たいぼうの宵草
空がやけに高く感じられる長月の夜。
しっとりとした律の調べが吹いたころ、イブキは脱衣所のかごの前でひとり佇んでいた。
いつもなら夕食を終えたあとには早々に部屋へ戻り、何をするでもなく自室のベッドでごろごろと一日の疲れを取る。空腹を満たしたあとの幸福感に包まれ、ああもうすぐ意識も落ちていきそう…という頃合いにハヤテがドアをやかましく叩き、お風呂入る前に寝たらだめよ!──とイブキが姿を見せるまで、目覚まし時計のごとく声高に鳴き続ける。
そんな日常からはみ出しイブキはその夜、夕食を済ませるとハヤテに言われるより早く風呂場を訪れていた。
「……え、なんで…?」
本人にすら、その理由ははっきりとしていない。
夕飯に出た焼き魚──ハヤテが言うには秋鯖──が食べづらかったとか、サラダに乗った赤いグチュグチュとした天敵によって食欲を害されたとか。皿を空にできなかった理由はいくつも並べることができる。
だが、なぜその場から一目散に逃げ出したのかと言われると、その答えも言い訳もイブキには見つられそうになかった。
湯口からこぼれる水音だけが耳を刺激するそこで、イブキは数十分前の様子を思い返す──。
「あんれ? めずらしっ。イブキひとり?」
「用事済ませてからくるって」
「ほぉーん。忙しくて大変だなーお嬢様はっ」
寮内の食堂は校内のそれよりも趣きのある雰囲気が心地よい。限られたスペースで寮生たちが速やかに食事を終えられるよう、学年やクラスによって細かく使用時間が分けられ、誰に囲まれる心配もなく落ち着いて箸を進めることのできるその時間がイブキは好きだった。
先に行っててというハヤテの言葉に最初は待っていようかと声をかけたが、ぐうッと大きく音を上げた身体のせいでイブキは部屋を追い出されてしまった。すぐに行くから先に食べててとハヤテに言われたとおり、いつも二人で腰をかける窓際の席でひとり夕飯をつついていると、通りかかったシグレが声をかけたきたのだ。
「お嬢様ねぇ…」
「あ? てかここ座っていいか? たまには一緒に食おーぜ」
「どーぞっ」
イブキは軽い声でシグレに返す。
「晩めし一緒に食うの久々じゃね? 一年のとき以来か?」
「あー」
「あのころお嬢様忙しそうだったもんなー。イブキと絡みあるのも知らなかったし」
「あー、ね」
「……イブキ、話聞いてっか?」
香ばしく焼かれた魚を見つめたまま空返事を繰り返すイブキに、シグレは箸の先をツンッと向けた。
イブキは考えていたのだ。シグレの言う”お嬢様"という言葉を。
たしかにハヤテは誰がどう見ても育ちの良いお嬢様。品行方正であり文武両道のその様子は、教師陣だけでなく生徒たちからも評判がよく、一目置かれるほどの存在であることはイブキもよく知っている。
だが、それを単に"お嬢様"という言葉に収めてしまうのはどこか納得がいかない。イブキがそう思い始めたのは、まだ蒸し暑さの残るあの夏の日──研修がきっかけであった。
生まれも育ちも良いことは皆が周知の事実であるが、彼女は周りが思っているほど甘く、恵まれた環境で年を重ねたわけではない。幼くして両親を亡くし、いざこざのある母方の祖父母から疎まれパレク──父方の祖父母──のもとで育てられた。血の繋がっている親族といえど、気を遣わないわけにはいかないであろうし、ハヤテの性格ならなおさら──。
イブキはそれを彼女に打ち明けられたあの日、そのやりきれない思いを包み込めるような言葉を彼女にあげることができなかった。
同じではないものの、自分も近しい経験をしている。だからこそ、中途半端な優しさを持った空々しい言の葉で、彼女の悲しみを軽々しく語ってはいけないと思ったのだ。
シグレがハヤテをそう呼ぶことについて、ハヤテ自身が嫌な顔をすることはない。むしろいつだってほがらかに笑っているほど。彼女はもう、そんな扱いをされることに慣れきってしまっているのだ。
その様子はまるで、自分を見ているよう──。
だからこそ自分は、自分だけは彼女をそう扱いたくないと、イブキはあの日から強く思うのだった。
「だっけど驚いたよな、ハヤテお嬢様が一緒なのにあの成績って。イブキどんだけ足ひっぱったんだよ?」
「…てかあんたさ、夕飯のときぐらいそれ食べるのやめたら…?」
カラン──と。口の中でいつもの飴を転がすシグレをイブキは冷ややかな目で見る。
「食うときは置いとくって! さすがに魚とメロンソーダはあわねえだろ?」
「…そういう問題じゃねえって…」
「んで? なにをそんなくらーい顔してんのイブキは」
「……別に」
表情が乏しいほうではないが、決して豊かなほうではない。それに物心ついたころから何を考えているか分からないと周囲からそう言われるものだから、シグレの発言にイブキは内心どきっとした心持ちであった。暗い顔を見せていたつもりは、これっぽっちもなかったのだから。
「お嬢様にほっとかれて拗ねてんのか?」
「は? 研修の話、振ったのあんたでしょ?」
「あー、イブキが足手まといってやつな?」
「…ぶっとばすよ?」
「おーこえー。で? なーに悩んでんの王子様はっっ」
「……いや、なんか──…」
研修中のハヤテは、いつもとは少し異なった形でイブキの瞳を象っていた。
ハヤテは優秀でなんでもできる。そんなことぐらい、イブキだって知っているつもりだった。だが所詮、それは"つもり"にすぎなかったのだ。色彩のみでなく幅広い知識を持ち、どんなことにも怯まず自ら進んで問題を解決していく。それに加え、過ちを犯したからといって手あたり次第、無理やりそれを裁こうとはせず、冷静な判断で自分が正しいと思った選択肢を優先する──。
そんないつもとは違う彼女の一面を覗いてしまったから。
だから──。
「へー、ハヤテお嬢様ってやっぱすごいんだなー」
「……なんか、いつもと違った」
「違う? 聞いてるかぎりじゃイメージどおりだけど?」
イブキはあの日のできごとをシグレに伝えながら、まるで答え合わせのように自分の中にある気持ちを整理していた。
酔っ払いに手を掴まれたとき、本当は怖くて仕方がなかった。恐怖で縮こまりそうな心を自分ごとごまかしてしまえと、やたら大きな声を出した。でもそんなものは通用しなくて、力に押しつぶされそうになった。その瞬間、ハヤテは颯爽とやってきて、当たり前のような顔で手を差し出したのだ。
──まるで、出会ったあの夏の日のように。
その手から伝わる体温のせいで身体がいやに熱くなった。汗を拭われたとき、近づいてきたハヤテの匂いに、なぜか胸の奥が狭まっていくような気がした。りんごに齧り付こうとしたとき、女の子なんだから──と。そう言われて、狭くなった心の奥で鼓動が大きく揺れた。
果実で約束の蝶を見せてくれたことも、その思い出を大事にしまってくれていたことも。
ラータの自分に心を染められたと、そう穏やかに笑ったことも──。
ハヤテのすべてが、いつもとはなんだか違ったから。
イブキはあの日から彼女を見ると、胸の奥にばらついたややこしい気持ちが次々と湧き上がってしまうのだった。
「……なんか、とにかくいつものハヤテっぽくなかった…」
「ふーん、それにご不満ってわけ?」
焼き魚の横に添えられた玉子焼きを頬張りながら、シグレが不思議そうな声をあげる。
「いや、不満ってか……シグレってさ、胸痛くなることある?」
「あ? なんだイブキ、成長痛か?」
箸を止めたシグレが、ニヤニヤとイブキを覗き込む。
「あほ、心臓だよ心臓」
「心臓? 病気の話?」
「なんかこの辺り痛くなるときない?…チクチク?みたいな」
イブキはその散乱とした思いが刺激する胸のあたりを親指で指し示す。
「チクチク?…お前それどんなときに…?」
「……」
「おい、急に黙んなよ」
イブキが口を閉ざしたのは、なにも言いたくなかったからではない。ただ説明しようがなかったのだ。あの日のハヤテに感じたことを、どんなとき?と問いかけられても、それに該当するシーンを一つに絞ることは難しかった。
「……あ、でも──」
もし、ただ一つ。
このよくわからない痛みを感じた瞬間を切り取るのであれば。
──あの湖よりもきれいなアオを、あなたに見せてあげる──
「…湖って、エスポワール?」
「うん」
「あれよりきれいなアオ? 全世界、全人類が唯一認識できるあの白群より?」
「……あたしとハヤテ、あれが染まったときほとりで見てたから…」
アンネス湖──授業でもニュースでもしょっちゅう話題にあがるその湖は、この世界に存在するだれもがその美しい色を見ることのできる不思議な場所。ソカツを使うことなく人々が平等に感じることのできるその色は最高峰のアオと呼ばれ、青が集うという意味の”群青”を薄めた色──白群に輝く唯一の存在なのだ。アンコロールの世界では希望──エスポワールと呼ぶ者も多く、パワースポットとしても人気がある。
それだけがなぜ無条件に色を纏うのか、多くの学者が研究を進めているが今日でもその原因は光の中に包まれたまま。
十年ほど前、突然大きなその湖が色づいたとき、イブキはハヤテとそのほとりで蝶を追いかけていたのだ。
「だからハヤテ、そう言ったんだと思う……そんときなんか、ぐって苦しくなった」
思い返しただけでまた一段と痛みの走るそこを、イブキはシャツの上からぎゅっと握りしめた。
「…イブキ、お前それ──」
「愛ですね」
シグレがどう伝えようかとためらっていた言葉を、過剰な表現でイブキに叩きつけたのは隣でもくもくと魚の骨を取り除いていたリボンツイン──コナミであった。
「え、まって喋ったんだけど」
「あ? イブキ、コナミと喋ったことねーの?」
二人の会話に入るわけでもなく、ただじっと座っていた彼女が口を開いたことにイブキは驚きを隠しきれない。
「いやいつも睨まれてるから」
「めっっっちゃかわいいだろ、声」
「……シグレ、うるさい…」
「これ照れてんだぞ? わかりづらくてかわいいだろ?」
「シグレ…!」
目の前で戯れるその様子に、イブキは少々食欲を削がれてしまった。
「……てかずっと思ってたけど、なんでいんの? いつもあたしがいると近寄ってこないじゃん」
「最近なーんか機嫌よくてずっと離れねんだよ…小さいころみてーでかわいいからいいけど」
コナミの頭をぽんぽんと、宥めるようにシグレがあやす。
「…へ、へぇ……てかあんた、かわいいしか言えないわけ?」
「かわいい以外なにがあんだよ?」
「……もういい…」
イブキは先ほどから突けど突けど、どうにもうまくほぐれないその憎たらしい魚の身に視線を移した。骨は邪魔だしシグレはうるさいし。その飼い猫はわけわかんないし──と。
「でもイブキだって思うだろ?」
「それ? かわいいって?」
イブキはすっかりシグレに手名付けられた様子のコナミを見る。"それ"と言われたことに少々不服そうな顔を見せながらも、頭を撫で続けるシグレのおかげか彼女が噛みついてくることはなかった。
「いやコナミはかわいいけど。お嬢様だよ」
「……ハヤテ…?」
イブキの箸を持つ手が止まる。
「なんで…?」
「普通にかわいいってなるだろ、あんな美人」
「……いや、だって、ハヤテは…」
「わたしがなに?」
「──ッ!!」
イブキの後ろからひょこっと顔を出したのは、何を隠そう先ほどからイブキの心を独占している彼女あった。急にその姿が現れたものだから、イブキは身体にぐっと力が入ってしまう。
「お。お嬢様おかえり~」
「ただいま? めずらしいわね、三人でご飯なんて」
「ちょっとイブキのお悩み相談。お嬢様こそイブキほっとくなんて珍しいじゃん、なにしてたん?」
固まったイブキをそのままに二人の会話は進み、ハヤテは自然にイブキの横に腰を下ろす。
「珍しいって…後輩の子に呼ばれちゃって」
「あ~、なるほどね? アレか…」
「あれ? あ、イブ、骨取れないんでしょ? 今取ってあげるから箸貸し──」
「!!!」
「……イブ?」
「だ、だいじょうぶ! もうお腹いっぱいだから!!…お風呂、あたしお風呂行ってくる!!」
──と。そう言って駆け出してきたのが十分ほど前のこと。
「…いや意味わかんないでしょ…」
思い返してみても、なぜハヤテから逃げてしまったのかイブキには理解不能である。
ただ箸を取ろうとしたハヤテの手が、あの長く細い指先がほんの少し触れただけ。そんなことは今までだって何度もあった。遅刻しそうになった朝、喧噪から抜け出した昼、毎日眠りにつく前だって。ハヤテに触れる機会はいつも転がっているのに、なんだってこの胸はこんなにやかましく騒いで、自分を刺激してくるのか。
「絶対あいつらのせいじゃん…」
イブキはハァッとため息をつき、脱衣所のかごに額をくっつけた。
──普通にかわいいってなるだろ、あんな美人。
頭で繰り返されるのは、先ほどのシグレの声。
ハヤテの顔はたしかに整っている。それは小さいころから変わらず、通った鼻筋も一度見たら忘れられないほど大きな目も、スッと顔全体をまとめるような眉のラインも──。傍から見ればかわいいとか、美しいとか、そう言われることは間違っていない。
だがイブキは彼女を今まで、そんなふうに見たことはない。単に幼いころを過ごした、初めてで唯一の友人。
それがどうしたことか、あの日から自分はハヤテを──。
「……かっこいい……ってなんだよ…」
そう思ってしまっていることに、イブキはついさっきのシグレの言葉に後を押され気づいてしまったのだ。
いつだって何食わぬ顔で当たり前のように自分に手を差し伸べる彼女を、かわいらしいとか美人とか──そういった感情を差し置いて、魅力的に感じていると。
それはまるで、白昼に浮かぶ月のようだとイブキは思う。
中夜、草木も寝静まるその宵をやさしく照らし出すあたたかい月明かり。街灯にも負けることなく進む先はこちらだと、そう導いてくれるものやわらかい存在──今までのイブキはきっと、ハヤテをそんな天満月のような存在だと思っていた。
だが、あの日の彼女はそれよりももっと、透き通るように凛として。太陽の眩しさには及ばずとも、決して劣らぬたおやかさを持ってそこにいる。ただひたすらにこちら見つめる昼間の月のようだと、イブキはそう思ったのだ。
いつだってそこにあるのに目を向けなければ気がつかない。
そんな薄い月のようだと──。
「……てか愛ってなに…まじで…」
この胸の痛みを"愛"と、コナミはそう呼んだ。
それがどうにも、イブキには腑に落ちないのだ。
あのときはなんとなく彼女が喋り出したことに注意を逸らし、シグレがそれに乗っかったことで話はうまく流れてくれた。それでよかったとイブキは思う。愛がなんだとか、そんなものを語るつもりはないし、語られるのも耳障りだ。そんな感情、自分にはこれっぽっちも備わってはいないし、誰かに与えられるような立場でもない。
それにハヤテは、大切な友人だ。家族でも、まして恋人でもない彼女にそんな気持ちが向いているとは、どうにもイブキには思えないのだった。
「でもじゃあなにって話か…」
かといって、それを否定できるほど強く代わる言葉をイブキは見つけられない。今まで勉強を怠ったせいなのだろうか。教科書を隅から隅まで探せば、この痛みの名前がわかるのだろうか。
そうやってイブキが頭を悩ませている間に、いつのまにか静かだった脱衣所にも同級生たちの浮ついた声が響くようになっていた。
「…イブ、まだ入ってなかったの?」
「うわっ!!」
そんな脱衣所の様子には目もくれず、眉間にシワを寄せたままのイブキは隣に迫っているハヤテの姿に気づくわけもなかった。
「なによ、お化けでも見たような顔して…さっきからずいぶん失礼ね?」
「…別にそういうわけじゃ…」
「…? あなたの残り、シグレさんが喜んで食べてたわよ。骨までまるごと」
「あー、なんか想像つくわ」
「それにしてもどんな心境の変化なの?」
「あ……え…?」
ハヤテのその大きな瞳が、イブキを捕まえる。
「だって、おかしいじゃない? 急に」
「……別におかしくないっていうか…いたって普通?だし…なにもないっていうか…」
「ほんとに?」
ぐぐっと顔を近づけ、押し迫ってくるハヤテの圧にイブキは耐えられなくなりその視線からも逃げ出した。
「だ、だってハヤテが──!」
「わたし? コナミさんになにかしたかしら?」
「……コナミサン…?」
「ええ。だって今まで一緒にご飯なんてなかったでしょ? わたしたちがシグレさんと話してるだけですぐプンプンしてたのに…なんなら玉子焼きくれたのよ? 信じられる?」
「なんだ…そっちか…」
「そっちって?」
溜まっていた緊張感にさよならをして、肩に入っていた力を息と一緒にイブキは吐き出した。
「イブ? 大丈夫?」
「ん…なんでもないから気にしな──…ちょ、ハ、ハヤテ?!」
「え?」
「な、なに脱いで──」
「なにって…脱がなきゃ入れないでしょ? イブ、ほんとに大丈夫…?」
目の前でスカートを脱ぎ始めたハヤテの姿に、イブキは慌てて顔を逸らした。
「……まじなんでこんなんなってんの…」
「なんでって、脱衣所だから?」
「……あーもうっ! ちがうよ! ハヤテのとんちんかん!」
「な、なによ?!」
イブキはガバッと制服を脱ぎ捨てかごに投げ入れると、先はいる!と大きな声をあげハヤテを置いて浴場へと急いだ。
なんなの、なんで──。
ハヤテとお風呂なんてもう何回も入ってるし、別に今さら裸見ることぐらい、どうってわけじゃないのに──。
「……なんであたし、あんなパンツ見たくらいでこんなんなってんの…童貞かよ…」
湯舟に顔を沈めるイブキのひとり言は、熱い湯の中にブクブクと消えていく。
この身体の熱りはその水温によるものなのか、はたまた心の温度によるものなのか。イブキにははっきり、その答えがわかってしまった。
"あなたが友だちになってくれたから、わたしは今もここにいるの"
──あああ! なんであんなこと言うかなもう…ハヤテのやつ…なってくれたのはそっちじゃんか…。
「イブ…イブ…? ちょっと、そろそろあがってこないと溺れるわよ!」
「──わっ! ハヤテ?!」
湯の中でぶつぶつ泡を立てていたイブキを、軽くシャワーを済ませたハヤテが引き上げる。うっすらと湿る髪、滴るうなじに、濡れた柔い肌──。それを間近で受け止めてしまい、イブキはこの日四度目になる脱出を試みた。
「ちょ、イブ…走ったら危な──!!」
「わわッ!!」
──バシャンッ!!
脱衣所に猛ダッシュしようとしたイブキの左手を、グイッとハヤテが掴んだことでその身体はバランスを崩し、湯舟の縁から滑り落ちていく。突然降ってきた小さな彼女を受け止めきれず、ハヤテもろ共、二人は湯の中に突っ込んだ──それはもう、豪快に。
イブキの四度目の逃走は、失敗に終わったのである。
「なにやってんだ? プールごっこか? うちらも混ぜろーっ!」
「ちょ、ちょっと待って、シグレ…!!!」
その様子を見ていたアホが、飼い猫の手を引いてバチャンッ──と飛び込みあたりは飛沫につつまれる。
シグレがガハガハと笑い、コナミがケホケホと咳き込む。その横でハヤテはやれやれという顔をしながら、すっかりびしょ濡れになってしまった髪を緩く絞る。
その様子に、イブキはまた湯の中に沈んでいった。
──いつもと違うの…ハヤテじゃなくてあたしじゃん…。
彼女はそこでやっと、おかしいのは自分のほうだと気づいてしまった。
ハヤテが昼の月のように凛々しくかっこよく見えてしまうのは、ハヤテが変わったのではなく、自分の中の彼女に対する意識が変わってしまったからなのだと。
自分のことを王子様ではなく、女の子。
そう言ってくれたから、心は揺れてしまったのだと──。
はしゃぐアホと、咽る猫。シグレさん、泳いだらダメよ──と注意するお嬢様に、沈み続ける王子様。
そんなチグハグな四人のせいで、時間をかけて溜められた湯舟はすっかり、浅瀬になってしまうのだった──。
*****
「並べ。そこに。今すぐに。」
早々に浴場を出た四人は、脱衣所を出てすぐの廊下に情けない顔で肩を並べていた。
ばかでかいシグレの笑い声のせいで、風呂場の前を通りかかったチュアンに騒ぎが見つかってしまったのだ。ガラッと浴場のドアが開いたかと思えば、お前ら!五分で廊下に出てこい!と、それだけ吐き捨てチュアンはピシャンッとドアを叩きつけた。五分じゃ無理よ!というハヤテの言葉も虚しく、髪も乾かぬうちに四人は廊下に引っ張り出されるのだった。
「シグレ、お前はいま何歳だ?」
「うっす! じゅーななっす!」
「ちがう。お前はまだ十六だばか」
「イテッ…」
元気よく答えたシグレの頭を、誕生日くらい覚えておけとチュアンが叩く。
「コナミ、風呂場はなにをするところだ?」
「……疲れを取る場所です…」
「ちがう。身体を洗う場所だ」
それはそうだけど…と、コナミは不満げな顔でチュアンを小さく睨んだが、その瞳はうさぎのようで彼女には痛くも痒くもなかった。
「ハヤテ、風呂場の使用時間の制限は?」
「ありません」
「──が?」
「…なるべく速やかに…です」
お前は合格、とチュアンが濡れたハヤテの頭にポンッと触れる。まるで印でも押すかのように。
「で、イブキ」
「はーい」
「返事を伸ばすな。風呂場は泳ぐところか?」
「いや泳いでたのシグレだけじゃん……痛って!」
文句を叩くイブキの額に、チュアンはデコピンをひとつ落とす。
「お前だって潜ってただろーが、反省しろ」
「…へーい」
そーだそーだ!と端の方から面白そうな声を出すシグレの額にも、チュアンは同じものをプレゼントしてやるのだった。
「いいか? お前らもう子供じゃねぇんだぞ? 風呂場でぎゃあぎゃあしても許されるのは小学生までだ。恥を知ればかども」
「まあまあチューさん、そんなに怒ってばっかだと嫌われちゃいますよ?」
「あぁ?」
「ミューちゃんきっと、やさっし~い人の方が好きですって! なあイブキ?」
「え? ああ、うん。かも」
「……お前ら、ミュール先生のデコピンも食らいたいか?」
満開の笑みを浮かべるチュアンの目には、怒りの感情がこれほどかというほどに滲む。
「待っ!それはまじでデコへこむって!!」
「あたしもパス。頭われちゃう」
その提案に二人は揃って音をあげた。あの怪力のデコピンがどれほどの威力を持つのか、それを想像しただけで額がジンジンと痛むからである。
「ったく、ガギが生意気叩きやがって」
「…あの、先生」
「なんだハヤテ」
「罰なら受けるのでもう戻ってもいいですか? コナミさんが風邪引きそうです…」
ひんやりとした秋の夜。遮るものがまるでない廊下にはどこからかやってきた夜風が吹き抜け、濡れた髪は首元から体温を奪っていく。コナミが肩を小さく揺らしていることに、隣にいたハヤテはいち早く気がついたのだ。
「……罰は見回り当番。今日から一週間、お前らが交代でやれ」
わかったらさっさと戻れ──と、チュアンは羽織っていたジャージをコナミにそっと被せると、そのままサンダルを鳴らして立ち去って行った。
「…キザすぎて見てるこっちが恥ずかしい」
「イブ、優しいって言いなさい」
「てか見回りってなに?」
「いつも夜、当番が巡回にきてるでしょ?」
「そんなのあったっけ?」
「……ないわね。イブが起きてる時間は」
頭を抱えるハヤテの横で、イブキはなるほどと顎に手をやった。
「わりぃ、今日二人で行ってくんね? コナミ身体よえぇから…」
「ええ、そのつもり」
手を合わせて頭を下げるシグレに、ハヤテはお安いご用と微笑んだ。
「コナミ大丈夫か? 気づけなくてごめんな?」
「……先生、かっこよかった。シグレと違って」
「げ、コナミあんなんがいいの…?」
「湯舟に引きずり込むよりはマシだも…ッチュ!」
「もう行くぞ、ほんとに風邪引いたらシャレんなんねーから」
よいっしょ、と。まるでお姫様でも扱うかのように、シグレは軽々とその身体を抱き上げる。
「シ、シグレ! 恥ずかしいから…!」
「あ? いいだろ別に。ほいじゃ当番よろしく! じゃあな~」
「あ、ハヤテ、ちゃん…」
「え?」
「さっき、あの、ありがとう…おやすみなさい」
「ええ、おやすみなさい」
ハヤテが頬を和らげると、それを見たコナミは小さく頷き、シグレに抱えられながら部屋へと戻って行った。
「……かわいいわ…」
「はい?」
「見た? 懐かない飼い猫に心を開かれる感覚ってこんな感じなのね…」
「……くしゃみがネズミみたいだなとしか思えなかった」
「もうっ! イブッ!!」
チュアンに叱られたことで、イブキはなんだか頭の中がすっきりとしていた。ハヤテを見るたびに散らばる様々な感情──人知らず孤独を抱えていた彼女を大切にしたいという気持ち、優秀な彼女を尊敬する気持ち、それに…──。
イブキはそんなごちゃついた感情の数々から目を逸らすことにした。湯舟にでも置いてきたと思えばいい──と。先ほどのらしくなかった自分を忘れ、今日のところはもう寝ることだけを考えたい。そんなふうに平常心を取り戻すと、自然とハヤテともいつものように話せるようになっていた。
「ふぁ……」
心から力が抜けたのか、それは欠伸となって身体から逃げていく。
「もう眠いの?」
「ん~…」
しょぼしょぼとする目をイブキは子どものように擦った。
「ハヤテ」
「なに?」
「あたしも抱っこ…」
「……自分で歩きなさい」
「ちぇっ」
イブキは心底、コナミが羨ましいと思った。
「部屋もどろ、もう限界」
「戻ってもいいけどまだ寝ちゃだめよ?」
「……え、今夜は寝かせないよってこと…?」
「はぁ……やっぱりミュール先生にも活を入れてもらうべきね…見回り行かないとでしょ」
ハヤテのため息は秋の空よりも深く、趣のあるものだった。
「えーーー、あたしも行くのーー?」
「当たり前。手分けした方が早いでしょ。それとも明日一人で全部屋やる?」
「……行きます…」
「よろしい。乾かしちゃうからちょっと待ってて」
そう言ってハヤテは脱衣所に戻ると鏡の前に座り、せかせかと使い慣れたドライヤーの電源を入れる。いつもはぬるい弱風をゆっくりと髪に当てていくが、消灯時間の迫っているこの日はそんな余裕もなく、ケアよりも乾かすという行為を目的に強風で行われていた。
最初はただ横でじっとその様子を見ているだけだったイブキも、肩にかけていたタオルを手に取り、ハヤテと違ってほとんど乾いている髪を適当に拭う。
横から流れてくるハヤテのシャンプーの香りに、また騒ぎ出しそうになる心をかき消すために──。
「イブ、そっち終わった?」
「ん~たぶん」
「適当じゃだめよ。チュアン先生にチェック表持って行かないといけないんだから」
当番を代わったクラスメイトは、それはもう大喜び。面倒ごとがなくなり消灯までの貴重な数時間をティータイムに回せるのだから、忙しない学生たちにはこのうえない褒美だろう。もっとも、イブキの場合は寝れる時間が増えるとしか思えないが。
狭くとも、ひとりひとりに個室が完備されているこの寮。二人が三年、二年──と、約百五十ほどの部屋を見回ったところで、時刻は消灯時間の二十一時まであと三十分ほどのところにきていた。ドアを開けたり閉めたり。単純なその作業にイブキは飽き飽きとして、先ほどから何度あくびが溢れたことか分かりはしない。
「──? まだ二部屋残ってるじゃない」
イブキの雑なチェック表に目を通したハヤテが問いかける。
「そこは見なくていーよ」
「だめよちゃんとやらないと」
コンコン──と。ハヤテが残り二部屋のうち一方のドアを中指の背で叩く。
数秒しないうちに大抵の部屋はガチャッと開くが、その部屋は待てどもなんの音沙汰ありはしなかった。
「ほらね…」
「なによ? いないのかしら? この部屋って…」
ドアに記載された部屋のナンバーを確認し、ハヤテが手元の部屋割り表とそれを照らし合わせる。
「ああ、シグレさんの部屋…」
「そそ、だからチェックしなくても──」
「コナミさんの看病かしら? こっちも確認すればいい話ね」
「ちょっ! ハヤテ──!」
「なに?」
焦るイブキの声がけも虚しく、ハヤテは早々に隣──シグレの部屋のドアを叩いてしまった。
「あーあ…」
「イブキったらさっきからどうしたの?」
「いや…」
ドアの向こうからはドンガラガッシャン──と。中で二人が慌てふためく様子が窺え、心の底からもうこの部屋には触れるなとイブキはハヤテの手を止めにかかる。
「? シグレさん? 開けるわよ?」
「ハヤテやめ──っ!!」
が、イブキの考えなど察することのできないハヤテは、そのドアノブに手をかけてしまった。
「っ──!!!」
「……あー…ハヤテお嬢様…ごきげんよう…?」
ドアの向こうには、一糸まとわぬ二人の生徒。一人は布団に顔を埋めこちらを見ようともせず、もう一人はその上に跨り気まずそうにハヤテへ笑顔を向ける。
「な、なにして……」
「あー…体温? あげるのに手っ取り早いかなぁー…なんつって?…」
バタンッ──、と。瞬きも忘れたハヤテが何も言わずにドアを閉める。彼女はやっとそこで気がついたのだ。先ほどからの、イブキの発言の意図に。
「だから言ったじゃん」
「……信じられない…」
「あの二人おかしいんだって」
「学校で…あんなこと…」
「あーはいはい! もう忘れて次のフロア行こ、ね!」
「ありえないわ…あんな…」
つい先ほどまで一緒に過ごしていた二人のその場面に鉢合わせてしまったことがショックなのか、はたまたその行為自体に衝撃を受けているのか。ハヤテは口を塞ぐことも忘れ、一点を見つめたままボソボソと声を漏らし続ける。すっかり機能が停止してしまった彼女の手を引っ張り、イブキはとりあえず離れようと抜け殻のようなハヤテを連れて階段を駆け下りるのだった。
「はいっ、ハヤテ! こっち側よろしく!」
「……」
「ハヤテ? おーい」
彼女の中でよほど大きなできごとだったのか、ハヤテは一年のフロアに着いても床を見つめ思考を止めたまま。その様子に、このままではいつ寝れるか分かったものじゃないと、イブキは少々の荒業を試してみることにした。
「まだ二人のこと考えてるんだ? ハヤテのえっち」
「えっ、ち…って!! ちちち、ちがうわよ?! だいたいあの二人が!!」
「はいはい、静かにしないと迷惑ですよーっ」
「……わ、わかったわよ…」
消灯前の後輩のフロア。そこで大声をあげることは上級生らしくないと、ハヤテはやっと我に返ったのか瞬きを取り戻し、珍しくイブキに背を押され見回りに向かうのだった。
「ここ終わったらいくらでも思い出していいからね、じゃ!」
と、その背にニマニマとした声で投げかけ、イブキはスキップがちに反対の方向へ駆け出していった。
ばっ!ばかイブ──っ!
ハヤテのそんな大きな囁き声に、彼女はまた一段と頬を緩ませるのであった。
*****
「一年、──です」
「ほーい。確認しましたっと」
「あ、あの…イ、イブキ先輩…こ、今度お…お茶でも!その!」
「はいはい、いい子は早く寝ましょーねっ」
「で、でもわたし──!」
「はい、おやすみ~」
相手が言葉を言い終える前に、イブキはそっとドアを閉めた。
一年のフロア──後輩の部屋への見回りは、他の学年よりもイブキの時間を消費していた。部屋を開けるたびにイブキ先輩?!と目を丸くし、ただの点呼にも関わらず身だしなみを揃え、確認後には約束ごとを取り付けようとする。ほとんどの生徒が自分に対してそんな様子であり、呆れかえったイブキは流れ作業のように彼女たちをあしらっていった。
イブキの体たらくぶりを把握している同学年。同じ生徒に対して幻想を抱く時期が終わった上級生。彼女たちはイブキが訪れたところで後輩のような反応を見せることはなかった。──熱狂的な一部の生徒を除いては。
「げ…もうこんな時間じゃん…だる…」
廊下の壁に貼り付けられた振り子時計を見て、イブキは肩を落とす。次々に作業が足止めされ、担当分の見回りを終えるころには消灯時間はとうに過ぎてしまっていた。
「ハヤテもう戻っちゃったかな」
イブキが速足で中央階段のほうへ足を向けると、どこからか小さな喋り声が耳をくすぐった。こんな時間に──?と思いつつ、ハヤテの姿も見えないので声の聞こえる方へイブキは足を進める。
中央階段を過ぎまっすぐに突き進むと、その声はだんだんと形を帯びたものになり、馴染みのある耳障りにイブキはどこかほっとした。
──ハヤテ、誰と喋ってんだろ?
まさか自分と同じような理由で足止めを食らっている?──そう思うと、イブキの足は無意識にそのスピードを速めてしまう。
「ハヤテ?」
角を曲がると、そこにあったのは彼女と後輩の姿。
だが、それはイブキの予想に反し、仲睦まじい様子であった。
「あ、もう終わった?」
「うん」
「じゃあ先生のところに寄って終わりね」
「えぇ~! ハヤテせんぱぁ~い、もう行っちゃうんですかぁ~?」
「もう、じゃないでしょまったく…今日はたくさんお話ししたでしょ?」
「え~足りないですぅ~ 。もっとお話ししたいのにぃ」
「また明日ね?」
「ちぇっ、さみしいなぁ~」
毎日会えるんだからいいでしょと、微笑んで返すハヤテの様子を見てイブキは驚いていた。仲の良い後輩がいるなんて、聞いたことがなかったから。
「知り合い?」
「あ、ええ。この間からちょっと仲良くなって。──メブキよ」
「こんばんわぁ~はじめましてぇ~」
ハヤテが紹介すると、メブキと呼ばれた後輩はとびきりの甘い声を振りまき、その時間帯に似つかわしくないほど眩しい笑顔でイブキに笑いかけた。
「あ、えっと…ども?」
その笑顔に押されながら、イブキは借りてきた猫のように顎だけを下げる。
「わたしのこと知ってたぐらいだから、イブのことも知ってるかしら?」
「イブ…あぁ~! みんな大好き”イブキ先輩”ですかぁ?」
「ええ。まあ間違ってないわ」
なんだそれと思いつつ、違いますとわざわざ口を出すのも面倒で、イブキはハヤテの横で黙っていた。
「………なるほどぉ…」
「…なに?」
距離をぐっと縮め、上から下まで。イブキの全身をくまなくみやけに高く感じられる長月の夜。
しっとりとした律の調べが吹いたころ、イブキは脱衣所のかごの前でひとり佇んでいた。
いつもなら夕食を終えたあとには早々に部屋へ戻り、何をするでもなく自室のベッドでごろごろと一日の疲れを取る。空腹を満たしたあとの幸福感に包まれ、ああもうすぐ意識も落ちていきそう…という頃合いにハヤテがドアをやかましく叩き、お風呂入る前に寝たらだめよ!──とイブキが姿を見せるまで声高に鳴き続ける。
そんな日常からはみ出しイブキはその夜、夕食を済ませるとハヤテに言われるより早く風呂場を訪れていた。
「……え、なんで…?」
本人にすら、その理由ははっきりとしていない。
夕飯に出た焼き魚──ハヤテが言うには秋鯖──が食べづらかったとか、サラダに乗った赤いグチュグチュとした天敵によって食欲を害されたとか。皿を空にできなかった理由はいくつも並べることができる。
だが、なぜその場から一目散に逃げ出したのかと言われると、その答えも言い訳もイブキには見つられそうになかった。
湯口からこぼれる水音だけが耳を刺激するそこで、イブキは数十分前の様子を思い返す──。
「あんれ? めずらしっ。イブキひとり?」
「用事済ませてからくるって」
「ほぉーん。忙しくて大変だなーお嬢様はっ」
寮内の食堂は、校内のそれよりも趣きのある雰囲気が心地よい。限られたスペースで寮生たちが速やかに食事を終えられるよう、学年やクラスによって細かく使用時間が分けられ、誰に囲まれる心配もなく落ち着いて箸を進めることのできるその時間がイブキは好きだった。
先に行っててというハヤテの言葉に最初は待っていようかと声をかけたが、ぐうッと大きく音を上げた身体のせいでイブキは部屋を追い出されてしまった。すぐに行くから先に食べててとハヤテに言われたとおり、いつも二人で腰をかける窓際の席でひとり夕飯をつついていると、通りかかったシグレが声をかけたきたのだ。
「お嬢様ねぇ…」
「あ? てかここ座っていいか? たまには一緒に食おーぜ」
「どーぞっ」
イブキは軽い声でシグレに返す。
「晩めし一緒に食うの久々じゃね? 一年のとき以来か?」
「あー」
「あのころお嬢様忙しそうだったもんなー。イブキと絡みあるのも知らなかったし」
「あー、ね」
「……イブキ、話聞いてっか?」
香ばしく焼かれた魚を見つめたまま空返事を繰り返すイブキに、シグレは箸の先をツンッと向けた。
イブキは考えていたのだ。シグレの言う”お嬢様"という言葉を。
たしかにハヤテは誰がどう見ても育ちの良いお嬢様。品行方正であり文武両道のその様子は、教師陣だけでなく生徒たちからも評判がよく、一目置かれるほどの存在であることはイブキもよく知っている。
だが、それを単に"お嬢様"という言葉に収めてしまうのはどこか納得がいかない。イブキがそう思い始めたのは、まだ蒸し暑さの残るあの夏の日──研修がきっかけであった。
生まれも育ちも良いことは皆が周知の事実であるが、彼女は周りが思っているほど甘く、恵まれた環境で年を重ねたわけではない。幼くして両親を亡くし、いざこざのある母方の祖父母から疎まれパレク──父方の祖父母──のもとで育てられた。血の繋がっている親族といえど、気を遣わないわけにはいかないであろうし、ハヤテの性格ならなおさら──。
イブキはそれを彼女に打ち明けられたあの日、そのやりきれない思いを包み込めるような言葉を彼女にあげることができなかった。
同じではないものの、自分も近しい経験をしている。だからこそ、中途半端な優しさを持った空々しい言の葉で、彼女の悲しみを軽々しく語ってはいけないと思ったのだ。
シグレがハヤテをそう呼ぶことについて、ハヤテ自身が嫌な顔をすることはない。むしろいつだってほがらかに笑っているほど。彼女はもう、そんな扱いをされることに慣れきってしまっているのだ。
その様子はまるで、自分を見ているよう。
だからこそ自分は、自分だけは彼女をそう扱いたくないと、イブキはあの日から強く思うのだった。
「だっけど驚いたよな、ハヤテお嬢様が一緒なのにあの成績って。イブキどんだけ足ひっぱったんだよ?」
「…てかあんたさ、夕飯のときぐらいそれ食べるのやめたら…?」
カラン──と。口の中でいつもの飴を転がすシグレをイブキは冷ややかな目で見る。
「食うときは置いとくって! さすがに魚とメロンソーダはあわねえだろ?」
「…そういう問題じゃねえって…」
「んで? なにをそんなくらーい顔してんのイブキは」
「……別に」
表情が乏しいほうではないが、決して豊かなほうではない。それに物心ついたころから何を考えているか分からないと周囲からそう言われるものだから、シグレの発言にイブキは内心どきっとした心持ちであった。暗い顔を見せていたつもりは、これっぽっちもなかったのだから。
「お嬢様にほっとかれて拗ねてんのか?」
「は? 研修の話…振ったのあんたでしょ?」
「あー、イブキが足手まといってやつな?」
「…ぶっとばすよ?」
「おーこえー。で? なーに悩んでんの王子様はっっ」
「……いや、なんか──…」
研修中のハヤテは、いつもとは少し異なった形でイブキの瞳を象っていた。
ハヤテは優秀でなんでもできる。そんなことぐらい、イブキだって知っているつもりだった。だが所詮、それは"つもり"にすぎなかったのだ。色彩のみでなく幅広い知識を持ち、どんなことにも怯まず自ら進んで問題を解決していく。それに加え、過ちを犯したからといって手あたり次第、無理やりそれを裁こうとはせず、冷静な判断で自分が正しいと思った選択肢を優先する──。
そんないつもとは違う彼女の一面を覗いてしまったから。
だから──。
「へー、ハヤテお嬢様ってやっぱすごいんだなー」
「……なんか、いつもと違った」
「違う? 聞いてるかぎりじゃイメージどおりだけど?」
イブキはあの日のできごとをシグレに伝えながら、まるで答え合わせのように自分の中にある気持ちを整理していた。
酔っ払いに手を掴まれたとき、本当は怖くて仕方がなかった。恐怖で縮こまりそうな心を自分ごとごまかしてしまえと、やたら大きな声を出した。でもそんなものは通用しなくて、力に押しつぶされそうになった。その瞬間、ハヤテは颯爽とやってきて、当たり前のような顔で手を差し出した。
──まるで、出会ったあの夏の日のように。
その手から伝わる体温のせいで、身体がいやに熱くなった。汗を拭われたとき、近づいてきたハヤテの匂いに、なぜか胸の奥が狭まっていくような気がした。りんごに齧り付こうとしたとき、女の子なんだから──と。そう言われて、狭くなった心の奥で、鼓動が大きく揺れた。
果実で約束の蝶を見せてくれたことも、その思い出を大事にしまっていてくれたことも。
ラータの自分に心を染められたと、そう穏やかに笑ったことも──。
ハヤテのすべてが、いつもとはなんだか違ったから。
イブキはあの日から彼女を見ると、胸の奥にばらついたややこしい気持ちが次々と湧き上がってしまうのだった。
「……なんか、とにかくいつものハヤテっぽくなかった…」
「ふーん、それにご不満ってわけ?」
焼き魚の横に添えられた玉子焼きを頬張りながら、シグレが不思議そうな声をあげる。
「いや、不満ってか……シグレってさ、胸痛くなることある?」
「あ? なんだイブキ、成長痛か?」
箸を止めたシグレが、ニヤニヤとイブキを覗き込む。
「あほ、心臓だよ心臓」
「心臓? 病気の話?」
「なんか、この辺り痛くなるときない?…チクチク?みたいな」
イブキはその散乱とした思いが刺激する胸のあたりを親指で指し示す。
「チクチク?…お前それどんなときに…?」
「……」
「おい、急に黙んなよ」
イブキが口を閉ざしたのは、なにも言いたくなかったからではない。ただ説明しようがなかったのだ。あの日のハヤテに感じたことを、どんなとき?と問いかけられても、それに該当するシーンを一つに絞ることは難しかった。
「……あ、でも──」
もし、ただ一つ。
このよくわからない痛みを感じた瞬間を切り取るのであれば。
──あの湖よりもきれいなアオを、あなたに見せてあげる──
「…湖って、エスポワール?」
「うん」
「あれよりきれいなアオ? 全世界、全人類が唯一認識できるあの白群より?」
「……あたしとハヤテ、あれが染まったときほとりで見てたから…」
アンネス湖──授業でもニュースでもしょっちゅう話題にあがるその湖は、この世界に存在するだれもがその美しい色を見ることのできる不思議な場所。ソカツを使うことなく人々が平等に感じることのできるその色は最高峰のアオと呼ばれ、青が集うという意味の”群青”を薄めた色──白群に輝く唯一の存在なのだ。アンコロールの世界では希望──エスポワールと呼ぶ者も多く、パワースポットとしても人気がある。
それだけがなぜ無条件に色を纏うのか、多くの学者が研究を進めているが今日でもその原因は光の中に包まれたまま。
十年ほど前、突然大きなその湖が色づいたとき、イブキはハヤテとそのほとりで蝶を追いかけていたのだ。
「だからハヤテ、そう言ったんだと思う……そんときなんか、ぐって苦しくなった」
思い返しただけでまた一段と痛みの走るそこを、イブキはシャツの上からぎゅっと握りしめた。
「…イブキ、お前それ──」
「愛ですね」
シグレがどう伝えようかとためらっていた言葉を、過剰な表現でイブキに叩きつけたのは隣でもくもくと魚の骨を取り除いていたリボンツイン──コナミであった。
「え、まって喋ったんだけど」
「あ? イブキ、コナミと喋ったことねーの?」
二人の会話に入るわけでもなく、ただじっと座っていた彼女が口を開いたことにイブキは驚きを隠しきれない。
「いやいつも睨まれてるから」
「めっっっちゃかわいいだろ、声」
「……シグレ、うるさい…」
「これ照れてんだぞ? わかりづらくてかわいいだろ?」
「シグレ…!」
目の前で戯れるその様子に、イブキは少々食欲を削がれてしまった。
「……てかずっと思ってたけど、なんでいんの? いつもあたしがいると近寄ってこないじゃん」
「最近なーんか機嫌よくてずっと離れねんだよ…小さいころみてーでかわいいからいいけど」
コナミの頭をぽんぽんと、宥めるようにシグレがあやす。
「…へ、へぇ……てかあんた、かわいいしか言えないわけ?」
「かわいい以外なにがあんだよ?」
「……もういい…」
イブキは先ほどから突けど突けどどうにもうまくほぐれないその憎たらしい魚の身に視線を移した。骨は邪魔だし、シグレはうるさいしその飼い猫はわけわかんないし──と。
「でもイブキだって思うだろ?」
「それ? かわいいって?」
イブキはすっかりシグレに手名付けられた様子のコナミを見る。"それ"と言われたことに少々不服そうな顔を見せながらも、頭を撫で続けるシグレのおかげか彼女が噛みついてくることはなかった。
「いやコナミはかわいいけど。じゃなくてお嬢様」
「……ハヤテ…?」
イブキの箸を持つ手が止まる。
「なんで…?」
「普通にかわいいってなるだろ、あんな美人」
「……いや、だって、ハヤテは…」
「わたしがなに?」
「──ッ!!」
イブキの後ろからひょこっと顔を出したのは、何を隠そう先ほどからイブキの心を独占している彼女あった。急にその姿が現れたものだから、イブキは身体にぐっと力が入ってしまう。
「お、お嬢様おかえり~」
「ただいま? めずらしいわね、三人でご飯なんて」
「ちょっとイブキのお悩み相談。お嬢様こそイブキほっとくなんて珍しいじゃん、なにしてたん?」
固まったイブキをそのままに二人の会話は進み、ハヤテは自然にイブキの横に腰を下ろす。
「珍しいって…後輩の子に呼ばれちゃって」
「あ~、なるほどね? アレか…」
「あれ? あ、イブ、骨取れないんでしょ? 今取ってあげるから箸貸し──」
「!!!」
「……イブ?」
「だ、だいじょうぶ! もうお腹いっぱいだから!!…お風呂、あたしお風呂行ってくる!!」
──と。そう言って駆け出してきたのが十分ほど前。
「…いや意味わかんないでしょ…」
思い返してみても、なぜハヤテから逃げてしまったのかイブキには理解不能である。
ただ箸を取ろうとしたハヤテの手が、あの長く細い指先がほんの少し触れただけ。そんなことは今までだって何度もあった。遅刻しそうになった朝、喧噪から抜け出した昼、毎日眠りにつく前だって。ハヤテに触れる機会はいつも転がっているのに、なんだってこの胸はこんなにやかましく騒いで、自分を刺激してくるのか。
「絶対あいつらのせいじゃん…」
イブキはハァッとため息をつき、脱衣所のかごに額をくっつけた。
──普通にかわいいってなるだろ、あんな美人。
頭で繰り返されるのは、先ほどのシグレの声。
ハヤテの顔はたしかに整っている。それは小さいころから変わらず、整った鼻筋も一度見たら忘れられないほど大きな目も、スッと顔全体をまとめるような眉のラインも──。傍から見ればかわいいとか、美しいとか、そう言われることは間違っていない。
だがイブキは彼女を今まで、そんなふうに見たことがなかったのだ。単に幼いころを過ごした、初めてで唯一の友人。
それがどうしたことか、あの日から自分はハヤテを──。
「……かっこいい……ってなんだよ…」
そう思ってしまっていることに、イブキはついさっきのシグレの言葉に後を押され気づいてしまったのだ。
いつだって何食わぬ顔で当たり前のように自分に手を差し伸べる彼女を、かわいらしいとか美人とか──そういった感情を差し置いて、魅力的に感じていると。
それはまるで、白昼に浮かぶ月のようだとイブキは思う。
中夜、草木も寝静まるその宵をやさしく照らし出すあたたかい月明かり。街灯にも負けることなく進む先はこちらだと、そう導いてくれるものやわらかい存在──今までのイブキはきっと、ハヤテをそんな天満月のように思っていた。
だが、あの日の彼女はそれよりももっと、透き通るように凛として。太陽の眩しさには及ばずとも、決して劣らぬたおやかさを持ってそこにいる。ただひたすらにこちら見つめる昼間の月のようだと、イブキは思ったのだ。
いつだってそこにあるのに目を向けなければ気がつかない。
そんな薄い月のようだと──。
「……てか愛ってなに…まじで…」
この胸の痛みを"愛"と、コナミはそう呼んだ。
それがどうにも、イブキには腑に落ちないのだ。
あのときはなんとなく彼女が喋り出したことに注意を逸らし、シグレがそれに乗っかったことで話はうまく流れてくれた。それでよかったとイブキは思う。愛がなんだとか、そんなものを語るつもりはないし、語られるのも耳障りだ。そんな感情、自分にはこれっぽっちも備わってはいないし、誰かに与えられるような立場でもない。それにハヤテは、大切な友人だ。家族でも、まして恋人でもない彼女にそんな気持ちが向いているとは、どうにもイブキには思えないのだった。
「でもじゃあなにって話か…」
かといって、それを否定できるほど強く代わる言葉をイブキは見つけられない。今まで勉強を怠ったせいなのだろうか。教科書を隅から隅まで探せば、この痛みの名前がわかるのだろうか。
そうやってイブキが頭を悩ませている間に、いつのまにか静かだった脱衣所にも同級生たちの浮ついた声が響くようになっていた。
「…イブ、まだ入ってなかったの?」
「うわっ!!」
そんな脱衣所の様子には目もくれず、眉間にシワを寄せたままのイブキは隣に迫っているハヤテの姿に気づくわけもなかった。
「なによ、お化けでも見たような顔して…さっきからずいぶん失礼ね?」
「…別にそういうわけじゃ…」
「…? あなたの残り、シグレさんが喜んで食べてたわよ。骨までまるごと」
「あー、なんか想像つくわ…」
「それにしてもどんな心境の変化なの?」
「あ……え…?」
ハヤテのその大きな瞳が、イブキを捕まえる。
「だって、おかしいじゃない? 急に」
「……別におかしくないっていうか…いたって普通?だし…なにもないっていうか…」
「ほんとに?」
ぐぐっと顔を近づけ、押し迫ってくるハヤテの圧にイブキは耐えられなくなりその視線からも逃げ出した。
「だ、だってハヤテが──!」
「わたし? コナミさんになにかしたかしら?」
「……コナミサン…?」
「ええ。だって今まで一緒にご飯なんてなかったでしょ? わたしたちがシグレさんと話してるだけですぐプンプンしてたのに…なんなら玉子焼きくれたのよ? 信じられる?」
「なんだ…そっちか…」
「そっちって?」
溜まっていた緊張感にさよならをして、肩に入っていた力を息と一緒にイブキは吐き出した。
「イブ? 大丈夫?」
「ん…なんでもないから気にしな──…ちょ、ハ、ハヤテ?!」
「え?」
「な、なに脱いで──」
「なにって…脱がなきゃ入れないでしょ? イブ、ほんとに大丈夫…?」
目の前でスカートを脱ぎ始めたハヤテの姿に、イブキは慌てて顔を逸らした。
「……まじなんでこんなんなってんの…」
「なんでって、脱衣所だから?」
「……あーもうっ! ちがうよ! ハヤテのとんちんかん!」
「な、なによ?!」
イブキはガバッと制服を脱ぎ捨てかごに投げ入れると、先はいる!と大きな声をあげハヤテを置いて浴場へと急いだ。
なんなの。なんで──。
ハヤテとお風呂なんてもう何回も入ってるし、別に今さら裸見ることぐらい、どうってわけじゃないのに──。
「……なんであたし、あんなパンツ見たくらいでこんなんなってんの…童貞かよ…」
湯舟に顔を沈めるイブキのひとり言は、熱い湯の中にブクブクと消えていく。
この身体の熱りはその水温によるものなのか、はたまた心の温度によるものなのか。イブキにははっきり、その答えがわかってしまった。
──あなたが友だちになってくれたから、わたしは今もここにいるの──
──あああ! なんであんなこと言うかなもう…ハヤテのやつ…なってくれたのはそっちじゃんか…。
「イブ…イブ…? ちょっと、そろそろあがってこないと溺れるわよ!」
「──わっ! ハヤテ?!」
湯の中でぶつぶつ泡を立てていたイブキを、軽くシャワーを済ませたハヤテが引き上げる。うっすらと湿る髪、滴るうなじに、濡れた柔い肌──。それを間近で受け止めてしまい、イブキはこの日四度目になる脱出を試みた。
「ちょ、イブ…走ったら危な──!!」
「わわッ!!」
──バシャンッ!!
脱衣所に猛ダッシュしようとしたイブキの左手を、グイッとハヤテが掴んだことでその身体はバランスを崩し、湯舟の縁から滑り落ちていく。突然降ってきた小さな彼女を受け止めきれず、ハヤテもろ共、二人は湯舟の中に突っ込んだ──それはもう、豪快に。
イブキの四度目の逃走は、失敗に終わったのである。
「なにやってんだ? プールごっこか? うちらも混ぜろーっ!」
「ちょ、ちょっと待って、シグレ…!!!」
その様子を見ていたアホが、飼い猫の手を引いてバチャンッ──と飛び込みあたりは飛沫につつまれる。
シグレがガハガハと笑い、コナミがケホケホと咳き込む。その横でハヤテはやれやれという顔をしながら、すっかりびしょ濡れになってしまった髪を緩く絞る。
その様子に、イブキはまた湯の中に沈んでいった。
──いつもと違うの…ハヤテじゃなくてあたしじゃん…。
彼女はそこでやっと、おかしいのは自分のほうだと気づいてしまった。
ハヤテが昼の月のように凛々しくかっこよく見えてしまうのは、ハヤテが変わったのではなく、自分の中の彼女に対する意識が変わってしまったからなのだと。
自分のことを王子様ではなく、女の子。
そう言ってくれたから、心は揺れてしまったのだと──。
はしゃぐアホと、咽る猫。シグレさん、泳いだらダメよ──と注意するお嬢様に、沈み続ける王子様。
そんなチグハグな四人のせいで、時間をかけて溜められた湯舟はすっかり、浅瀬になってしまうのだった──。
*****
「並べ。そこに。今すぐに。」
早々に浴場を出た四人は、脱衣所を出てすぐの廊下に情けない顔で肩を並べていた。
バカでかいシグレの笑い声のせいで、風呂場の前を通りかかったチュアンに騒ぎが見つかってしまったのだ。ガラッと浴場のドアが開いたかと思えば、お前ら!五分で廊下に出てこい!と、それだけ吐き捨てチュアンはピシャンッとドアを叩きつけた。五分じゃ無理よ!というハヤテの言葉も虚しく、髪も乾かぬうちに四人は廊下に引っ張り出されたのである。
「シグレ、お前はいま何歳だ?」
「うっす! じゅーななっす!」
「ちがう。お前はまだ十六だばか」
「イテッ!」
威勢よく答えたシグレの頭に、自分の誕生日くらい覚えておけとチュアンが平手をひとつ。
「コナミ、風呂場はなにをするところだ?」
「……疲れを取る場所です…」
「ちがう。身体を洗う場所だ」
それはそうだけど…と、コナミは不満げな顔でチュアンを小さく睨んだが、その瞳はうさぎのようで彼女には痛くも痒くもなかった。
「ハヤテ、風呂場の使用時間の制限は?」
「ありません」
「──が?」
「…なるべく速やかに、です…」
お前は合格、とチュアンが濡れたハヤテの頭にポンッと触れる。まるで印でも押すかのように。
「で、イブキ」
「はーい」
「返事を伸ばすな。風呂場は泳ぐところか?」
「いや泳いでたのシグレだけじゃん……痛って!」
文句を叩くイブキの額に、チュアンはデコピンをひとつ食らわせた。
「お前だって潜ってただろーが、反省しろ」
「…へーい」
そーだそーだ!と端の方から面白そうな声を出すシグレの額にも、チュアンは同じものをプレゼントしてやるのだった。
「いいか? お前らもう子供じゃねぇんだぞ? 風呂場でぎゃあぎゃあしても許されるのは小学生までだ。恥を知ればかども」
「まあまあチューさん、そんなに怒ってばっかだと嫌われちゃいますよ?」
「あぁ?」
「ミューちゃんきっと、やさっし~い人の方が好きですって! なあイブキ?」
「え? ああ、うん。かも」
「……お前ら、ミュール先生のデコピンも食らいたいか?」
満開の笑みを浮かべるチュアンの目には、怒りの感情がこれほどかというほどに滲む。
「待っ!それはまじでデコへこむって!!」
「あたしもパス。頭われちゃう」
その提案に二人は揃って声をあげた。あの怪力のデコピンがどれほどの威力を持つのか、それを想像しただけで額がジンジンと痛むからである。
「ったく、ガギが生意気叩きやがって」
「…あの、先生」
「なんだハヤテ」
「罰なら受けるのでもう戻ってもいいですか? コナミさんが風邪引きそうです…」
ひんやりとした秋の夜。遮るものがまるでない廊下にはどこからかやってきた夜風が吹き抜け、濡れた髪は首元から体温を奪っていく。コナミが肩を小さく揺らしていることに、隣にいたハヤテはいち早く気がついたのだ。
「……罰は見回り当番。今日から一週間、お前らが交代でやれ」
わかったらさっさと戻れ──と、チュアンは羽織っていたジャージをコナミにそっと被せると、そのままサンダルを鳴らして立ち去って行った。
「…キザすぎて見てるこっちが恥ずかしい」
「イブ、優しいって言いなさい」
「てか見回りってなに?」
「いつも夜、当番が巡回にきてるでしょ?」
「そんなのあったっけ?」
「……ないわね。イブが起きてる時間は」
頭を抱えるハヤテの横で、イブキはなるほどと顎に手をやった。
「わりぃ、今日二人で行ってくんね? コナミ身体よえぇから…」
「ええ、そのつもり」
手を合わせて頭を下げるシグレに、ハヤテはお安いご用と微笑んだ。
「コナミ大丈夫か? 気づけなくてごめんな?」
「……先生やさしかった。シグレと違って」
「げ、コナミあんなんがいいの…?」
「湯舟に引きずり込むよりはマシだも…ッチュ!」
「もう行くぞ、ほんとに風邪引いたらシャレんなんねーから」
よいっしょ、と。まるでお姫様でも扱うかのように、シグレは軽々とその身体を抱き上げる。
「シ、シグレ! 恥ずかしいから…!」
「あ? いいだろ別に。ほいじゃ当番よろしく! じゃあな~」
「あ、ハヤテ、ちゃん…」
「え?」
「さっき、あの、ありがとう…おやすみなさい」
「ええ、おやすみなさい」
ハヤテが頬を和らげると、それを見たコナミは小さく頷き、シグレに抱えられながら部屋へと戻って行くのだった。
「……かわいいわ…」
「はい?」
「見た? 懐かない飼い猫に心を開かれる感覚ってこんな感じなのね…」
「……くしゃみがネズミみたいだなとしか思えなかった」
「もうっ! イブッ!!」
チュアンに叱られたことで、イブキはなんだか頭の中がすっきりとしていた。ハヤテを見るたびに散らばる様々な感情──人知らず孤独を抱えていた彼女を大切にしたいという気持ち、優秀な彼女を尊敬する気持ち、それに…──。イブキはそんなごちゃついた感情の数々から一旦、目を逸らすことにした。湯舟にでも置いてきたと思えばいい──と。先ほどのらしくなかった自分を忘れ、今日のところはもう寝ることだけを考えたい。そんなふうに平常心を取り戻すと、自然とハヤテともいつものように話せるようになっていた。
「ふぁ……」
心から力が抜けたのか、それは欠伸となって身体から逃げていく。
「もう眠いの?」
「ん~…」
しょぼしょぼとする目をイブキは子どものように擦った。
「ハヤテ」
「なに?」
「あたしも抱っこ…」
「……自分で歩きなさい」
「ちぇっ」
イブキは心底、コナミが羨ましいと思った。
「部屋もどろ、もう限界」
「戻ってもいいけどまだ寝ちゃだめよ?」
「……え、今夜は寝かせないよってこと…?」
「はぁ……やっぱりミュール先生にも活を入れてもらうべきね? 見回り行かないとでしょ」
ハヤテのため息は秋の空よりも随分と深いものであった。
「え、あたしも行くの…?」
「当たり前。手分けした方が早いでしょ。それとも明日一人で全部屋やる?」
「……行きます…」
「よろしい。乾かしちゃうからちょっと待ってて」
そう言ってハヤテは脱衣所に戻ると鏡の前に座り、せかせかと使い慣れたドライヤーの電源を入れる。いつもはぬるい弱風をゆっくりと髪に当てていくが、消灯時間の迫っているこの日はそんな余裕もなく、ケアよりも乾かすという行為を目的に強風で行われていた。
最初はただ横でじっとその様子を見ているだけだったイブキも、肩にかけていたタオルを手に取り、ハヤテと違ってほとんど乾いている髪を適当に拭う。
横から流れてくるハヤテのシャンプーの香りに、また騒ぎ出しそうになる心をかき消すために──。
「イブ、そっち終わった?」
「ん~たぶん」
「適当じゃだめよ。チュアン先生にチェック表持って行かないといけないんだから」
当番を代わったクラスメイトは、それはもう大喜び。面倒ごとがなくなり消灯までの貴重な数時間をティータイムに回せるのだから、忙しない学生たちにはこのうえない褒美だろう。もっとも、イブキの場合は寝れる時間が増えるとしか思えないが。
狭くとも、ひとりひとりに個室が完備されているこの寮。二人が三年、二年と、約百五十ほどの部屋を見回ったところで、時刻は消灯時間の二十一時まであと三十分ほどのところにきていた。ドアを開けたり閉めたり。単純なその作業にイブキは飽き飽きとして、先ほどから何度あくびが溢れたことか分かりはしない。
「──? まだ二部屋残ってるじゃない」
イブキの雑なチェック表に目を通したハヤテが問いかける。
「そこは見なくていーよ」
「だめよちゃんとやらないと」
コンコン──と。ハヤテが残り二部屋のうち一方のドアを中指の背で叩く。
数秒しないうちに大抵の部屋はガチャッと開くが、その部屋は待てどもなんの音沙汰もありはしなかった。
「ほらね…」
「なによ? いないのかしら? この部屋って…」
ドアに記載された部屋のナンバーを確認し、ハヤテが手元の部屋割り表とそれを照らし合わせる。
「ああ、シグレさんの部屋」
「そそ、だからチェックしなくても──」
「コナミさんの看病かしら? こっちも確認すればいい話ね」
「ちょっ! ハヤテ──!」
「なに?」
焦るイブキの声がけも虚しく、ハヤテは早々に隣──シグレの部屋のドアを叩いてしまった。
「あーあ…」
「イブキったらさっきからどうしたの?」
「いや…」
ドアの向こうからはドンガラガッシャン──と。中で二人が慌てふためく様子が窺え、心の底からもうこの部屋には触れるなとイブキはハヤテの手を止めにかかる。
「? シグレさん? 開けるわよ?」
「ハヤテやめ──っ!!」
が、イブキの考えなど察することのできないハヤテは、そのドアノブに手をかけてしまった。
「っ──!!!」
「……あー…ハヤテお嬢様…ごきげんよう…?」
ドアの向こうには、一糸まとわぬ二人の生徒。一人は布団に顔を埋めこちらを見ようともせず、もう一人はその上に跨り気まずそうにハヤテへ笑顔を向ける。
「な、なにして……」
「あー…体温? あげるのに手っ取り早いかなぁー…なんつって?…」
バタンッ──、と。瞬きも忘れたハヤテが何も言わずにドアを閉める。彼女はやっとそこで気がついたのだ。先ほどからの、イブキの発言の意図に。
「だから言ったじゃん」
「……信じられない…」
「あの二人おかしいんだって」
「学校で…あんなこと…」
「あーはいはい! もう忘れて次のフロア行こ、ね!」
「ありえないわ…あんな…」
つい先ほどまで一緒に過ごしていた二人のその場面に鉢合わせてしまったことがショックなのか、はたまたその行為自体に衝撃を受けているのか。ハヤテは口を閉じることも忘れ、一点を見つめたままボソボソと声を漏らし続ける。すっかり機能が停止してしまった彼女の手を引っ張り、イブキはとりあえず離れようと抜け殻のようなハヤテを連れて階段を駆け下りるのだった。
「はいっ、ハヤテ! こっち側よろしく!」
「……」
「ハヤテ? おーい」
彼女の中でよほど大きなできごとだったのか、ハヤテは一年のフロアに着いても床を見つめ思考を止めたまま。その様子に、このままではいつ寝れるか分かったものじゃないと、イブキは少々の荒業を試してみることにした。
「まだ二人のこと考えてるんだ? ハヤテのえっち」
「えっ、ち…って!! ちちち、ちがうわよ?! だいたいあの二人が!!」
「はいはい、静かにしないと迷惑ですよーっ」
「……わ、わかったわよ…」
消灯前の後輩のフロア。そこで大声をあげることは上級生らしくないと、ハヤテはやっと我に返ったのか瞬きを取り戻し、珍しくイブキに背を押され見回りに向かうのだった。
「ここ終わったらいくらでも思い出していいからね、じゃ!」
と、その背にニマニマとした声で投げかけ、イブキはスキップがちに反対の方向へ駆け出していった。
ばっ! ばかイブ──っ!
ハヤテのそんな大きな囁き声に、彼女はまた一段と頬を緩ませるのであった。
*****
「一年、──です」
「ほーい。確認しましたっと」
「あ、あの…イ、イブキ先輩…こ、今度お…お茶でも!その!」
「はいはい、いい子は早く寝ましょーねっ」
「で、でもわたし──!」
「はい、おやすみ~」
相手が言葉を言い終える前に、イブキはそっとドアを閉めた。
一年のフロア──後輩の部屋への見回りは、他の学年よりもイブキの時間を消費していた。部屋を開けるたびにイブキ先輩?!と目を丸くし、ただの点呼にも関わらず身だしなみを揃え、確認後には約束ごとを取り付けようとする。ほとんどの生徒が自分に対してそんな様子であり、呆れかえったイブキは流れ作業のように彼女たちをあしらっていった。
イブキの体たらくぶりを把握している同学年。同じ生徒に対して幻想を抱く時期が終わった上級生。彼女たちはイブキが訪れたところで後輩のような反応を見せることはなかった。──熱狂的な一部の生徒を除いては。
「げ…もうこんな時間じゃん…だる…」
廊下の柱につけられた振り子時計を見てイブキは肩を落とす。次々に作業が足止めされ、担当分の見回りを終えるころには消灯時間はとうに過ぎてしまっていた。
「ハヤテもう戻っちゃったかな」
イブキが速足で中央階段のほうへ足を向けると、どこからか小さな喋り声が耳をくすぐった。こんな時間に──?と思いつつ、ハヤテの姿も見えないので声の聞こえる方へイブキは足を進める。
中央階段を過ぎまっすぐに突き進むとその声はだんだんと形を帯びたものになり、馴染みのある耳ざわりにイブキはどこかほっとした。
──ハヤテ、誰と喋ってんだろ?
まさか自分と同じような理由で足止めを食らっている?──そう思うと、イブキの足は無意識にそのスピードを速めてしまう。
「ハヤテ?」
角を曲がると、そこにあったのは彼女と後輩の姿。
だが、それはイブキの予想に反し、仲睦まじい様子であった。
「あ、もう終わった?」
「うん」
「じゃあ先生のところに寄って終わりね」
「えぇ~! ハヤテせんぱぁ~い、もう行っちゃうんですかぁ~?」
「もう、じゃないでしょまったく…今日はたくさんお話ししたでしょ?」
「え~足りないですぅ~ 。もっとお話ししたいのにぃ」
「また明日ね?」
「ちぇっ、さみしいなぁ~」
毎日会えるんだからいいでしょと、微笑んで返すハヤテの様子を見てイブキは驚いていた。仲の良い後輩がいるなんて、聞いたこともなかったのだから。
「知り合い?」
「ええ。この間からちょっと仲良くなって。──メブキよ」
「こんばんわぁ~はじめましてぇ~」
ハヤテが紹介すると、メブキと呼ばれた後輩はとびきりの甘い声を振りまき、その時間帯に似つかわしくないほど眩しい笑顔でイブキに笑いかけた。
「あ、えっと…ども……」
その笑顔に押されながら、イブキは借りてきた猫のように顎だけを浅く下げる。
「わたしのこと知ってたぐらいだから、イブのことも知ってるかしら?」
「イブ…あぁ~! みんな大好き”イブキ先輩”ですかぁ?」
「ええ。まあ間違ってないわ」
なんだそれと思いつつ、違いますとわざわざ口を出すのも面倒でイブキはハヤテの横で口を閉ざしていた。
「…ふんふん……なるほどぉ…」
「…なに?」
距離をぐっと縮め、上から下まで。全身をくまなく見回してくるメブキに、イブキは一歩後ずさりしてしまう。
「そういうことですかぁ。ふふっ」
「そういうこと?」
「なんでもないで~すっ、それよりハヤテせんぱぁい」
もう用は済んだと、そんなふうにハヤテのほうへ身体ごとを向けるメブキの様子はまるで飼い犬かなにかのよう。
「わたしのこともそうやって呼んでくださいよぉ」
「そうやって?」
「メブ──って。呼んでほしいなぁ?」
「ちょ、ちょっと…」
そう言って彼女はまるで見せつけるかのように、ハヤテの右腕に絡みついた。
「…ハヤテ、そろそろ行かないと」
イブキは咄嗟に、空いているハヤテの左手を掴む。摘まむようにちょんと、それでも力強く。
「あ、ええ、そうね」
「えぇ~! だめですぅ。呼ぶまでわたし、離してあげませんからね?」
「もう…早く寝なさい? 明日も授業でしょ?」
「むぅ~」
「はぁ…しょうがないわね」
頬をぷくっと膨らませまるで離れる気のない彼女に、ハヤテは降参したように眉を下げて笑いかける。
「また明日ね? メブ」
「…ついでに頭撫でてくれたり?」
「──甘えすぎよ?」
「ふふっ、ハヤテせんぱい押しに弱いから好きですぅ~」
「はいはい、じゃあほんとにおやすみなさい」
「はぁ~い。あ、ハヤテせんぱぁい」
「なに?」
「試験勉強、がんばってくださいねぇ~」
「ええ、ありがとう」
「じゃあおやすみなさいですぅ。あ、イブキ先輩もっ」
「あ、あぁ…おやすみ…」
二人の様子に呆気に取られ、すっかり静かになっていたイブキはその挨拶でやっと意識を取り戻した。
音が響かないよう、ドアノブを曲げて静かにドアを閉めると、ハヤテはカチッとボールペンの頭を叩いて最後のチェックを付け終える。
「ふぅ。やっと全部屋終わったわね…明日からは四人で手分けした方が早いかも…シグレさんたちに相談してみま──イブ?」
「あ、え? なに?」
「どこ見てるの? 職員室行くわよ?」
「あ、ああ。うん」
ドアを見つめたままのイブキの頬を、ハヤテが人差し指でつんつんと突く。
「まだ先生いるかしら? ずいぶん遅くなっちゃったから怒られちゃうかもしれないわね」
「あーごめん。なんかめっちゃ絡まれて…」
「人気者さんは大変ね? 明日から一年のフロアはイブじゃないほうがいいかも」
「……うん。シグレたちに任せよ」
「わたしがやるわよ」
「あー、ハヤテは上級生がいいよ。シグレじゃ先輩怒らせそうだし、リボンツインは一人じゃ回れなさそう」
「…それもそうね…」
階段をゆっくり上がりながら、二人は職員室までの静かな道を歩く。
「今日はいろんなことがあって疲れたわ…あの子に呼び出されたり、お風呂でびしょ濡れになったり」
「呼び出された?」
「ええ。メブが急いできてください!──なんて言うから何ごとかと思ったけど、課題が終わらないって泣きついてきたのよ」
「…ああ、それで──…」
ハヤテが夕食の時間どこに行っていたのか、イブキは頭の中で点と点を結ぶ。
「なんかめずらしい」
「え?」
「ハヤテが後輩といるの」
「ああ…この前図書室で声かけられたのよ。それでなんとなく?」
「ふーん」
「メブったら甘えんぼうで困るわ…一人っ子なのかしら?」
ハヤテが顎に手を置いて頭を傾げる。
「さあ……てか試験って?」
「ソカツ検定よ。冬の試験、再来月でしょ?」
「あーぁ…ありましたねそんなの…」
イブキは納得しつつ、渋い顔を見せる。
「ハヤテいま何級なの?」
「中級。もう上級にチャレンジしようと思って…早く取ってやりたいことがあるの」
「ふーん」
「イブも、ね?」
「うーん…どうかなー」
イブキは明後日の方向に目をやった。
ラータとして生まれラータの町で育ち、アンファーと関わりなどなく、長い間をアンコロールで過ごしたイブキにとって、色というものはひとつの概念にすぎなかった。あればまあ目を向けたりもするが、なくても困ることなんてない。彼女にとって色とは、その程度のものなのだ。
だからこそイブキはソカツなどというものに興味はないし、この学園に入るつもりだってなかった。色彩学園──名前こそおぼろげに知ってはいたが、自分とは関係のない場所。あなたに資格はないわ──と幼いころ母に言われたとおり、ずっとそう思って生きてきた。あの日、ひとりの女性が自分を訪ねてくるまでは──。
ハヤテの別荘を寝床にするにも限界はある。管理人なのか地主なのか、月に一度別荘の様子を見に来る彼らから身を隠すのに、イブキは一度しくじってしまったことがある。月末の平日の午前中。大体はその時間に訪れる彼らであったが、一度だけまったく異なる日程で訪れた日があった。鍵が解錠される音でなんとか気づき、急いで窓から逃げ出したは良いが荷物はそのまま。人が住み着いているような痕跡を残してしまったことで見張りは強化。幸い、怪しい人影がないことから数週間でその警戒も解かれ、窓から出入りしていると勘違いした彼らが鍵穴を変えることはなかった。
だが、こんなことをいつまでも続けられるわけはない。今回は運がよかっただけのこと。イブキは近いうち、どこかに身を移す必要があると考えていた。そんなとき、どこから聞きつけたのか、働いていた酒場にイブキを訪ねてきたひとりの女性がいた。背はスラッと高く髪を肩のあたりにひとつにまとめ、淡く透ける穏やかな瞳を持った目尻は、ゆるりと弧を描いた優しいたれ目だったように思う。
──大きくなりましたね。
イブキを見て、女性はそう微笑んだ。
しかし、イブキの記憶の中に彼女の影はなかった。
頭を傾げていると、女性はなにも言わずに一枚の封筒をイブキへと差し出したのだ。その中には、色彩学園──中心都市部──への入学許可証。それから学園・カリキュラムの資料に、中心部までの片道切符が一枚。イブキは訳が分からず女性へと視線を戻そうとしたが、彼女の姿はもう、その店にはなかった。
数日経つとイブキ宛にと、店に届いたのが制服と指定の靴。最初こそ戸惑ったものの、全寮制で朝晩と食事つき。衣食住に困らなければ、住む場所などどこでもよかったイブキは学園への入学を決めた。ラータである自分がなぜ入学を許可されたのか、彼女が誰であるのか。そんなことは微塵も分かりはしないが、こんな美味しい話に食いつかない方がアホだ──と。学園に入れば彼女のことは分かるだろうし、実際問題ソカツなど取らなくても追い出されることはない。だったらとりあえず、保証されたこの三年間はそこに身を置こうと、イブキは制服に腕を通したのだ。
だからソカツの能力を欲してはいないし、試験を受ける気は今のところこれっぽっちもない。
それにひと通り職員や生徒を調べてはみたが、あの日の女性の姿は見当たらない。そうなるとそもそも自分がラータであると、学園側がそれを認識しているのかどうかは怪しいところ。取れるかも不確かな資格の試験を下手に受け、それが判明してしまうリスクがあるのだったらこのまま何もせず、静かに三年間を過ごすのが賢いやり方だとイブキはそう考えているのだ。
「もう、適当なんだからっ…」
「てか試験ってなにやるの?」
授業を真面目に受けている者なら誰だって分かるような質問を、イブキはハヤテに投げかける。
「毎回少し違うけど…実技と筆記が5:4ってところかしら?」
「実技と筆記?」
その中身を教えてくれと、イブキは瞳で問いかけてみる。
「実技はそうね…初級はないんだけど、中級からは現級が問題ない技量で使えてるのかってチェックされるわね」
「ほーん」
「筆記は色彩知識のテストみたいなものね。色名に三原色情報、三属性のマンセルとか」
「…さん?…マン…?」
おおよそ初めて耳にしたような顔を向けるイブキに、ハヤテはやれやれと首を横に小さく振った。
「光の三原色に色の三原色でしょ? 属性は色相、明度、彩度……あなたが好きなアオだって、勿忘草やら露草やら、一つだけじゃないの。色名は無限にあるのよ? いつもミュール先生が授業で言ってるでしょう?」
「……ハヤテさっきから何語話してんの?」
「…イブ、あなたどうやって進級したのよ…」
たしかに第一学年時、シグレが寄こしたノートにそんな項目があったようななかったような。イブキは聞いているだけで目が回りそうなその内容に、試験を受ける気がますます失せてしまった。
「無理かも……」
「四割だからちゃんと対策してれば手こずるようなものでもないわ」
「じゃあ残り一割って…?」
5:4──先ほどのハヤテのその発言に、イブキはこれ以上なにをさせるつもりだと、怯えた様子で返事を待った。
「あなたそんなことも知らないで在席してるの…?」
信じられないと、つい一時間ほど前、シグレたちの営みを目撃してしまったときと同じ表情でハヤテはイブキを見た。あれと一緒かよ…──とイブキは心底、不愉快な気持ちに見舞われる。
「え、なに?」
「歌唱よ、歌唱」
「歌唱……? 色関係ないじゃん」
どんな難関が待ち受けているのかと思えば、一番楽そうじゃんと、イブキは度肝を引っこ抜かれた。
「…まあそれはそうだけど…」
「上手くないとだめとかそういうこと?」
「別にそういう原則な規定はないわ。音程さえ取れてれば…形式上みたいなことなんだと思うけど…」
なにそれと、イブキは開いた口を閉じるつもりもない。
「なに歌わされるの?」
「あなたほんとに何も知らないのね…The Last Rose of Summer──庭の千草って聞いたことあるでしょ?」
「あーなんか……聞いたことある、ような気もする?」
「音楽の授業中なにしてるのよ…トゥルアの緑の木々ってこの前教えたでしょ?」
「……なにがなんだって?」
自分から聞いたはいいものの、先ほどから謎の単語ばかりがその口から発せられ、イブキの思考回路は煙が立ちそうな勢いであった。
「メロディの原典がトゥルアだって言われ──」
「おっけ。わかった」
また呪文を唱えだしそうな勢いのハヤテを、イブキは手のひらで止める。
「難しいこと言われてもわかんないから歌って?」
「……い、いやよ…」
「なんで? ハヤテ試験で歌ってんでしょ?」
「それとこれとは──…とにかくいや!」
もごもごと口ごもるハヤテは、顔をふいっと斜め上に向けてしまう。
「ちぇ……じゃあどんな曲なわけ?」
「…悲しいけど、美しい曲よ。愛する人に先立たれた寂しさや孤独を、白菊の花に例えてるの。霜にも負けずに咲くように…その人だけを愛し続ける──って」
「おお…深い…」
「そうよ? ああ、でも──」
「ん?」
「国によって表現が微妙に違うのよ。原曲は残った一輪の薔薇を、仲間のもとに手折るみたいな…それに三番まであって最後は"もうすぐ後に続く"──」
「──って?」
わかったようなわからないような。つまりはどういうことなのか、イブキはハヤテの顔を覗き込む。
「愛した人がいない世界では生きていけない──みたいなことね…」
「じゃあバッドエンド?」
「うーん、解釈は人それぞれね。わたしは儚くて素敵だと思うけど…」
「ふーん」
「ラデルニエールローズデテ」
「……次はなんの呪文…?」
イブキは今度こそ、なにか奇妙なことでも起きてしまうのではないかと身を潜めた。
「わたしたちの国での昔の名称。他よりあたたかい表現で好きなの。とくに最後の一遍が──…」
「お前ら、いつまでぺちゃくちゃするつもり?」
と、ハヤテの言葉を遮ったのはチュアンの気だるげな声であった。
会話に気が取られた二人は、いつのまにやら気づかぬうちに職員室のドアの前まで到達していたのだ。
「内容が内容だから別に怒るようなもんでもねぇけど」
「す、すみません…! これ、全部屋見回り終わりました!」
消灯時間を大幅に過ぎていることを理解していたハヤテは、せかせかとまとめたチェック表をチュアンに差し出した。
「ふぁ…遅えっての…受け取ったからもうとっとと戻れ。明日遅刻したら承知しねえからな」
あくび混じりに軽く目を通したチュアンは、しっしっ──と虫でも追い払うかのように手をひらひらとさせる。おやすみの合図がそれだけとは、なんともぶっきらぼうだなとイブキは冷めた目でその姿を眺めながら、ハヤテと二人で職員室を後にした。
だが、チュアンの言うとおり。時刻はもう二十二時をとうに過ぎている。
コナミが震えていた時間帯とは比にならないひんやりとした冷気が漂う秋の涼夜。会話に夢中になり忘れていた眠気は、じわじわとイブキの瞼を襲う。暖かくても眠くなるし寒くても眠くなるし、困ったもんだなとイブキは目を擦りながらハヤテの後をトボトボと歩いた。
「じゃ、また明日」
部屋の前まで着くと、ハヤテはそう言ってイブキが部屋に入るまで、自分の部屋のドアを開きはしなかった。
「……ハヤテ、先入んなよ」
「え? ああ…いつもイブが寝てから出るからつい…あ、イブ」
「ん?」
「明日ひとりで起きれる?」
「へ?」
第二学年にあがってからというもの、ハヤテは毎日かかさず同じ時間にドアを叩く。平日だろうが、休日だろうが。すっかりそれが当たり前になってしまったイブキは、突然のことに重くなっていた目をひん剥いた。
「朝ちょっと用があって早めに出るのよ」
「用?」
「ええ。メブの勉強を見る約束をしてて」
「………へぇ」
「もしあれだったら授業始まる前に迎えに──」
「いい。ひとりで起きる」
「…そう? 遅刻しないようにね?」
「ん。」
「じゃあ、おやすみなさい」
ハヤテがそう言って足を数歩進め、隣のドアへ手をかけようとするが、イブキはその間ただじっと一点を見つめ動く気配もなかった。
「……イブ?」
その様子を不思議に思ったハヤテは、開きかけたドアに身を仕舞えずに彼女へと声をかける。
「入らないの?」
「……なんか、アレかも」
「うん?」
「…頭……アレかも」
「頭? 痛いの?」
「……かも。」
大丈夫?──と。心配そうに眉を下げながらハヤテはしょぼんとしたイブキの頭に軽く触れる。その手は額へと下がり、自分のそれと比べるようにいったりきたり。
「ちょっと熱いかしら?…お薬もらいに行く? 具合悪かったらわたし今日は一緒に」
「ん。大丈夫。治った」
「…そう?」
「うん。ハヤテおやすみ」
「え、ええ…おやすみなさい?」
イブキは部屋に入ると、そのままドアへ背を預けてズリズリと床に尻もちをついた。
「……なにこれまじで……もうわかんない…」
額に残るハヤテの手のひらの感触。
それを感じて、忘れかけていた痛みがまた胸の奥に走り出していく。
「なに頭痛いって……子どもかよ…」
どうしてそんな嘘をついたのか。触れてほしいと思ったのか。
なぜハヤテを一年の見回りに行かせたくないのか。興味のない試験の話など聞いたのか。
難しいことは分からない。
面倒なことは考えたくない。
この胸の痛みも身体の熱さも、心に残るざわめきも。
その正体がなんであるのか、わざわざ答えを出す必要なんてない。
「……あした起きれるかな…」
イブキはそんなぐちゃぐちゃの感情ごと、ベッドへ潜り込んだ。
寝てしまえば、朝さえくれば。この熱りはきっと、いなくなると信じて──。
*****
「ねえ、まだ寝ないの?」
「……これ確認したら……ミュミュ、カバー…」
「むぅー…チュアン先生、まだお仕事ですか?」
職員室の薄暗い蛍光灯は、たった一箇所を残しすべてが消えていた。ひとつだけ残ったその灯りの下で、チュアンは先ほど二人の生徒が持ってきたチェック表に隈なく目を通し、この日最後になる仕事を終えようとしていた。
「……ハヤテのやつ、ちゃんと全部備考に書いてんすよ。誰が起きてたとか、誰が元気なかったとか…見ねえと失礼かなって」
「"コナミさんのベッドにシグレさん(看病…?)"」
「……それはいらん情報です…」
カチカチ──と。時計の針が進む音だけが響き渡る。
それは二人きりでいるのにカバーをしたまま喋るなんて面倒!と、ミュールが口を閉ざしたからである。
「…ミュール先生、寝ないんすか?」
気になるから先に戻っててと、そんな意味を込めてチュアンは退屈そうな彼女に投げかける。
「先生が机で寝ないか心配なので…」
たまにそのまま寝ちゃうじゃんと、ミュールはか細い声とは裏腹にいたずらな笑みを見せた。
「そんなことありましたっけ?」
あのときは心配かけてごめんと、チュアンは夜中にも関わらず迎えに来てくれた幼なじみへ両手のひらを合わせる。
「もう…ちゃんとお部屋で寝ないと身体の疲れも取れませんよ…?」
部屋まで運ぶの大変だったんだから──しかめっつらでそう言いたげに鋭い睨みを利かせるミュール。
言動と表情がまったく合っていない二人のその光景は、本人たちにとっても何をやっているんだろうと不思議なものであった。
「……っぷ、ふふ!」
「あ! あたし我慢してたのに!!」
そんな意味深なやりとりが面白くて、柄にもなくついチュアンはカバーを外してしまう。
「ごめん、降参。もう戻ろう?」
ミュールにだけ聞こえるくらいのいつもの声で囁くと、チュアンは席を立ち最後の蛍光灯をカチッと落とした。
「あーもう疲れたっ!」
部屋に着くなり、まるで我が物顔でベッドへ飛び込むミュールの背に、チュアンは今日も一日が終わったんだなと実感する。
「ミュミュ、着替えないと…」
「えーめんどくさーい。いいじゃんどうせ、このあと脱ぐんだし」
「……さいてい…」
ぼそっと呟いてチュアンは寝支度のため、せっせと部屋を動き回る。
「でもさーほんとチュチュのカバー力? えぐいよねー」
「…人をファンデーションみたいに…」
「お風呂のとき見てたんだもん。お前は今何歳だー!って」
「……」
一日の中で限られたオフの時間。今だけはスイッチを入れた自分の話はやめてほしいと、チュアンは恥ずかし気に顔を背ける。
「よくシグレの誕生日なんて覚えてたね? 本人すら忘れてんのに」
「…シグレさんは11月だから、ああ見えても四人の中では一番年下」
「げ。」
「え?」
ひん剥いた瞳を寄こすミュールに、チュアンは首を傾げた。
「チュチュ、もしかして全員覚えてんの…?」
「…月だけね? ミュミュのクラスは」
「まじで…? えー…やば…」
一応ねと、床に散らばった雑誌類を拾いながらチュアンは目を細める。
その横顔から、散らかした当の本人はなぜか目を離せなくなっていた。
「…ミュミュ?」
「へ?」
「どうかした?」
「いや……あ、なんであんなことで怒ったのかなーって?」
咄嗟に、ミュールはどうでもいいことを尋ねてみる。
「…熱い湯舟に頭まで浸かるのは危ないから…昔ミュミュがそれで運ばれたでしょ…?」
「あー…なんかそんなこともあったかも…」
遠い記憶の中をミュールは巡る。
幼い身体をぷかぷかと揺らす湯舟は、あたたかくて気持ちが良くて、どこか懐かしくて。いつも頭まですっぽりと浸かるのが好きだった。何も聞こえない薄暗いそこは、現実のどこよりも落ち着くような気がしたのだ。
あまりの心地よさにそのまま眠ってしまいたくなって、呼吸を忘れて。しばらく沈んだままの自分を世界に戻したのがチュチュだった。
──チュチュが泣いてたから、あれから潜る癖なくなったんだっけ…。
ミュールはふっと、鼻を小さく鳴らして微笑んだ。
あのときもチュチュ、今と同じように困り顔をしていたっけ──と。
「チュチュっていっつも──…」
「な、なぁに…?」
あたしの心配ばっかりしてる。
そう言いかけて、ミュールはハッとなった。
「…キザだなぁーって! 今どきジャージ羽織らせるとか流行んないよ?」
「ち、ちがっ…!」
そうだ。別にあたしにだけじゃない。
チュチュは他人の誕生日を覚えるくらい人ができていて、誰にだってやさしいやつ。
だから別に、いつもあたしのことを想ってるとか、きっとそういうんじゃない。
そうミュールは一人で納得したように頷いた。
「ほんとおひとよしなんだから~」
へへへっと、いつもの調子で笑いかけるミュールの手に、チュアンのあたたかい手がそっと触れた。
「……お人好し、じゃないよ…」
「えー?」
「だってわたし、ミュミュのためって…それしか考えてないから…」
「……あたし?」
「うん…コナミさんが風邪引いたら、ミュミュが困るでしょ?」
「な、なんで?」
「シグレさん、きっと付きっきりだもん…授業さぼって成績落ちたら、ミュミュが補習しないと…」
「あー……ね?」
「だから、全然お人好しとかじゃないの」
隣に腰を下ろしたチュアンは、また困った顔で笑っていた。
「……ねえ、チュチュ」
「なぁに?」
「スバルの誕生日って、いつ?」
「スバルさん? ええっと…わかんない、かな?…どうして?」
「あ、そ…」
ん?と、不思議そうにこちらを見つめるチュアンを見て、ミュールはもしかして…という自分の中にあった疑問が確信に変わった。
──…月だけね、ミュミュのクラスは。
先ほどのチュアンの発言。それをミュールは勘違いしていた。
担当ではないクラスのことはその程度しか知らないと。そんなふうに受け取って。
だが、彼女はスバル──受け持っている生徒の生まれ月を知らなかった。
つまり、チュアンはミュールの担当している生徒のことしか把握していないのだ。
「ミュミュ?」
「……あーやめやめ! もういいや! チュチュ、こっちきて」
考えることが嫌いなミュールは、すべてを振り払うようにチュアンの腕を引き、彼女を乱暴にベッドへと組み敷いた。
「…ミュミュ…まだわたしシャワー浴びてない…」
「いいよ、そのほうが興奮するし。しよ?」
「……」
ぎゅっと、チュアンは固く目を閉じる。
ふるふると震えるその薄い瞼に吸い寄せられるように、ミュールは彼女への距離を縮めた。
「………ミュミュ…?」
だがチュアンの口元に、待っていた感触が降ってくることはなかった──。
「……」
「…しないの…?」
おしゃべりなミュールは思いついたことを思いついた順に話す。それが最中だって、なんだって。しかし、一向にその様子もなく近づいてくる気配もない。奇妙に思ったチュアンがおずおずと目を開けると、自分のうえで何かに気づいたように、ぽかんと固まる彼女がいた。
「チュチュ…」
「うん?」
「あたし、なんか変…」
「変…?」
「……チュチュに触るの、なんか怖い…」
ミュールの瞳は揺れていた。
それは、気づいてしまったから。
自分よりも大きな身体を目の前で縮こめる彼女が、いつだって自分のことばかりを考えているのだと。
誰にだって、やさしいわけではないのだと。
こうして身体を重ねるときだって、彼女は自分の欲などひとつもありはしない。
ただ手を引かれたから、ただ望まれたから。
その相手が、想い人である自分だったから──。
今さら彼女のそんな思いに気づいてしまい、ミュールは怖気づいた。
「……ああそっか。今なんだ…」
「え?」
あの日──ぼんやりとした淡月が浮かぶ夜。彼女の気持ちを知ってから、その涙に触れてから、少しずつ変わっていく自分の感情。ミュールはその変化に気づいてはいた。
あいかわらずクク先輩を思うことは変わらない。会えば嬉しいし。引っ付きたくなるし。でも、無意識に目で追いかけるようになったのは、先輩じゃなくて──。先輩への思いは同じなのに、心に積もるものは違う方向に向かって、違う形になって──。
そんなことに気づいてはいたが、チュアンは見ないふりをしていた。時間をくれと、そう言ったから。きっと時が経てばなるようになる。わざわざ面倒なことを考えなくても、幼なじみだった彼女をそう想ってしまう日がくるなら、そのときは自然に訪れる──と。
だが、いざそのときがやってきてしまうと、彼女はどうしていいか分からなくなってしまった。
苺色に色づいてしまった自分の心とどう向き合い、それを持ってどう彼女に触れればいいのか。
「………チュチュ、ごめん。触れない」
「……わたし、なんかしちゃった…?」
「うん、しすぎ」
「ご、ごめん…! なんだろ、なにしちゃったかな…遅くまで待たせすぎちゃった? ミュミュもう疲れちゃったよね?…あ、それともやっぱりシャワー浴びてないから…?」
ガバッと起き上がり思いつくだけあれこれと言葉を繰り出すチュアンは、さながら舌も乾かないご様子。
「ちがうよ、チュチュ」
まごまごとする彼女を見て、ミュールはなぜか落ち着きを取り戻していた。ああ、いつものチュチュだな──と。
「……やっぱりクク先輩じゃないといや…? だったらわたし、し…しなくても大丈夫だよ…?」
まったくもって見当外れ。あたしのことばっか優先してるからそんな考えしかできないんだよと、ミュールは呆れつつも彼女のその少々歪んだ想いが、うれしくてたまらなかった。
「──ッ!!」
だから、彼女を抱きしめた。
「ミュミュ…?」
「なに」
「…どうしたの? 今日なんか…」
「うん、変なのあたし。ぜんぶチュチュのせい」
ミュールはその肩に顔を埋めたまま、どうしていいか分からずにこわばったその身体を力いっぱいに抱き寄せる。
「…ごめん…わたし、がんばるから…だから」
「もうがんばらなくていいよ」
「──え?」
遮ったミュールの言葉に、顔を隠したままの彼女がなにを思っているのか、チュアンはその首筋に目をやった。そんなところを見たって、なにも分かりはしないのに。
「がんばらなくていい、チュチュはもうそのままでいてよ」
「…ミュミュ?…わたし何しちゃっ──」
「好きにさせすぎ」
「……へ…?」
「だからもう、なにもしないで」
──チュチュに触るの、怖くなくなるまで。
ミュールの小さな声は、たしかにチュアンの耳に届いた。
そしてその、心にも──。
「大事にさせて。…今さらだけど」
おしゃべりなくせに、肝心なところで足りない彼女の言葉。
短いそれがどんな熱を帯びているのか、チュアンがそれを尋ねることはなかった。
めずらしく震えるその身体が、教えてくれたから。
自分の心にあるものと同じ想いが、彼女の中にもやっと咲いたことを──。
「……ミュミュ…すき……だいすき…」
そう言ってあの日とは違う色の涙をこぼすチュアンを、ミュールは両腕めいっぱいに包み込んだ。
言ってるそばから──…と、くすくす微笑んで。
南を向いた窓の外で、秋のひとつ星だけが二人の様子を見守っていた。
ときどき瞬きを見せながら、こぼれそうな想いを抱えた二人を、うっとりと見つめながら──。