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したわしの追憶



「──おはよ」

「……ん、イブが先に起きてるなんてめずらしい…」


 翌朝、底冷える寒さに目を覚ましたハヤテは、まだ覚束ない目をゆっくりとパタつかせ、隣で頬杖をつく彼女をぼんやりとその視界に招き入れた。

 昨晩家に戻った二人はとにかく夕食を済ませてしまおうと、二十一時を回った時計に冷や汗をかきながらいそいそとリビングに顔を出した。心配したのよ──!と目を潤ませる祖母からの苦言を受け入れると、朝食から何も食べていなかったこともあり、その反動から心と同じくらいにお腹を満たした。


 考えることはあれど、今は残りの時間を大事にしたい──。

 

 そうやって二人は祖母にも祖父にも見えない互いの色を、二人だけの秘密を共有するように確かめ合い、更けていく夜に身を預けた。

 叶うならこのまま、ずっと起きていたい。この瞳を見つめ続けていたいと、朝陽が顔を出す直前まで互いの色に心を溶かし合いながら──。


 ──ハヤテもここで寝るの…?

 ──仕方ないでしょ? ひとつしかないんだから…。


 昼間に占有していた可愛らしいベッド。まさかそこで一緒に寝ることになるとイブキは思ってもおらず、床で寝ると言ってはハヤテを困らせたが。


「いま何時……」

「10時」

「……えっ…?」

 ガバっと布団を剥いだハヤテは、枕もとの時計に目をやった。

「ハヤテってほんとは寝坊助だったり?」

「ち、ちがうわ……その…人と寝たの、久しぶりだから…」

 同じベッドに他人のあたたかさを感じて眠りにつく夜。それはハヤテにとって、幼少期、母と過ごしたその日々以来のできごとだった。

「…そっか」

 イブキは小さな子どもにするように、彼女の頭にぽんぽんと手のひらを当てた。

「あのさ」

「うん?」

「あたしさ」

「うん」

 ぽつりぽつりと出てくる彼女の言葉を、まだ眠気の残る頭でハヤテはひとつひとつ追いかけるように飲み込んでいく。

「……その…」

「なに?」

「まだ、見えてるんだけど──…」

「え?」

「ハヤテの目、まだ昨日と同じイロ…」

 朝の眩しい日差しの中、ハヤテのそれは数時間前と同じ色を滲ませるが、まるで昨夜とは違う顔を見せていた。

 うっすらと淡い、見逃してしまいそうに儚い青色──それは目が離せなくなる春空のような、思わず心を奪われる水辺のような。そんな瞳のあちらこちらに太陽がここぞとばかりに差し込んで、まるで万華鏡のように耀い、水晶のように潤いながらイブキを見つめる。

「ハヤテもあたしの目、まだアカい…?」

「……残念だけど…」

「そ、う…なんだ…」

 彼女の世界から消えてしまったのは、イブキの色だけではない。

 馴染みの部屋も、窓の外で地面を埋める枯葉も。持ち込んだ教科書、お気に入りのマフラー。そのすべてがまるで初めて出会うもののように、モノクロの姿でハヤテにその現実を突きつけていた。

「……とりあえず顔を洗ってチュアン先生に連絡しましょ」

「あいつに?」

「きっと何か知っているはず…そんな気がするの…」

 イブキがラータだと騒ぎになったとき、チュアンもミュールも慌てた様子はなかった。まるでこうなることが分かっていたように落ち着いた面持ちで自分を諭した。きっと先生なら、どうしてソカツを取得していないラータのイブキにこんなことができたのか、彼女が今もなお、色づいた世界にその身を置くことができるのか。それが分かるはずだとハヤテは難しい顔つきで目頭を狭めた。

「えっ、 あいつに話すの? まじ?」

「他に誰に話すのよ」

「…だって、説明したら…その…──」

 あちらこちらに視線も顔も、その身もすべて動かしながらもじもじとするイブキを見て、ハヤテはふっと笑った。

「あなたもしかして、今さら恥ずかしがってるの?」

「べっ、別にそういうんじゃ──!」

「ふふっ、ふふふっ」

「…なに…」

 こみ上げるそれを止めようともせず、ハヤテは目を細め続ける。その向かいには、たいそうつまらなそうな目つきでハヤテを睨みつけるイブキの姿があった。

「残念ね? あなたのアカくなった顔が見れないなんてっ」

「なっ!…なってない!それハヤテのほうでしょ!」

「あらっ? あたしの顔、赤くなってる?」

 よく見ろと、ぐぐっと顔を寄せた彼女にイブキはぐうの音も出やしない。まるでホチキスで止められてしまったかのように、その口元はもごもごとわずかに縒れるだけ。

「……ハヤテ、つまんない!!!」

「ふふ、形成逆転ね?」


 ──アンコロールでも楽しいものね。


 一喜一憂して見せるイブキを前に、ハヤテはそう思うのだった。




 *****




「ここね……」

「ここか……」


 翌日二人は、バスを乗り継いで遠い南の町へ。朝方に出発し、目的の場所に着いたころにはすっかり陽も落ちかけていた。

 ボロ屋──思わずそう呼んでしまいたくなるほど廃れた様子の屋敷を前に、ハヤテもイブキも、足を進めることを戸惑ってしまう。


 ことの発端は落ちかけの夕陽から約二十六時間ほど前。

 ハヤテがアンコロールに葬られたその日、遅めの朝食をランチの時間に済ませた二人は、チュアンと話すため学園へ一本の電話をかけた。


 ──はい、色彩学園中心都市部。

 ──あの、在籍中の──。

 ──ハヤテね。

 ──え?

 ──あの子も一緒かしら。

 ──……あの、チュアン先生をお願いしたいのですが…あなたは?

 ──チュチュ…んんっ、チュアンならまだ授業中よ。

 ──あっ…そうですよね…すみません……。

 ──その様子だとついに開花したみたいね? いいわ。二人で会ってらっしゃい。


 まるで花を撫でるそよ風のように、清らかでやさしい声の持ち主だった。

 聞き覚えのないその声に最初は怪しさを感じていたが、ハヤテは彼女の落ち着いた話し方とその内容を受け、チュアン以上にこの人はイブキの事情を知っているのかもしれない──と話を素直に聞き入れた。


 彼女は南の町の或る屋敷に向かえと、その住所をハヤテに伝えてきた。中心部と違い、長く続く地名と番地。何か見ている素振りはなく、すべて暗記している様子の彼女に驚きつつ、ハヤテは必死にメモへとそれを書き起こした。


 ──そこにいるわ。

 ──あの、いるってどなたが……。

 ──そうね。あなたたちにわかりやすいように言うのなら……。


「──魔女…」

「…まじで住んでそうじゃんこの見た目…」

「……押すわ…」

「まじ? ちょ、ハヤテ──…」


 ──ブーッ──


 ハヤテは息を呑み、もう何十年は使われていない様子の呼び鈴に手を伸ばした。

 だが反応は見られず、屋敷から誰かが出てくるような気配もない。

 

 もう一回と、次はさっきよりも強く彼女は硬いそれを押す。

 五回目になるころには、すっかり緊張の糸も解けてしまっていた。


「……行きましょう…」

「えっ、待ってよ。留守かもだし…てかほんとに魔女だったら…」

「大丈夫よ」

「え?」

「何かあったらわたしが守ってあげる」

「……調子狂うってもう…」

「なんか言った?」

「いーえ……」


 納得のいかない顔を見せるイブキの手を引いて、ハヤテは屋敷の大きな門をこじ開けた。


 ──出なかったら勝手に入っちゃっていいわ。きっと三階の奥の部屋よ。


 電話の奥でそう言った、彼女の言葉を信じて──。



「暗っ…埃っぽ……」

「まるでお化け屋敷ね…」

 グギギ…と。聞いたこともない声で鳴く玄関の重たいドアを開けると、二人は及び腰ぎみにゆっくりと屋敷の中に足を踏み入れた。

「……痛っ!」

「イブ、 大丈夫?! …わたしの後ろから離れないで」

 あまりに薄暗いその中で、頼りになるのは自分の視覚だけ。ハヤテはそれが暗闇に慣れるまで、足先と伸ばした指先を頼りに前へ進んでいった。──後ろで生まれたての小鹿のように震えるイブキを引き連れながら。

「……ここ、階段だわ」

「…あがるの?」

「じゃなきゃ来た意味ないでしょ?」

「はい…」

 目もだいぶ慣れてきたころ、ハヤテの足先にコツンとぶつかったのは大きな螺旋状のそれ。くるくる続くそれを踏み外さないよう慎重に上っていくと、やっと平たい床の感触が足の裏を刺激して彼女はほっと息をついた。

「ここが二階かしら?」

「……部屋いっぱいあるね」

「ええ、でも──」

 電話口で彼女が言ったのは三階の奥の部屋。

 気にはなるが詮索している暇はないと、ハヤテは上へ続くそれを求めて歩き回る。

「…床ぬけそ…」

 歩くたびに軋むそれ。万一でも落ちてしまっては困ると、二人は抜き足差し足で先を行く。

「同じような階段はないわね…ここが三階なのかしら…」

「……ハヤテ、あそこなんかある」

「え──」

 後ろからイブキが指差したその方向にじっと目を凝らすと、壁に寄りかかっていたのは頼りない一本の梯子。

 ハヤテはそれに近づき上を見上げると、三メートルほど先にフロアがありそうな気配を感じた。

「……行くしかないわね」

「…やめない?」

「イブは待ってる?」

「……一緒に行く…」

 心許ないその梯子。二人で一斉に使うのは気が引ける。わたしが上りきるまでここにいてと、ハヤテは先陣を切って錆びたそれに足をかけた。

「……ハ、ハヤテ…まだ…?」

「もうちょっと…」

 自分の心臓も飛び出してしまいそうなほどに強く波を打っているが、下からか細い声をあげる彼女とは比にならないだろう。そう思って、ハヤテは自分を鼓舞しながらコツコツとそれを上がっていった。

「……イブ、もう来ていいわ」

「う、うん…」

 行きたくなどないがここにも一人留まるのもごめんだと、イブキは震える手をぎゅっと握りしめ、彼女の後を追った。

「……しぬかと思った…」

「もうっ、大げさね」

 最後の一段に足をかけたイブキに手を貸し、ハヤテはその小さな身体を引き上げる。

「……ハヤテも怖い…?」

 自分の手を取った彼女のそれが、かすかに揺れている。それはたぶん、自分の震えが伝染ったのではなく彼女自身のものだろう。三階に着いてやっと、イブキは彼女が隠していた恐怖に気づく。

「…大丈夫。イブがいるから」

「……ん…」

「行きましょう、きっとあの部屋よ」

 強くに握られた手はあたたかい。二人は互いの呼吸と鼓動、手に滲む汗を感じながら、一番奥の部屋へと足を運んだ。

「……ここね」

「……」

「ノックしたほうがいいかしら?」

「…いんじゃないもう…ピンポンも出ないし…」

「それもそうね」

 ふふっと笑いながら、ハヤテはドアノブに手をかけた──。



「……なにもない…?」

 意を決してグッとドアを押し開けると、そこは二十畳はありそうな広々とした部屋。

 外見の様子から古びたインテリアや朽ちた人形でも散乱しているものかと思ったが、そこにあったのは二人掛けのソファに木製のテーブル、奥にはレースの掛かったベッドにぼやっと霞むスタンドライト。そして床に散らばる無数の──。

「羽根……? ねえイブ、これって──」

「…なんで…だってここ」


 窓もないのに──。

 そう続けようとしたイブキの言葉が、最後まで発せられることはなかった。


「……うるさ…だれ……?」


 平たいベッドの上に、乱雑に横たわったタオルケット。

 それがもごもごと動き、中から顔をひょいっと覗かせた"魔女"が、声をあげたのだから。


「……逃げる?」

「ばば、ばかね。ににに、逃げてどうするというのですのかっ!」

「……なんか落ち着いた、ありがと」

 いざとなると慌てふためき、意味の分からない語尾を繰り出すハヤテにイブキは冷静な心音を取り戻す。

 つい先ほどまでは震えていたイブキだったが、この部屋に入ってからというもの、彼女はなぜか妙に落ち着きを感じていた。

「……クク?」

「──…あの、あたしたち…学園の先生?に言われてここに来たんですけど…その、あなたは……魔女なんですか…?」

「………フッ」

 たどたどしく言葉を繋ぐイブキに、ベッドの向こうでその”魔女”が笑う。

「やかましいと思ったら……だーれが魔女だっての」

 彼女は上半身だけを起こし腕をグッと上にあげると、大きな欠伸をふぁぁっとひとつ。

 細かい網目のレースが二人の視界をぼやかし、そこに人がいることはわかるものの、はっきりとその姿を認識することは叶わない。

「でも、わたしたち魔女に会ってこいって言われて…」

「そのやぼったい呼び方やめてくれる? あたしはただ落っこちてここにいるだけ」

「落っこちた…?」

「…はぁ…いちいち説明しなきゃいけないわけ? 人間ってほんとめんどくさ……だから下界とか言われんだって…」

「下界……」

 なにがなにやら。二人はレースの奥の彼女を見つめながら、その言葉の一つ一つをかみ砕いていく。

「そ。あたしたちは上。あんたたちはその下で生きてるってこと」

「じゃあその、魔女じゃなくてもしかして……」

「あなた、天使──?」

 ハヤテが口にするのを戸惑った架空の存在。それをイブキは、恥ずかしげもなく簡単に言ってのける。彼女の純真な声色に、思えば魔女だってそうなのだから口ごもる必要もなかったかとハヤテは思う。

「………あんた、名前は?」

「え、イ──」

「ハヤテです」

 シッ──と、ハヤテは人差し指を突きつけてイブキの名乗りを止めた。こちらが見えていないのなら、彼女だって同じはず。声だけで聞き分けられる時間を与えてはいないし、今はイブキの名前を出すのは最善ではないと──なぜかハヤテはそんな気がしたのだ。

「あっそ……まああたしがあんたの言うソレだったら、今ごろこんなことにもならなかったかもね。天も悪も、あるのは同じ場所……って言えばあんたたちにも分かる?」

 気だるげに、めんどくさそうに。でも、決して跳ねのけたりはしない。良い人とは言い難いが、口調のわりにこの人は悪い人ではないかもしれないと、ハヤテもイブキも同じ思いを抱いていた。

「…な、なんとなく…?」

「あの、こんなことって…もしかしてこの世界がアンコロールになったのは…あなたが関係しているんですか?」

「……まあいいや。どうせククがよこしてきたんだろうし」


 一瞬の間を置いて彼女は短く息を吸い込むと、先ほどよりも随分とはっきりした口調で語り始める。


「ソファにでも座って聞いてれば? 白くなれなかったあたしの……キリルラントの昔ばなし──」




 *****




 遠い遠い、思い出すのも嫌になってしまうほど、星座を模る星々も移り変わってしまうほどの昔。箱庭と呼ばれる育成機関には三人の少女がいた。


 ひとりはクレスタリア──。


「クレスは…ククはあたしと同じ年の生まれで、生を授かったサナトリウムも同じだった」


 大人しいというよりは穏やかという言葉の似合う彼女。何をするにもおっとりとして、品があって。彼女はまるで絵に描いたように模範的な存在だった。誰に対しても真心を持ち常に忠実に接する。道を外れるようなできごとがあればそれを諭し、どこにいても皆を引っ張り先導する。彼女はいつだって、正しい道の上を歩いていた。


 もうひとりは、ロゼ──。


「ロゼ…ロロはあたしたちよりもほんの少し年下で──あんたたちで言えば同じ時代を生きられないくらいのもんだけど」


 後輩にあたる彼女は、二人にとって妹のような存在だった。その時期、キリルラントたちのいた箱庭は彼女のような下の世代は在籍しておらず、誰もがロゼを可愛がっていた。積極的でも消極的でもない。外交的でも内向的でもない。そんな彼女が普段から何を考えているのか、あのころからまるで分かりはしなかった。常人を寄せ付けないような不思議な雰囲気を持つ彼女はただぼんやりとしゃがんで、いつもそのガラス玉のような瞳で草花をまっすぐに見つめていた。


「そして最後があたし──落ちこぼれの"キキ"」


 それぞれが生まれ持つ特化した能力──個性と呼ばれるそれは、人生を左右する重要なもの。大なり小なり、誰しもが必ず一つの個性を持って生を授かる。


「──二人は、特別だった」


 およそ数億と呼ばれる個性の種類。親という存在のないそこでは、遺伝もへったくれもありはしない。誰がどんな個性を授かり生を受けるのか、生まれてみないことには分かりはしないのだ。

 物体を転送するテレポーテーション、深層心理を読み取るサイコメトリー。未来を見抜くフォアサイト、傷を癒すサイコヒール。様々な個性が多種多様に存在し、近年でも新しい個性は次々と生まれ続けている。

 

 その中でも、過去に前例がなく秀でた能力は"特異個性"と呼ばれる。


 誰に教わるわけでもなく芋虫がサナギになるように、物心ついたころには自分の個性もその使い方も自然と身についてくるもの。クレスタリアとロゼがそんな才能──特異個性──の持ち主だと分かったのは、まだキリルラントに幾ばくか無邪気な心が残っているころのことだった──。


 人見知りで不愛想なキリルラントと、心やさしいクレスタリア。その後ろを着かず離れず、二人を姉のように慕うロゼ。──何をするでも、三人は常に一緒だった。

 朝ご飯を食べて、祈りの時間を終えて。園庭でキャッチエンド(おにごっこ)をしたり、箱庭を抜け出してシークレットベースを築いたり。キリルラントが不機嫌になればクレスタリアがそれを宥め、そんな二人を見てロゼが微笑む。ロゼの欲しい花があれば、二人は泥んこになってでもそれを見つけ、日が暮れるまで──彼女の気が済むまで隣に腰を下ろしてそれを眺めた。


 そんな三人の関係が少しずつ変わってしまったのは、互いの個性がはっきりしたころ。

 キリルラントが、二人とは違い自らが"特別"ではないと、そう理解してしまったときから。


「二人はあんなすごい個性を持ってるのに、なんであたしは──ってね」


 特異個性を持った二人に対して、キリルラントの個性はコーディネイション──あらゆるものに制限なく、好きな色を与えることのできる能力だった。一見するとたいそうな個性にも見えるが、その実態はただ、個人の認識する色を眩ませるというもの。それ自体が色づくわけでも変色するわけでもなく、視覚から脳の認識を歪める個性──彼女のそれは、別名"子どもだまし"と呼ばれるものだった。


 ──あなたの個性は誰よりも素敵だわ。だって、見ているだけで幸せな気持ちになれるもの。


 そんなクレスタリアの言葉すら、あのころの彼女には鬱陶しくてたまらなかった。

 次第に笑うことの少なくなったキリルラント。クレスタリアは心配そうに彼女を見つめていたが、その横で何を思っていたのか、ロゼは何も言いはしなかった。


「こんな使いものにならない個性、持ってないのと一緒。だって色を変えて喜ぶのなんて子どもぐらいでしょ? あたしは生まれつき不良品だったってわけ」

 自分たちの住む世界とはまるで異なるそこでの話を淡々と口にする彼女。その声色から彼女がどんな感情を持ち合わせているのか、イブキとハヤテにそれを読み取ることは難しかった。

「……あなたの"個性"…その能力が、この世界を…?」

 ハヤテは静かに、それでも適格に。その核心に迫った。

「あんたってせっかち? まだ序曲なんだから、エンドロールが流れるまでは大人しく観客でいなよ?」

「まあ、たしかにハヤテはせっか──…」

 普段のことを思い出して口を挟んだイブキを、ハヤテはギロッっと睨みつけて制するのだった。

「──あのころ、振り分け試験のあったころ…」

 そんな二人を置いて、キリルラントは次のページに進むように物語の続きを語り出す。


 善の道を行くか悪の道を行くか、それはまだ心が幼いうちに決められてしまう。人の本性というのは成熟するのを待つまでもなく、赤子が駆け回れるようになるくらいの間にはすでにできあがってしまうものだから。

 

 二人は特別なのに、どうしてあたしだけ。こんなしょうもない個性じゃ誰も喜ばない。自分でも面白くないもので、人を笑顔にできるわけない──。


 嫉妬から心に荒んだ影を持ってしまった彼女は、振り分け試験で見事にその心の内を見抜かれ、同期となるクレスタリアと同じ道に進むことは叶わなかった。


 ──ねえキキ。私はあなたの本当の心を知っているわ。だからきっと…。


 そんなクレスタリアの言葉も虚しく、キリルラントの背には黒い翼が授けられてしまった──。


 ──…ねえ、あんたいつまでそんなもん見てんの?

 ──……。

 ──泣きも叫びも笑いもしない。そんなのがおもしろい?

 ──……わからない。

 ──…あんたっていつもそればっかり。

 ──……でもこの子、ぼくに向かってなんか言ってる気がするんだ。

 ──あっそ。


「そんとき、リトルウッズを見ながらぼけっとしてるロロを見て思った。そうだ、この花から色を取ってやろう、きらきらしたこの子の瞳を、奪ってやろうって──」


 ──……!!!

 ──ね? つまらないでしょ?

 ──すごい! まっしろになった…… キキ!! 彼女がよろこんでるよ!!!

 ──……あっそ。こんな力、なんでもないよ。

 ──でも彼女がありがとうって…。

 ──…あのねロロ、覚えておきな。世界はクソほどにつまらないって。


「──そう言い聞かせてたのに、ロロには白い羽根が生えた。まあ今思えば当然のことかもね」


 奪ってやろうと思っていたのに、そのビー玉みたいな瞳は輝きを増した。

 でも、彼女の瞳をそうしたのはあたしの個性じゃない。ただその花弁が純白に揺れたから。


 ロロの瞳をこんなふうにしてしまう白が憎くて…──羨ましい。


「……なんど振り向いたってなんど鏡を見たって、あたしの羽根は白くならなかった」


 二人の背に咲いた、純真で穢れのない白い翼。それが目に入るたび、彼女は気が狂いそうだった。


 ──あたしの背中にあるのは、塗りつぶされたように重苦しい二対。二人とは個性も翼も、これから行く道もこの先の未来も、何もかもが違うんだ。


 そうやってなにもかもがどうでもよくなってしまったキリルラントは、希望という言葉を自らの辞書から破り捨てた。

 人の言葉に従い言われるままにその道を飛んで、他人の思考を借りて考えもなしにただ息を吸って。ひたすら続く終わりの見えない時間を、砂時計を何度もひっくり返しては消費しながら──。


「そんなんだったからきっと、罰があたった」


 見習いも終わって下級にあがったすぐあと。巡回中、前を行く同期の背中も見ず、ふらふらとはためいていた彼女は下界に落ちた。天翔けは得意だったが、荒れた天候が運んできた剥き出しの枝先は右の翼を掠めそのまま急降下。魔風とはよく言ったものだと、遠のいていく天を仰ぎながら彼女は思った。


 ──くっそ、右側動かねえじゃん…てか寒っ……雪──…。


 冷たいそれが次々と負傷した身体に降り注ぎ、彼女は静かに気力を手放した。

 どうせ誰も助けに来やしない。誰も自分のことなんて必要としていない。どうせならこのまま雪がずっと降り続いて、背中の黒いのが白くなってしまえばいい。いっそのこと、もうここで──。


「全部諦めようとしたときに出会った」


 ──あなた、天使──?


「この世で一番きれいな白に──」


 ──……あんただれ?

 ──ねえ、ちがう?

 ──…あたしのはそんな色じゃない、ほら。


 動く左の翼だけをピンッと立て、キリルラントは声をかけてきた少女のように華奢な見た目をしたその人間に現実を突きつけた。


「でもあの子、これ見て笑ったの。"あなたのその黒い羽根、とっても綺麗で素敵"って」


 ──やっぱり、天使なのね?


 一面どこまでも白く続く銀花の中で出会ってしまった。

 細雪のように繊細で美しく、風花のようにあたたかく幻想的で、雪華のようにしとやかで儚い。


 まるで雪のような彼女は、あたしを天使と言った。

 こんな汚らわしい羽根の生えたあたしを──。


「だからあたしは愛したの。彼女……フブキを──」

 魔女と呼ばれた彼女の声は、ちぎれてしまいそうなほどに張りつめていく。

「フブキ……?」

 ハヤテはゆっくり、なぞるようにその名を呼んだ。

「あたしに()()なのかって問いかけたの、あんたで二人目。ハヤテだっけ…嫌なこと思い出させてくれるじゃん」

「それはあたしが──」

 ハヤテはイブキに向かって首を振る。全部聞くまで、しばらく黙っていろと。

「さっきからコソコソ…あんたたち映画館だったら追い出されてるよ?」

「す、すみません…!」

 ハヤテが二人分の頭を下げると、彼女はまた、ぽつぽつと思い出の中を走り出した。

「……そのとき風が強く吹いて。なぜかあたしは目の前の、出会ったばかりのなにも知らないその子を守ろうとして、気づいたら両翼に力が入ってた──」


 ──……! あなた、翼が──!

 ──…別にたいした怪我じゃない。

 ──だめよ! ちゃんと手当しないと!


 そうしてキリルラントは雪のように澄んだ彼女との戯れに、しばらく身を預けてみることにした。

 

 雨が降れば大きめの傘を差して、自分よりもずっとずっと小さい彼女の身体ごとすっぽりと包み込み、ふたり並んで水たまりを踵で弾いた。


 ──キリ? もうちょっとその…あなたも入らないと肩が…。

 ──フブが濡れなきゃなんでもいいよ。

 ──…そうやっていつも風邪をひくのはどこの誰かしら?

 ──……フブ、ちょっと見てて?

 ──………雨粒が…!!

 ──…どう?

 ──まるで桜吹雪ね。とってもきれい……。

 ──うれしい?

 ──ええ。でも、あなたがちゃんと傘に入ってくれたらもっとうれしい。


 雨があがれば晴れた空にかかる虹を渡るように、彼女を抱いて舞いあがった。風に乗って草原を流れ、夕暮れにも負けないその眩い笑顔に心を預けて。


 ──フブ、もしかして怖い?

 ──……ちょ、ちょっとだけ…。

 ──じゃあ目瞑って。

 ──へ?

 ──あたしがいいよって言うまで開けちゃだめ。

 ──………キリ? もう開けてもいい?

 ──もうちょっと……よし、こんなもんかな。いいよフブ、ゆっくり目を開けて。

 ──……わっ! 虹が……! これ、いったい何色あるの?!

 ──三十色ぐらい? これで怖いのなんて忘れちゃったでしょ?

 ──………ねえキリ、あなたも目を閉じてくれる?

 ──え? あたしが瞑ったら落ちちゃうかもよ?

 ──ちょっとだけ、一瞬でいいの……だめ?

 ──…ん、まあそれなら…。

 ──……っ…。

 ──ッ!!フ、フブ?! いいい、いま──!!

 ──虹のお返し。足りなかった?……ちょっと! キリ! 落ちちゃうわ!!

 ──ごめん。あたしもう、今日は力入らないかも……。


 それから雪の日には積もったそれをザクザクと慣らして、翼をかいては粉雪を散らした。


 ──すっかり埋もれちゃってるわ…。

 ──うん。あ、でもまだ一本あそこに。

 ──…ほんとだわ! 霜に包まれてるけど、凛としててきれいね。

 ──……フブの──…。

 ──うん?

 ──フブの好きな色に、染めるっていったら…?

 ──……この子はこのままでいいの。

 ──あ、えっと…うん…そっか…。

 ──キリ、ちがうわ! あのね、この子はもうすぐ移ろい菊になるから、その……。

 ──…ウツロイギク?

 ──ええ。もうすぐ赤く染まるの。だからね……そのときはキリと一緒に見たいって思ってて…。

 ──……うん?

 ──…とっ、とにかく! この子はいいの。でも、代わりに家に帰ったら染めてほしいものがあるって言ったら……あなたはどうする?

 ──フブのためならなんでも、どんなものでもすぐに染めてあげる。あたしがそうしたいから。


 家に帰れば彼女の作った夕食を頬張り、寒い夜にはその身を抱いて、互いのぬくもりを分かち合った。


 ──キリの羽根、あったかい。

 ──うん。

 ──……キリ…わたしの心を──…。

 ──うん?

 ──……染めてくれないかしら……あなたの色に──。

 ──……あたしの色……?

 ──ええ。あなたの、あなただけの色がいい。

 ──……う、うん……えっと…じゃあ……。

 ──ねえキリ。もしかして、あなた照れてる?

 ──なっ、なんで…?

 ──ふふっ、キリって恥ずかしいときに髪を右耳にのけるでしょう?

 ──……照れるにきまってんじゃん…触るんだから…好きな人に……。

 ──………ねえ。

 ──うん…?

 ──好きよ、キリ。ずっとずっとわたし、あなただけが好き。


「あの夜、あたしは生まれて初めて優しさに触れた。あの子は……こんなあたしに愛をくれたの」


「あの子の身体を抱いてるだけであたしの羽根は白くなって…果てしない空をどこまでも翔けていけるような気がした」


「──ずっと離さないって。そう思ってた」


 雨を染めて虹を染めて、彼女の心を染めあげて──。

 日に日に色濃くなっていく二人の日常。


 そんな彼女の昔ばなしを、ハヤテとイブキはまるでスクリーンを眺めるように、静かに静かに追いかけていた。

 思い出の中の二人の世界。そこに割り込むことなど、できはしなかったから。


「そうやって数年、あたしがフブを愛したころ。上からあたしを追って本物が降りてきた」


 彼女がしばらく下界でその雪に触れていたときのこと。羽根の数枚をまき散らしながら迎えにきたのは、幼少期をともに過ごしたクレスタリアであった──。

 キリルラントは久しぶりに顔を合わせる幼なじみに、最初は冷たい態度を取ってしまった。わざわざなにをしにきたのか、自分のことは放っておいてくれと。


 ──キキ! ずっと、ずっと探してたのよ…!


 だがそう言って頬を濡らす彼女に、キリルラントはそれ以上強く当たることができなかった。その涙もその言葉も、昔から彼女はいつだって"本当"しか見せないと、嘘をつくような人柄ではないことをキリルラントは知っていたのだ。


 ただ、気づきたくなかった。気づかないふりをしていたかった。

 弱い自分を守るためには、そうするほかなかったから。


 無数に落ちていく彼女の滴に押され、無断で抜けた穴を埋めるためにキリルラントは数日上へ戻ることにした。どちらにしろここでフブキと生きていくなら、きちんとけじめはつけなければならない。遅いか早いかの違いで、どうせクレスタリアがいるなら今がいい機会だと。


 だが振り分け後、真面目に授業を受けていない彼女は知らなかった。


「あっちでの数日が、まさか下界では数十年なんてね……」

「それって──…」

 イブキよりも早く、彼女の言葉の意味を理解したハヤテは思わず息を呑んだ。あまりに悲痛な、その恋の行方に──。


「三日だった。あたしがフブのもとを離れたのは、たった三日だったのに」


 あれこれと、あちらでの訳をフブキに説明するのも面倒で、少し出てくると言ってキリルラントは飛翔した。怪我をして落ちたと、それだけしか事情を知らない彼女に過去の自分のことなど話したくはなかったのだ。

 クレスタリアにも、フブキとの関係が恋仲であることは言わなかった。幼ごころに気恥ずかしかったのだ。サナトリウムからとも育った彼女に、それを知られてしまうことが。


 だが今思えば、未熟で浅はかだったとキリルラントは思う。

 あのときクレスタリアに話してさえいれば、彼女は戻る選択肢など自分には与えなかっただろう。いつだって、彼女は正しい道を選ぶのだから──。


 早くフブキに会いたいと、三日後に降り立ったキリルラントの前に姿を見せたのは、変わってしまった町並みと誰も住んでいないフブキの家。


 状況が飲み込めなかった彼女は、一晩中飛び回って愛しい人の姿を探した。

 そして翌朝やっと見つけたフブキは、変わらず美しいままだった。


 だが、三日前に顔を会わせたときの姿とは、何もかもが違っていた。


 その顔つきも、左手に光るものも──。


 ──……キリ……? キリ、なの……?

 ──…フブ…いったいどうして……。


 そこで彼女はやっと理解した。


 自分の住む世界と下界では、時の流れが異なるということを。

 彼女を残して、戻ってはいけなかったということを。


 ──……遅いわキリ……わたしずっとあなたのこと…。

 ──…なんねん…? あたし、フブの前から消えて何年経っちゃったの…?

 ──……二十年よ……。

 ──にじゅう、ねん…?

 ──あなたは変わらないのね……ずっとそのまま、わたしの愛したあなたのまま…。

 ──………フブ、あたしっ──。

 ──キリ……わたしね、結婚したのよ…。

 ──ど、どうして……だって、だって──!!

 ──瞳がね、とってもきれいな色だったの。まるで──…。




 ──うわあああああああああああ!!!!!




 *****




「そのあとのことはあんまり覚えてない。気づいたら、この世界はこうなってた」


 ずっと一緒に生きていきたいと。

 何度でも彼女と季節を色づけていきたいと。


 そう願った最愛の人のたったひとつの心が、自分色ではなくなってしまったことにキリルラントは耐えられなかった。


 自分を天使だと、そう言ってくれた彼女が。

 子どもだましに、頬を染めてほころぶ彼女が。

 抱きしめるたびに幸せそうに笑う彼女が。


「──大好きだったのに…」


 狂ったキリルラントはこの世界のすべての人々から色を奪ってしまった。正確には、荒れ狂う感情に乗せて個性を制御できなくなり、世界全体をコーディネイションで支配してしまったのだ。彼女は人々から、鮮やかな色彩の認識を取り上げてしまった。


 そのとき彼女自身も、上の連中もはじめて知ることになる。


 個性そのものは平凡なものであったのに対し、皮肉にもキリルラントの能力範囲は誰よりも広大で、ある条件をもとに発揮される超特化型だったということを──。


「……ねえ、どうして塗りつぶさなかったの…白なんかなければ、もうなんにもわからなかったのに」

 イブキは問う。いつだかハヤテと語った、もし魔女がいたら──。その続きを。


「……どうしてだろうね。正気を失ってたからわかんないけど、たぶん自分勝手な理由だよ」



 黒を残したのは、フブにあたしだけを見てほしかったから。


 白を残したのは、好きだったから──。

 雪みたいにさらさら光る、フブの白い髪が。


 出会ったあのとき、キリルラントは思った。


 天使はきっと、この子なんだって。


 

 ──どうして!!! どうしてこんな……キリ…わたしは……瞳の色が──…。



「続きを聞くのが怖くてあたしはそのまま飛んでった。それから彼女に、フブに会うことはできなかった。……あの子がどんな最期を迎えたのかも知らないまま。なのに三百五十年経ってもまだこうして呑気に生きてんの……笑っちゃうでしょ?」

「……笑わない。あたしたちは大切な人を失う気持ち、知ってるから…」


 魔女と呼ばれた彼女の昔ばなし。それを聞き終えた二人は、部屋に入る前よりもどこか強い眼差しで瞳を揺らしていた。


「ま、それだけのこと。あんたたちの世界がこうなった理由は」

「……あの、どうして戻さないんですか? この世界を」

「どうでもいいから」

「どうでもいい?」

 ハヤテは強めに声をあげる。

「フブのいない世界の色なんて何色だってかまわないでしょ。勝手にしたらいい。世界なんて、やっぱりクソでしょーもないから」

「あ、あの…それはちょっと──…」

「──っていうのは冗談。単純に戻せないだけ」

「あんたの"個性"なのに?」

「ちょ、ちょっとイブ! 口の利き方!」

 すっかり恐怖から解放され、段々と気が緩んできたイブキはいつものイブキに戻っていた。

「そ。あたしの個性なのに」

 彼女はお手上げと言わんばかりに、両手を宙にひらひらとして見せる。

「もう世界全体を戻す力なんてあたしには使えない。あれは…フブに対してのものだったから…。今も継続して世界が影響を受けてるのは、残ってる執着みたいなもんだってククが言ってたし」

「そんなのって…じゃあハヤテはずっと見えないままじゃん…」

 イブキはグッと、震えるほど強く拳を握りしめていた。

「……ごめんね。でもあたしは特別じゃないから、戻してあげたくてもできない。これからできるかもしれないとか、淡い期待を抱かせてあげることもできない」

「そう、ですか……」

 ハヤテはイブキの手を、そっと包み込むように握った。

「……あんたたちからしてみたらやっぱりあたしは魔女なのかもね」

「あの、聞いていいですか?」

「もう隠すことなんてないからなんでも聞いたら? エンドロールはとっくに流れたし」

 乾いた笑いを交えながら、キリルラントはせっかちな彼女に向けて呟いた。

「今の話が本当なら、アンファーは……一体なんなんですか…?」

 ソカツを使い色を蘇らせることのできる存在。それがアンファー。

 だがキリルラントの話しを聞いた今、まるでそれは彼女の能力──"個性"そのものなのではないかとハヤテは疑問に思う。

「ああそれ……あれはククの仕業。あたしの個性に対する個性無効力(キャンセリング)を早いうちに生み出したから、ククはそれでこの世界をなんとかしようとしてんの──まあ作ったのはロロだけど。あの子っていつも危ないことばっかりしてるから」

 実験対象がほしいとか怖くて勘弁だったわ──と、彼女はため息をつく。

「キャンセリング?」

「あたしのかけた個性は世界のあらゆるものをモノクロとして認識させるものでしょ? それを無効化して…──つまり呪いを解いてるようなもん。ある譜面をなぞるとコーディネイションに対してのキャンセリング能力が備わるんだって聞いたけど」

「なるほど……じゃあわたしたちは授けてたんじゃなくて──」

「あたしの個性を取っ払ってたってわけ。でもあたしみたいな馬鹿力はいないから、一気に世界をひっくり返すとこまでいけない。学園を作ったのはそれが理由」

 

 ソカツ──そう呼ばれてきたものは、キリルラントの個性に対するキャンセル能力であった。どんなに素質があっても、超特化型の彼女の力を一気に解いてしまうほどの適合者は今ところ現れていない。世界をもとの姿に戻すため、クレスタリアは学園を作り対抗できる者を生み出そうとしているのだと彼女は言う。


 だからこそ、階級などというつまらないものがあるのだと。


「保護管理局とか言ってるけど、所詮、上の方はみんなククの生徒や後輩。天界で教師なんてやってるから顔が広いってわけ。恵者(けいじゃ)だっけ? なんか昔そう呼ばれてたらしいけど」

「え、じゃああいつとかミューちゃんも…? まじ?」

「……チュアン先生にミュール先生でしょ…」

 あいかわらずなんだからとハヤテはイブキの額をコツンと叩いた。

「あー。なんかいたなそんな子たち。ロロの先輩くらいだったと思うけど」

「………あの二人、て、天使…さん…なのね…」

 ここまでの話しの中で、おそらくもっとも二人が衝撃を受けたのは今このときであろう。

「大雑把でうるさいのがミュミュ、物静かでビビりなのがチュチュ──でしょ?」

「……逆じゃん?」

「逆ね…」

「あれ、間違った?」

 誰がどう見ても大雑把なのはチュアンでビビりなのはミュールだと、二人は揃って首を傾げた。

「あの、それで本題なんだけど…」

「まだ聞きたいことあるわけ?」

「その……じゃあ色愛ってなにって話しで…あたし、それやってもまだ色見えてるから……」

「あー、あれは──」

 イブキのたどたどしい質問にキリルラントが答えようとしたとき。


 ──ガチャッ。


「その先は私が答えるわ」


 部屋のドアは緩やかに開けられた──。


「キキ、いい加減にしなさい。ちゃんとこの子たちの顔を見て話しなさい」

「げっ、クク……」

「クク? この人が……?」


 イブキは驚き、ソファから立ち上がった。

 それは先ほどまで話題にあがっていた本人が現れたからではない。


 ククと呼ばれたその女性が、あの日自分を尋ねて学園への入学許可書を渡してきた、その人だったからだ。


「ふふ、久しぶりね。私がクレスタリアよ。また大きくなって…──ハヤテ、あなたも随分と素敵なレディになったわね」

「あの……えっと、あなたは電話の…?」

 会話に釣られるように、ハヤテもスッとソファから腰をあげる。

「ええ。そう考えるとさっきぶりなのかしら?」

「……失礼ですがどこかでお会いしましたか…?」

 すらりとした身体はハヤテと同じ程度の高さを持ち、ふわっとしたボリュームのある髪は肩のあたりでゆったりとまとめられている。ハヤテは記憶の中を駆け回るが、穏やかに垂れた目尻を携える目の前の彼女は、記憶のどこにも存在してはいなかった。

「ふふっ、続きは順に話すわ。まずはあの怠け者をなんとかしないと、ね?」

 

 彼女の放つ柔らかいオーラに、二人は目を丸くしていた。


 話しには聞いていたが、クレスタリアが現れただけでこの部屋──いいやこの屋敷の空気が一瞬で変わってしまうほどの安堵感に包まれ、不思議とすべてを任せてもいいような気になってしまう。品があり模範的でどこにいて皆を先導する──そんなキリルラントの言葉は正しかったと、二人はしみじみ思うのであった。


「キキ、あなたちょっとは片付けなさい…床が羽根だらけじゃない……廊下も埃っぽいし…また籠ってたのね? たまには顔をだしなさいってあれほど──」

「……」

「寝たふりしてもだめよ? いつもそうやって居留守使ってるんでしょ! あなたの様子を見に行ったチュチュが泣きながら帰ってくるんだから、誰もいないおばけ屋敷だって」

「チュアン先生が、泣く……?」

「大変なのよ? あの子が誰かに泣かされるとミュミュが怒って怒って…泣きやむまで仕事しないっていうんだからもう……」

「あのミューちゃんが……?」

 記憶の中にいる二人とはまるでアベコベのその様子。あまりにも飲み込めない話しに、開いた口が塞がらないハヤテとイブキであった。

「……まあそんなことはいいわ…キキ、とにかく起きて出てきなさい」

「ちょ、クク、引っ張らないでって──」


 彼女はついに、ベッドを覆うレースから姿を現した。


「……あんた……その顔──……」


 驚いて言葉を失ったのは、なぜか二人ではなくその"魔女"のほうであった。


「キキ、私が説明するから落ち着いて」

「落ち着けったって……クク、この子いったい……」


 神妙な面持ちのキリルラントは、どこか遠いものを見るような思慮深い眼差しでイブキを一直線に見つめていた。まるで、彼女の背景に何かが描かれてでもいるかのように。

 イブキには自分を突き刺す眼差しに込められた意味合いなど分かりはしないが、その横でハヤテはなにかを理解したように、やっぱり──と小さく呟くのだった。


「あの…なんすか……?」

「………」


 イブキが見上げるほどの高い背丈。癖のある長い髪は毛先が四方八方に跳ね、腰元で遊んでいるかのよう。目が合えば思わず逸らしてしまいそうな鋭い目元に、キリっとあがった細い眉。首もとや手首にはジャラジャラとしたネックレスやブレスレットが光り、ただでさえ派手な見た目を持つ彼女をさらに彩っている。服装はタンクトップ一枚に腰までだらりと下がったパンツスタイルと、どこぞのヤンキーのようなキリルラントのその姿。


 初めて会うはずなのに、イブキの心は何かを感じていた。


 それがなんであるのか皆目見当はつかないが、視線を外すのが難しくなるような──嬉しくて悲しくて、苦しくて幸せで。今まで動いていなかった感情のすべてを突き動かされるような、そんな気がしていた。


「翼、ないんだ……」


 そしてイブキは期待していた。

 空を自由に泳ぐ、彼女の黒い翼。


 何度も話しに登場したそれを、やっと目にすることができるのではないかと。


 だが、レースカーテンの向こうから顔を出した彼女の背に床に散らばるそれは見当たらず、イブキは静かに肩を落とした。


「ああ……閉まってるだけ……ククだってついてないでしょ」

「キキったらなに人見知りしてるのよまったく……私たちはいつもそれを出してるわけじゃないの。上に飛翔するときや下界に降りるときだけ。なくてもあっちでは自由に飛べるのよ」

「そうっすか……」

 イブキは残念そうに、顔を俯けた。

「……見たい……?」

「えっ?」

「見たいなら……その……」

 なんだか急にしおらしくなってしまった彼女に、イブキは目をぱちくりとさせる。

「はいはい、それはまたあとでね。とりあえず話しの続きをしましょう」

 クレスタリアはパンパンと手を鳴らすと、幼児にでも言い聞かせるかのようにイブキとハヤテをソファに座らせた。


 なんだったかしら……ああそうね。色愛行為について──。


 そう言って部屋の奥から古びたパイプ椅子を持ち出すと、二人の腰かけているソファの向かいにそれを二脚──天と悪、名前通りの見た目をした二人は、そこに腰を下ろした。


「まずひとつ、色愛行為は個性無効力(キャンセリング)ではないわ」

「え──?」

 二人は一斉に、その場に似つかわしくない声をあげる。

「人体色に対してかけられたククの個性は執着が強すぎたの……あの子の──ロロの作ったキャンセリングではどうにもできなかったのよ」

「その執着っての、どうにかなんない? こだわりとか明るい言い方がいいんだけど……」

「てっきりフブキさんがお相手の瞳の色にときめくのが嫌なんだとばかり思ってたけど──…そう…キキ、あなた…本当はそうだったのね…」

「ク、クク!! あんた──っ!」

 慌てるキリルラントの膝にそっと手を添えて、クレスタリアはやさしい眼差しで微笑んだ。それはまるで、母のような笑みであった。

「んんっ! ごめんなさい、話が途切れたわね。色愛行為には私の個性──ファルスイルミネイトを使っているの」

「ふぁるす…いるみねいと…?」

 イブキは始めて言葉を発する子どものように、たどたどしくその発音を真似して追いかける。

「私の個性は真実を暴く能力。どんなに隠れていてもその実態はひとつだけ。だからそれを使って虚偽に染まった人体色に真実を授けているの。本当は私自身の力ですべてをどうにかできればよかったんだけど、この世界を相手にするには私の能力範囲では力不足でね……」

「……じゃあわたしたちはクレスタリアさんの"個性"を…でも、どうやって?」

「ロロに作らせたのよ。個性分けの種を──」

「こせいわけ…?」

「ソカツ検定試験の最後に、栄養ゼリーが配られるでしょう?」

「…まじ? 怪しすぎない?」

「ちょっと、イブ!」

 ハヤテがイブキの肩をトンッと肘で突く。

「いいのよハヤテ。そう、あの怪しいのが個性分けの種よ」

 ハヤテの記憶の中にはたしかにそのゼリーがあった。オレンジ味のそれが、喉をつるっと通っていく感触が鮮明に蘇っていく。

「あの…個性分けなんてそもそもできるものなんですか? だって、それができるならキリルラントさんは……」

「いい質問ね。そう、これは認められたものじゃないの。つまり違法ね」

 二ッと笑って、クレスタリアは答える。

「えっ?」

「というかこんなもの、作ろうとした前例も実際に作った子もいないわ。ロロは…その…ちょっと…」

「ぶっとんでんの、あいつは」

「キキ、やめなさい。あの子は個性的なのよ……普通にしていれば天才なんだけれど…。他人の個性を身に着ける──そんな実験をしているって風の噂で聞いていたから、私はこの世界を正すためにロロの力を借りたの……リリの身体を実験体にしていたことはもちろん叱ったけどね?」

「また新しいひとでてきた…」

 次から次に繰り出される人間ならざる者の名で、イブキの頭はいっぱいいっぱいであった。

「あっ、ごめんなさいね!」

 また私ったら…と、クレスタリアはつい話しの軌道が逸れてしまう自身に照れ笑いをこぼす。

「ただね、私の個性はいわゆる特異個性と呼ばれる類で…完全に再現することは難しかったの。それになんでもかんでも暴いていたら秩序が乱れてしまう。この能力は必ずしも展開を良い方向に進ませるわけではないから、むやみに使えるようにすることはできない。だから制限を設けるようにって、ロロには当時そう伝えたわ──」



 ──私利私欲で使えないほうがいいってことかい?

 ──ええ、なにかきっかけになるような…制限がほしいところね。

 ──……愛なんてどうだい?! 愛し愛された者同士が限定的に使えるようにするんだ! 素敵だろ?!

 ──…そうね、まあそれならむやみにとはならないだろうし……いいわ。そうしてちょうだい。



「……じゃあ同性間での行為に厳罰があるのも、なにか理由が…?」

「…ごめんなさい、それは──」

 クレスタリアの思い詰めたような表情に、二人は息を呑む。

「どーせいたずらでしょ、ロロの」

「い、いたずら…?」

「……あの子はちょっと歪んでいるのよ…」



 ──クク! できたよ! これがきみの個性分けさ!

 ──……ありがとう、助かったわ。褒められるようなことではないけどね?

 ──あいかわらずきみは手厳しいね? そうだ! ひとつ楽しい仕掛けをしておいたんだ。

 ──…仕掛け……?

 ──ククは知ってるかい? 同性間での愛はものすごく強いんだ! レイとアオのそれはもう愛情なのか憎悪なのかもわかったもんじゃなくてね? とにかく最高なんだよ!!

 ──……ロロ、あなたが他でしていることには一旦目を瞑るわ。いいからこの種に何をしたのか話しなさい。

 


 ──愛が実ったその先に、絶望が待っていたらすばらしいだろ?! 十二時間にしたのはね、半日のほうがスリルがあってきっと楽しめるからさ!!



「……ごめんなさい。ロロのことは何度も叱ったのだけれど、言葉が通じる相手じゃないのよ…」

 クレスタリアは百五十年ほど前の話しをしながら、しきりに頭を抱えていた。

「……この世界の、アンコロールの事情は大体わかりました。それで、イブはどうして色愛が? イブにだけ、ロロさんのいたずらが効かないのはどうしてなんですか。」

 イブキはぐっと、上瞼に力を入れてクレスタリアに視線を向けた。


 自分の世界から色が消えたことはどうだっていい。

 ただ彼女の、イブキの身に何が起きているのか知りたい。


 どうして彼女は学園に入学を許可され、なぜ試験も受けていないのにそれができたのか。

 そしていま、説明された"いたずら"に関係なく、彼女はまだ色が見えているのか。


 大切な大切な幼なじみ。

 大好きな大好きな恋人。


 そんな彼女自身の事情をすべて教えてほしいと、イブキはその手をぎゅっと強く握りしめた。


「ええ、全部話すわ…ハヤテ、あなたを不安にさせてごめんなさい」

「……」


「現状、この世界を正す方法はキャンセリングと私の個性分け。その中でも特にキャンセリングと相性の良い人間を探し出し、アンコロールを消し去ることが学園の目的。でもね、現状が良いとは思わない。このままでは何年、ううん、何百年経っても現状を維持することしかできないかもしれない」


「だからもう一つ、種を作らせてあった」


「──キキと同じ超特化型の能力範囲で、コーディネイションを使える者を生み出そうとして」


「だから物語は、もう終盤なのよ」




 *****



 

「キキ……あなたの悲しみはが分かるなんて、私にはそんなことは言えない…」

「……っく……フブ……うっ、……っく…」

 泣き崩れる彼女を前に、当時クレスタリアはその背を見つめることしかできなかった。

「でもね、あなたが優しい心を持っていることだけは…それだけは昔から知っているわ」

「…そんなの、持ってない…持ってたら……あたしはフブを……」


 最後に見た彼女の顔は、酷く傷ついたものだった。

 きっと指輪をくれた──愛する人の瞳の色を、もう二度と見れなくなってしまったから。

 クレスタリアの言うことが真実なら、自分は彼女を傷つけることなどなかったと、キリルラントは声をあげて子どものように泣き叫んだ。


「ねえキキ、少しでもいい。この世界に希望を咲かせてみましょう? あなたの優しさが、まだそこに残っているなら──」


 そう言って、クレスタリアはキリルラントの肩を抱いた。

 自分よりもずっと背が高いのに、すっかり小さくなってしまったその肩を。


 あとは私に任せてと、そう言って──。


「──できたよ! 同じ能力範囲でっていうのは、いくら天才のぼくでもちょこっと大変だったけどね?」

「ええ、ロロ。ありがとう」

 時間はかかったが、ロゼの実験に協力したキリルラントのおかげで、その種はやっと形となった。

「でもこれはものすごい弩級の特化型だからね…種も一つしかないし、まだまだ時間はかかっちゃうよ? でも何年か何十年か…何百年か経ってきっと咲くんだ──美しい花がね」

 ロロはいつになく、真剣な眼差しでその種を見つめていた。

「……そう。待つしかないのね」

「さて、誰に与えようか? 誰でもいいならぼくが適当に──!」

「適任者はもう決めているわ」

 クレスタリアは、はためこうとしたロロの腕を掴みその身体を止めた。

「キキの個性を持つのなら、その能力を使うのなら。相手はキキの愛した血の流れる者がいい。いつかその子が咲いて……この物語を終わらせるべきだわ──」

「……ふふっ。クク、きみも悪趣味なものだね? じゃあ始めようか。終幕に向かう種の仕込みを──」

「……始めたのはあなたのくせに…」

「なんか言ったかい?」

「なんでもないわ…」


 クレスタリアの呟きが、このときロゼの耳に届くことはなかった──。




 *****




「じゃあ、イブが……」

「クク! そんな話、あたしは一言も──!!!」

 バンッ──と、キリルラントは机に手を着いて立ち上がった。その勢いにパイプ椅子は耐えきれず、後ろにガタンッと倒れてしまう。

「……芽が出て花が咲く確証はなかった。何代も何代も、私は見守ってきたわ。ただそのときを待って彼女の残した小さな輝きを──」

 その途方もない時間を見つめるようなクレスタリアの貴い瞳は、やがてイブキの姿を捉えて揺れた。

「そして見つけた。個性を発揮した、あなたを──」

「……あたしが個性を…?」

 自分の身に起きているとは思えない信じがたい話だが、イブキはどこか落ち着いていた。

 

 今まで、空を仰いでそこに憧れた理由が、ちゃんと自分の中にはあったのだから──。


「覚えていない? あなた、小さいころに広範囲のコーディネイションを使ったことがあるでしょ。あの湖に」

「……湖って……」

「アンネスを染めたのがイブってことですか?」

 ハヤテはしっかりと、はっきりとした声でクレスタリアを問いただした。

「そうよ。私はあのとき、離れた高台からその瞬間を見ていた。だからその力を扱えるようになるまで、学園であなたを保護していたの──あれから十数年、やっと掴んだのね」

 彼女は微笑んだ。その穏やかな笑みは、ずっと伸し掛かっていた責任からやっと解放されたような、そんな安堵に満ち溢れるものであった。

「あたしが掴んだ?」

「キキの超特化型には条件があるの。今はそれをこの子が持っていないから、個性が最大限で使用できない。そう言えば分かるかしら?」

「それってつまり……」

「あなたの遠いご先祖──フブキさんの存在よ。キキの個性が特化する条件は……愛だった──」


 何も言葉を紡げないまま、キリルラントはその場に崩れ落ちた。

 彼女が今どんな想いを胸に抱いているのか。イブキもハヤテも、それを想像することすら難しかった。


「そっか……だからあのときなんだ……」

「……イブ…?」


 イブキはやっと、いつか読んだ歴史書のように長い、複雑に絡み合うこの話の全貌を理解できたような気がした。


 "今みたいにイブの笑った顔が見たい"と。"いつかキイロの蝶を見せてあげる"と。

 あのときハヤテにそう言われて、イブキの心に初めて眩しい色が灯った。


 花が咲き誇るように無邪気な彼女の笑顔に、勝手に頬が綻んだ。


 胸の奥が、溢れてしまいそうになった。


 ──あたし、最初からハヤテのこと……。


 あのとき二人の目の前で湖がその美しい青に色づいた理由。

 それは、イブキがハヤテに、愛を覚えたからだった──。


「ねえ……」

「……はい?」

 イブキが点を点を繋いでいると、顔をあげたキリルラントが声を漏らした。今にも消えてしまいそうな、小さな小さな声を。

「あんた……名前、なんていうの…」

「あっ」

 そこで初めてイブキは気づく。この人はまだ、わたしのそれを知らないんだ──と。


「……イブキ──あたしが、母さんにもらった名前」


「…イブ、キ……そっか……そうなんだ…あんたがフブの……」


 彼女は瞳からはみ出しそうなその滴を、決して溢しはしなかった。

 ただ手のひらを力いっぱいにきつく締め、唇を震わせながらイブキを見つめるだけ。


 それは、今まで受けるどんな眼差しよりあたたかいと、イブキはそう思った。


「……そっくり…その雪みたいな髪も、人形みたいにでっかい目も……。イブキ、あんた赤いの食べれないでしょ」

「……トマト? だいっきらい」

「ふっ、あの子もそうだった」

「…いつもハヤテが食べてくれるけど……キリは食べれる?」

「あたしは……ていうか声までそっくりじゃん……ほんとやんなっちゃう…」


 溜まったそれがあふれ出してしまわないように、キリルラントは控えめに笑顔を作った。


「……てかキリは今も色が見えるの?」

「あたしは全部見えてる。自分の認識は変えてないから。ククも見えてるよ」

「ふーん…」

 自分だけが見えているものだと思っていたハヤテの色。

 それを二人も目にしていると知って、イブキはなんだかつまらない気持ちになった。

「ふふっ、本当に大好きなのね?」

「…そういうことじゃ……」

「なんの話?」

「…あとで言う…」

 あのころ駆け回っていた二人が大人になって、互いを想い合っている。クレスタリアはその微笑ましい様子に、さながら母親にでもなったかのような気分であった。


「──さっ、これでいよいよおしまい。イブキ、あなたがこの世界を正すのよ」

「…あたし、戻せるの?」

「ええ。だって今、あなたにとっての"フブキさん"は隣にいるでしょう?」

 ね?──と、クレスタリアはハヤテを見て微笑む。

「……でも、やり方わかんない…」

「あたしが教える。こっちきな」

「いや別にここで言っ──」

「いいから! こっちだっての」

 なにを隠すことがあるのか。キリルラントはベットを覆うレースカーテンの影に、せかせかとイブキを連れていってしまう。


「…まったく、あいかわらず照れ屋なんだから…」

「……」

 ハヤテはぼーっと、不思議な関係の二人を見つめていた。

「ハヤテ、あなたは利口に育ったわ」

「…そんなこと……」

「お母様とお父様のことは残念だったわね…あれからあなたの様子も見守っていたの。なにがあってもくじけないあなたは、本当に立派だった」

 クレスタリアは、ハヤテの頭をそっと撫でた。

 その姿が生前の母親のそれと重なり、ハヤテは目頭に熱いものを感じた。

「惜しいわね。あなたが上の生徒なら私は迷わずそばに置いているのに……。チュアンやミュールはできが悪くてね?」

 ふふっと笑う彼女に釣られ、ハヤテも自然と口の端があがってしまう。

「あなたは途中から全部分かっていたのでしょう? キキすら把握できていなかったのに」

「わたしはただ、そうなのかなって思っただけです……あの、クレスタリアさん。聞きたいことが…」

「うん? なにかしら?」

「……お二人の世界には…その…夢を操る"個性"もあるんでしょうか…?」

「夢を操る……ええ、あるわ」

「そう、ですか……」

「正確にはあった──ね。大昔にそんな個性を持った者がいたけれど、使い方が悪くて追放されたのよ。今は存在していないし、同じ個性を持つものは生まれていないわ」

「そ、そうなんですね…!」

「ええ、なにかあった?」

「…わたし、実は小さいころに──」

「お待たせ」

 この人にならと、ハヤテが今まで誰にも話してこなかったあるできごとを口にしようとしたが、それは戻ってきたキリルラントの声によって阻まれてしまった。

「イブ? どうしたの?」

 なんだか納得のいかない顔をしたイブキがその後ろからトコトコとやってくるのを見て、ハヤテは思わず彼女に声をかける。

「いや、なんか別に…そんなたいしたことでもなかったけど…」

 イブキは面倒くさそうに顔を歪め、頭の後ろを人差し指で掻きむしった。

「……クク、こいつ殴ってもいい?」

「まったく思ってもないことを……あの子が見てたら怒るわよ?」

 わかってるよと、キリルラントは拗ねる子どものように口をすぼめ、ぼそぼそと呟くのだった。

「さ、キキ。出るわよ」

 そんなキリルラントの首根っこを掴むと、クレスタリアは部屋のドアへ手をかける。

「クク? 出るってどこに」

 そんな二人の様子を、イブキとハヤテはソファの前で不思議そうに見つめる。

「あなたってロマンがないのね? これから二人は初めて本当の世界を目にするのよ?」

「…それが?」

「はぁ……やっぱりあなたよりハヤテのほうが物分かりがいいわ…」

 それを聞いたハヤテは苦笑いをしてみせた。言葉の端々から、クレスタリアの意図することをすでに理解しているから。

 一方その隣ではイブキが、キリルラントと同様に目を丸くして素っ頓狂な表情を見せる。

「間違っても初めて目に入る色があなたや私のモノだったら困るでしょって言ってるの。ほら、行くわよ」

 なるほど…──そう漏れた声は両方向から二つ。


「じゃ、ちゃちゃっと世界を救っちゃいなさい? 私のかわいい若葉ちゃんたち」


 去り際に振り向いてひとつウインクを寄こすと、クレスタリアは清々しい顔つきで部屋を後にした。

 

「……頼んだ──。」


 ドアが閉まる瞬間かすかに聞こえた声は、どこか縋るような力ないものだった。


 この何百年。愛を失ってしまったキリルラントは自分の個性をどうすることもできず、ひとり闇の中を彷徨い続けた。それでもこの土地を離れなかったのはきっと、いつかはこの世界をもとに戻したかったから。


 彼女を今でもずっと、愛しているから──。


「ねえハヤテ」

 イブキはキリルラントの弱々しい声にそんなことを思いながら、最後にどうしても聞いておきたかったことを、二人きりになった今なら──と。ゆっくりその口を開いた。

「うん?」

「──母さんでも、できたのかな」

 今のハヤテの顔を見る勇気。なんでさっきその方法は教えてくれなかったんだと、イブキは部屋を後にした遠い遠い祖母の恋人に心の中で八つ当たりをするのだった。

「…真剣な顔してるからなにかと思えば……イブ、そんなこと考えてたの?」

「そんなことって!!」

「あなたにしかできないに決まってるでしょ?」

「……な、なんで言い切れるわけ…」

 ハヤテはその手を取ると俯いたイブキの顔を持ち上げるように、掴んだ小さな両手を顔の前までスッと引きあげた。

「だってあんなにきれいな湖を見せてくれたのはあなただけでしょ? それに──」

「それに…?」

「キリルラントさんの中にある優しさって、あなたの優しさの形にそっくりだもの」

 ハヤテはイブキの手を強く包み込み、目を和らげて彼女をまっすぐに見つめた。

「……」

「不器用で勘違いされやすいところも、誰かのためなら自分を後回しにしちゃうところも」

「そんなこと…」

「イブは昔からそうよ。わたしが言うんだから間違ってるわけないでしょ?」

 ふふっとハヤテははにかむ。子どものころのように、曇りのない瞳を浮かべて。

「ハヤテってそんな自信家だったっけ…?」

「だってあなたのことを一番知ってるのはわたしだもの」

「……まあ、そうだけど…」

 たじたじという言葉が今の自分には一番合っているだろう。ハヤテの得意げな顔に、イブキはそう思わされるのだった。


「……じゃ、やってみますか…」

「ええ。あ、でも待って……イブ、わたし最初に見るのは……」

 イブキの次は、ハヤテが身を捩らせる番。

「ああ……うん。あたしも同じこと思ってた」


 イブキはそっと、ハヤテへと近づき距離を縮める。


 身長差のある二人。イブキがつま先をちょんと上げ背伸びをしたのを合図に、ハヤテは彼女に気づかれないように少しだけ膝を折り曲げる。


 纏う空気の重さが変わり、段々と迫ってくるその気配にハヤテぎゅっと瞼を閉じた──。


 が、次の瞬間ぶつかったのは、ハヤテの期待するものとはまるで異なる箇所であった。


「ねえ……」

「ん?」

「なんでおでこなのよ…」

 至近距離でとぼけた顔を見せるイブキに、ハヤテはオーダーと違うものが届いたことへ文句を投げた。

「これだったら目開けたとき一番に入るじゃん?」

「……それはっ…そうだけど…」

「ハヤテなに期待してたの?」

「…あなたわかっててやってるでしょ?!」

 クククッと、イブキは吹き出さないように必死で笑いを堪える。

「まあいいじゃん、それはまた今度で。なんかこの部屋が最初ってちょっとやだし」

「嫌?」

「…だってここ、母親の部屋みたいなもんじゃん…」

「…イブ……」

 ハヤテは瞳を濡らしてイブキを見つめる。

「あの…ハヤテさん? その…目閉じといてもらえる?」

「どうして?」

「………ハヤテの目──…すぎて……ない…」

「うん? 聞こえないわ」

「だから! ハヤテの目きれいすぎてこんな距離で見てられないんだって!!」

 イブキはたまらず大きな声をあげるが、それを受けた相手は満足げな顔で微笑んでいた。

「ふふっ。二回も褒めてくれてありがとうっ」

「あっっ?! 最初から聞こえてたの?!」

 

 穏やかに笑うその青い瞳が、どうしようもなく好きだと思った。


「いいからハヤテ、目閉じてて」

「……うん」


 閉じられた瞼のうえ、かすかに震えるまつ毛を愛らしいと思った。


「……」


 あの幼い夏の思い出となに一つ変わらない彼女の存在。

 握られた手のひらのぬくもりも、首元から香るその懐かしい匂いも。

 


 イブキは、この瞬間の彼女のすべてをたまらなく愛おしいと思った──。


 

 ──いい? イブキ、あたしの個性を使うには…。

 ──……別にイブって呼んでいいけど…。

 ──…あれはフブだけだからあんたにはあげない。

 ──え、うざ……。

 ──……いっ、いつか呼びたいときがきたら呼ぶから…。

 ──……あっそ。

 ──個性を使うのは簡単。胸に手を当てて、彩る景色をイメージをするだけ。

 ──…それだけ?

 ──あとは……──。



 イブキは握りしめた彼女のそれごとそっと胸に手をやって、キリルラントの言葉を思い出す。


 頭に強く、思いを描いて。

 心に深く、想いを馳せて。


 彼女はそっと目を閉じた。


 次に瞼を開けるその瞬間、この世界が正しい姿に戻っていることを祈って。

 そのとき、いま目の前にいる彼女が、溢れんばかりの幸せに包まれることを願って──。


 

「………じゃあね、アンコロール……」






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