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はじめての微熱

 



 乾いた風が葉を散らし、その姿を木枯らしに変えようとしていたころ。

 すっかり衣替えの澄んだ校内では、皆が同じ冬服に身を包んでいた。


「へ、へへっ、へへへっ」


 そんなからっとした季節に、今にもよだれを垂らしそうな湿度の高い笑みを溢す生徒がひとり。図書室の机に肘をつき、カラカラといつもの飴を鳴らしながら夢見心地な様子でぽかんとしている。


「へへ、へへへへっ」

「……うるさいんだけど」

「だってよぉ、笑いとまんねーだろ?」


 その不快な笑みを振りまく人物──シグレは上機嫌であった。


「見ろよ これ、バレンタインでもねーのに最高かよ?!」

「……シグレさん、あなたそのうち刺されるわ…」

「あ? だれに?」


 ちょっとは横に目を向けてよ…。

 そう呟いたハヤテの声は、山盛りの差し入れを前に浮かれ気分のシグレへ届くことはない。


 シグレが薄気味わるい笑みを溢す理由──それは、近頃やたらと後輩たちに言い寄られるからである。研修でトップの成績を収めたことでシグレの名が広まり、そこから()()イブキ先輩に勉強を教えていると、ありもしない噂がその人気に火をつけ始めたのだ。──ノートを貸していただけであったが、シグレの行動は思ってもみない形で功を奏したのである。

 今や下級生の中ではイブキ派とシグレ派で対立が起きるほど、シグレはその人気を博していた。もともとビジュアルの良い彼女がイブキの影に埋もれていたことのほうが不思議だが、それはしっかりと、彼女をガードする賢い飼い猫がいたから──手綱を握るのではなく、自ら首輪をはめて。

 フラフラとした飼い主が少しはまともになりそうな兆しを見せ、少々気を緩めてしまったところでこの事態。シグレの隣に座る彼女がつまらない顔をするのは当たり前のことであった。


 それに──。


「まじでありがとなメブキ! 飴ちゃんやんぞ~」

「いえいえぇ~。シグレ先輩が人気ないほうがおかしかったんですよぉ。わたしはちょーっと、お手伝いしただけですぅ」


 形を保っていない噂を流したその本人が、目の前に座っているのだからなおさら。


「えぇっ? へへっ、そうかっ?」

「そーですぅー。先輩って美人さんだしおしゃれですしぃ、人気出て当たり前っていうかぁ~」

 わたしはハヤテ先輩一筋ですけどぉ~と、メブキは甘い声をくねらせる。

「──で、なんでこの子がいるの?」

「ごめんなさい…どうしてもって聞かなくて…」


 来週行われる定期考査に向けた試験勉強。まったくもってやる気のないシグレとイブキのため、勉強会を開こうとハヤテに誘われ、四人はこうして放課後の図書室に集まった。

 だが蓋を開けてみればそこにいたのは天敵とも呼べる相手。コナミは虫の居所が悪いどころの話ではない。ハヤテだけならまだしも、彼女はシグレにさえ普段からちょっかいをかけているのだから。


「メブ、邪魔しないって約束でしょ?」

「えぇー、邪魔なんてしてないですよぉ~。あ、そうだ! シグレ先輩にも"メブ"って呼んでほしいですぅ~」

 ハヤテの腕をがしっと捉えつつ、まるで甘える子犬のようにシグレへ尻尾を振って見せるメブキ。自分とは対照的なその姿に、コナミの手元でシャーペンの芯がポキッと折れる。

「あいかわらずかわいいやつだなぁー! わかったわかった!」

 頭を撫でるシグレに向けられた鋭い視線。久しぶりに見るコナミの姿にハヤテは思った。メブキを連れてくるんじゃなかったと──。

「ねぇ、ハヤテせんぱぁい? この問題ってぇ──」

「ああ、それは…」

 この子、絶対に答え分かってる──コナミの直感がそう伝えていた。

 彼女はきっとバカではない。それは所作を見ていれば分かること。ハヤテに近づくため、わざと分からないふりをして上級生の集まりに乗り込んでくるなんて、度胸がありすぎて羨ましいくらいだとコナミは思う。

「……集中しよ…」

「コナミ? どした?」

 ぶんぶんと頭を振ったコナミを、横からシグレは不思議そうに見つめる。

「なんでもない。シグレに関係ない」

「コナミは冷てーなぁ…ちょっと前までべったりだったのに…」

「…シグレ、そこ間違ってる」

 都合が悪くなった彼女は咄嗟にシグレのノートを指差す。内容などまるで見えてはいなかったが、どうせ答えは合っていないのだからたいした問題はないのである。

「わぁ! なるほどぉ! さっすがハヤテせんぱぁ~い」

「メブ、基礎中の基礎よ?ちゃんと授業聞いてないと進級したらついていけなくなるわ」

「大丈夫ですぅ。ハヤテ先輩がいますしぃ」

 そういうことじゃないのと、ハヤテは呆れた顔でため息をついたが、メブキはそれすらも嬉しそうに無邪気に微笑んだ。

「でも実際ハヤテ先輩ってぇ、面倒見いいですよねぇ。──そう思いません? イブキ先輩もっ」

「……あ、あぁ、うん。どうだろ」

「やっぱりイブキ先輩もきれいな顔してますねぇ。今の真剣な顔、わたしのクラスメイトが見たら悲鳴あげちゃうかも」

「…そんなことないっしょ」

 ハヤテを挟んで声をかけてくるメブキの話に、イブキはノートだけに目を落としながら耳を傾けた。

「あのぉ、もしかしてなんですけどぉ」

「……なに?」

「イブキ先輩って、愛情不足ですかぁ?」

「…は?」

「だーってぇ、全然人の目見て話さないじゃないですかぁ。対人関係苦手そうだし自己肯定感も低いし。そうなのかなぁ~って」

「ちょ、ちょっとメブ…」

「お、なんだぁ? イブキ、うちがこんなに愛してやってんのに足りねーの?」

「あんたのはお断り」

 抱きつこうとしたシグレをイブキはヒョイッと躱し、シグレの身体はバシンッ──!と机に叩きつけられてしまう。

「いってぇ──!!」

「シグレ、静かに」

「だ、だってよぉ…」

「──あたし、ちょっと本探してくる」

 そう言って席を立ったイブキの背中を、ハヤテは落ち着きのない様子で見つめていた。


「…シグレ、部屋もどって」

「あ? なんで?」

「腕、擦りむいてる。……ねえ、シグレのこと部屋まで連れて行ってくれる?」

「えぇ~? わたしがですかぁ?」

「ハヤテちゃんとわたしはまだ見直したいところがあるから。お願い──」

 コナミはいつになく真剣な顔でメブキとまっすぐに目を合わせる。

「…今度アイスでも奢ってくださいね? シグレ先輩、行きますよっ」

「え? ああ、おう?」

 自分のことを他人に任せるなんて珍しいと、シグレはコナミを見つめ目を丸くしたままメブキに引きずられるのだった。


 すっかり静かになった図書室には、シグレと同じ表情を見せる生徒がもう一人。


「ねえ、一体どういう風の吹き回し? シグレさんを任せるなんて。それに見直したいところって?」

「ごめんハヤテちゃん、全部うそ」

 コナミはガサガサと教材を仕舞い込むと、ハヤテのことなどおかまいなしに椅子を引いて鞄を肩にかけはじめる。

「──え?」

「わたしもう行くね。シグレ心配だから…じゃあまた夕飯のときに」


「……どういうこと…?」


 すでに見えなくなってしまったコナミの背中を追いかけながら、ハヤテはこめかみのあたりに指を置き、眉間に深いシワを寄せるのであった──。




 *****




「あ、あのコナミ…? できればもうちょっと優し…──いってぇ!!!」

「シグレ、じっとして」

「…や、やっぱ怒ってる…?」

「……しらない」


 図書室から駆け出し、二人にバレないように後をつけていたコナミは今、シグレの部屋で彼女に手当を施していた。

 たっぷりと消毒液を染み込ませた脱脂綿はピンセットなどではなく素手で。腕のかすり傷に向かい一直線に叩きつけられる。トントンと、それが触れるたびにあがる悲鳴を受けて、窓の外で夕暮れを楽しんでいた小鳥たちもすっかりどこかへ飛んで行ってしまった。


 手当というよりもお仕置に近いその行為が行われる理由は、何を隠そうメブキと二人きりになってからのシグレの振る舞いにある。


「いちいち引っつくし触るし」

「だってよぉ……」

「歩けるくせに。怪我したの腕でしょ」

「…まあなんつーか、その場のノリ? っつーか…」


 最初は困惑している様子だったシグレも、監視役がいないとなればやりたい放題。コナミはまだ図書室で勉強してるはず──そう信じ込んだ彼女はことあるごとに懐く後輩の身体にべたべたと触り、頭を寄せ頬を寄せ、歩けないからと身を預けて肩を組む始末。本来、相手が拒否すればそんなことにはならないのだが、子犬のようなメブキはさも望んでいるかのようにそれを受け入れ、先輩強引ですぅ~!などと仲睦まじく寮までの道を並んで歩いていた。──後ろでコナミが頬をこれでもかと膨らませているとも知らずに。


「ノリなんだ」

 絆創膏のフィルムを剥がしながら、コナミは落ち着いた声で呟く。

「そそ! ノリ! 気まずかったらアレかなーってそんな感じ!」

「……キスしたのもノリ?」

 傷口を包むように、優しい手つきでそれを貼りながらコナミは言葉を続ける。

「それも見てッ──?! ち、ちげぇって!!」

 シグレは思わず腰かけていたベッドから立ち上がる。

「あれはあいつが勝手に!! それにほっぺだからノーカンだろ?!」


 部屋の前で寄ってくか?と声をかけたシグレに、色々怖いので今日は遠慮しておきます──と。メブキは軽やかに笑っていた。ん?と思いつつも、ありがとなとシグレは部屋のドアへ手をかけた。

 そのとき、腕が急に後ろへ引っ張られ、やけに柔らかい感触が頬にぶつかったのだ。アイスの代わり、もらっておきますぅ──と、いたずらな笑みとともに。


「…シグレ、にやけてた」

「それは──…あれだあれ、ふかこうりょく!」

 こうなることは容易に予想できた。シグレを任せた自分が悪いのだ。

 そう分かってはいるのに、胸の奥に立ち込めるモヤモヤとしたものをどうすることもできず、コナミは絆創膏を貼り終えるとシグレの腕をペチッと叩いた。

「はい、おしまい」

「……おう…さんきゅ…」

 おそるおそる、その瞳が何を秘めているのか、シグレはひっそりと様子を伺う。

「なに?」

「いや…なんでも…」

 こちらも向かずに恐ろしいほどの真顔。睨んだり少し泣いたり──そういうときのコナミよりも、今のような表情を見せるときのほうが後始末には時間を要するとシグレは知っている。だから無理に聞き出したり謝ったりはせず、しばらくこのままにしておこうと唾をゆっくり飲み込んだ。時間が解決してくれることを切に祈って。

「……にしてもよ!」

「うん」

「あれってどうなんだ?」

「あれって、あれ?」

 至って普通な顔をしてこちらを向いたコナミを見てシグレは思う。対処法ばっちり!さすがうち!──と。

「あれは…よくない、と思う…」

「だよなぁー。イブキのあの顔、思い当たる節ある感じだったし…お嬢様もなんか変だったしな」

「……そういうのは敏感なんだから」

「んあ?」

「なんでもない」


 あのとき。メブキがイブキに棘のある言葉をかけたとき。一瞬、二人の空気が凍った。ハヤテとイブキの間でなにか、開けてはいけない蓋を開けてしまったような──。何か言わなくちゃと思った矢先、ふざけだしたシグレの行動によって空気はもとに戻った。あれは意図があっての行動だったのかと、コナミは今さらになって気づく。

 もっとも、シグレをメブキに任せたのも形は違えど同じようなもので、コナミがあの場から彼女を追い出すにはそれしか方法を思いつけなかったのだ。

 立ち去ってしまったイブキを静かに見守るハヤテのあのまなざし。あんなものを目にしては、シグレ以外になんの興味も持たないコナミもさすがに放っておくことなどできなかった。──だからといって後輩といちゃついてこいと、そう言ったわけではない。役に立ったとはいえ、シグレの行動を大目に見てやることはできそうになかった。


「にしてもまー、よくあそこまで懐くよなー」

「うん。あの子、いつもハヤテちゃんにくっついてる」

「タイミング悪りぃっつーかなんつーか…やっとあいつらどうにかなりそうだってのに」

「……」

「イブキ、ずっとむすっとしてたもんな? さすがにお嬢様も気づいてんだろ。あれがやきもちだって」

「……気づいてないんじゃない。だれかさんみたいに」

「だれか?」

 鏡でも見ればと、コナミは冷たく言い放って救急箱をパタンッと閉じた。

「──おお」

「なに?」

「今日もビジュがいい!」

 そう言って親指を立てて見せるシグレに、コナミは深いため息を落とした。


 あの公園で、コナミは何かが変わりそうな気がした。

 ずっと一緒の家族のような幼なじみから一歩踏み出せるのではないか。シグレが自分をそういう対象として見ていることに、もうすぐ気づいてくれるのではないかと。

 だが彼女が思ったよりもその傾向は見えず、むしろシグレに人気が出てしまったことでコナミの気苦労は増えるばかり。挙句、目を離した隙──正確にはひとときも離してはいないが──に頬を奪われる始末。待つと決めたものの、この調子ではおばあちゃんにでもなってしまいそうだとコナミは自身の状況を苦笑った。


「シグレ、ご飯のあとそのままお風呂行くから準備しといてね」

「んー」

 漫画を読みながら転がったままのだらしない背に声をかけ、コナミは一息つこうとドア横の小さな冷蔵庫から水を取り出した。

「あ、うちも」

「飲む?」

「おうっ、次ちょーだい」

 それでいいからと、自分の飲んでいたペットボトルにそのまま口をつけるシグレの姿に、少しも意識してはくれないのかとコナミはまた静かに肩を落とす。

「なに読んでるの?」

「アダムとイブのエロ漫画」

「…なにそれ…」

「ねーちゃんが貸してくれたえっちぃやつ。読む?」

「……いい」

「なんかアダムがお嬢様に見えてくんだよな、イブ!イブ!つって」

 ぎゃははと笑うシグレに、よく友人でそんな想像ができるなとコナミは顔を渋らせた。

「…シグレ」

「んー?」

「あの子のこと、ハヤテちゃんみたいに呼ぶ…?」

 コナミは図書室を出てからずっと、胸につかえるものがあった。

 それは頬へのキスなんかよりももっと、彼女の表情を曇らせる。

「あぁあれ? どうだろうなー。呼ばねーかも?」

「そう、なの…?」

 思わぬ答えにコナミは首を傾げる。

「うーんなんか、そういうのはコナミだけでいいっつーか。恥ずいし」

「……」

「愛称で呼んだりとかってキャラじゃねーしなぁ」

 ペラペラといかがわしい本を流しながらシグレは言う。

「……わたしはいいの?」

「コナミに恥ずいとかねーだろ。じゃなきゃパーカーで出かけねえって」

「え?」

「ん?」

「あれって面倒とかそういう…」

「面倒? コナミゆったんだろ? パーカー着てるシグレが好きって」

「……じゃあ他の人だったら着ないの?」

「恥ずいからもっとしゃれた格好すんじゃね? ふつー」


 胸につっかえていたものが一気にすべて弾け飛んでいく。

 それは形を変えて心の水面に降り落ちると、その身体から溢れてしまいそうなほどにコナミを満たしていく。


「ねえ、シグレ」

「んー? …ッ──!!」


 頬を押さえ、シグレは瞳を泳がせた。


「これもノーカン?」

「…んなわけねーだろ……はじめてじゃん、コナからって…」


 コナミはきっとこの先、忘れることなどできないだろう。


 丸い飴がぽこっとした、少し硬いシグレの頬。

 はじめて自分から触れたその感触も、ともにする夜よりもずっと、熱くなったシグレの体温も。



 ──もう少し、気長に待ってあげようかな。


 大人しくなってしまった情けない飼い主を前に、その猫はそっと笑みを溢した──。




 *****



 

 イブの様子がおかしい──。

 ハヤテはベッドの上で天井を見つめながら、眠れない頭を動かしていた。


 ハヤテがそのことに気づいたのは、少し前にチュアンに怒られたあの夜のこと。

 メブキとの約束に顔を出すため、用があると伝えたときからなんだか浮かない表情をして──。それが気にかかりメブキを軽くあしらって、急ぎ足で食堂に向かえば二人と何を話していたのやら。やけに落ち着きがなく、おどおどとして。


「骨なんていつも取ってあげてるじゃない…二人の前でされるのが嫌だったのかしら?」


 いつものように箸を借りれば急にお風呂に行くなどと──。普段、ハヤテが小言を言わなければその足がひとりでに向かうことなどないというのに。

 お悩み相談──そう言ったシグレに事情を聞いても、思春期にはよくあることだとはぐらかされてしまった。三人で何を話していたのかハヤテにはいまだ分からないまま。


「脱衣所でもぽかんとしてるし、湯舟にもぐったりするし…」


 チュアンに活を入れられてからはいつものイブキに戻ったような気もしたが、なぜかソカツ試験のことを熱心に聞いていたり、部屋に戻る前には頭痛がすると口走ったり──。


「…結局次の日遅刻してたじゃない…」


 どこからどう見てもイブキがいつもの調子ではないことは確かだが、どうおかしいかと言われれば難しい話で、彼女はクールだが、そうやって慌てふためく様子は昔の面影もあるような。ハヤテは一概にそれを"よくないこと"と決めつけることができず、しばらく彼女を見守ることにしていた。


 だが一向にその調子は元には戻らず、何か思い詰めたように一点を見つめたり、時おり悲しげに顔を曇らせたり。


 それは空を見上げているあの表情とは、どこか違うものだった。

 自信なさげにいつも後を追いかけてきた、あのころとも──。


 思えば研修に出たあの日の、その帰り道からどこかイブキはらしくなかったような気もする。疲れているはずなのに欠伸ひとつせず、やけに饒舌に話したりして。行きはすやすやしていたというのに。

 彼女に過去を思い出させてしまったことが原因なのかもしれないとハヤテが悩んでいたとき、そんな心持ちを知らないメブキはその確信に触れるようなことを言ってしまった。彼女に他意はなかったにしろ、あんなことを言われて気分の良い者はいない。まして、イブキの立場では──。

 無邪気にものを言う彼女をハヤテは咄嗟に止めようとしたが、シグレの方が一歩早く、イブキはなんの気ない顔を保っていた。


 そんな顔、きっとできるはずもないのに──。


 そうでなくとも様子のおかしい彼女の心が、メブキの発言でどんな痛みを伴ったのか。

 それを考えるとハヤテは、席を立ってしまったその背中をすぐにでも追いかけてしまいたかった。


 だが、そんなことをすればイブキの苦労が水の泡になる。

 彼女はその痛みを誰にも悟られたくないからこそ、いつもの表情を保ち続けたのだろう。下手に自分が声をかければメブキは後を着いて彼女を問いただすだろうし、シグレやコナミもイブキのことを心配するに違いない。

 だからこそ動けずにいたハヤテを解放したのは、意外にも一番興味のなさそうなコナミであった。

 このごろハヤテに懐くようになったのはメブキだけではない。同い年の彼女も同様、なぜかその心を少しばかり傾けてくれるようになっていた。コナミがなにを思ってそうしたのかは分からないが、メブキを連れ出してくれたおかげでやっとイブキを追いかけることができたのだから、彼女には一度礼をしなければいけないとハヤテは思う。



「……イブ…大丈夫…?」

 図書室の一番奥の棚。難しい教材の並ぶそこでイブキはただ立っていた。何かを探すような素振りもなく、ただ。

「ハヤテ? どうしたの?」

「どうって…」

 あんなことを言われて何も感じないわけがない。それなのにまるで何ごともないですよと。そんな顔を演じてみせる彼女に、ハヤテは胸の奥がズキズキとした。

「ごめんなさい…わたしが連れて来たから…」

「…あぁ…別に…」

「悪い子じゃないのよ? ただちょっと無邪気というか、言葉を選ばないというか…」

「うん、わかってるよ」

 そんな顔を、させたいわけじゃなかった。

 メブキを庇うような発言をしてしまった自分に、ハヤテは呆れ果て自分を責めた。

「イブ……最近──…」

 

 あなたが慌てたり、悲しい顔をしたり。

 ときどき胸元を押さえたりするのは、どうして──?


 辛いことがあったときには、わたしには全部打ち明けてほしいのに。

 どうしてわたしの前でも、平気そうな顔をしてみせるの──?


「最近?」

「……べ、勉強…ちゃんとやってて偉いわ」

 次々と心に降り積もるそんなことが、ハヤテは何ひとつも言葉にならない。

 せっかく追いかけて来たのに関わらず、まだ彼女の痛みに触れる勇気がハヤテにはなかったのだ。

「え」

「──…」

「だよね?」

「えっ?」

「あたしめっちゃ勉強がんばってんじゃん。ハヤテやっと気づいた?」

「え、あぁ…そうね?」

「褒めてこないから何で頭いっぱいにしてんのかと思った」

「な、なにって…」


 あなたのことに決まってるじゃない──!

 そう言ってしまいたい心を、ハヤテは必死に抑え込む。


「いやぁ、ずっと二人のこと考えてんのかなぁって」

「二人?」

「シグレとリボンツインのベッドシーン」

「ベッド……ちょ、ちょっと! そんなわけないでしょう?!」

 図書室ではお静かに?と、声を荒げるハヤテにイブキは二ヒヒと笑う。

「……もう、心配して損したわ…」

「心配? ハヤテがむっつりすぎることに?」

「…イブッ!!」

「あはは、元気よっっ」

 

 暮れかけの夕陽が照らすその横顔は、たしかに笑っていた。

 もの寂しい秋のそれとは対照的に、あたたかく。

 

 それを見て、ずっと落ち着かなかった心がほっと息を吐いたような気がして、ハヤテは知らぬまに頬を緩ませていた。

 

「お、笑った」

「え?」

「ハヤテ最近なんか難しい顔してなかった? やっと笑ったなーって」

「……そんなことないわ…」

「子守りと勉強で疲れちゃった?」

「…そーねっ。誰かさんはいまだに一人じゃ起きられないし?」

「おうおう、言ってくれますねぇ…」

 ふふっと、穏やかな笑い声がこぼれ、すっかり二人はいつもの調子を取り戻していた。

「もう戻りましょ。いつまでも残ってるとまたチュアン先生に叱られるわ」

「ほーい。あ、でも待って、これだけ──…」

 イブキが胸元のポケットから取り出したのは、雑に切り取られたノートの切れ端。そこにはなにやら掠れた黒いインクで本のタイトルのようなものが書かれている。

「あいつがテスト出すからこれ読んどけって」

「…チュアン先生って呼びなさいよ…それならたぶんあの辺だと思うわ」

 メモに書かれた歴史書の並ぶ棚をハヤテは指差す。

「色彩基礎知識入門─サルでもわかる歴史のアレコレ……タイトルだけで喧嘩売ってない?」

「まぁまぁ…あ、あったわ」

 一番上の棚の端。ふざけたタイトルのその本は、そこに堂々と佇んでいた。

「でも二つあるわね。どっちとか書いてない?」

 上下巻に分かれたその本。ハヤテはメモを確認するようイブキに問いかける。

「なんにも。あの先生てきとうだし」

「……うーん。範囲が大きく変わるから両方読むのも……あ。」

「ん?」

「それちょっと貸して」

 ハヤテはメモを手に取ると、ふっと軽く小さな息を吹きかけた。

 瞬間、くたびれたチュアンの文字にインクの色が染み出していく。

「──ミドリね」

「…だから?」

「メモ書きをわざわざミドリイロのペンで書く人なんている?」

「あいつならやりそう。変わってるし」

「…はぁ…きっと上巻と下巻とでイロが違うのよ。待ってて」

 ハヤテは一度深呼吸すると、深く息を吸って顎をあげ、上の棚目掛けてそれを吐き出した。

 みるみるうちに数十冊の本の背が色づいていく。

「下巻、ミドリ……」

「ね? 言ったでしょ?」

「…回りくどすぎ…」

 あいつ、あたしがソカツ持ってないの知ってるくせに──と、イブキはぼやきながら"下巻"に手を伸ばす。だが一番上の棚に身を置いたそれは、ピンッとイブキがつま先を伸ばしても、その指先すら触れさせる気配はなかった。

「取れる?」

「うん…もうちょっと……ッ──!」

「……イブ…?」

 十センチ以上も身長差のある二人。ハヤテが後ろからひょいっとお目当てのそれに手を伸ばせば、彼は簡単に身を委ねてくれる。

 だが、ハヤテの手が触れた瞬間イブキの身体がビクッと反応し、彼は残念にも床に叩きつけられてしまうのだった。

「あ、あぁ、ごめん…あの、あたし先戻る!」

「…待って──!」

 分厚い彼を拾い上げ、背を向けて走り出そうとするイブキの手をハヤテは咄嗟に掴んだ。

 

 また()()なってしまった彼女を、これ以上放っておくことはできなかったのだ。


「……イブ、待って」

「……はい…」


 誰もいない図書室で、いやに重苦しい空気が二人を包み込む。

 キーンコーンカーンコーン──…と、どちらとも言葉を発さないうちに最終下校の鐘が二人を急かす。 


「……出かけない?」

「…はい?」

 思わぬタイミングでの思わぬ誘いに、イブキはたまらず振り向いた。

「今度の週末、町に」

「…なんで? てか今? 申請下りなくない?」

 疑問符だらけのイブキと同様に、誘った本人すらなぜ今こんなことになっているのか見当もつかない様子であった。

「なんとかなるわ…ね? 行きましょうイブ!」

「……う、うん?」




 ──と。


 彼女がイブキを誘ってしまったのがつい三日前のことであり、眠れないのはその"お出かけ"を明日に控えているからであった。


 あのまま彼女をまた逃がしてはいけないと、考える前に勝手をした身体がその手を捕まえたのはいいが、その後どうしたらいいものか、そんなことも教えてはくれなかったのだ。

 どう声をかけようか。悩みがあるなら話してくれというべきか。そんなことを頭の中で堂々巡りしているうち、出かけない?──と。ハヤテは考えもなしにそう口にしていたのだ。


「……さすがに意味わかんないわよね…デートの誘いじゃあるまいし…」


 ハテナマークだらけのイブキの顔を見て引き下がろうとも思ったが、どうせ誘ってしまったのならなるようになれと。彼女の気分転換にでもなってほしい。そう開き直りイブキは急いで外出申請をミュールに叩きつけた。

 滅多なことでもない限り下りないものではあるが、意外にもそれはすんなりと承諾を得た。イブキがソカツに興味を持ったのをいいことに、参考書を買いに行くというその場しのぎの申請理由。到底無理だろうと思ってはいたが、ミュールはそれなら今すぐにでも!と一つ返事で許可を下ろしたのだ。


「どうしてかしら? 前にシグレさんが同じことを言って断られていた気がしたけど…」


 まあ考えても仕方がない。とにかく許可は出たのだ。この際だからイブキを連れまわし、少しでもその悩みの種が小さくなるよう、自分は彼女を楽しませなければならない。


「……ケホッ…でもこの調子で寝れるかしら…」


 もうじき太陽が頭を出しそうな気配を秘める薄明るい夜空の向こうに、星ではなく羊を数えながら、イブキはぐっと目を閉じた。


 乾いた秋の空気で、ゆっくりと身体を落ち着かせながら──。




 *****



 

「痛っ…大丈──…イブキ?」

「あ、ごめん」


 休日の静かな寮で、生徒たちは各々の時間を過ごしていた。

 勉強に励む者、読書に没頭する者。編み物をする者や庭園の手入れをする者。お茶会を開く者など、その過ごし方は様々である。

 かくいうシグレも、試験前にも関わらずお茶会と称した集まり──女子会にお呼ばれし、るんるんと下級生たちの部屋を訪れる途中であった。隣の部屋で試験に備える真面目な幼なじみへ"イブキのところ行ってくるわ"などと嘘をついて──。

 だが偶然にも実際こうして顔を合わせることになったのだから、案外嘘でもなかったなとシグレは思う。ただ彼女が驚いたのは、廊下でぶつかったその相手がめずらしく駆け足で急いでいるということ。クールでマイペースなイブキがそんな様子を見せる原因は、あらかた見当はついているのだが。 


 ──まあ、一応聞いとくか。

 心の中でそう呟き、シグレは口を開く。


「どした? そんな急いで」

「…シグレ、どうしよ…」

「ん?」



「──ハヤテちゃんが倒れた?」


 そう大きな声を出したのは、自室で机に向かっていたコナミである。

 イブキが急いている理由を聞いたシグレは、用もそっちのけ。彼女を連れて一目散に幼なじみの部屋を叩いたのである。


「出先で倒れてイブキが背負ってきたって!」

「……出先?」

「おう、今日なんか二人で町行ってたらしくて。な?」

「うん…」

 心許ない様子のイブキが指先をもじもじとしながら答える。

「……それで?」

「部屋に寝かせてるけど…介抱?とかわかんなくて…」

「コナミ、教えてやって? そういうの得意じゃん!」

 誰かさんがすぐ怪我するからね──と。コナミは窓に向かってぼやいた。

「…とりあえず保健室で体温計借りて。熱があるならできるだけ水分取らせて熱を身体から追い出して…ほうれん草とかネギとか…たまごとかも風邪には効くから食べさせてあげて」

「……むりかも…」

「え?」

 イブキの発言に、二人は揃って顔目を丸くする。

「あたし料理できないし、そもそもイロわかんないから野菜とか見分けつかない…」

「……」

 少し頭を悩ませたあと、コナミは椅子を引いた。

「わたし、食堂の調理場借りてくる。シグレは外出許可もらって買い出ししてきて」

「えっ、でもうち用事が…」

「もう終わったでしょ? だって目的の人に会えたもんね? その人今日デートの予定だったらしいけど?」

 しまった──!とシグレが目をひん剥いても後の祭り。コナミは鬼の形相で彼女を下から睨みつけていた。

「……行ってきます…」

「話があるから早く帰ってきて」

 二人のその異様な空気に、今は何も口を挟まない方が最善だとイブキは黙り込む。

「……イ…」

「…?」

「イ、ブ…イブキ…イブキちゃ…」

 何かを伝えようとしてくるコナミを、イブキは不思議そうに見つめる。もじもじして、どうしたんだろ──と。

「…ああ」

 なるほどね──。そんな顔でシグレはイブキの肩を叩いた。

「イブキ、保健室で体温計とか借りてこいって」

「とか?」

「タオル何枚か。汗ふいたり濡らして首冷やしたりな? あと風邪薬置いてるはず。鎮痛剤とかでもいいけど。それから氷嚢とかあったら借りてこい」

「……シグレも詳しいじゃん…」

「んー? ちっちゃいころからよくコナミが風邪引くからな。でも教えてくれたのはコナミだから」

「へー…」

 介抱される側が指示してるのってなんかうけると、イブキは声を出さずに笑った。

「ほい、じゃあ行った行った」

「……ねえ」

「えっ?」

 イブキは名前も呼ばず、コナミに声をかける。四人でいる機会は増えたが、思えばこうして面と向かって話をするのは初めてだと、コナミはつい手に力が入ってしまう。

「……保健室って、どこ」

「……はぁ?」

「コナミ、これまじのやつだ。まじの目してるもん」

 物事に対して興味がないのは知ってたけど、ここまでとは──。ハヤテちゃん、いつも苦労してるんだろうなと、コナミは頭を抱えながらイブキに保健室の場所を伝えた。


「……じゃ、じゃあうちもそろそろ…」

「シグレ、嘘ついた」

 イブキの去った部屋で、シグレはコナミに首根っこを掴まれる。

「いやっ! うそっつーか、なんつーか!」

「夜話すから。とりあえず買い物してきて」

「……うい…」

 懲りないやつだと、コナミは大きなため息をその背中に向かって吹きつけてやる。

「あ、コナミ──」

「うん?」

「イブキちゃんって呼んだら喜ぶと思うぞー。じゃ行ってくるわ」


「……ばか…」


 次はため息でなく、とびきり熱い視線をその背に送り、コナミは食堂へと足を向ける。


 自分もつくづく懲りないなと、火照る頬を両手で冷ましながら──。




「──食べれそう?」

「ありがとうイブ…今日はごめんなさい…」

「いいよ、てかこっちこそ気づけなくてごめん」


 コナミの部屋を訪れてからものの三十分程度。できあがったおかゆを手に、イブキはハヤテの部屋の椅子に腰を下ろしていた。

 常設してある米をすでに調理していたコナミのおかげでもあるが、なぜか猛ダッシュで買い物を済ませてきたシグレの功績は大きい。保健室でシグレの指示通り、必要なものを借りて食堂へ顔を出すと、あと五分くらいというのだからイブキは驚いたものだ。


「イブが作ったの?」

「あ、いや。シグレとコナミが」

「…あなたやっと変なあだ名で呼ぶのやめたのね?」


 リボンツイン──イブキが第一学年時から大事にしてきたその愛称は、この日を持って用なしとなった。それは食堂を出る前のコナミとの会話にある。


「助かったわ。二人ともありがと」

「おう! 早くお嬢様んとこ行ってやれ。熱のときは一人じゃしんどいからなっ」

「ん。あ、」

「これ…」

 さっそくハヤテのもとに向おうとしたイブキの前に立ちはだかったのは、エプロン姿のコナミだった。

 なにやらいい匂いのするものを持って、イブキの前で身を捩らせる。

「…りんご?」

「うん。すりおろしたの…風邪にいいし、りんごってリラックス作用あるから…」

「ふーん、ありがと。ハヤテに言っとく」

「……イッ!」

「イ?」

「──イブキちゃんっ!」

「……なに?」

 突然名前を呼ばれたことに、イブキは何の用があるのかと丸い目をしてコナミを見つめた。

「あ、えっと…なんでもない…」

「そ? じゃあもう行くわ。ありがと、コナミ」

「え?」

「ん?」

「あ、いや…ハヤテちゃんにお大事にって」

「ん。伝えとく」

「……お前らってつくづく気合わなそ…」

 シグレはそのあと耳を引っ張られ部屋に引きずられていたが、イブキは見て見ぬふりをして食堂を後にしたのだった──。


「──まあ、あたしにも猫が心開いたって感じ?」

「そう! よかったわね!……コホッコホッ…」

「大きい声出すから……熱、どれくらいだった?」

 ピピッ──と声をあげた体温計を寄こせと、イブキが手を差し出す。

「三十八度五分…? 高熱じゃん…」

「…寝てれば治るわ。イブ、もう戻って…ケホッ…」

「なんで?」

「移ったら大変だもの…もう十分だから部屋に──」

「やだ。ハヤテが寝るまでここにいる」

「……イブ…移れば授業休めるとか思ってない…?」

「バレた?」

 バレバレよと、無理に笑うハヤテを前に、イブキは自分が笑顔を作れているのかどうか分からなかった。


 思い返せば朝からハヤテの様子はおかしいところだらけであったのに、イブキはそれが体調不良からくるものだと気づけなかった。いつもピシッと整えられたポニーテールが緩めだったことも、寮を出るときからやたらと乾いた咳を繰り返していたことも。しきりに水を飲んだり、まだあたたかい陽の差す日中に肌を擦り合わせていたり。あんまり寝られなかったから──という彼女の言葉を鵜呑みにして、ハヤテみたいな人間にもそんなときがあるのかと、その程度にしか思っていなかったのだ。

 バスの座席に着いたとき、いつもは寝たりしないハヤテが目を閉じて肩にもたれてきた。体重をすべて預けるようなその行為は、今思えば気だるさに耐えるためのものだったのだろうが、イブキはいきなり近づいてきたハヤテの熱い体温に気が気でなく、具合が悪いなどとそんな考えに至ることができなかった。

 なんて自分勝手なんだと、バスの昇降口から足を滑らせそのまま倒れてしまったハヤテを背負いながら、イブキは心底自分を情けなく思ったものだ。


 ハヤテの身体が熱かったのは自分に近づいたからとか、そんな浮ついた理由じゃない。

 今朝、いいやもしかしたら昨日の夜から。ずっと具合が悪かったのかも──…。


 秋の終わりに汗ばんだその身体を背に、イブキはやっと理解したのだった。


 具合が悪いならそれならそうと、どうして言ってくれなかったのか。

 どうして、自分は気付いてあげられなかったのか。


 イブキの心は、目の前で弱々しく笑うハヤテの微笑みの数だけ、きりりと痛みを覚える。


「これ薬、ご飯食べてからってシグレが」

「──コホッ… ありがとう」

「喉痛くなかったらおかゆ……起きれる?」

「ええ、ちょっと待っ──…」

「頭いたい…?」

「……だいじょうぶよ…」

 こめかみを押さえて目を細め、見るからにしんどそうなハヤテを見て、イブキはスプーンを手に取った。

「……イブ…?」

「……ちょっとでいいから…」

 コナミの作ったまだあたたかい玉子粥──それをスプーンの端に小さく乗せ、イブキは横になったハヤテの口元へそれを近づける。

 だが、彼女の目を見ることは叶わなかった。


 下ろした長い髪に、汗ばんだ首筋。

 とろんとした虚ろな瞳に、掠れた小さな声。


 これ以上いつもとは違うそんなハヤテの姿を見ていては、どうにかなってしまいそうだったから。


「……いただきます…」

「ん…」

 ハヤテが遠慮がちに口を開き、小鳥のように少しずつそれをつつく。下を向いたままのイブキの手元に振動が伝わり、そのたびに彼女の鼓動はどくどくと大きな音を立てた。

「…おいしい」

「ほんと?」

「ええ」

 その言葉につい顔をあげてしまったのは失敗だったとイブキは思う。弱々しく微笑んだ彼女のまなざしに、自分の体温まで引き上げられてしまったのだから。

「……熱出そう…」

「イブ?」

「なんでもない…おかゆ熱くなかった?」

「…ちょっとだけ…」

 ふふっと、はにかみがちに笑う彼女にまたイブキの胸は一層締めつけられていく。

 痛みも熱も自分の中から追い出してしまおうと、イブキはすくった粥を口元に近づけふぅふぅと口を尖らせた。

「……いいのに」

「これはあたしのためなの」

「なにそれ?」

「いいから、病人は黙って食べる。あーんして」

「ふふ、なんだかイブがお母様に見えてきたわっ」

 熱があるからなのか、いつもよりも素直なハヤテは子どものころのように無邪気な笑みを浮かべ、ぱくりと美味しそうにそれを頬張った。あいかわらずそんな解けた顔に向き合うことができないイブキは、横目がちに彼女の様子を覗ったまま。

「はい、これで最後」

「ん──…ごちそうさま」

 皿の底が顔を出すまではものの数分であった。

「食欲あってよかった。ちゃんとご飯たべてた?」

「そうね、ンッ、ケホッ…あれ?」

「なに?」

 首を傾げるハヤテに、イブキは嫌な予感がしていた。

「……昨日なにも食べてない…かも…?」

「…どうしたらそんなことできんの…」

 やっちゃったと笑うハヤテに、イブキはめずらしく落胆する。

「このところ忙しくてすっかり忘れてたわ…」

「もう…だから風邪引くんだよ…ちゃんと食べないと」

「イブの言うとおりね…本番で倒れたら身も蓋もなかったわ…」

「本番?」

「もうすぐ冬の検定試験があるでしょう? 上級に挑戦しようと思って──」

「……もしかしてその勉強も…?」

「ええ。定期的にしてはいるけど、日が近づいてるからちょっと根気詰めてて…やりすぎちゃったかしら…ゴホッゴホッ…」

「…無理して喋らなくていいって」

 イブキはタオルで額の汗を拭うと、掛布団をその肩までかけなおしてやる。

「イブ、ごめんなさい」

「いや、看病はあたしが勝手に──」

「そうじゃないわ。気分転換にでもなればって思ったんだけど…こんな苦労かけてたら意味ないわね…」

「…気分転換?」

「あなたが最近、何かに悩んでるみたいだったから。町でも出れば少しは気が晴れるかなって。でも、余計心配ごと増やしちゃった…」

「………」

「ねえイブ…なにかあったらわたしに言って…? 絶対に、あなたの味方でいるわ」


 食事を取ったことで熱が勢いを増しているのか。

 息のあがったハヤテはぼんやりした瞳を浮かべてイブキの頬に手を伸ばす。


 触れた彼女の手が、瞳が。

 狂ってしまいそうなほどに熱を持ち、イブキの身体がまた、それを受けて熱くなっていく。


 触れ合う潤んだ瞳が意識をゆっくり溶かし、吸い込まれてしまいそうになる。

 おぼろ気な思考をなんとか掴んでイブキが思い浮かべるのは、またもハヤテのことであった。


 このところ忙しかったと──。

 そう言った彼女は、どんな一日を過ごしていたのだろう。


 朝は普段より早起きをして後輩の面倒を見る。それから自分を起こしに来て、くだらない冗談に付き合って。授業中はことあるごとに伏せる身体を揺さぶり、ミュールに当てられればコソッと隣から答えを教えてくれる。お昼どきには群れる輪が訪れる前に声をかけてきて、そのまままた後輩のもとへと行ってしまう。午後の授業が始まるころにいそいそと教室に戻り、頬についた昼食の残りを、子どもじゃないんだから──とハンカチで拭ってくれる。最後の授業が終われば図書室に出向き、夕食の時間までまた後輩に付き合う。風呂で一日の疲れを落としたあとには必ず自分の部屋のドアを叩き、課題の手伝いをしてくれる。

 イブキはそのまま夢の中に入ってしまうことが大半だが、自分を寝かしつけたあと、彼女は自室で何をしていたのだろう。


 それは考えるまでもなく、簡単なこと。


 このスケジュールでは、彼女は自分のための時間が取れていない。定期試験なら授業の内容だけで十分、ハヤテにはこなせるだろう。だがソカツの上級試験となれば話は別だ。彼女はイブキを寝かしつけたあとでその学習に励んでいたのだ。それも定期試験用にと、イブキ用のまとめノートを作ったりして──。


 そんな毎日を繰り返す彼女に、ただでさえ普段から面倒を見てくれる彼女に。いらない心配をかけてしまった。彼女が時おり難しい顔をしていることに気づいてはいたが、その原因が自分にあるなどとイブキは思ってもみなかったのだ。


 淡い意識の中で、イブキの胸は押しつぶされてしまいそうだった。

 

 あの日図書室で、自分でも説明のつかない気持ちがいったりきたり。ハヤテの横でべったりとくっつくその存在に心がもやもやとした。彼女のことを自分にするそれのように、親し気に呼ぶハヤテの声がキリキリと胸を刺激した。

 愛情不足──そう言われて、怒りとも悲しさとも言えないような、自分ではどうにもできない曖昧な感情が胸を砕いた。空気はそこにあるのに、重くて苦しくて、逃げ出したくて。それは彼女の言ったことが何ひとつ間違いでないと、自分自身が一番分かっていたから。

 説明のつかない気持ちに、曖昧な感情──イブキはそれを一斉に受け、なにがなんだか分からなくなってしまった。このごろ様子のおかしかった自分の心が、またどうにかなってしまうのではないかと怖かった。


 考えることに眩暈がしたころ、図書室の奥にハヤテの香りがふわっと香った。

 懐かしくて、あたたかくて。身体中に降り注ぐ太陽のようなその匂いが──。


 大丈夫。ハヤテがいればきっと。あの空だって、どこまでも──。


 図書室で彼女の気の抜けた笑顔を見たとき、イブキはまたそう思えた。

 だがきっと、手が触れ逃げ出そうとしたことでまたハヤテに余計な苦労をかけたのだろう。


 あのとき手を掴んだのも。

 急に出かけようと言ったのも。


 ──ぜんぶぜんぶ、あたしのためだったんだね。


「……ハヤテ」

「うん?」

 イブキは頬に触れるハヤテの手をぎゅっと握り、静かに目を瞑った。

 その熱も、彼女の心のあたたかさも。全部を感じていたくて。

「ありがとう。ずっと──」

 彼女の熱る耳に届くか届かないか。その程度しか出すことができなかったイブキの声は、風邪を引いたハヤテのそれよりもずっと掠れたささやかなものだった。

「…イブ、」

 ハヤテの手が、ゆっくりと歩みを始める。

「なんかわたし…もっとあなたに……」

 細くて長い指が一本ずつ、イブキの指にするすると絡みつく。イブキの指がためらいがちにも応えるようにそれを捕まえると、ハヤテはその手を引いて頬を擦り寄せた。

「イブの手、気持ちいい……」

 まるで彼女の身体の熱をすべて吸い取ってしまいそうなほどに冷え切ったイブキの手。ハヤテは心地いいのか穏やかな瞳を携える。

 なめらかで柔い感触とその表情に心も視線もすべてを奪われたイブキの鼓動は、身体を揺らしてしまうほど強く波打つ。繋がれたその部分から、ハヤテに伝わってしまいそうなほど。


 ハヤテの顔。

 今、どんな色してるんだろ──。


 いつかの朝のように、暑い太陽の下のように、この部屋のまどろみのように。

 ほんのりと、もしくはしっかりと。


 彼女が色づけたあの果実のように、濃ゆい色に染まっているのだろうか。

 

「ハヤテ、熱い…」

「…イブ、もっとあなたが──…」


 ……もうなんでもいいや──。


 ハヤテの体温にイブキもろもと、部屋中が飲み込まれてしまいそうになったときだった。



 ──ドンドンッ!!


「ハヤテせんぱぁい! 大丈夫ですかぁ~!」


 メブキの声が、二人から慣れない熱を奪ったのは。



「──!!」

「あれぇ? いないんですかぁ? ハヤテせんぱぁ~い」

 下の階にも届きそうなほどのその振動に、二人は目が覚めたようにハッとなり繋がれていた手を急いで解く。

「…寝てるんですかぁ? 開けちゃいますよぉ~」

 ドアノブがその手を受けて小さく揺れると、バタ足でもしていそうな瞳を持ち合わせた二人は目配せをしながらてんやわんや。

 とにかくドアが開く前に何か──。

「イブ、ま、待って!」

 乾いたハヤテの声が響くと、ドアノブはゆっくりその動きを止める。

「あっ、起きてるじゃないですかぁ~。具合どうです? 入ってもいいですかぁ?」

 ンンッ!と、ハヤテは咳払いをして声を整える。

 その顔に、先ほどの浮ついた様子は微塵も残ってはないなかった。

「……今は、その──…人に見せるような格好ではないから…」

「ええぇ~、わたし気にしないですよぉ~?」

 ガタガタと、ドアノブまでもが駄々をこねるように揺れる。

「たいしたことないの! また元気になったら一緒にお茶でもしましょう?」

「……はぁ~い」

「お見舞いありがとう。勉強がんばって」

 ハヤテがそう言うと、お大事にですぅ~とメブキはのほほんとした声をかけ、ドアの前から気配を消した。

「……ふぅ、よかった…」

「………」

 なにがどうよかったのか。発したハヤテも、それを受けたイブキも分かりはしない。

 ただまどろんだ部屋の中に誰も入ってきてほしくはなかった。熱に溶かされた互いの姿を、誰にも見せたくなかった。二人の思いは、ただそれだけであった。


 メブキが去ったあとのその部屋は、先ほどとはまったく異なる顔を見せていた。

 なにごともなかったかのようにスンッと澄まして、ひんやりとして。


 すっかり正気に戻ってしまった二人の間には、どこかズシッとした決して軽くはない空気が漂う。


「……く…くすり…」

「…へ?」

 沈黙に耐えきれず、先にそれを打ち破ったのはイブキだった。

「くすり、飲む…?」

「え、ええっ!」

 せかせかと慌ただしく。イブキは冷蔵庫から冷えた水の入ったペットボトルを取り出すと、保健室で貰った市販の錠剤を二錠、手のひらにプチッと押し出した。

「…あ──…」

 そこで彼女は気づく。横になった今の状態のハヤテに、どうやってこれを飲ませればよいのかと──。

 どうする? 起き上がらせる? でもまだ身体つらいだろうし──…。

「イブ…」

「んえっ?」

 悩んでいたイブキに、ハヤテは遠慮がちに声をかけた。

「…飲ませてもらってもいいかしら…?」

「……ん」

 めずらしくしおらしいその姿。イブキに拒否権など、ありはしなかった。

「…あ、あーん…?」

「……」

 ついさっきは手元を見なくても、彼女が自らそれを食べにきた。だが錠剤となっては話は別だ。イブキが彼女の口元にそれを持っていかなくてはいけない。逃げ場を失ったイブキの目は、またばたきすらも忘れおろおろと泳ぎ回る。

「…んっ、あいあと…」

「お水…ちょっと待って」

 すでにその舌のうえで溶け出してしまいそうな二つを薬として作用させるため、イブキは急いで固いペットボトルの蓋を開けた。

「ちょっとこっち向ける?」

「ん」

 そっと、こぼれないように。顎に頬に、手を添えて。

 ゆっくりと冷えた水をハヤテの小さな口へ注ぎ込む。

「んっ…」

「…喉いたい?」

 眉をひそめ、首をふるふるとする様子に。

「──ンック……ンッ…」

 こくりと滴る薄い喉もとに。


 目が離せなくなり、イブキはまた頭がぼぅっとしてしまう。


「んん…ん。…んん?」

「……」

「…んん──!」

「あっ…ご、ごめん!!」

「プハッ!…んっ、ケホッ…」

 どこかに置き去りになったイブキ意識を、バンバンと無理やり腕を叩いてハヤテが呼び寄せると、慌てたイブキの手元からペットボトルが宙に舞い上がっていく。蓋も何も、閉めていないまま──。


「……もう! イブ!!!」

「あー……水もしたたるいい女?…みたいな…?」


 びしょ濡れになった二人とベッド。

 ごめんと笑うイブキに、すっかり元気な様子で声をあげるハヤテ。


 また熱があがりそうと頭を抱える彼女を見て、この調子なら明日には元気かも──?と。

 イブキは乾いたタオルで彼女の額を拭きながら、申し訳なさそうに眉を下げて小さく笑った。




「──……やっぱりイブキ先輩いる…」


 廊下の隅で、二人のそんな騒ぎに耳を傾ける小さな影がひとつ。


「人に見せるような格好じゃないって…じゃあイブキ先輩はなんなんですかねぇ……」


 落ちる夕陽とともに、彼女は静かに階段を下る。

 つまらないと、今にでもそう言い出しそうなひねくれた表情を隠そうともせず。


 窓の外では、風に揺れた葉がはらはらと一枚、静かに地面に沈んでいくのだった──。




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