16話:少女ミア
「神様なんて、腹の足しにもならないのに」
今年四歳になるミアは、荒れ果てた祈祷所の隅で、母の背中を冷ややかな目で見つめていた。
そこは、かつて神殿だった場所の残骸だ。屋根は落ち、床は砂にまみれている。それでも母は、毎日欠かさずその場所を掃き清め、自分が食べるはずだった一握りの穀物を「お供え物」として捧げていた。
ミアに父親はいない。母がなぜ自分を産んだのか、ミアは聞いたことがない。ただ、村の男たちが母を見る卑俗な視線や、女たちが投げつける「汚れ物」という言葉が、その出自を雄弁に物語っていた。
母は巫女だった。
この呪われた大地で、誰もが神を呪い、あるいは忘れていく中で、彼女だけが唯一、神の存在を疑わなかった。
「巫女なら雨の一滴でも降らせてみろよ!」
「神様とやらが助けてくれないなら、あんたの体で俺たちを癒やせよ」
村人たちは、乾ききった心の毒を母にぶつけた。罵声を浴びせ、石を投げ、時には暴力で彼女を屈服させようとする。
それでも母は、あざだらけの顔で微笑み、祈りを捧げ続けた。
ある夜、ミアは堪えきれずに母へ問い詰めた。
「ねえ、なんで? なんであんなに酷いことをする奴らのために祈るの? 神様なんて、一度だって助けてくれなかったじゃない」
母は、汚れを知らない真っ直ぐな瞳でミアを見つめた。
「……みんなに、早く助かってほしいからよ。お腹が空くと、心まで乾いてしまうの。だから、私は祈るのをやめないわ」
ミアは、その「優しさ」が許せなかった。
自分だけでなく、村人全員を愛してくれる母を誇りに思う気持ちと、そんな母を平気で踏みにじる村人への憤り。そして何より、自分という娘がいながら、他人の救済を優先する母への、引き裂かれるような寂しさ。
やがて、絶望は極限に達した。
大地は毒され、最後の一粒の食料も尽きた。飢えに狂った村人たちの間に、ある邪悪な声が響き始める。
「巫女を生贄として捧げれば、神も退屈を紛らわして、慈悲をくださるんじゃないか?」
それは信仰ではなく、ただの「人殺し」への言い訳だった。
母は抵抗することなく、獣のように群がった村人たちに連れ去られた。
ミアは、隠れて震えていた。
母が捕らえられる瞬間、恐怖で足が動かなかったのだ。
自分の無力さに爪を立て、夜陰に乗じて母が拘束されている地下室へ忍び込んだ。
「母さん、逃げよう。今ならまだ……!」
必死に縄を解こうとするミアの手を、母の冷たい手が制した。
「ミア……だめよ。私は、ここに残るわ」
「なんで!? 殺されるんだよ!? 私を置いていくの? それでも母親なの!?」
ミアの叫びが、狭い部屋に木霊した。
母は、これまでに見たこともないほど悲しく、困ったような顔をして、震える指先でミアの頬に触れる。
「……寂しい思いをさせて、ごめんね。お母さん失格だわ。本当は、ミアが幸せになれることなら、なんだってしたいのに……」
母の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「大丈夫。お母さん、これから天国に行って、神様をひっ捕まえてくるから。……だからミア。もし、いつか神様が地上に降りてきたら。あなたが、その神様をしっかり捕まえておいてくれる?」
「……っ、何言ってるのよ……!」
外から足音が聞こえ、ミアは逃げざるを得なかった。
母を信じたい心と、母を犠牲にする世界への憎悪。相反する感情に胸を掻きむしりながら。
翌日。
ミアは、母が処刑される一部始終を、瞬きもせずに目に焼き付けた。
母を切り刻んだのは、神ではない。
昨日まで母に祈りを乞うていた、浅ましい人間たちだった。
(こんな愚かなことは、私で終わらせてやる)
この土地を潤し、人々を飽食させれば、誰も狂わなくて済む。母のような犠牲者は二度と出ない。
アグナ(火)――すべてを焼き払い、作り直すための名前を、彼女はその日、心に刻んだ。
母との約束を。
「神を捕まえる」という、呪いにも似た誓いを胸に抱いて。
…だが、ミア…いや、アグナはまだ知らない。
母の亡骸を見つめ、怒りに震える自分を必死に抑えている頃。
遥か彼方の空が割れ、どんよりとした雲を突き破って、一条の黄金の光が大地を貫いたことを。
それが、彼女が「ひっ捕まえる」と誓った対象――。
天界の静寂を捨て、傲慢な救済の理想を抱いて地上へ降り立った「無限の力」ラームの降臨であったことを。
二人が出会うまで、あと十年。
運命の歯車は、ミアが流した涙が土に染み込むよりも早く、音を立てて回り始めていた。




