンドルは柔らかく揺れていた。僕は本気で、その食事をきっかけに、僕たちはやり直せるかもしれないと思っていた。
席について五分もしないうちに、怜央から電話がかかってきた。紗良は画面を見るなり、すぐに立ち上がった。
「今から行く」
僕は彼女の手を掴んだ。ほとんど懇願するような声だった。
「今日は僕たちの結婚記念日だ。せめて、この食事だけでも一緒にいてくれないか」
彼女はためらうことなく、僕の手を振りほどいた。
「先に食べていて。すぐ戻るから」
そう言い残して、彼女は行ってしまった。
その後、僕は怜央のInstagramのストーリーズで彼女を見た。添えられていた言葉は、「愛犬の誕生日。家族三人で幸せ」。
動画の中で、紗良はしゃがみ込み、怜央の犬に優しく服を着せていた。怜央は後ろから彼女を抱きしめ、耳元で「紗良って本当にいい奥さんみたいだな」と笑っていた。彼女は彼を押しのけず、ただ俯いて笑った。
僕はその動画を長い間見つめていた。自分がどう反応すればいいのかさえ分からなかった。怒りもなかった。悔しさもなかった。ただ、胸の中が空っぽになっていくだけだった。
深夜、店が閉まる頃になって、スタッフが遠慮がちに僕へ声をかけた。
「高瀬様、花火は予定通り上げますか?」
誰もいないテラス席で、僕は自分のものとは思えないほど掠れた声で答えた。
「お願いします」
その夜、東京湾の空に花火が咲いた。鮮やかで、熱く、眩しかった。けれど、すぐに消えた。
光が一つずつ夜に溶けていくのを見ながら、僕はふと思った。紗良が僕に向けてくれた愛も、きっとこれと同じだったのだろう。かつては本当に存在していたのかもしれない。かつては本当に美しかったのかもしれない。けれど最後には、冷たい灰になって地面に落ちるだけだった。
その日、紗良は家に帰らなかった。
僕はひとりで書斎に座り、結婚前に彼女が自分から署名した公正証書と離婚協議書を取り出した。あの時、彼女は言った。もしもいつか別れる日が来たら、婚姻中に築いた財産の半分を僕に渡すと。
僕はそれが、彼女から僕への安心材料なのだと思っていた。
けれど今なら分かる。
安心感は、金で与えられるものではない。
夜が明けると、僕はその書類を写真に撮り、当時公証を担当した弁護士に送った。弁護士はすぐに電話をかけてきた。財産分与が絡むなら、手続きは少し複雑になると、慎重な声で説明した。
僕はスマホを握ったまま、静かに言った。
「何もいりません。最短で、どれくらいで終わりますか」
電話の向こうが数秒沈黙した。
「財産分与を請求されないのであれば、協議離婚として確認を進め、半月ほどで完了できると思います」
僕は少しずつ明るくなっていく東京の空を見た。その半月さえ、ひどく長く感じた。
「では、できるだけ早くお願いします」
電話を切った直後、玄関の鍵が回る音がした。
紗良が帰ってきた。
彼女は明らかに自分のものではない男物のパーカーを着ていた。髪は少し乱れ、徹夜明けの疲れが顔に残っている。それでも、何事もなかったかのようにバッグを玄関の棚に置いた。
「まだ病院に行っていないの?」
僕は彼女を見上げた。
「君を待っていた」
紗良は一瞬だけ固まり、短い罪悪感のようなものを顔に浮かべた。
「怜央のところで大事なことがあって、どうしても離れられなかったの」
そう言って、彼女はパーカーのポケットから腕時計を取り出し、僕の手首に自らはめた。
「これ、あなたに。お詫びのつもり」
僕はその時計を見下ろした。数日前、怜央の手首に同じものを見たばかりだった。彼がいらなくなったものなのかもしれない。彼女がついでに買い間違えたものなのかもしれない。あるいは、高いものを渡せば僕が黙ると思っただけなのかもしれない。
その瞬間、笑えばいいのか、悲しめばいいのか分からなくなった。
少なくとも彼女は、まだ言い訳を用意する手間は惜しまない。
少なくとも彼女は、まだ形だけの埋め合わせをくれる。
けれど、もうすべてが遅かった。
手続きが終われば、僕は東京を離れる。
彼女からも離れる。
とっくに終わっていたこの結婚からも、離れる。
3.冷めていく寝室
夜になってようやく、僕は疲れ切った身体を引きずるように麻布十番のマンションへ帰った。
玄関を開けた瞬間、鷹宮怜央が部屋着のまま、リビングのソファにだらしなく座ってゲームをしているのが見えた。紗良はエプロンをつけ、オープンキッチンから鍋を運んでいる。
彼女を知ってから、恋人になり、結婚してからも、彼女が僕に料理を作ってくれたことは一度もなかった。
それなのに今、彼女は暖かな黄色い灯りの下で、別の男のために料理をしていた。
怜央はゲームのコントローラーを置き、甘えるように彼女のそばへ寄った。
「紗良、早く味見させて。君が初めて作った料理なんだから、俺が一番に食べたい」
紗良は甘やかすように笑い、スプーンで一口すくって息を吹きかけ、彼の口元へ運んだ。
その時になって、ようやく彼女は玄関に立つ僕に気づいた。動きが一瞬止まり、すぐに笑顔を作る。
「蓮、帰っていたのね」
少し間を置いて、何かをごまかすように声を柔らかくした。
「スープを作ったの。手を怪我しているでしょう。ちょうど栄養になると思って」
怜央は食卓のそばにもたれながら、僕の顔から左手へと視線を滑らせ、鼻で笑った。
「確かに栄養は必要そうだな。顔色、今にも倒れそうだし」
紗良は眉を寄せ、彼を軽く叩いた。
「怜央、変なことを言わないで」
けれどその声に怒りはなかった。むしろ甘い注意のようだった。怜央も気にする様子はなく、そのまま当然のように食卓につき、まるでこの家の主人のように食べ始めた。
僕は彼らを見る気力もなく、そのまま寝室へ向かった。
しばらくして、紗良が後を追ってきた。彼女は扉を閉め、僕の背後に立った。さっきより少しだけ声が低い。
「蓮、怜央はああいう性格なの。気にしないで」
僕は適当に頷いた。
紗良は数秒沈黙し、様子を見るように切り出した。
「あの子、今回警察署に行ったことで、本当に怖かったみたいなの。それで……しばらくうちに泊まりたいって」
胸の奥で、乾いた笑いが漏れそうになった。
もう部屋着でリビングに座っているのに、今さら僕に知らせに来たのか。この家で僕は、とうに何かを決める立場ではなく、最後に知らされるだけの人間になっていたらしい。
僕が黙っていると、紗良はまた説明を重ねた。
「怜央は昔から臆病なところがあるの。今回は本当に怖がっているのよ。少しだけ理解してあげて」
僕は彼女の言葉を遮った。
「説明しなくていい」
彼女は固まった。
僕はベッドの端に腰を下ろし、感情の起伏がない声で言った。
「君たちの好きにすればいい。これから僕は、何も口を出さない」
紗良は僕を見つめ、不安そうに目を揺らした。
「蓮、なんだか変わった気がする」
そうだ。
僕は変わった。
彼女と怜央の一挙一動に眠れなくなることもない。彼女の偏った庇い方に声を荒げることもない。とっくに僕から離れていた彼女の関心を、惨めに奪い返そうとすることもない。
僕は首を横に振り、適当に答えた。
「気のせいだよ」
そう言って、僕は浴室へ向かった。
シャワーを浴びて戻ると、寝室に紗良の姿はなかった。リビングから二人の笑い声が聞こえてくる。扉越しでも、怜央の大げさな甘え声と、紗良が小さく笑う声が分かった。
ここ数日の疲れが溜まっていて、僕はベッドに入るとすぐに眠りに落ちた。
夢と現のあいだで、柔らかな身体がそっと寄り添ってくるのを感じた。慣れた香りが鼻先をくすぐり、僕は反射的に手を伸ばして彼女を抱き寄せた。
その一瞬だけ、すべてが昔のままなのだと錯覚した。
けれど、完全に眠りに落ちる前に、寝室の扉が開いた。薄く目を開けると、怜央が入口に立っていた。
彼は楽しげな笑みを浮かべ、足音を殺してベッドのそばまで近づいてきた。そして何の遠慮もなく布団の中に手を入れ、紗良の身体に触れた。
紗良ははっと目を覚まし、すぐに僕の腕の中から離れた。声を潜めて彼を叱る。
「やめて。蓮が寝ているでしょう」
怜央はわがままな子どものように、彼女の手首を掴んだ。
「一人だと怖い。俺と寝て」
紗良は反射的に僕を振り返った。
断ろうとしたのかもしれない。けれどその迷いは、ほんの一瞬だけだった。怜央はもう身を屈め、彼女を横抱きにしていた。
二人の足音と、囁くような声が遠ざかっていく。
寝室の扉が再び閉まった。
僕はさっきまで彼女の体温が残っていた場所に触れた。
そこは少しずつ冷えていった。
その冷たさが指先から胸の奥まで広がっていった。それでも僕は起き上がらなかった。追いかけて問い詰めることもしなかった。ただ天井を見つめ、夜がゆっくり明けていくのを待った。
翌朝、目を覚ますと、怜央はリビングにいなかった。
紗良は食卓に座り、僕に温かい牛乳を注いでいた。
「蓮、起きたのね」
僕はカップを受け取り、素直に二口飲んだ。手の中の温度は温かいのに、心は少しも動かなかった。
彼女は機嫌がよさそうだった。目には久しぶりに見る弾むような光さえあった。
「蓮、明日からスイスへ行きましょう」
僕の動きが止まった。
紗良は僕を見つめ、ゆっくりと笑みを広げた。
「新婚旅行よ」
4.離婚届受理証明書
僕はしばらく何も言えなかった。
以前、僕は何度も新婚旅行の話をした。紗良はそのたびに仕事が忙しいと言った。会社がもう少し落ち着いたら。怜央の帰国の件が片づいたら。次のプロジェクトが終わったら。
そうして先延ばしにされ続け、僕たちにまだ果たしていない新婚旅行の約束があることさえ、僕は忘れかけていた。
今になって彼女が急に自分から言い出した理由を、もう深く考える気にはならなかった。罪悪感なのかもしれない。ただの気まぐれなのかもしれない。あるいは、僕があまりに静かになったことに気づき、ようやく不安になっただけなのかもしれない。
「分かった」
僕はカップを置き、淡々と答えた。
東京を離れるまで、余計な波風は立てたくなかった。彼女を落ち着かせておけば、手続きが完全に終わったあと、僕は静かに去ることができる。
紗良は僕が頷くと、明らかにほっとした顔をした。すぐにスマホを取り出し、スイスの旅行情報を調べ始める。ユングフラウに行きたい、ツェルマットに行きたい、雪山が見えるホテルに泊まりたい、そこでウェディングフォトを撮り直してもいい。
僕は隣で、黙って彼女を見ていた。
不意に、彼女がひどく遠い人間に見えた。
彼女がこんなふうに生き生きしている姿を、僕はもう長い間見ていなかった。怜央が帰国してから、彼女の喜怒哀楽はすべて彼に引きずられているようだった。あまりにも長い間、僕は彼女の感情の中心にいなかった。
だから忘れかけていた。
彼女にも、かつては僕だけを見ていた時間があったのだと。
朝食を終えると、僕は弁護士事務所へ向かった。
午後、僕は一枚の薄い紙を受け取った。『離婚届受理証明書』。紙は軽かった。けれど掌に乗せた瞬間、胸に沈んでいた石がようやく地面に落ちたような気がした。
そこには僕の名前と、紗良の名前が並んでいた。
この瞬間から、僕たちの婚姻関係は正式に終わった。
夜、航と数人の同僚が、西麻布の会員制バーに個室を取って、僕の送別会を開いてくれた。
酒が進んだ頃、僕は化粧室へ向かった。隣の個室を通り過ぎようとした時、扉の隙間から聞き慣れた声が漏れてきた。
足が止まった。
半開きの扉の向こうで、酔った怜央が紗良に身体ごともたれかかっていた。彼は頬を彼女の肩に寄せ、腕を彼女の腰に回し、横暴で甘えた声を出している。
「俺、納得してない。あいつとスイスに行くために、俺を放っておくんだろ。仕事までずらしたんだから、ちゃんと埋め合わせしてよ」
周囲の人間が面白がってはやし立てた。
「キスしろよ」
「怜央様が嫉妬してるんだから、九条さんも少しは慰めてあげないと」
怜央はそのまま顔を近づけ、彼女に口づけた。
紗良は最初、二度ほど抵抗した。
けれど次の瞬間、もう彼を押しのけなかった。
僕は扉の外に立ったまま、数秒だけそれを見ていた。それから静かに目を閉じた。
再び目を開けると、僕は化粧室へ向かい、冷たい水で顔を洗った。鏡の中の男は顔色が悪かったが、目だけは不思議なほど醒めていた。
高瀬蓮。
お前たちは、もう離婚している。
僕は鏡の中の自分に、そう言い聞かせた。
送別会が終わったあと、店の前でまた二人に出くわした。
紗良は僕を見ると、明らかに固まった。酔いの赤みがまだ頬に残っていた。彼女はほとんど反射的に、そばにいた怜央を押しのけた。
「蓮? 病院で引き継ぎがあるって言っていなかった?」
僕は静かに彼女を見た。
「同僚たちに食事をおごったんだ。しばらく代診を頼んでいたから、そのお礼に」
紗良はほっとしたように息をついた。
「そうだったの」
彼女は髪を整え、何事もなかったかのように言った。
「じゃあ、先に帰っていて。私と怜央は少し用があるから、遅くなる」
言い終えるより早く、怜央は再び彼女の腰に腕を回し、そのまま車へ連れて行った。ドアが閉まり、黒い車はすぐに夜の中へ消えていく。
航が僕の横に立ち、肩を軽く叩いた。
「もう終わったんだ。これからは好きに生きろ」
僕は車のテールランプが見えなくなるまで見送り、ふっと笑った。
「ああ。終わったよ」
航と別れたあと、僕は数年暮らしたあの家へ戻った。
その夜、僕は一睡もせずに荷物をまとめた。服、書籍、いくつかの医療資料、両親が残してくれた古いアルバム。それらをスーツケースに詰めると、部屋は驚くほど空っぽになった。
夜明け前、僕は『離婚届受理証明書』をリビングのローテーブルにそっと置いた。そして、家の中を一度だけ見回した。
ここには確かに、喜びも、期待も、喧嘩も、僕が一人で飲み込んできた無数の失望もあった。ようやく終わりをつけるのだから、もっと悲しくなると思っていた。けれど心に残ったのは、遅れて訪れた静けさだけだった。
スマホが震えた。紗良からのメッセージだった。
「蓮、荷物をまとめておいて。昼に迎えに行くから、そのまま羽田へ向かいましょう」
僕は返信しなかった。
彼女の連絡先をすべてブロックし、怜央と九条家に関わる人間もまとめて削除した。すべて終えると、僕はスーツケースを引き、タクシーで羽田空港へ向かった。
保安検査場に入る前、僕は左手の薬指から結婚指輪を外した。
その指輪はしばらく掌の上にあった。最後に、近くの回収ボックスへ落とした。
係員が一瞬戸惑い、丁寧に声をかけてきた。
「お客様、貴重品はお手元にお持ちください」
僕は首を横に振った。
「貴重品じゃありません。安物です」
5.彼女が失ったもの
紗良はスマホの画面を見つめたまま、いつまで経っても僕からの返信を待っていた。
最初は、僕がまだ拗ねているだけだと思っていた。けれど時間が一分ずつ過ぎていくにつれ、胸の底から冷たい水のような不安がせり上がってきた。彼女はとうとう座っていられなくなり、僕を迎えに家へ戻ろうとした。
その時、怜央が胃を押さえ、青ざめた顔でソファにもたれた。
「紗良、昨日飲みすぎて胃が痛い。病院についてきてくれない?」
以前なら、彼女は間違いなくすぐに心配し、すべてを置いて彼に付き添っただろう。
けれど今日は、彼女は迷った。
スイス行きのチケットはもう予約していた。僕が隣の席に座っている光景まで、彼女は頭の中で思い描いていた。今回の新婚旅行さえうまくいけば、僕たちの間にあった争いはすべて静かに流れていくと、彼女は思っていた。
彼女は運転手を呼び、珍しく急いた声で言った。
「運転手に病院まで送ってもらって。今日は飛行機に乗るの」
怜央は呆然とした。紗良はもう彼をなだめず、足早に部屋を出て行った。
麻布十番のマンションに戻ると、部屋は恐ろしいほど静かだった。
彼女はドアを開け、靴を脱ぎ、いつものように声をかけた。
「蓮?」
返事はなかった。
リビングは異様なほど片づいていて、いつも漂っていたコーヒーの香りさえなかった。紗良の胸が強く鳴り、彼女は寝室へ駆け込んだ。クローゼットを開けると、僕の服はすべて消えていた。
彼女はよろめいた。それでも、信じようとはしなかった。
きっと待ちきれずに先に空港へ行っただけだ。あるいは、荷物だけ先に持ち出したのだ。
そう自分に言い聞かせながら寝室を出た彼女は、リビングのローテーブルに視線を落とした瞬間、その場に凍りついた。
テーブルの中央に、一枚の薄い紙が置かれていた。
『離婚届受理証明書』。
その文字は、針のように彼女の目に刺さった。紗良はゆっくりと近づき、震える指先でその紙に触れた。けれど、火傷でもしたようにすぐ手を引っ込めた。たかが一枚の紙なのに、彼女には千斤の重さがあるように見えた。
彼女は深く息を吸い、ようやくそれを手に取った。
紙面には、僕と彼女の名前が並んでいる。
婚姻関係の解消。
受理完了。
「嘘……」
紗良は呟き、すぐに強く首を振った。まるでその事実を拒むように。
彼女は慌ててスマホを取り出し、僕に電話をかけた。一回、二回、三回。電話の向こうに流れるのは、冷たい案内音だけだった。
僕は彼女をブロックしていた。
紗良はすぐに秘書へ電話をかけた。声には抑えきれない焦りが滲んでいた。
「すぐに高瀬蓮の居場所を調べて。最近どこへ行ったのか、弁護士事務所に連絡していないか、重点的に確認して」
電話を切ると、紗良はソファに崩れ落ちた。
空っぽになった部屋を見渡して、彼女はようやく気づいた。ここには、僕の痕跡がこんなにも多かったのだと。書棚の医学書がない。キッチンで僕がよく使っていたマグカップがない。寝室の枕元に置いていた写真立てもない。
この家から、一人が消えただけのはずだった。
それなのに、半分以上が抜け落ちたように空虚だった。
しばらくして、秘書から電話が入った。
「九条社長、高瀬先生は今朝一番の便で長野県松本市へ向かわれています」
「それから、昨日たしかに弁護士事務所へ行かれています。離婚手続きはすでに完了しているとのことです」
「松本……」
紗良はその地名を繰り返した。頭の中で何かが鳴った。
そこは、僕の両親が残した古い家がある場所だった。かつて僕が、彼女を連れて行きたいと言っていた故郷だった。
けれどその時、彼女は仕事が忙しいと言った。また機会があれば行くと言った。その「また」は、僕がもう彼女を連れて行きたいと思わなくなるまで、ずっと来なかった。
紗良は勢いよく立ち上がり、車のキーを掴んで外へ飛び出した。
彼女は弁護士事務所へ駆け込み、ほとんど乱暴に会議室の扉を開けた。
「離婚って、どういうことですか?」
弁護士は落ち着いた様子で、一式の書類を彼女の前に差し出した。
それは、かつて彼女が自ら署名した書類だった。僕に安心を与えると、彼女が誓ったものだった。
「九条様。高瀬様との協議離婚手続きは、すべて完了しています。高瀬様は財産分与を一切求められませんでしたので、手続きは早く進みました」
紗良はその書類を掴み取り、目を赤くした。
「ありえません。私は知りませんでした。私は同意していません。これは無効です」
弁護士の表情は変わらなかった。
「協議書は双方の合意に基づき、事前に作成されたものです。条件も満たされています。離婚届は正規の手続きによって受理されています。今ご覧になっているのは、その結果です」
紗良は書類を握りしめ、指を震わせた。警察署で僕が「君の夫は誰なのか」と尋ねた時の目。僕が「君たちの好きにすればいい」と言った時の静けさ。店の前で彼女と怜央が去っていくのを見ていた時の、ほとんど見えないほど薄い笑み。
あれは拗ねていたのではなかった。
弁護士事務所を出ると、陽射しは眩しいほどだった。けれど紗良は全身が冷えていくのを感じた。彼女は何度も自分に言い聞かせた。僕はただ怒っているだけだ。松本へ行けばいい。きちんと謝ればいい。昔、彼女が僕を追いかけたように、もう一度追いかければ、僕はきっと戻ってくる。
彼女は予約サイトを開き、松本へ向かう最短のチケットを取った。
その時、スマホが鳴った。
怜央だった。
紗良は目を閉じ、電話に出た。
「怜央」
電話の向こうから、怜央の弱々しい声が聞こえた。
「紗良、検査が終わった。医者が、胃がかなり悪いって言うんだ。入院しないといけないかもしれない。一人だと怖いから、早く来て」
紗良はスマホを握ったまま、少しずつ眉を寄せた。彼がまた大げさに騒いでいるだけかもしれないことは、彼女にも分かっていた。けれど列車の時間にはまだ少し余裕がある。ちょうど直接会って、もう絡まないでほしいと言うべきだ。
彼女は苛立ちを押し殺して答えた。
「分かった。少しだけ行くわ」
6.幼馴染の本性
紗良が病院に着くと、病室の扉は少しだけ開いていた。
彼女がドアノブに手をかけた瞬間、中から笑い声が漏れてきた。
「やっぱり怜央様はすごいな。あの九条紗良みたいな高嶺の女が、電話一本で戻ってくるんだから」
「港区で知らない奴はいないだろ。あの人にとって一番大事なのは、昔から怜央なんだって」
怜央の声には、隠す気のない得意げな響きがあった。
「当然だろ。高瀬蓮が土下座して頼んだって、俺が電話すれば、紗良はあいつを放り出して俺のところに来る」
紗良の指が、ぴたりと固まった。
病室の中で、誰かが笑いながら相槌を打つ。
「あの高瀬先生も、本当にプライドがないよな。あれだけ馬鹿にされて、まだしがみついてるんだから」
怜央は鼻で笑った。
「あいつは犬みたいなものだよ。前にパーティーでわざと恥をかかせた時だって、結局何もできなかっただろ。今回だって、俺がわざと挑発して警察署まで連れて行かせて、手まで折ってやった。それで、あいつに何ができる?」
紗良の血の気が、一瞬で引いた。
怜央の声はまだ続いていた。
「昨日の西麻布だって、わざと紗良にキスしたんだ。あいつに見せるためにな。見ていたくせに、平然とした顔をしていたのが笑えたよ」
「俺は、あいつが取り乱すと思っていたんだけどな。なのに、あのあと紗良とスイスに新婚旅行に行くつもりだったなんて、本当に滑稽だ」
紗良の頭の中で、何かが轟いた。
彼は見ていた。
昨夜のあの光景を、全部見ていた。
それなのに、どうして。
どうして彼は、何も言わなかったのか。
どうして、あんなに静かな顔で立っていられたのか。
巨大な恐怖が全身を覆い、紗良は立っているのも難しくなった。彼女はようやく気づいた。まだ言い争い、問い詰め、嫉妬する人間の心には、少なくとも期待が残っている。
僕はもう、何も聞かなかった。
何も気にしていなかったからだ。
病室の中で、怜央はまだ何も知らずに笑っていた。
「俺が海外に行っていなければ、紗良があんな奴と結婚することなんてなかった。紗良が愛しているのは、ずっと俺なんだ。いずれ目が覚めれば、高瀬蓮なんて捨てるに決まってる」
「その時は、あいつが東京にいられないようにしてやるよ」
その言葉が終わった瞬間、紗良は勢いよく病室の扉を開けた。
笑い声が一斉に止まった。怜央は振り向いて彼女を見た瞬間、顔色を変えた。
「紗良? スイスに行くんじゃなかったの?」
紗良は一歩ずつ中へ入った。
彼女のヒールが床を叩く音は大きくない。けれど、病室にいる誰もが声を失うほどの圧があった。彼女の顔は冷え切っていて、その目にはもう、これまでのような甘さはなかった。
「私がスイスへ行くと知っていて、胃が悪いなんて嘘をついたの?」
怜央は一瞬狼狽えたが、すぐに委屈そうな顔を作り、彼女の手を取ろうとした。
「紗良、聞いてくれ。高瀬蓮がまた何か言ったんだろ? あいつは器が小さいんだよ。俺に嫉妬して、それで――」
「もういい」
紗良は冷たい声で遮った。
「さっきの話、全部聞いたわ」
怜央の顔が少しずつ固まった。
紗良は彼を見つめ、凍るような声で続けた。
「わざと挑発して、彼を警察署に行かせた。彼の手を傷つけた。昨夜、わざと彼の前で私にキスをした。これまで何度も、パーティーで人を巻き込んで彼を侮辱した」
「鷹宮怜央。私はあなたを大切な友人だと思っていた。彼が私の世界に馴染めるように、あなたにも支えてほしいと思っていた」
「あなたは、私の夫にそういうことをしていたの?」
怜央はもう取り繕えないと悟ったのか、目に薄暗い感情を浮かべた。
彼は紗良の手首を掴み、早口で言った。
「そうだよ。俺がやった。でも、全部君を愛しているからだ」
「紗良、俺は昔からずっと、君と結婚したかった。どうして最後にあいつを選んだんだよ。あいつはただの医者だ。君に釣り合わない」
紗良は冷たく笑った。
「あなたが海外でしてきたことを、私が知らないと思っているの?」
怜央の顔が白くなった。
紗良は手を振りほどき、目に嫌悪だけを残した。
「あなたは私を愛しているんじゃない。蓮に負けたことが許せなかっただけよ」
怜央は歯を食いしばり、彼女を睨んだ。
「じゃあ君はどうなんだ。何度も俺を庇って、何度もあいつを置いて俺のところに来た。俺に何の感情もなかったなんて、言えるのか?」
その言葉は、冷たい水のように紗良の顔を打った。
彼女はさまざまなことを思い出した。
警察署で骨折した僕の手。黙って俯いていた僕の姿。結婚記念日の夜、レストランのテラスで一人きり、二人のために用意したはずの花火を見ていた僕。
会社を継いだばかりの頃、彼女が最も苦しかった時、一ヶ月間ずっと僕がそばにいたことも思い出した。
あの時、彼女は古参の役員たちに追い詰められ、眠ることさえ怖がっていた。僕は昼間、彼女の資料を整理し、夜には食事を作った。彼女がソファで眠り込むと、黙って毛布をかけた。
それなのに、いつからか彼女はそれらを当然のこととして忘れていた。
僕は永遠に彼女を愛してくれると思っていた。
だから彼女は何度も怜央を庇い、何度も僕の痛みを見ないふりをし、何度も僕の真心を踏みにじった。
僕が本当に去ってから、ようやく彼女は自分が何を失ったのかを知った。
紗良は深く息を吸い、冷えた声で言った。
「私が間違っていた」
怜央の目に、わずかな期待が灯った。
けれど次の瞬間、彼女は続けた。
「あなたを甘やかしすぎたことも、蓮の痛みを軽く見すぎたことも、全部私の間違いだった」
「鷹宮怜央。今日から、もう私に連絡しないで」
怜央の顔から血の気が引いた。
「紗良、そんなことできるわけないだろ」
紗良はもう彼を見なかった。
彼女は病室を出て、足早に歩いていった。
僕を探しに行くために。
今度は、自分のほうから僕へ向かうために。
7.松本の古い家
松本へ戻った僕は、両親が残してくれた古い家に入った。
少し年季の入った一軒家で、庭には一本の楓の木がある。春には新芽が出て、秋には赤い葉が庭一面に落ちる。両親は僕が大学にいた頃、事故で亡くなった。だからこそ、紗良と結婚したあと、僕はあの「家」と呼んでいた場所を必死に守ろうとしたのだと思う。
けれど今なら分かる。
あれは僕の家ではなかった。
本当に僕のものだった場所は、ここだった。
僕は一日かけて部屋を掃除した。埃をかぶった家具を拭き、両親の写真をもう一度リビングに飾った。そこには紗良の痕跡も、怜央の声もない。静けさが、久しぶりに僕を安心させた。
結婚したばかりの頃、僕は紗良をここへ連れて来たかった。
僕が育った街並みを見せたかった。両親が残してくれた家を見せたかった。少年だった僕が暮らしていた場所を、彼女にも知ってほしかった。けれど彼女は毎回、仕事が忙しいと言って断った。
今になれば分かる。
時間がなかったのではない。
この場所を、見下していただけだ。
夕方、僕は簡単な夕食を作った。
白いご飯、味噌汁、焼き魚、それから小さな皿に盛った漬物。東京の高級レストランの料理のように洗練されてはいなかったが、食事というものがこんなにも落ち着くものだったのだと、僕は初めて思った。
箸を取ったところで、インターホンが鳴った。ドアを開けると、少し驚いた。
玄関の外に立っていたのは、隣の家の小森陽菜だった。記憶の中の彼女は少しぽっちゃりしていて、いつも歪んだポニーテールを結んでいた。僕が東京の大学へ進学してから、ほとんど会うことはなかった。今の彼女はすっかり細くなり、顔立ちもすっきりしている。それでも笑った時の柔らかさは、昔のままだった。
「蓮兄ちゃん?」
彼女は僕を見て、目を輝かせた。
「どうして今、帰ってきたの?」
僕は身体を横にずらし、彼女を中へ招いた。
「これからは、ずっと松本にいる」
陽菜は一瞬だけ驚き、それからもっと嬉しそうに笑った。
「それならよかった。またご近所さんだね」
少し話して、彼女が今は地元の高校で国語教師をしていることを知った。担任も持っていて忙しいが、生活は充実しているらしい。
彼女の視線が食卓の上をかすめ、少し照れたように笑った。
「今日、うちの両親が親戚の結婚式に行っていて、誰もご飯を作ってくれないの。……一緒に食べてもいい?」
僕は頷き、彼女の分の茶碗と箸を取りに行った。
「もちろん」
その夕食は、思いのほか穏やかだった。
陽菜は学校であった面白い出来事や、松本の街がこの数年でどう変わったかを話してくれた。僕が子どもの頃、彼女をからかう男子を追い払ったことまで、笑いながら口にした。彼女は僕がなぜ急に戻ってきたのかを聞かなかった。東京で何があったのかも詮索しなかった。
その距離感が、とても心地よかった。
食後、彼女は自分から食卓を片づけ、食器を洗ってから、笑顔で帰っていった。
「じゃあ、今日は帰るね。邪魔しちゃ悪いし。蓮兄ちゃん、おかえり」
彼女が帰って数分もしないうちに、またドアが叩かれた。
何か忘れ物でもしたのだと思い、僕は少し気を緩めたまま玄関へ向かった。
「忘れ物?」
ドアを開けた瞬間、顔から笑みが消えた。
そこに立っていたのは陽菜ではなかった。
長い移動で疲れ切り、目を赤くした紗良だった。
彼女がここまで乱れた姿を見せるのは初めてだった。髪は少し乱れ、化粧も崩れている。いつも真っすぐだった背筋が、わずかに震えていた。松本の古い家の玄関先に立つ彼女は、ようやく帰る場所を見つけたのに、中へ入る資格がない人間のように見えた。
「蓮……」
声はひどく掠れていた。長い間泣いていたのだろう。
僕は眉を寄せ、冷たく言った。
「何をしに来たんだ」
紗良は焦ったように一歩近づき、反射的に僕の手を取ろうとした。
「あなたを迎えに来たの。スイスへ行きましょう。蓮、ごめんなさい。本当にごめんなさい。私が間違っていた。ひどい間違いをした」
「怜央を庇うべきじゃなかった。あなたにあんな思いをさせるべきじゃなかった。お願い、許して」
「もう一度やり直したい。二度とあんなことはしないから」
彼女が言い終える前に、僕はその手を強く振りほどいた。
紗良はよろめき、さらに顔を青ざめさせた。
僕は半歩後ろへ下がり、距離を取った。声には一切の温度がなかった。
「無理だ。僕はここで新しい生活を始める」
紗良の目に涙が溜まった。
僕は彼女を見つめ、少し皮肉を込めて尋ねた。
「ここまで来たのに、怜央は止めなかったのか」
紗良の顔が明らかに強張った。彼女は一歩近づき、必死に説明した。
「彼があなたにしたことは、全部知った。私が人を見る目を持っていなかった。愚かだったの」
「あなたが望むなら、彼に謝罪させる。警察にも行かせる。あなたの手を傷つけた代償を、必ず払わせる」
「あなたが戻ってきてくれるなら、何でもする。あなたが欲しいものは、全部あげる」
僕は彼女を見ながら、急に疲れた。
彼女は今でも分かっていない。僕が本当に望んでいたのは、怜央への復讐でも、彼女からの埋め合わせでもない。
ただ一度でよかった。
僕を迷わず選んでほしかっただけだ。
けれど彼女は、一度もそれをしてくれなかった。
「僕が欲しいのは、君たちから離れることだ」
紗良が固まった。
僕は彼女を見て、一語ずつ言った。
「九条紗良。僕たちはもう終わった。帰ってくれ」
そう言って、僕はもう彼女を見ずにドアを閉めた。
鈍い音がした。
扉は彼女を隔て、同時に僕の過去の惨めさもすべて閉じ込めた。
8.もう、戻らない
その夜、僕は紗良のことを考えなかった。
洗面を済ませ、両親が残した部屋で横になった。窓の外では風が楓の葉を揺らし、さわさわと音を立てていた。久しぶりに、深く眠れた。
けれど、その後数日、紗良は松本を離れなかった。僕が昼間にスーパーへ行く時も、女鳥羽川沿いを歩く時も、彼女は少し離れた場所から静かについてきた。夜になると家の外に立っていたが、もうドアを叩くことはなかった。
僕は彼女を無視した。
彼女も、僕を無理に責めることはできなかった。
ある日、僕がゴミを出しに行き、袋を収集所に置いたところで、背後から彼女の押し殺した声が聞こえた。
「蓮……」
僕は振り返らなかった。紗良は少し離れた場所に立ち、疲れ切った掠れた声で言った。
「会社で問題が起きたの。東京に戻らないといけない」
「処理が終わったら、またあなたに会いに来る」
僕はゴミ置き場の蓋を閉め、淡々と言った。
「もう来ないでくれ」
空気が凍りついた。
紗良はその一言で最後の支えを砕かれたように、ぽろぽろと涙をこぼした。そこに立ったまま、僕が背を向けて去っていくのを見つめていた。どうすればいいのか分からない迷子のようだった。
けれど僕は、振り返らなかった。
つい先ほど、彼女には秘書から連絡が入っていた。怜央が報復を恐れて、先に九条ホールディングスの内部資料を競合企業へ漏らしたという。会社は未曾有の危機に陥り、株価は揺れ、取締役会も混乱していた。彼女は戻らなければならなかった。
その瞬間、彼女は思い出していた。自分が会社を継いだばかりの頃、古参の役員たちに追い詰められ、似たような窮地に立たされたことを。
あの時、彼女のそばを離れなかったのは僕だった。
昼は混乱した書類を整理し、複雑な数字を確認した。夜、彼女が疲れ果ててソファで眠り込むと、僕は静かにキッチンへ行き、食べやすいものを作った。
彼女は、それを当然だと思っていた。
けれど今、かつて彼女だけを見ていた男は、慰めの一言すらくれなかった。
紗良は重い足取りで松本を去った。
彼女がいなくなってから、僕の生活は少しずつ整っていった。
左手の怪我が治ると、僕は松本市内の私立病院に勤め始めた。東京の大病院ほど規模は大きくないが、同僚は穏やかで、患者も素朴だった。毎日が地に足のついた、静かなものになっていった。
陽菜は、僕の生活に自然と顔を出すようになった。仕事帰りに病院の前で待っていて、小さな果物の箱を持ってくる日もあった。週末には、煮物を作りすぎたから一緒に食べないかと、玄関のチャイムを鳴らすこともあった。
僕もよく彼女の家で食事をした。彼女の両親は僕にとても優しく、長く家を空けていた子どもに接するように、何度も料理をよそってくれた。仕事は大変ではないか、ちゃんと眠れているかと尋ねてくれる。食卓の灯りは温かく、僕が長い間忘れていた、本物の家族の温度がそこにあった。
ある日の夕食後、僕は陽菜と近所を散歩した。
彼女の家の柴犬が前を歩き、嬉しそうに尻尾を振っていた。児童公園を通り過ぎると、子どもたちが追いかけっこをしていて、その笑い声が夕方の風に流れていった。陽菜がふと、小さな声で言った。
「蓮兄ちゃんが帰ってきてくれて、本当に嬉しい」
僕は彼女を見た。
陽菜は俯き、少し照れたように笑った。
「子どもの頃、私、太ってるってよくからかわれていたでしょう。でも蓮兄ちゃんだけは、そんな目で私を見なかった。いつも私を助けてくれた」
「大学院で東京に行った時、本当は会いに行こうと思ったの。でも、蓮兄ちゃんが結婚したって聞いて」
彼女は言い終えると立ち止まり、真っすぐ僕を見た。
「今こんなことを言われても困るかもしれない。でも、知っておいてほしいの。私はずっと感謝していたし、ずっと好きだった」
彼女の真心に対して、僕は隠し事をしなかった。
過去の結婚について簡単に話し、今すぐ新しい恋愛を始められる状態ではないことも正直に伝えた。言い終えたあと、彼女はきっと失望するだろうと思った。あるいは、気まずそうに距離を置くかもしれないと思っていた。
けれど陽菜は、ただ柔らかく笑った。
「大丈夫」
その声は小さいのに、不思議なほど揺らがなかった。
「私、待てるから」
「友達としてそばにいる。蓮兄ちゃんがちゃんと元気になって、もう一度誰かを好きになってもいいと思える日まで」
月の光が彼女の顔に落ちていた。温かく、明るかった。
僕は彼女を見つめながら、長い間沈んでいた心のどこかが、ほんの少し動くのを感じた。
一年が過ぎた。
その一年の間に、紗良は何度か僕を訪ねてきた。病院の前で待っていたこともあれば、家の下に立っていたこともある。けれど僕は、ずっと会わなかった。
航から聞いた話では、九条ホールディングスは大きく揺れたらしい。紗良は鷹宮家とのすべての提携を断ち切り、怜央を警察に突き出した。怜央は情報漏洩と傷害の件で起訴され、鷹宮家もその影響で急速に没落したという。
その話を耳にしても、僕はただ静かに聞いていただけだった。
それはもう、僕とは関係のない世界だった。
ある日の夕方、仕事を終えて病院を出たところで、紗良がまた僕の前に立った。
一年の時間は、彼女を変えていた。以前のような冷たく鋭い美しさは影を潜め、彼女はかなり痩せていた。目の下には隠しきれない疲れがあり、高級なコートでも、長い不眠の気配を覆い隠すことはできなかった。
彼女は僕を慎重に見つめ、掠れた声で言った。
「蓮。鷹宮家はもう破綻したわ。怜央も、会社の情報を漏らした件と、あなたを傷つけた件で、実刑判決を受けた」
「東京の家は、あの時のままにしてあるの。あなたの本も、カップも、服も、何も動かしていない。ずっと、あなたが戻ってくるのを待っていた」
彼女は期待を込めた目で僕を見ていた。僕が頷きさえすれば、すべてが昔に戻ると信じているようだった。
僕は静かに彼女を見た。
そして、そっと告げた。
「結婚するんだ」
紗良の身体が固まった。
顔から血の気が引き、目にあった光が少しずつ砕けていく。
「……何を、言っているの」
僕はもう彼女を見なかった。
彼女の背後へ視線を向けた。道の向こうから陽菜が歩いてくる。彼女は買ったばかりの花束を抱え、穏やかな笑みを浮かべていた。
気づかないうちに、僕の口元が緩んだ。
紗良は呆然と僕を見ていた。そしてようやく気づいたのだろう。彼女はもう長い間、僕がこんなふうに柔らかく笑う姿を見ていなかった。
怜央が帰国してから、僕の笑顔には少しずつ影が落ちていた。
今、その影はもう消えていた。
僕は紗良の横を通り過ぎ、陽菜のもとへ歩いた。
陽菜は紗良に気づくと、わずかに足を止めた。けれど退かなかった。静かにそこに立ち、僕が隣に来るのを待っていた。
僕は手を伸ばし、彼女の手をしっかり握った。
「行こう」
陽菜は頷いた。
「うん。帰ろう」
僕たちは並んで歩き出した。振り返らなかった。
紗良はその場に立ち尽くし、僕と陽菜が寄り添って去っていく背中を見ていた。夕陽が僕たちに降り注ぎ、刺すように温かかった。
彼女はようやく、すべてを理解した。
僕は拗ねていたのではない。
彼女を罰していたのでもない。
彼女が後悔するのを待っていたわけでもない。
僕は本当に、もう彼女を手放していた。
彼女自身が、かつて彼女だけを見ていた高瀬蓮を、自分の手で完全に遠ざけたのだ。
もう、戻らない。
紗良は耐えきれず、その場にしゃがみ込み、顔を覆って泣き崩れた。押し殺した泣き声は、絶望に満ちていた。
けれど今度は、誰も彼女を抱きしめるために戻らなかった。
その後、僕と陽菜は小さく温かな結婚式を挙げた。
式場は松本にある小さな教会だった。東京の上流社会にありがちな仰々しい儀式も、押し寄せるメディアも、眩しいフラッシュもなかった。ただ親しい友人、同僚、近所の人たちだけが来てくれた。
受付には、匿名の高額な祝儀が届いていた。
名前はなかった。
それでも、誰からのものなのか、僕にはすぐに分かった。
陽菜はその金額を見て、静かに尋ねた。
「どうしたい?」
僕は数秒黙った。
「寄付しよう」
式が終わったあと、僕と陽菜はその全額を小児医療のための公益団体へ寄付した。
過去の恩も、負い目も、遅すぎた後悔も、そこでようやく終わった。
結婚後、僕は変わらず病院で働いた。陽菜も学校で教え続けた。夕方には一緒に帰り、買い物をして、食事を作った。皿洗いをどちらがするかで、真剣にじゃんけんをすることもあった。天気のいい週末には、柴犬を連れて川沿いを歩き、遠くの山や、松本城のそばで少しずつ色づいていく木々を眺めた。
そんな日々は、平凡だった。
けれど、本物だった。
ようやく僕は、ずっと欲しかった家を手に入れた。
誰にも怯えなくていい、本当の家を。
――完――




