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うるわしの夜目



 肌を刺す冷たい風が北の方角からビュービューと吹きつけ、窓を揺らす冬至冬中の冬始め。

 そんな中でもその朝は、のどかな陽が顔を覗かせたあたたかい小春日和であった。


「いい? 可視光は380nmから780nm。これ以上の波長は赤外線、以下は紫外線」

「ふんふん」

「入射する光の刺激によって人間の目は色と明るさを──」

「ふんふん、ふふん」

「……聞いてるの? メブ」


 時刻は八時半を過ぎたころ。校内の食堂──昼食時以外はカフェテリアとして使用することのできるそこで、ハヤテは今日も変わらずメブキの勉強を見ていた。


「聞いてるんですけどぉ、どぉーーーしても話しが入ってこなくってぇ」

「ちゃんと聞かないと…あなた定期試験で赤点だらけだったんでしょ?」

「えへへっ」

「照れるところじゃないのっ」

 ツンッと、ハヤテははにかむメブキの左頬を突く。

「だってぇ、テスト中ずーっと頭の中いっぱいだったんですもん~」

「おかし? それともあなたの大好きなお洋服?」

「違いますよぉ。大好きなのはあってますけど、せんぱいのことですぅ」

 メブキは両の指先でちょんちょんとハヤテを指差した。

「わたし?」

「ハヤテせんぱい体調大丈夫かなぁ~とか」

「ああ、それは──」

「今日もかわいいのかなぁ~とか?」

「……なに言ってるのよ…」

「あー! 照れてますぅ?」

 俯いたハヤテをメブキは決して見逃さなかった。

「今もそのせいで話入ってこなかったんですよぉ? 今日も変わらずかわいいなぁって」

「……メブはわたしを過大評価しすぎよ。あなたのほうがかわいらしい顔つきしてるじゃない」

「えぇ? もしかしていま、わたし褒められてますぅ?」

「はいはい。続きやっちゃうわよ? あと10分しかないんだから」

「えー」

「えーじゃないの」

 二人がやんややんやと戯れているうちに、時計の針はいつのまにか九時まで五分前のところにきていた。一限の開始時刻──九時十五分の十分前には、イブキを起こして部屋から連れ出さなくてはならない。メブキとの残り少ない時間に、ハヤテはなんとかプリントを最後まで埋めさせようと再びペンを手に取った。


 一ヶ月ほど前、定期試験の前の週。

 ハヤテは出先で倒れ、その週末を寝たきりで過ごした。


 イブキとの外出の約束。朝起きたときに感じた倦怠感も喉の痛みも、寝つきの悪かった前夜と乾いた秋風のせいだと思っていた。そんなことを考えるよりも、その日一日どうやってイブキを楽しませようかと、彼女はそれしか頭になかったのだ。

 もうすぐそこに冬が迫っているというのに身体はやけにポカポカとして。額に流れる汗をそのままバスに乗り込み、目が覚めると寮の自室のベッドに横たわっていた。


 イブ──?


 見渡しても彼女の姿は見当たらず急に不安に襲われたが、孤独感を感じる暇もなく彼女はハヤテの部屋のドアから顔を覗かせた。たくさんの治療道具を両手に抱えて──。

 その姿にすっかり安堵しきった心はほっと息をつき、ハヤテは実際そのあとのことはほとんど覚えていない。

 朦朧とする中、その熱に意識を溶かされ明け方に目を覚ますと、ベッドの縁に腰を預けたイブキが体育座りですやすやと寝息を立てていたのだ。


 ずっと、そばに居てくれたの…──?


 床に散らばる薬のゴミや、サイドテーブルに置かれた冷めたお粥。

 額で少し乾いた冷却シートに、首にあたる溶けだした氷枕。


 そのどれもこれも、きっとイブキが用意してくれたのだろう。ハヤテの心はぎゅっと掴まれたように切なさという感情を色めかせた。

 守るつもりがまた、守られてしまったと──。


 うぅーねむい…と、そんな寝言を吐く彼女に夢の中でも眠いの?と微笑みながら、ハヤテは起こさないようにベッドをそっと抜け出して彼女の隣に腰を下ろした。

 その肩に頭を預け、再び目を閉じたのはまだ陽も登らない薄暗い朝未だき。横で冷たくなった体に毛布をかけ、自分の熱を分けるように擦り寄った。


 熱る胸はかすかに残る微熱のせいか、それとも──。


 考えずとも分かるそんなことを頭に浮かべながらハヤテはまた夢に落ちていった。 

 こつりと傾いた小さな頭に、これくらいはいいわよね…──と、心までもを寄せながら。


 だって、はじめて朝まで一緒にいたんだもの…。

 そう心を躍らせながら──。



 すっかり調子も戻った週明け。ハヤテは定期試験をなんなくこなすと、イブキの手助けをしてくれたというシグレとコナミに頭を下げ、見舞いに顔を出してくれたらしいメブキにも礼を言った。

 

 ──お嬢様のせいでうちは大変だったんだぞ?!

 と、シグレがなにやら騒いでいたが、なんのことやらハヤテにはさっぱり。

 メブキもなにやらご機嫌が斜めであり、ハヤテは熱のあいだになにが起こったのかと心労したものである。


 それから彼女が次に待つソカツの上級試験に向けて変わらない日々を過ごしているうちに、メブキの機嫌はすっかりもとに戻ったようだった。だが今朝はいつになくハイテンションな様子のメブキに、ハヤテはどこか危ない香りを感じていた。


「──うん、いいわ。よくできました」

「わぁーい。メブ、いい子ですかぁ?」

「ええ、がんばったわね」

「じゃあ~、はいっ」

 いつものように撫でろと、すり寄ってくる子犬の頭にハヤテは手を伸ばす。

「もうっ、甘えんぼうね」

「えへへぇ~」

「もうこんな時間…わたしそろそろイブを起こしに行かないと」

 ハヤテは左腕につけた小さな時計で時刻を確認すると、教材をせかせかと片付け始める。

「いってらっしゃいですぅ~」

「…めずらしいわね?」

 いつもの彼女ならば、もうちょっと──と。このタイミングで必ず駄々をこね始める。だがその様子も見せず送り出すなんて、どんな風の吹き回し?と、ハヤテはその甘い顔に視線を向けた。

「ふふーん。いいんですっ、きょーはっ」

 メブキはどこか自慢げな顔つきで鼻息をついてみせる。

「今日?」

「はいっ。楽しいことがあるので。」

「?」

 目だけを弧状にたわませ意味深に笑う彼女の考えることなど、ハヤテには想像もつきやしない。それはいつものことではあるが、今日のメブキはどこかが不安定で危なっかしいと、ハヤテはなんだか胸の奥に陰ったものを感じていた。

「待っててくださいねっ?」

「…なにを?」

「ふふっ、すぐわかりますよっ」

「ちょっと、メブ──」

「じゃあせんぱい、またあとで」

 

 そう言って彼女は去っていった。

 風のように軽やかに。雲のようにふわふわと。


 揺れるその後ろ姿にハヤテは思う。

 そういえば今日はいつものりぼんじゃないのね──と。


 内側の細い三つ編み。右側に下がるそれをまとめた小さなりぼんは、彼女のチャームポイント。モノクロで霞む今日のりぼんに、ハヤテはささいな違和感を覚える。

 今まで違うものをしていたことなどあっただろうか。いつもは赤く染まったきれいなりぼんをしていたのに。


 ──あれ…?


「わたし、あの子のりぼんにソカツしたことあったかしら…?」


 ハヤテのひとりごとは、誰もいないカフェテリアにひんやりと響く。

 カチカチと鳴る腕時計に急かされるように、彼女は疑問をそのままイブキの部屋へと急ぐのだった──。




 *****




「ほら、早くしないと先生が来ちゃうわよ」

「んー…」

「イブ、起きて」

「んー」


 メブキと別れたあと、ハヤテは慣れた手つきでイブキを叩き起こすと、いつものように教室への道を早足で進んでいた。

 近頃、朝はとことん冷える。ベッドから出たくないと渋るものの、さすがのイブキも冬の冷気を受けて目を覚ますのは早くなっていた。だが、今日はどうしたものか。部屋から引きずり出しても目を閉じたまま。目を擦りながら生まれたての小鹿のように覚束ない足取りでとてとてと──。

 すべてはやけにあたたかい窓の外の陽のせいであると、ハヤテはそれに目をやってため息をひとつ窓枠に吹きかけた。

 師走にもなったというのに、まるで春のようなこの陽気。いったいどこからそんなものを運んできたのか、ハヤテはなびく風に問いただしたい気分である。


「春待月が名前負けもいいところね…」

「……ふぁぁ…なにそれ」

「いいから起きなさい?」


 何度目になるか分からない欠伸をこぼし、目を潤ませるイブキの手をハヤテはぐぐっと引き寄せる。


 この陽気がただ、北風の気まぐれであるならいい。

 いやに騒ぐこの胸も、ただの勘違いなら──…。


 まるで嵐の前の静けさのように、作り笑いをこちらに向ける空を見てハヤテはそう思うのだった。


「ハヤテ」

「うん?」

「…なんかあったら、次は言ってよ」

「……ええ。ありがとう」


 出先で倒れたときから、イブキは少しずつ変わっていた。

 苦労を苦労とも思わないハヤテの性格。それは幼少期からの環境で備わったものであると、イブキはそう感じていた。本人も気づけないようなその心の内を、ああなる前に掬いあげることができたなら──。今日も何かを思い詰めたように目頭にシワを寄せる彼女を見て、イブキはらしくもない言葉を口にするのであった──。



 ──……これって…。

 ──うそでしょ…?

 ──でも…。


 二人が一限の行われる大きめの教室を目指し階段を登り切った矢先、ゼーハーと息を切らすイブキの声のその奥で、ざわざわと騒がしい生徒たちの様子が耳を撫でた。


「…どうしたのかしら」

「シグレがなんかやらかしたんじゃないの…はぁ…」


 膝に手をついて呼吸を整えるイブキを横目に、ハヤテは嫌な予感がしていた。

 授業開始まであと三分もないというのに、この騒々しさは異常だ。普段であれば一限前のこの時間、生徒たちは各々の自室からこぞって今日教室に足を運び、静かに号令を待っている。昼食あとでテンションの浮ついている午後の授業ならまだしも、朝一でこの雰囲気はなにかあったに違いない。


 窓から差す熱い日差しが、ハヤテの額に流れる一滴をきらりと照らした。


「──…おい、イブキ…!」


 長い廊下の突き当り。二人がその角を曲がると、教室の周りには学年を問わない生徒たちが押し寄せ、何やら険悪な顔つきで教卓の方に目をやっていた。

 溢れてしまいそうな廊下の波を縫って、その中心からズカズカと二人のもとにやってきたのは、イブキがその騒ぎの火種ではないかと疑いをかける人物──シグレであった。


「シグレおはよ、ふぁ…」

「お前…あくびなんかこいてる場合じゃ…」

「ん?」

「…シグレさん、なにがあったの…?」

「……」

 まだ目覚め切っていない頭を抱え、しきりに欠伸をこぼすイブキとは裏腹に、ハヤテはどこか神妙な面持ちであった。


 お願い。どうかこの胸のざわめきが、勘違いであって──。


「ハヤテちゃん」

「コナミさん、おはよう」

 何も言わないシグレの後ろから静かに顔を出したのはその相方。

「……イブキちゃん連れて部屋に戻った方がいいと思う…あれが嘘でも…──そうじゃなくても」

「……」

 コナミの発言に、ハヤテはすべてを理解したような顔を見せる。

 朝からしていた嫌な予感。それが、当たってしまったのだと──。

「どしたの?」

 横でぽかんとしつつ、暗い雰囲気の三人の感情に押され、イブキもやっと目が覚めた様子であった。

「イブ、とりあえず部屋に──」

 ハヤテがその手を取ろうとした瞬間だった。


「あ~! やっと来たぁ!」


 教室の前の扉から顔を出したメブキが声をあげたのは。


「イブキせんぱぁい! おはようございますぅー。待ってたんですよぉ?」

「……あたし?」

 メブキがイブキの名前を出した瞬間、廊下はさらに騒がしさを見せ、生徒たちは信じられないというような目をイブキに向ける。

 見覚えのあるその視線に、ハヤテの胸は警告を鳴らしていた。今すぐ、ここから離れろ──と。

「イブ、戻りま──」

「つーかまえたっ!」

 後ずさりするハヤテを止めたのは、他でもないメブキであった。

「メブ…あなた何を…」

「ふふっ、いいからいいから、二人ともこっちこっち!」

 引かれるまま教室に連れていかれる二人。隣のイブキは勘づいているのか、この状況に何を思っているのか。横目で彼女の気持ちを探ってみても、またもハヤテにそれは分からなかった。


 無色──今のイブキの表情を色に例えるなら、それは何色でもない。アンコロールであったから。


「はーい! 主役の登場でーすっ!」


 喧しい生徒たちをかき分けてたどり着いた教室のホワイトボードには、ハヤテが予想していたよりも酷な内容が書き殴られていた。



 "学園の王子様は裏切り者の魔女"


 "彼女の階級は招かざるラータ"

 

 "ノンアンファーの母に捨てられた可哀想な子"


 "ペテルの令嬢にすり寄り、コネで入学を許された卑怯者"



 目を疑うような刺々しいその文字の羅列に、ハヤテは言葉を失ってしまう。


「おいメブキ! やめろって! イブキがそんなわけないだろ!」

「憶測だけでそんなこと…いいかげんにした方がいいと思う」

 なにも言葉を発さない二人とは裏腹に、後ろから追いかけてきたシグレとコナミは荒々しい声をあげる。

「えぇ~? でもぉ、これって本当だと思うんですぅ~」

 メブキは意味深な笑みを浮かべ、イブキへ近づくとその両手をぎゅっと掴み胸元へと持ち上げた。

「ねぇ? おねーちゃんっっ?」

「……」


 彼女のその発言に、あたりは騒然となった。


 ──どういうこと?

 ──イブキ様、妹がいらっしゃったの?

 ──でもそれじゃあ、あの子もラータってこと?


「あ~違いますぅ、わたしはちゃーんとパレクですよぉ~」

「お前、そろそろ冗談きつぞ」

 好き勝手するメブキの腕を掴んだのは、ハヤテではなくシグレであった。

 いつになく真剣なそのまなざしは、メブキに向かって一直線に突き刺さる。


「シグレせんぱいってば怖いですぅ~。冗談なんかじゃないですよぉ」

 その手を振り払い、メブキはささっと掴まれた手首のあたりを汚れでも落とすかのように掃ってみせると、再びイブキに声をかけた。

「シブキ」

「──ッ!」

 彼女がその名前を口にした瞬間、先ほどまで何を考えているのか分からなかったイブキが、あからさまに反応を見せた。

「知ってますよねぇ? わたしのだーいすきなお母さん──ついでに言うと、イブキ先輩のお母さんでもありますけど」

「……」

「種違いでラータの姉がいるって聞いてはいたんですけどぉ、まさかこんなとこで会えるなんて思ってなくて最初はびっくりしちゃいましたぁ。どーしてここにいられるんですかぁ? やっぱりハヤテせんぱいのおかげだったりぃ?」

「…ハヤテは関係ない。」

「…そうですか。じゃあやっぱり、イブキ先輩が魔女なんですか?」

 いつものふわふわとした甘い口調のメブキはもうそこにいなかった。

 イブキをぐっと睨みつける彼女は、この騒ぎを収めて見せろとでも言わんばかりに、その瞳を捕まえて逃さない。


「あたしは──…」

「メブキ、下がりなさい」

 イブキは口を開こうとした。

 だが、続く言葉を遮ったのは他でもないハヤテであった。


 この騒ぎの中、誰よりも先に声をあげると思われたハヤテは意外にも、イブキの横でその様子を見守っていた。それは単に、どうすべきか分からず口ごもっていたわけではない。イブキ自身の意向を確かめたかったのだ。


 どんなにシグレとコナミが庇おうと、この話は事実だ。魔女やコネ──くだらない妄想と虚言も含まれてはいるが、生徒たちが一番ざわついているであろう部分。イブキがラータであるということは、紛れもない真実である。

 いつかこんな日がきてしまうかもしれないと、ハヤテも、そしてイブキ自身も。きっと頭のどこかにはうっすらとその面影が腰を据えていた。最悪のタイミングで最悪のやり方ではあるが、それをどう対処するのか。それを決めるのはハヤテではなく、イブキ自身だ。だからこそハヤテは彼女の様子を覗っていた。


 朝から様子のおかしいメブキが、何かをしでかすのはないかと思ってはいたが、まさかこんなことになるとは──。以前聞いたイブキの母の連れ子の話。ここにきてその彼女が現れるとも、それがメブキだとも、ハヤテは思ってもいなかった。


 あのりぼんの違和感に、気づくまでは──。


 イブキは気づいていたのだろうか。驚く気配もなく、やけに落ち着いた顔つきでメブキの言葉を浴びている。動揺を見せないイブキの様子に途中までそう思っていたハヤテだったが、彼女は気づいてしまった。

 

 イブキの長いまつ毛が、かすかに震えていることに。

 彼女が今この瞬間、恐怖を感じているということに。

 

 空を見つめる彼女の表情。いつも持ち合わせているポーカーフェイスとさほど変わらないそれは、誰が見ても"普段のイブキ"と思えるだろう。──たとえ、この瞬間に怒りを前面に押し出しているシグレでさえも。

 だがハヤテは違う。

 そのまなざしの中に、いつもどこかやりきれない虚しさを抱え込んでいることも。まばゆい黄色やあたたかい朱色のようなものでなく、白と黒で構成された空の──この世界のような感情を滲ませているということも。ハヤテには手に取るように分かってしまうのだ。


 それは駆け回ったあの頃の、イブキを知っているから──。


 空を見つめる彼女は、研修のあの日言った。

 懐かしくて、憧れて。いつか自分も飛んでみたいのだと。


 そんなふうに、自分の心を揺さぶった彼女が震えている。

 そんなふうに、自分の心を浮かした彼女が怯えている。


 驚いていないわけでも、落ち着ているわけでもない。

 イブはもう、諦めてるんだ。


 それに気づいてしまったハヤテは、考えるよりも早く、ついにメブキに食ってかかった。

 今後こそ、自分が彼女を守るのだと──。


「ハヤテせんぱいも庇うんですかぁ? ほんとのことなのにぃ」

「イブキに謝りなさい」

 メブキの腕を掴んだまま、ハヤテはいつもよりも低い声でしっかりと、正確に言葉を吐き出す。その迷いのないハヤテの様子に釣られ、噂好きの生徒たちも口を閉じ始める。

「えぇ~? なにに謝るんですかぁ? 魔女って言ったこととかぁ?」

「彼女は魔女なんかじゃないわ。そんなおとぎ話で人を傷つけるのは子どものすることよ。それに魔女がどういう人かなんて、あなたにもわたしにも分からないでしょ」

 たしかにイブキを魔女だなんだと、皆が忌む架空の存在に例えたことは許せない。だがハヤテは以前から、もし魔女が存在するというのなら、それが悪い人だとは思えなかったのだ。

 彼女はこの世界に、白という希望を残したのだから──。

「イブキに対しての失礼な態度を謝りなさい。あなたがまずしなければいけないのは無礼を詫びることよ」

「…ハヤテせんぱいってぇ、もしかしてイブキせんぱいがラータだって知ってたんじゃないですかぁ? シグレせんぱいみたいに驚いたり否定したりもしないですしぃ? あやしいなぁ~って」


 ──ハヤテお嬢様が…?

 ──それじゃあやっぱりイブキ様って…。

 ──たしかに二人っていつも一緒だし。

 ──知っていたのに騙してたってこと…?


 ハヤテはその幾つものまなざしに見覚えがある。

 自分と同じものを見ているとは思えない、冷酷で惨たらしく、憎悪や敵意すら剥き出しのそれ。ラータを忌むべき存在として疎み白眼視するその様子は、まるであの日イブキを睨みつけた執事のよう。


「ハヤテは関係ないから──!」

「イブ……」


 喉を震わせながら、それでも精一杯に声をあげた彼女はあの頃と何も変わりはしない。

 こんな状況でもまだ、自分よりも他者に心を寄せている彼女の姿を受けて、ハヤテはためらっていた一歩を踏み出した。


「…そうよ」

「あれぇ? やっぱり知ってたんですかぁ?」

「ええ。知っていたわ。小さいころから、ずっと」

 ハヤテはメブキの腕から手を離すと、ぶらんと力なく垂れ下がったイブキの手を取った。

 そしてその手を今ままでにないくらいにぎゅっと、力いっぱいに握りしめた。

「知っててわたしはそばにいたの。ペテルとかラータとか、そんなのは関係ない。わたしがそばにいたいからそうしただけ」

「……ハヤテ…」

「イブはイブだし、わたしはわたし。それにメブキ」

「はぁい?」

「あなたはあなたよ? 他人と比べて自分を量るなんて間違ってる。みんなだってそう──」

 ハヤテは振り返り、野次馬と化した生徒たちを見渡して言葉を続ける。


「今すぐ…その失礼な視線をやめてイブに謝りなさい──!!!」

 ハヤテの大声は、変態──!!と。部屋を間違えた入学式の日よりも大きく芯の詰まったものだと、イブキはそんなことを思っていた。


「……かぁーっ、お嬢様かっけぇ…」

「シグレ、大事なところだから黙って」

「ハヤテ、もういいから…」

「よくないわ! わたしを助けてくれたのはあなたなのに! イブを悪く言う人は金輪際誰だって許さないわ!! それにメブキ! あなた勘違いを──」

「ハヤテ! いいからっ──!」

「おーい、なんの騒ぎだ? お前らいいかげんにしろ?」

 予想だにしていなかったのか、勘違い──そう言われてメブキはめずらしく動揺したように目を丸くしていた。だが何がそうであるのか、ハヤテがそれを言う前に彼女を止めたのはイブキであった。

 そんな最中、騒ぎを聞きつけたチュアンとミュールが後ろの扉から登場し、その存在感だけで生徒たちは静まり返る。

「……あー。なるほどな…」

「だ、だれですかっ! こんなことを書いたのはっ!」

 ホワイトボードを目にした二人が一斉に声をあげる。

「知りませーんっ」

「おい、嘘つくなって。お前だろ? メブキ」

「違いまぁーすっ」

 口ではそう言っているものの、しらばっくれる様子もないメブキはまだ、反省などしていないよう。

「……おい、一年坊。お前はあとで職員室こい」

「えぇー……って、いったぁい!!」

「人を傷つけたらいけませんよ?」

 久しぶりに炸裂したミュールの拳がメブキの頭に遠慮なく降りかかる。

 ありゃしばらくたんこぶ治んねーな…と、シグレだけがごくりと喉を鳴らしていた。

「お前らは……今日は部屋にいろ。処分はあとで通告してやる」

「……処分って、イブはなにも──!」

「ハヤテ、少し落ち着け。この状況見ればお前なら分かるだろ?」

「……わかりました…」

 チュアンのその発言を、ハヤテは彼女の意図するとおりに受け取った。

 イブキがラータであることを、学園が知らないはずはない。不正に入学する力など彼女にはないし、そもそもソカツに興味のない彼女がそんなことをする理由もない。それでも第二学年にあがり今日このときまでなんの問題も起きてはいないのだがら、入学は許可されるべきして行われたのだろう。そのいきさつこそ知りはしないが、ことを知っても驚いた様子もなく、加害者だけを呼び出し二人には部屋に戻れと。そう言ったチュアンの様子を見れば、教師陣もそれを周知していることは一目瞭然。とりあえずは騒ぎを収めるために静かにしていろと、チュアンの言いたいことはそんなところだろう。

 ハヤテは彼女の一言から素早くそれを理解し、イブキの手を引いた。


「──行きましょう、イブ」


 喧噪の中を駆け抜けるハヤテに、迷いなど微塵もありはしなかった。

 その背をただ見つめながら、イブキは静かに瞳を潤ませるのだった──。




 *****




「準備できた? 忘れ物ない?」

「……口うるさい母親みたい」


 ママって呼んでもいいのよ──?と笑いかけるハヤテに、イブキは結構ですと同じく声を浮つかせて返した。


 騒ぎの起きたあの日、部屋に戻るとイブキはハヤテを自室に連れ込み、今まで口を閉ざしていた入学の経緯を彼女に打ち明けた。

 ハヤテの別荘を住まいにしていたある日、しくじってしまったこと。そんな矢先、自分を訪ねて来た女性がいたこと。学園への入学許可書を差し出し、片道の切符や制服──必要なものを送り付けてきたこと。学園に入ったが彼女に似た教員はおらず、いまだに自分自身もなぜ入学を許可されたのか分からないこと。


「……大きくなりましたねって、そう言ったの?」

「うん。でも会ったことないと思う」

「どんな人?」

「背が高くて…ハヤテと同じくらい? 髪は長くて肩のとこで結ってて、たれ目で優しい感じだった」

「……たしかに先生たちの中で同じ特徴の人はいないかも…」

「…あの、ハヤテ……」

「うん? どうしたの? お腹すいた?」

「あ、いや……その…ごめん。あと、ありがと」

「……わたしはなにもしてないわ。ただ自分の思いをぶつけただけよ」

「でも迷惑かけてごめん…」

「…イブ、あなたが謝ることじゃないわ。わたしこそごめんなさい…メブキの魂胆に気づけなかった…」

 ハヤテは床に膝をつくと、ベッドに腰をかけるイブキの手をきゅっと握った。

「ハヤテのせいじゃない」

 イブキはその手を引っ張ると、隣に座るようベッドの上をとんとんと叩く。

「──あなた、気づいてたの?」

「…あのりぼん、どっかで見たことあるような気がしてて。会ったことあるのかもって、そのくらい」

「……わたしも今朝気づいたの。あれって、わたしの…」

「うん。ハヤテがあたしにくれたやつ」


 二人で過ごしたあの夏の数日。そこで起きたことを二人は何ひとつ忘れていないつもりだった。

 だが、そうは言っても記憶は儚い。覚えていたいと思う心と、時間の流れとともに薄まっていく記憶の破片、上に重なっていくそれぞれの人生。十数年前のできごとを幼い二人が思い出として連れていくには、仕方なく棚の奥に仕舞い込んでしまうものもある。


 その一つが、お互いにあの"りぼん"であった。


 ──あっ……。

 ──イブ? どうしたの?

 ──か、かぜが……。

 ──…ちょっと待って。

 ──ハヤちゃん…?

 ──うん。これでいいわ。よく似合ってる。

 ──……いいの…?

 ──ええ。わたしよりもよく似合う。イブってかわいいもの。

 ──……ハッ、ハヤちゃんのほうが、か…かわ……。

 ──イブ見て! 魚が跳ねたわっ! 近くに行ってみましょう!

 ──う、うん…!


 風の強くなる夕暮れどき。当時、長い髪を持ち合わせていたイブキはさらさらと揺れる前髪が大きな目にかかり、その日はしきりに目を擦っていた。見兼ねたハヤテが、後ろ髪を斜めに止めていたクリップ付きの小さなリボンを外し、彼女の前髪をやんわりと端に追いやってそれを留めてくれたのだ。


 恥ずかしいことを言われて、恥ずかしいことを言おうとして。

 だからこそイブキはきっと、その場面を記憶の端に追いやってしまったのだろう。


 だがハヤテの場合は少し違う。もちろんイブキ同様に奥の棚に仕舞い込んでいたということもあるが、気づけなかった一番の理由は単純なもの。


「……あのりぼん、もっとかわいかった気がしたのに…」

「え?」

「…なんでもないわ。ひとりごと」


 彼女がそれに気づけなかったのは、りぼんの顔つきが当時とは全く異なって見えていたから。

 人形のようなイブキの前髪にちょこんと居座るそれは、どんなりぼんよりも可憐で愛らしい。当時のハヤテの瞳に映ったそれは、形をそのままに記憶の奥で眠り、目の前に現れようと、同じ輝きを放たない限り目を覚まさなかったのだ。


「母さん、持ってってたの知らなかった」

「ええ…でもあなたどうして言わなかったの?」

「なにを?」

 イブキは目を丸くして頭を傾ける。

「あの子、種違いって言ってた」

「ああ…」

「メブキ、あなたと血は繋がってないでしょ?」

「……」

「前にあなたの働いていた場所で話してたって……それにあの子は一個下だし… お母様が出て行ったの、あなたがわたしと出会った後じゃない。計算が合わないわ」

 ハヤテは思い詰めた表情で問いかける。

「…言っても仕方ないし……それに──…」

「それに?」

「……だいすきって言ってた」

 

 ”だーいすきなお母さん”──そう言った彼女はきっと、母親を心から慕っているのだろう。

 彼女は父の連れ子。自分が産んでいないことを隠しているあたり、母親にとってもメブキは大切にしたい存在であることはすぐに分かってしまった。


 だからイブキはあのとき、ハヤテを止めた。

 自分の分まで愛情をかけて育てられた彼女を、苦しめたくないと思ってしまったから──。


「……どうしてあなたはそんなに──」

「…あたしがそうしたかっただけ。ハヤテと同じ。自分の欲を優先しただけ…ってやつ?」

 イブキは笑った。うまく笑えているかなんて分かりはしないが、とにかく笑顔を作らなければいけないと。


「イブ……あなたがあなたを優先しないなら、わたしがあなたを──」


 ──ドンドンッ!


 無理に笑ってみせるイブキを見てハヤテがかけようとした言葉。

 それは最後まで言い切る前に、乱雑なノックで遮られてしまった。


 ガチャッとドアを開けたチュアンによって、二人は騒ぎが鎮まるまでハヤテの田舎にでも戻っていろと通告を受けた。表向きは謹慎ではあるものの、少し気持ちを落ち着かせてゆっくりしてきてください──と、チュアンの後ろでほがらかに笑ったミュールの言葉を受け、イブキとハヤテは今まさに寮を出ようとしている。

 シグレやコナミは二人の処分に不服そうな顔を見せていたが、大人になれバカタレ!とチュアンがそれを力ずくで収めた。心配しないでというハヤテの言葉もあり、お嬢様がいれば大丈夫か!とシグレはガハガハ笑いながら二人を送りだしたのだった。


「あーっ、勉強から解放されるー」

「イブ? ミュール先生から課題貰ってるのもう忘れたの?」

「…忘れたってゆったらハヤテがやってくれる?」

「甘やかさないわよ?」

 くすくすと笑いながら、二人はハヤテの実家の車を待っていた。あんなことがあった翌日とは思えないほどに清らかな顔をして、すっかり冬の顔を取り戻した冷たい風に吹かれながら。

「…っくしゅ──!」

「イブ、マフラーは?」

「持ってない。てかちくちくするから好きじゃない」

「…だめよ、風邪引いちゃうわ。ほら──」

 ハヤテは自分の首に巻いていたそれをくるくると解くと、イブの首元に器用にそれを巻き付ける。ツルツルとしたその生地はハヤテのぬくもりがかすかに残り、イブキの身体を温めていく。

「あ、これちくちくしない」

「シルクだから平気でしょ?」

 ね──?と、首を傾けて笑う彼女の瞳に、イブキは心までもあたたかくなっていくような気がした。

「あ──」

「あれ?」

「ええ、あの車。おじい様のだわ」

 どこぞの高級車でもやってくるのかと思ったが、現れたのはいたって普通の自家用車。それでも、イブキには馴染みのない大きさであったが。

「ふぇー…」

「……ごめんなさい…今はこれしか…お気に召さない…?」

 イブキの心のうちなどまるで分からない様子のハヤテは、不安げにそのアホ面を覗き込む。

「いや、こんなでっかいの乗ったことないって」

「そう?」

 そんなことを話しているうちに運転席から降りてきたのは、白髪をたくさん生やした清潔感のある男性。年老いてはいるが、その誠実な見た目からハヤテの親族であることはひと目でわかってしまう。

「おじい様! ご無沙汰しています!」

「……」

「おじい様?」

 何も返さない祖父の姿に、彼女は頭を傾げる。その横でイブキは、自分が原因で孫が謹慎となったことに怒っているのではないかと内心ひやひやであった。

「…あ、あの、すみません…あたしが──」

「ハヤテ……ハヤテーっ! 元気にしとったかぁ~?!!!」

 イブキが頭を下げようとした瞬間、彼は顔をこれでもかと緩ませ孫を熱い抱擁に包み込んだ。

「お、おじいさま…苦しいわ…」

「久しぶりじゃのう。あいかわらず細っちくて…ちゃんと飯は食っとるか?」

「ええ…あの、おじい様そろそろ……恥ずかしいわ…」

「ああ! すまんすまん!」

 横でその様子を見ていたイブキの目は、間違いなく点になっていた。

「君がイブキちゃんかい?」

「あ、あぁ…ど、ども……イブキです…」

「ハヤテからよく話しは聞いとるよ。いつも孫と仲良くしてくれてありがとう!」

 イブキの手を取り、彼はブンブンと振り回す。

「おじい様! そのくらいにして──!」

「おっと! 私としたことがいかんな…すまんの。ハヤテの友人に会うことなんて滅多にないもんで、ついやりすぎてしまったわい」

「あ、えっと…だいじょうぶ、です…」

「……イブ? あなた──」

「寒いじゃろ? 中はあっためてあるから、早く乗って休んでなさい」

 ガラガラとハヤテの祖父が横開きのドアを開け、中からあたたかい空気が流れ込んでくると、それに誘われるように二人は車に乗り込んだ。


「ねえ、イブ」

「うん?」

「おじい様と話すの、緊張してる?」

「……別に…」

「ふふっ、隠すことないのに」


 車内の後ろでコソコソと話す二人の声は、ブオ──っと唸る暖房の風にかき消される。

 トイレのときは言うんじゃぞー!と、祖父は久しぶりに孫に会えたことがよほど嬉しいのか、上機嫌で車を走らせた。


 ──なんか、あったかいな。いろんな意味で。

 

 おじい様ったら…と苦い顔をしながらも、いつもより子どもの顔を見せるハヤテを横にイブキはそう思うのだった──。




 *****



 

 夕刻に寮を出てから六時間ほど経ったころ。冬の深夜は暗闇に包まれていた。

 ハヤテの住む北の町までは、まだ相当に距離がある。しかし寮を出て三時間ほど経った時点で、見渡す風景はさっぱりとしたものに変わっていた。


 静けさを考えるに、今はもう田舎と呼ばれる地域を走っているのだろう。

 喉の渇きで目を覚ましたイブキは、運転席のデジタル時計を目にしながらぼんやりと思う。


 かすむ目を指で馴染ませながらその数字を確認すると、時刻はすでに深夜一時を回っている。老体に鞭を打って運転してくれているのかとミラー越しに彼の様子を覗えば、まだニコニコとしているのだからイブキは拍子抜けである。


 ──じいさん、わくわくしすぎでしょ…。


「んん……」

「──まじか…」

 彼を見てははっと彼女が乾いた笑いをこぼすと、隣で寝ていたハヤテはそれに反応したのかコツンと頭をイブキの肩に寄せ始める。

「……動けないんですけど…」

 水でも飲んでもうひと眠りしようと思っていたイブキは、せっかくぐっすり眠っている彼女を起こすのにも気が引けて完全に身動きが取れなくなってしまった。

「まあ、これで返せるならいっか…」

 イブキは静かな寝息を立てて眠る彼女の頬にそっと手を伸ばし、横から香る彼女の匂いに心ごと寄り添った。


 あのとき。メブキが自分の階級をバラし、騒ぎを起こしたとき。

 正直イブキは、言いようがない恐怖に襲われていた。


 やっと慣れてきたこの生活。朝は起きれず、勉強は面倒なことこのうえないが、友人にも恵まれ隣にはいつもハヤテがいる。イブキは自分の居場所をやっと見つけたような、近頃はそんな気がしていたのだ。──それが階級ひとつで崩れそうになってしまった。


 自分はまた、居場所を失ってしまうのだろうか。

 ラータというだけで、シグレやコナミまで離れてしまうのではないか。


 隣で沈黙を続けるハヤテが自分を捨てるのではないかと、イブキはあのとき生きた心地がしなかった。


 だが、そう思っても口に出すことは叶わない。

 嘘をついていたのは自分で、いつかこんな日がくるかもしれないことはとっくに分かっていた。


 それをずるずると引き延ばし、罰が当たったのだとイブキは思った。

 誰が離れて行っても、また捨てられても。自分にそれを責める権利などありはしないのだ。悪いのはメブキではない。やりすぎてはいるが、最初からずっと嘘をついていた自分に責があるのだ。


 だから、今こうして落ち着いた心でいられるなんて、イブキはそのとき思ってもいなかった──。


「ん……」

 そっと頬を撫でると、子どものようにすり寄ってくる。

 穏やかな寝顔に目を細めながら、イブキは胸元の鍵をぎゅっと握りしめ、あたたかい思い出に心を寄せた。


 ──ねえイブ。やっぱりわたし、あなたと離れたくないわ。どんなことがあっても平気よ? わたしは負けないし、きっとあなたを守ってあげる。

 ──……ほんと…? ずっとともだちでいてくれる…?

 ──ええ、約束。……だからこれ、イブにあげるわ。

 ──これ、なぁに?

 ──キンイロの鍵。キンイロにはね、希望って意味があるの。…きっとあなたにいいことがありますように──。

 ──キンイロ…。

 ──イブ。またきっと、会いにきて?


 あの夏の終わり。子どもじみた喧嘩のあとの、やさしい思い出。


 あの日から、イブキにとってそれはただの鍵ではない。自分とハヤテを繋ぐ──大切なお守りなのだ。だからハヤテの別荘を使わなくなった今も、イブキはいつもそれを身に着けている。


 あの日の約束どおり、ハヤテはまた自分を守ってくれた。

 ラータであることを否定せず、ラータである自分を認めて、そばにいたいからそうしただけと──。


 嬉しかった。

 哀れみでも、同情でもない。その気持ちが。

 自分を自分として見てくれた彼女の思いが。


 母に捨てられたとき失くしてしまったものを、ハヤテは心に注いでくれた。


 そんな彼女がいたから、彼女が心に色を与えてくれるから。

 イブキはあのころと違い、こうして悲しみに一人耽ることなく笑えるのだ。


「ハヤテ……」


 教室から自分を連れ出してくれたハヤテの背中を見てイブキは思った。

 自分は彼女に、何を返せるのだろうかと──。


 彼女が自分を大切にしてくれている分、自分も。

 心の底から彼女という存在を大事にしたいと──。


「ハヤテ…あたし…ハヤテのこと…──」


 そのときイブキは分かってしまった。


 落ち着きのない鼓動、初めて感じるチクチクとした胸の痛み。触れただけでやかましく騒ぐ心に、身体の熱り。触れたいと、触れてほしいと思う説明のつかない気持ちに、曖昧な感情。


 誰かに向けられるその声、その笑顔をつまらないと思ってしまうことも。

 あの日から彼女が、白昼の月のように凛として見えてしまうことも。

 

 ハヤテの体温に、吸い込まれそうになった理由も。


 "愛ですね"──と、コナミがこの心のざわめきをそう呼んだ意味が。


 女だからと、色目で見られることは好きじゃなかった。知りもしない相手が好き勝手に好意を寄せてくるのは気持ちが悪い。だが王子様とそう呼ばれるのもうんざりで。とにかく自分に向けられる好意などすべて偽りで嘘っぱちで、無意味だとイブキは思っていた。


 だから愛だの恋だの、そんなものに興味はないし、誰かと慣れ合うのもまっぴらだった。


 でも記憶の中にはいつもハヤテがいて、その彼女はいつだって、あなたを守ってあげると微笑んだ。

 そして学園に入り、記憶の中だけだった彼女がいつも隣にいるようになって。


 "女の子なんだから"──と、ハヤテに言われるのは嫌じゃやなかった。

 むしろ、あのとき心には風が吹いていた。


 あの日吹いた風が、その心を染めて。

 それがこんなにやわらかくて、人に言うのは恥ずかしくなるような、そんな色をしているのはきっと。



 あたしが、ハヤテを──。



 まだ先の長い道中。車に揺られたイブキはあの日のように、寝つけそうになかった。

 それはすり寄ってくる彼女に心が落ち着きを失くしたからではない。


 その愛しい寝顔を、朝がくるまでずっと見ていたかったから──。




 *****



 

 まだうっすらした白々明け。そこに着いたのは、陽が顔を出す少し前だった。

 ハヤテの育った家。レンガ造りの洋風な家は、立派ながらも過ごしてきた時間を感じさせる趣きと味わいに包まれていた。すっかり目を覚ましたハヤテが、車を降りて早々にごめんなさいと気恥ずかしそうな顔で言ったのは、きっとハヤテにとってはその家すらも小さいくらいなのだろうとイブキは思う。


 ──たしかにあの別荘、ここの数倍はあったけど…。


 それにしたって、普通の夫婦と一人娘が住むだけならばむしろ広すぎるくらいの佇まい。田舎とはいえイブキの住んでいた東の町とはわけが違い、このあたりはパレクやペテルが多く住む場所。富裕層ではないといえ、レベルの違いは一目瞭然だった。


 もの優しげなハヤテの祖母は、いつ到着するか分からない三人を一晩ずっと待っていてくれたそうだ。扉を開けて早々に嗅覚を刺激したスープの香りに、イブキは腹のあたりが鳴るのを隠しきることができず、朝食にしましょうか──と彼女の祖母に笑われるのであった。

 疲れた身体に染みわたるほんのりと甘いコーンスープのあたたかさ。焼き立てのもちもちとしたパンに、今朝取れたばかりという新鮮な野菜たち。とろとろの卵料理に、カリカリと香ばしいベーコン。こんなものを毎日食べて育ったのなら、ハヤテのような子ができあがるのも納得がいく。せっかく用意してくれたものを残すわけにはいかないと、カットされたトマトの処理に困っていたところを何を言うわけでもなく、スッとそれをフォークで掬いあげ、当たり前のように口に運んだハヤテを見て、イブキはそう思うのであった。

 それを見ていた祖母が、あなたたちまるで夫婦みたいね──と。目尻のシワをさらに大きく微笑んだことでハヤテは慌てふためいていたが。


 朝食を済ませた二人は二階へあがると、ハヤテの部屋のベッドで仮眠を取ったり、荷ほどきをしたりと各々の時間を過ごした。

 初めて入るハヤテの部屋。寮の自室に入ったことは何度もあるが、こうして幼少期から彼女が過ごしてきた部屋にお邪魔するというのは、不思議な緊張感がある。部屋に人見知りするとかあるんだ…──と、イブキはおずおずとハヤテの後に着いてその部屋に入った。

 寮のそれとは異なる古びた大きなドアを開けると、中からブワッ──と。馴染みのある香りがイブキの身体を包み込んだ。


 ──ハヤテの匂い、めっちゃする…。


 この家のドアを開けたとき、優しい家族が住んでいそうな家庭特有の匂いを感じた。だが、イブキの好きなハヤテの匂いは感じられず、家族と言えど同じ匂いがするわけではないのだなと不思議に思ったもの。やっと鼻をくすぐってきたその落ち着く匂いに、イブキは欠伸をかいて荷ほどきもせずベッドに転がるのであった。


「イブ、せめて着替えてから…」

「ん……起きたら着替える…」

「もうっ、それじゃ意味ないじゃない……」

 呆れつつ、そんなイブキを横目にハヤテはせかせかと荷物を整理していく。

「……ハヤテの部屋、寮と雰囲気ちがう」

「え?」

「なんか、おもちゃ多い?」

「ああ、それは──」

 いかにも育ちのよい生徒が使っているのだろうなと、ひと目で分かるハヤテの自室。難しい参考書や有名な小説が並ぶ本棚に、きちっと整理された机。小物はかわいらしいものが多く、個人で使うカトラリーはイブキが触れるのも怖いほどの代物。

 この部屋も同じ。ハヤテらしいものが多く顔を覗かせ、ベッドには大きなクマのぬいぐるみまで居座っている。こんな趣味あったんだ──とイブキが触れれば、小さいころよ?!とハヤテは大きな声をあげて恥ずかし気にしていたが。

 だがその反面、机と反対側の棚には車やフィギュアなどのおもちゃたちがこぞって肩を並べ、じっとこちらを見つめている。──まるで、時が止まっているかのように。ぬいぐるみ以上にギャップのあるその趣味に、イブキは眠たい瞼をぎりぎり開けながら彼らを指差した。

「ずいぶんきれいに残ってるでしょう?」

「うん?」

 荷ほどきの手を止め、その棚に近づくとハヤテは彼らを大事そうに指先で撫であげた。

「ここ、お父様が使っていた部屋なの」

「……ああ、だから…」

「捨ててもいいっておばあ様は言ったけど…捨てられなかったのよね。なんだかお父様がそばにいるような気がして」

「そっか……」

「さっ! 早く片付けてわたしもやることやらなくちゃ! イブも起きたら課題やるのよ?」

「ごめんもう寝てるから聞こえないかも……」

「騙す気あるの? それ」

 ふふっと笑ったハヤテの声を最後に、イブキはゆっくりと目を閉じるのだった。



「イブ、いま忙しい?」


 数時間しっかり仮眠を取ったイブキは、目が覚めてからハヤテの部屋で馴染みのない小説に目をやっていた。ハヤテが無理に課題をやれと言わないのをいいことに、持て余した時間をずらりと並んだ文字の山々で埋めていたのだ。

 対してハヤテはイブキが目を覚ましたころからずっと、寮から持ってきた教材に目を向けているのだから、やはり彼女はとんだ優等生であるとイブキはしみじみ思う。


「忙しく見える?」

 そんな矢先、パタリとそれを閉じたハヤテがベッドの上に転がるイブキに声をかけた。どう見ればそんなふうに見えるのかと、イブキはうな垂れた声で返す。

「ふふっ、それおもしろかった?」

「難しくて全然わかんない」

「でしょーねっ」

「で? なに?」

「ちょっと外に出ない? このあたりは星がきれいなの。もう暗くなってきたし、どうかしら?」

「んー、行く」

 このままのんびり転がっていても仕方がないと、イブキはその提案を一つ返事で呑んだ。あまりに暇になっては、そのうち課題しかやることがなくなってしまう。それだけは勘弁だと、イブキはさっとベッドから腰を上げるのだった。


「あらあら、お出かけ?」

「おばあ様、少し散歩してくるわ。イブにもこの辺りを紹介したくて」

「それは良いことね、気をつけていってらっしゃい? 近頃は暗くなるのが早いもの」

「ええ、夕飯までには戻ります」

「あ、イブキちゃん、ちょっと待って──」

 バタバタと、ハヤテの祖母は部屋の奥に戻ると、なにかを手に持って再び玄関に顔を出した。

「古いものでごめんなさいね? これしてたら、あったかいから」

 そう笑って、彼女は手編みの手袋をイブキへと差し出す。

「おばあ様、イブは毛糸のものが──」

「あ、あのっ! ありがとう、ございます…」

 イブキは祖母の目に入らない角度で手をかざしハヤテを止めると、差し出されたその手袋をありがたく受け取った。

「いってらっしゃい」

 そう笑った彼女の優しい顔に押され、二人が家のドアを開けようとしたとき。わしも行くぞ──!と、ハヤテの祖父がリビングから駆け寄ってきたが、あなたはお留守番です!と、先ほどとは程遠い厳しい顔を向ける祖母の姿にイブキは思わず笑みを溢した。


 きっと、ハヤテの父と母も。こんなふうに柔らかく、まばゆい人たちだったのではないかと──。


「ここがよく遊んでた公園、それからあそこの家は大きな畑を持ってて、あの家のジョンはお寝坊さんなの……イブみたいにいつもスヤスヤしてるわ」

「……あたしのこと犬だと思ってる?」

「ジョンが犬だってよくわかったわね?」

「名前でわかるって…」

「あ、見て! あそこのお花畑はこの時期ノースポールがきれいなの。今度明るいときに見に行きましょ」

 あれやこれと、紹介するというよりはアルバムでもめくるかのように、ハヤテは久しぶりの故郷に胸を躍らせる。あのころと変わらない無邪気な笑みで自分の手を引く彼女。それを受けて、イブキは気づかぬうちに彼女と同じ顔つきになっていた。

「ノースポール?」

「マーガレットに似た白い花よ。可憐で愛らしくて…たとえるなら小さいころのイブって感じね」

「なにそれ、喧嘩売ってる?」

「ふふっ、冗談。あなたは今もかわいらしいわ」


 ──めずらしい…。


 幼いころは別として再会してからというもの、ハヤテにそんなことを言われたことがあっただろうか。とくりと打たれた胸は置いておいて、よほど機嫌が良いのだなとイブキは思う。

 この町のあたたかい雰囲気がそうさせるのか、車を降りてからハヤテはまるで子どもに戻ったような顔をしている。学園ではその期待を両の肩に受け続ける日々。少し前に体調を崩したばかりのハヤテにとっても、この機会にゆっくり過ごすのはいいことであるとイブキは思う。


 あんなことがあっても自分の心が穏やかでいられる一番の理由は、ハヤテがこうして隣で微笑んでいてくれるから。互いに守って守られて。そんな関係を築けた今、二人に怖いものも迷いも、恐れるものはひとつもありはしなかった。


 駆け回った、あのころのように──。


「──で、どこまで行くの?」

「もうすぐよ、あ、ほら見えてきた!」

 次第に早足になるハヤテに釣られ、イブキもすっかり暗くなった夜の下に草を鳴らす。進むほうに見えてきたのは、ほのかな星明かりを反射し風に揺れる静かな水面だった。

「……湖…?」

「そう、バーゲル湖!」

 すっかり夜空と同化して姿を隠していたそれは認識してしまえば浮き上がってくるように、その姿をイブキの瞳へと映し出した。

「……でっか」

「ええ、アンネスの次に大きいって言われてるの。きれいでしょ?」

「うん」

 冷たい風になびくその湖は、底が見えそうなほどに透き通り静かに佇んで。静寂の中、粛々とそこに住む人々を見守り、そして包み込むような神聖さが漂っていた。美しさのあまりイブキですら、目の前に立ったいま目を離すことは難しい。

「いつかイブを連れて来たかったの。だから、よかった。」

 そのほとりの草原に腰をかけ、ハヤテはまっすぐ前を見たまま呟く。

 イブキも彼女の横へとゆっくり腰を下ろした。

「ねえ、見える?」

「うん」

 ハヤテの目線に連れられ、イブキは彼女とともに星空を見上げる。冬の宵、瞬きを忘れた二人の代わりに、雲一つない空には散り散りと、それでもしっかりと。星たちがさざめくように瞬いていた。

 南の空に確かに光るシリウス、プロキオン、ベテルギウス。それを繋いだ冬の大三角の真ん中に、前足をぐっと踏み出すような()()()()()()()。斜め下で飛び跳ねるようなうさぎ、横には堂々と姿を見せるオリオン座。明るい都会では見ることのできない光景に、二人はすっかり目を奪われていた。

「あ、あれ」

「うん?」

「ちっちゃいころ、よく見てたかも」

「どれ?」

「あれ、みっつの右下のやつ」

「…リゲルね。オリオン座の1等星。反対の上に見えるのはベテルギウスよ」

 イブキの指す方を追いハヤテも空に手をかざすと、星座を結ぶようにその指先を泳がせる。

「…ハヤテって知らないことあんの?」

「はぁ…あるわよ。小さいころ、寝れない夜はよくここに来てたから知ってるだけ」

 ハヤテのため息は薄く色づいて宵に消えていく。

「…イブのいた町も夜空はきれいだったでしょうね」

「うん。こんなだった気がする」

 肩を並べ、二人は幼ごころを抱きながら星々と視線を交わす。あのころ、二人で夜空を見ることは叶わなかったが、今なら誰に咎められることもない。二人はすっかり時間など忘れ、暗い夜を彩るその数々に夢中になっていた。

「星座ってね、決まった結び方はないの」

「へー」

「自分が思い描いたものを好きに結ぶ楽しみ方もあるのよ」

「…あのオリオン座とか?」

「そうね。イブだったらあれになんて名前をつける?」

「横に寝かせてリボンかな」

 まるで無限のマークを描くように、イブキの指先がくねくねと動く。

「空にあったらさすがにハヤテも忘れないっしょ?」

「……あなただって忘れてたじゃない…!」

 ニマニマと先日のできごとを掘り返すイブキに、ハヤテは彼女の肩をポカッと叩いた。

「まあそれは冗談で…なんだろ。…ツバサ…とか?」

「翼?」

「うん、横にしたらふたつ羽ばたいてるみたいだから」

 傾かない空の代わりに、イブキはぐいっと首を曲げる。

「見えない?」

「見えない」

「えっ…?」

「ふふっ、うそよ。見えるわ。大きな翼ね」

 いたずらっ子のように笑うハヤテに心ごと、イブキはすっかり弄ばれてしまう。

 むくっと膨れた彼女だったが、その頬はすぐ元に戻ることになる。それは横で星を眺めていたハヤテが急に立ち上がり、ふいに水面に手を伸ばしたから。

「ハヤテ?」

「んんっ……」

 暗い岸辺。境目も分からないような浅い水面にハヤテはスッと両手を伸ばし、その冷たさから思わず小さな声が漏れる。振動で途切れた水面を見て、ようやくそれが星空とは別物なのだとイブキの頭は理解した。

 彼女が弧を描くように手のひらを軽く押し込むと、みるみるうちに水はその手の中に収まっていく。まるで浮かぶ星を掬い上げるように、ハヤテはその手をひょいっと持ち上げた。空気に触れ、やっと自分が手の中に閉じ込められていると気づいた今、水面の一部はどんな顔をしているだろうとイブキは思う。

「ねえイブ、」

「冷たくないの…?」

「冷たい……でもこれ、どうかしら?」

 そう言ってハヤテは振り返り、風に吹かれてしまわないよう、口元をそっと寄せて小さく息を吹いた。

「……ソカツ?」


 彼女の手の中のそれは、紺青よりももっと深く、漆黒よりも青めいて──。

 イブキが初めて目にする、夜の湖であった。


「ハヤテ、もしかして上級受かったの…?」

「ふふん! まあねっ?」

 上級レベル──それは、気体・液体への色彩蘇生を可能とするソカツの最上位。それを使いいとも簡単に湖の一部を色づけた彼女に、イブキは目を見開いた。

 体調を崩したあともハヤテは変わらなかった。忙しい日々を絶え間なく過ごし、自分のことなど相変わらずあと回しで──。だからイブキは思い込んでいた。きっと検定試験は見送ったのだと。

 三年間在籍していても、中級止まりの者は少なくないと聞く。現に、こうして液体を染められる人は街中で一日中探そうとも簡単には見つからないだろう。それなのに、ハヤテはたった二年で──。無知なイブキですら、目の前で起きていることは普通ではなく、ハヤテが特別だということをあらためて痛感するのだった。

「夜のってそんなイロなんだ」

「ええ、昼間とはまた違った顔ね」

「うん。でもきれい──冷たっっ」

 イブキは思わず頬を緩ませながら、人差し指で彼女の手の中の小さな湖に触れていた。

「ふふっ、よかった」

「…なにが?」

「夢だったの」

「夢? 上級が?」

 じっとそれを見つめる彼女にイブキは問いかける。

「ううん。受かったら、染めてみたかった」

「これを?」

「……あなたを──」

 ハヤテはまっすぐにイブキの瞳を捉えた。冬の夜でも、分かってしまうくらいに。

「あたし…?」

「こうやって水面をアオく染めて、あなたを喜ばせたかったの」

 彼女はそう言って、たおやかに微笑んだ。

「あのとき…目の前でアンネスがアオく灯ったとき。イブ、信じられないくらい綻んでたでしょ?」

「……」

「それを見て、胸の奥がぎゅってなったの。この笑顔をずっと大事にしたいって…あの瞬間が今でもわたしの、一番のたからもの」

 目を閉じて、ハヤテは思い出をめぐるように言葉を続ける。

「いつかあのときにみたいにまた、心からあなたを笑わせたいってずっと思ってた」

「あのとき……」

「それがわたしの夢。今はまだ途中だけど、いつか見せてあげる。空よりも青よりも、アンネスよりもきれいなアオ」

 

 そう頬を緩ませた彼女の笑み。それは、あの夏の日と同じ。

 まるで花が咲くように無邪気な──思わずイブキが綻んでしまった、あのときと。


「湖じゃなくて──…」

「うん?」

 

 ハヤテの笑顔を見て、あたしはそうなってたんだよ。


 イブキはそうを伝えようとして、でも言葉にするのをやめた。

 それを伝えるには、まだ早いと思ったから。


「イブ?」

「………」


 そんなことよりも自分は、ハヤテに伝えなきゃいけないことがある。

 いつだってこうやって、自分のことばかりを考えてくれるハヤテに。


 言わなきゃいけない、想いが──。


「ハヤテ、」

「イブ…?」

「あたし……」


 静かにそっと。夜空に腰をかけた三日月がこちらを見つめ、ハヤテの揺り動く瞳を照らしだす。


 それを見て、イブキは思ってしまった。

 この瞳の色が、知りたいと──。


 それは恋を、愛を知ってしまったから。


「ねえ、イブどうし……」

「ハヤテ、こっち見て」


 彼女が何かの色を知りたいと、こんなにも心から求めたのは生まれて初めてのことだった。

 そしてそう思うのはきっと、これが最後だろう。


「イブ……?」


 イブキは吸い込まれるように。

 その瞳に近づいて、ふっと。


 目を瞑り、淡い吐息を手放した。


 まるで、魔法でもかけるかのように──。


「ッ──?!」


 自分の身になにが起きたのか、ハヤテはしきりに瞬きを繰り返す。

 そんな彼女の瞳が、月の光を受けてうるうると。まるで星のように、イブキの前できらめいていた。


「………ばかみたいにきれい…」


 宵に浮かぶは、透き通る。

 空よりも、海よりも。


 あの湖よりも美しい、彼女だけの白藍(しらあい)色──。


「イブ……? いったい何を……」

「ハヤテの目、そんなイロだったんだ」

「……あなた……まさか色愛を…?」

「あれより全然、あたしの好みだ」


 イブキは笑っていた。

 それはたしかに心からのもので、目の前にいるハヤテのおかげだった。


 頭の上に浮かぶ星空よりも、その手に広がる小さな湖よりも。

 ずっとずっと、澄んだアオ──。


「イブ……」

 青みがかった艶のある黒い髪も、白く弾けるような肌の色も。

「あなた……わたしを……?」

 ほんのりと、春色に色めいた頬もぜんぶ。

「…そうみたい」


 初めて見るハヤテのすべてが、彼女の心を出会ったあの日に還らせていた。


「みたいって……」

「でもこれって、相手もそうじゃないとできないんじゃなかった?」

「……そ、それはっ…!」

 へへっとイブキは笑ってみせる。

 春色を通り越して夕暮れのように、赤く熱ったその頬を目の前にして。

「……ばか…」

「あ、ハヤテ口わるい」

「ほんとにばかね…なんでこんなこと……一生色のない世界が待ってるのよ…?」

 イブキは美しいと思う。

 その青い瞳に浮かぶ、無数のしずくを。

「いーよ、別に」

「いいって…あなたね──!」

「だって、ハヤテの色だけが知りたかったんだもん」

 そう言ったイブキの顔は、あのころよりもずっと綻んでいた。

「月ってきれいかも? ハヤテの目照らしてると、いつもよりなんか眩しく見える…」


 その言葉に、ハヤテの心は大きく揺れた。

 あなたと夕陽を見つめたときの、わたしと同じ──と。


 その心が伝染したかのように、水面を揺らしたのは時つ風──。


 その風が、ハヤテの背をトンッと押した。


「イブ…わたしもあなたの色──…」

 バチャンと水を手放した彼女は、濡れた手でイブキの頬に触れ、ぐっと。

 まるで引き寄せるように距離を縮めた。

「ばっ! ハヤテはだめだって──!!」

 

 騒ぐイブキを包み込むように、いままでのどんなそれよりも優しく。

 ハヤテは彼女をそっと、アンコロールから掬い上げた。


「ッ──!」

「どう? くすぐったいでしょ?」

「……でしょじゃなくて…!」


 ぼやける目を擦りながら、イブキはハヤテに視線を向ける。


 ひそやかな星月夜。

 染まるは星より光華なる。


 黄昏よりも、あの日の果実よりも。

 

 どんな紅よりも奥ゆかしい、彼女だけの深緋(こきひ)色──。


「ふふっ、イブらしいイロ」

「……ハヤテ、どうすんの……」

 

 少しでも気を抜けば、ハヤテは飲み込まれてしまいそうだった。


 目の前に広がる湖よりも、夜空の奥に広がる銀河よりも。

 もっと深い、そのアカに──。


「いーの。もう夢、叶っちゃったから」

「叶った?」

「ふふっ、内緒」


 色づいた自分の瞳を目にしたイブキの顔が、あのときのように。いいや、あのときよりも何倍も。綻んでいたからハヤテはもう、他になにもいらなかったのだ。


「最後に染めた色があなたの色でよかった。あったかくて、ずっと見ていたくなる……あなたのヒイロ」

「……ヒイロ?」

「アカよ──それも、とってもきれいな」

「……あっ、そう…」

 いつだか聞いた覚えのあるその言葉に、イブキはたまらず身を捩らせた。

「わっ、頬ってほんとにアカくなるのね!」

「っ!! ハ、ハヤテだって──!!」

「わたしも耳まで染まってる?」

「……ない、けど…!」

 あのころもこんなふうに、向こう側が透けて見えそうなほどに白く輝く雪のような肌で、一生懸命に自分の後ろを駆けていたのかと思うと、ハヤテは漏れる声を抑えることができなかった。

「…なに…?」

「ううん。イブって雪みたいだなって」

「雪?」

「ええ。髪──」

 ハヤテはすっかり冷たくなったその髪に手を伸ばす。

「きれいなスノーホワイト」

「……まって、あたし白髪なの…?」

「ふふっ、イブったら本当にお人形さんみたいっ」

 さらさらと、絹のように柔らかいその一本一本にハヤテは指を絡ませる。

「…なんかハヤテ積極的じゃん…」

「そう? あなたがあんまりに赤くなるからつい──…痛っ」

「もういいって」

 声を弾ませながらからかうように髪をいじくる彼女の額を、イブキはツンッと押しやった。

 

 それから二人はすっかり時間も、目の前に広がる景色すらも忘れてしまったように。

 初めて見る互いの色に、ひたむきに心を焦がした。


 ときに触れて、ときに感じて。

 自分だけが見えるその色を、何度も何度も──。


 そんなふうに二人がぬくもりで星座を結ったころ。グゥーッっとイブキのお腹が声をあげたことで夕食の存在を思い出し、イブキとハヤテは慌てて帰路につくのであった。


「行きましょうイブ。おばあ様が待ってるわ」

「──くっしゅ!」

「…身体、冷えちゃったわね…」

「あ、これ──」

 イブキは思い出したように、後ろポケットに突っ込んだままの手袋を取り出す。

「はい」

「…いいの?」

「ん。あたしチクチクだめだし」

「じゃあ──」

 差し出された手袋を受け取ると、ハヤテは代わりにまたマフラーを解き、イブキの首に丁寧に巻き付ける。寮を出たときよりも纏っていた時間が長いからだろうか。そこから香るハヤテの匂いに、イブキはそっと目を閉じた。懐かしくて落ち着く、身体中に降り注ぐ太陽のような、空のようにあたたかいその匂いに──。

「でもイブ、あなた好きがあったのね? てっきりそういうの興味ないものだとばかり……」

 イブキがその香りに胸を膨らませていると、ハヤテはもじもじを口を開いた。

「あー、わかんない……でもたぶん、ハヤテのおかげかも」

「わたし?」

「蝶が黄色いのとか、湖が青いとか──あのころハヤテがいろんなこと教えてくれたから、普通のラータとはちょっと違うのかも」

 心地よい彼女のマフラーに顔を埋めながら、イブキは目線を斜め上に向け答える。

「そっか、わたしが……」

「うん、たぶん」

「……それにしてもびっくりだわ」

「ん?」

 家の前に着いた二人はいそいそと上着を脱ぎ、玄関のドアに手をかけた。

「あなたいつの間にソカツ取ってたの?」

「え…?」

「……えっ?」


 開かれたドアは、誰が出入りするわけでもなく自らの重さを受けて静かに閉まっていく。

 ドアの代わりに開ききっていたのは、顔を見合わせた二人の色づいた瞳とその口元だけ。


 すべてが同じ表情に見えてしまうモノクロの世界。

 アンコロールが二人を襲うまで、タイムリミットはあとわずか──。


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