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11話:王妃リリアーヌ


それは、まだこの国に「希望」という言葉が、もっとも相応しかった頃の話。


リリアーヌは、アグナ=レイム国内でも指折りの名家、伯爵家の令嬢として生まれた。

輝くような栗色の髪に、深い森の静寂を思わせる翠の瞳。

彼女はただ美しいだけでなく、王立学院を飛び級で卒業するほどの聡明さを誇り、歴史や工学に深い造詣を持つ才女としても知られていた。


そんな彼女に、若き日のグレイヴ王太子が文字通り一目惚れをしたのは、あまりに有名な話である。


「リリアーヌ、君の知性がこの国を導く光になる。私と一緒に、未来を作ってほしい」


不器用なほどに情熱的な彼の求婚。その裏にある、民と家族を想う真っ直ぐな正義感。リリアーヌが彼に心を開いたのは、その瞳の中に偽りのない誠実さを見たからだった。


結ばれた二人の幸福を祝うように、ミリアが生まれた日は、王国中の鐘が鳴り響いた。

柔らかな陽光が差し込む王宮の寝室。

天蓋付きのベッドで、リリアーヌは愛おしそうに腕の中の小さな命を見つめていた。その傍らには、普段の威厳をかなぐり捨て、今にも涙をこぼしそうなほど顔を綻ばせたグレイヴがいた。


「見て、グレイヴ。この子の目……なんて綺麗な銀色かしら。まるで夜空の星を閉じ込めたみたい」


「ああ、リリアーヌ。君に似て、きっと聡明で美しい王女になる。……誓うよ。この子が一生、何の不自由もなく、光溢れるこの国で笑っていられるように、私が守り抜くと」


グレイヴは愛おしそうに、リリアーヌと赤ん坊のミリアをまとめて抱きしめた。

この時、二人の間に流れていたのは、混じりけのない純粋な愛だけだった。


だが、幸福な時間は、砂時計からこぼれ落ちる砂のように早く、残酷だった。


産後の静養中、リリアーヌは城内に漂う奇妙な違和感に気づき始める。独自にエーテルの性質を研究していた彼女は、工学的な視点から、この国の繁栄を支える「光」に決定的な矛盾を見出したのだ。


ある晩、寝室でミリアを寝かしつけた後、リリアーヌは戻ってきた夫に一枚の計算書を突きつけた。


「ねえ、グレイヴ。他国へ輸出しているこの『エーテル・セノ』について教えて」

「……リリアーヌ、夜更かしは体に毒だ。それは専門家に任せておけばいい」


隠すように書類を伏せるグレイヴ。だが、リリアーヌは静かに、けれど逃げ場を許さない響きで続けた。


「エーテルは本来、大気に溶けてしまう不安定な力だわ。それを何ヶ月も安定して閉じ込めておける物質なんて、今の工学では存在しないはず。……計算上、これが可能だとしたら、それは強固な合金などではない。絶えずエネルギーを循環させ続ける**『生物的な器』**を用いていることになるの。……ねえ、本当は何を作っているの?」


グレイヴの顔から色が消えた。その瞳が揺れるのを、リリアーヌは見逃さなかった。


「考えすぎだよ、リリアーヌ。君はただ、この子の母親として笑っていてくれればいい。……真実は、私一人が背負えばいいことだ」


その数日後、王都を未曾有の震動が襲った。大規模なエーテル暴走事故。下層街の一区画が光に呑み込まれ、罪なき多くの命が消えた。


リリアーヌは確信した。あの事故は単なる「故障」ではない。システムの「器」が、ついに限界を迎えたのだと。

彼女は夜の静寂に紛れ、負傷者の搬送先とは異なる方向へ向かう「黒衣の使者」たちの後を追った。辿り着いたのは、王宮の最下層、禁忌の扉の先。

重厚な石の扉を開けたリリアーヌが、そこで目にしたのは――。


カプセルの中で、おびただしい数の管を刺され、形を失い、泥のように溶けかけながらも、無理やりエネルギーを流し込まれ続ける「人間」たちの成れの果て。


「ああ……ああ、なんてこと……!」


膝が崩れた。これが夫の言っていた『合金』の正体。エーテルを閉じ込め、安定させるための、生きた回路エーテル・セノ。人々の祈りの象徴であるエーテルが、実は隣人の命を煮詰めて作られていたという、あまりに醜悪な真実。


(グレイヴ……あなたは間違っているわ。でも……)


彼女は夫を憎み切れなかった。彼がどれほどこの国を愛し、同時に重圧に押し潰されそうになっていたかを知っていたからだ。


リリアーヌは決意した。

まだ幼いミリアを連れて、一度この国を離れよう。安全な場所から彼を説得し、王冠も、エーテルの権益もすべて捨てて、ただの家族としてやり直すのだ。

嵐の夜。リリアーヌは眠るミリアを毛布に包み、最低限の荷物を持って馬車を出した。


「……待っていて、グレイヴ。すぐにあなたを迎えに行くから」


だが、その願いは国境近くの深い森で、音もなく現れた「黒衣の使者(ブラック・レコーダー)」たちによって遮られた。


「リリアーヌ様。どちらへ行かれるおつもりですか」


感情を排した無機質な面が、暗闇の中から染み出すように現れる。


「どきなさい! 私はミリアを……この子を、安全な場所へ連れて行くだけよ!」

「なりません。殿下は次代の王家を支える『重要な器』。そして貴女様は……知りすぎてしまった」


使者の一人が、一歩前に出る。

リリアーヌはミリアを抱きしめる力を強めた。その翠の瞳には、母としての激しい怒りと覚悟が宿っていた。


「グレイヴが命じたの!? 自分の妻と娘を殺せと!」

「……陛下は、すべてをご存じありません。これは歴史管理員の独断、いえ、『王国の意思』です」


パンッ――!


乾いた音が夜の森に響き、リリアーヌの胸に鮮血の花が咲いた。

彼女は痛みに顔を歪めながらも、決してミリアを離さなかった。地面に崩れ落ちる間際、彼女は泣きじゃくるミリアの耳元で、消え入りそうな声で囁いた。


「…嗚呼、神様。どうかこの子を、そしてグレイヴを……アグナ=レイム王国をお救いください……」


リリアーヌの意識が、深い闇へと落ちていく。

遠のく視界の端で、彼女が見たのは、異変に気づいて駆けつけたであろうグレイヴの、絶叫する姿だった。


この日、王妃リリアーヌは「不慮の事故」で亡くなったと公表された。


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