3話:謝罪
湿った夜風が吹く集合住宅の廊下。一階の角部屋から、微かに歌声が漏れていた。
カイルの母が、幼い頃の彼によく歌って聞かせていた、静かな祈りの唄だ。
その優しい旋律を耳にした瞬間、ミリアの足が止まった。
「……待って。私、なんて言えば……」
自責の念が喉元までせり上がる。
立ち尽くすミリアの背中に、ゼノの低い声が飛んだ。
「……頼まれたんだろ、お前が。行くぞ」
ゼノが木製の扉を叩く。
「……はい、どなた?」
扉が開くと、ランプを掲げたカイルの母が立っていた。
痩せて顔色の悪い彼女は、夜中に訪ねてきたかつての息子の親友たちを見て、一瞬目を見開いた。
だが、二人の沈痛な面持ちと、ミリアの濡れた目を見た瞬間、彼女はすべてを察したように、静かに二人を家の中へ招き入れた。
狭い室内には、カイルが幼い頃に使っていた木剣や、父の古い写真が大切に飾られていた。
ミリアは声が出なかった。
ただ、震える手で血に汚れた真鍮の護符を差し出すのが精一杯だった。
「……カイル兵長は、最後まで戦場に残って、仲間を逃がしたそうです。……これは、遺品です」
見かねたゼノが、努めて冷静な声で説明した。
母は護符を両手で受け取り、愛おしそうに指でなぞった。そして、堰を切ったようにその場に崩れ落ち、声を押し殺して泣き始めた。
ミリアは、絞り出すような声で「ごめんなさい」と繰り返した。
気がつけば、彼女は板張りの床に膝をついていた。王女として教わった優雅な礼法ではない。ただ、目の前の女性に顔を向けられないほどの自責の念が、彼女の体を押し潰していた。
「……本当に、申し訳ありませんでした……!」
震える両手を床につき、ミリアは深く頭を下げた。栗色の髪が床に広がり、その細い肩が激しく波打つ。
王女のプライドなんて、カイルの命に比べれば羽毛よりも軽かった。彼を戦場へ送ったのが「国家」であり、その頂点に自分の家族がいるのなら。
「私のせいです……。私のせいで、カイルは……!」
床に落ちた涙の粒が、古びた木目を濡らしていく。ミリアは額を床に押し当てたまま、必死に許しを請うように拳を握りしめた。
「お顔を上げてください、ミリア様」
母は涙を拭い、慌ててミリアの肩を抱き起こす。
「いいの……こうなることは、前々からわかっていました。あの子、普段は私の言うことをよく聞く子だったけれど……兵士になることだけは、どうしても辞めてくれなくて。……私を守るんだって、父さんに負けないくらい強くなるんだって、あんなに必死に……」
母は、幼い頃のカイルの話を少しだけしてくれた。どれほどミリアやゼノのことを大切に思っていたか。どれほど自分の努力を信じていたか。
話終えると、母は木箱の中から、カイルが大切にしていた私物――使い古した日記帳や、丁寧に畳まれた手拭いを取り出し、それをそっとミリアに差し出した。
「ここにカイルのものがあると、今は少し……辛いんです。ミリア様、しばらく預かっていてくださらない? あの子も、あなたになら預けて良いって言ってくれるはずだから…」
ミリアは無言でそれを受け取ると、二人は深々と頭を下げ、逃げるようにその家を後にした。
帰り道。中央通りのエーテル灯が、冷酷なまでに二人を照らし出す。
ミリアは受け取った木箱を抱きしめながら、足を引きずるように歩いた。
「どうして……どうしてあんなに優しい人が死ななきゃいけないの。お父様は、カイルを平和の糧だって言ったわ……こんな光、全部なくなればいいのに……!」
ミリアの嗚咽が止まらない。あまりの落ち込みように、ゼノは足を止めた。
「いつまでそうしてやがる。お前が泣いたところで、カイルは戻ってこねぇんだぞ」
「わかってるわよ……! でも、私には何もできない……王女なのに、友達一人救えなかった……!」
――乾いた音が、夜の路地に響いた。
ゼノの拳が、ミリアの頬を強く弾いた。
衝撃で地面に倒れ込んだミリアは、痛みと驚きで目を見開いた。
「お前、ミリア・アグナ=レイムだろ……!」
ゼノの声は怒りで震えていた。
「この国の次期女王だろ! メソメソ泣いてんじゃねえ! お前がそのザマでどうする! カイルの死を、本当にただの『平和の糧』で終わらせるつもりか!」
不器用なほど必死な顔でミリアを睨みつけた。
「……ごめん。今のお前、見てらんねえ。」
ゼノはそれだけ言うと、立ち上がろうとするミリアに手を貸すこともなく、背を向けて闇の中へ消えていった。
「……痛いよ…ゼノ……。ねえ、カイル…。」
ミリアは腫れた頬を抑え、冷たい石畳の上で一人取り残された。
月明かりすらない夜。エーテル灯だけがゆらゆらとミリアを照らしていた。




