おとずれの予感
「はぁ……」
放課後の図書室でひとり、ハヤテはため息をついていた。
普通の学校であれば、賑やかな運動部のかけ声や華やいだ吹奏楽部の演奏が耳に響くこの時間。部活動のないこの学園では、図書室に響き渡るのは先ほどから何度も繰り返されるハヤテのため息だけ。それも深く長い、飲み込まれてしまいそうな様子の。
先日の研修はそれなりにうまくやれたとハヤテは感じている。どうして一件しか報告しなかったんですか?とミュールに少々小言を言われはしたが、それはもうびっしりと埋められたレポートに、彼女がそれ以上ハヤテを問いただすことはなかった。──バディなのにどうしてお前はこれっぽっちしか書けねぇんだ?と、イブキのほうはチュアンにこっぴどく怒られていたが。
ハヤテのため息の理由は研修そのものではない。
あの日のイブキとの会話にあるのだ。
あの町に着いてからイブキの様子がおかしいことはハヤテも気づいていた。
どこか不安げな表情に、あちらこちらを泳ぐ瞳。落ち込んでいるような、嘆いているような。それでも本当に彼女がそんな気持ちを抱いているのかどうか、ハヤテにはそれがはっきりとしなかった。ただ彼女の言葉のとおり、暑さにうな垂れているだけかもしれないと。
あのころ、あの夏の数日──駆け回った幼い面影はもう、イブキには残っていない。彼女の心が本当は何を想い、どんな色をしているのか。正直、イブキのことが気になってハヤテは研修どころではなかった。
だが彼女がやはり気を落としていると、ハヤテがそう確信を持ったのはあの白猫を助けたとき。自分の腕の中で震える小さなその存在に、イブキはまた空と同じ顔を覗かせたのだ。やりきれない虚しさを、ひとり抱え込んで苦しむような──。
だからハヤテは駆けだした。
あの老婆に、りんごを譲ってもらおうと。
白猫を任せようと思ったのも嘘ではないが、本当は、ただイブキに笑ってほしかった。
あのころ未熟な自分に見せることができなかった黄色のアゲハ蝶──淡く黄色いりんごの実で、それを彼女に見せてあげたかったのだ。
──おばあさん、この子の面倒を見てもらえませんか?
──おや、三毛…いいやちがうねぇ、この子は白猫かい?
──…わかるんですか?
──毛並みを触ればねぇ……うーん、お耳も悪いのかい…かわいそうにねぇ…。
──どうしてそこまで…?
──ずーっと見てきたからねぇ…同じような子を。
──……そうなんですね。
──猫が好きでねぇ…ずっと見てると分かるようになるもんさ…ちょっとの違いもその子の性格も…あんたも同じだろ?
──え?
──さっき隣にいた子さ。好きなんだろ?
──ち、ちがいます…!!
──おやそうかい? ずっと見つめてたからてっきりねぇ…ほら、これを持っておいき。一緒に食べるといい。
「はぁ……そんなに見つめてたかしら…」
老婆とのやりとりを思い出し、ハヤテはぼそっと呟いた。
イブキを連れて行かなくてよかったと心の底からそう思ったものだ。もし隣でそんなことを言われたら、イブキを置いて町を飛び出してしまう勢いだっただろう。
しかし予想に反して、老婆から貰ったそのりんごで蝶を象って見せても、イブキの表情は相変わらずのものであった。それどころかなぜかもっと肩を落としたような気すらして、ハヤテは隣でりんごをむしゃむしゃと食べる横顔をただ黙って見つめることしかできなかった。
バスを待っている間、その短い時間の中でいろんなことがあった。
二人で夕陽を眺めるのは、出会ったあの日以来のことだったように思う。幼いころは陽が暮れる前には別荘に戻っていたものだから、ああして二人で夕暮れの温度を感じられたことに、ハヤテは嬉しいとさえ思っていた。
「……色なんてなくったって、夕陽はきれいなのに…」
夕暮れや夕焼け、それは赤いと言う人もいれば朱色だと言う人もいる。赤は燃える情熱の色、朱色は暖かく微笑むような色──色のわからないノンアンファーやラータたちに、教育科はそうやってイメージを伝えるそうだ。きっと夕陽の色の感じ方は、見る人やその状況によって異なるということだろう。
だから出会ったあの日、二人の隅で沈んでいった夕陽はきっと朱色であったとハヤテは思う。そして、この前眺めたそれも。
たしかに綺麗だったのだ。
丸く、少し猫のように弧を描いたイブキの瞳を揺らす、あの夕陽が──。
そしてあの花を見てやっと力を抜いたイブキに、花びらと同じような色であった自身の心がまた深く染まっていくのをハヤテは感じた。だからつい、口走りそうになってしまった。
自分の夢──いつかあのときの…あの湖のように、イブキを心から笑わせたいという夢を。
幸い、なにを勘違いしたのかイブキが"取締科"などという進路の話をしてくれたものだから、うちに秘めていたそれを溢さずに済んだものの、流れで過去の話をしてしまったのは失敗だったとハヤテは思う。
「あれ、絶対重かったわよね…イブがいたから生きようと思ったとか…心を染めてくれたとか…あんなのまるで、好きって言ってるようなもんじゃない……」
ハヤテは何ひとつ気づいていないイブキの鈍さに感謝しつつ、想いの欠片を溢してしまったことに小さな後悔を覚えていた。
「あの鍵、まだ持ってるなんて……」
イブキがネックレスのようなものをしているのは知っていた。細いチェーンがいつも制服から見え隠れし、寝るときも外さないそれを大切にしているのだと。
だがハヤテはそれが鍵であるということまでは知りはしなかったし、助けたあのとき、それを大事そうに見つめるイブキを見て苦しくなったのだ。どんな宝物を閉じ込めた鍵なのか。はたまた、どんな人が待っている家の鍵なのかと。
それが蓋を開けてみれば、自分が別れの日、彼女のあげたものだったなんて──。
「やっぱりイブキ……そう、なのよね…」
ハヤテは幼い記憶を巡る。たしかにイブキの言う通り、あの夏の最後の日、蝶を追いかけ二人で色づいた湖を眺めたあと、些細な喧嘩をしたのだ。
──ねえ、ハヤちゃん。
──なあに?
──いつかキイロ?のちょうちょを見せてくれるってことは、ハヤちゃんはパレク?なの…?
──いいえ、わたしはペテル。
──そっかぁ……じゃあ、わたしとは仲良くしないほうがいい、かも…?
──どうして? イブとわたしは友だちじゃないの?
──ともだち、だけど……わたし……ラータだから……。
──……そんなの関係ないわ! イブはイブでしょ! あなたがラータでもペテルでも、わたしは気にしないもの!
──で、でも……。
──イブができないならわたしが色を染めればいいだけよ!
それでも食い下がらないイブキに当時のハヤテは腹を立て、翌朝その地を旅立つと分かっていながら彼女を湖畔に残し、ひとり別荘に戻ってしまった。
幼い彼女には分からなかったのだ。
イブキが何を思ってそう言っているのか。どうして階級なんかのことで自分から離れようとするのか。
だが、ハヤテが分からないその理由をイブキはすでに知っていた。
ラータとじゃれ合うペテルが、どれほど腫物扱いされるかということを──。
──……ハヤちゃん…ごめんね…?
それでもハヤテとは違い、イブキは逃げなかった。
しばらくすると別荘を訪ねて来たのだ。
そのときの彼女を見る執事の冷たい視線。それは同じ人間を見ているとは思えないほどの惨たらしいものであった。それを目の当たりにし、ハヤテはやっとイブキの気持ちに気づくことができたのだ。
彼女は自身を蔑ろにしてでも他者を優先する優しい心の持ち主で、わたしを心配してくれている──と。
──ねえイブ。やっぱりわたし、あなたと離れたくないわ。
──……。
──どんなことがあっても平気よ? わたしは負けないし、きっとあなたを守ってあげる。
──……ほんと…? ずっとともだちでいてくれる…?
──ええ、約束。……だからこれ、イブにあげるわ。
そう言って渡したのが、あの鍵であった。
だから、入学して初めてイブキを目にしたときハヤテは心底驚いた。
なぜ、この学園にいるのかと──。
だが、ハヤテがそれを口にすることはなかった。彼女がラータであろうがなかろうが、そんなことは重要なことではないし、なぜ学園に入ることができたのかは分からないが、ここにいる以上、きっと彼女にもその資格があるということ。無理に"そう"であるかどうか、確認する必要はハヤテにはなかったのだ。
あの記憶が正しいものでそれが真実だと分かった矢先、ハヤテは彼女の辛い過去を知ってしまった。
そして、白猫を見て顔を歪めていた理由も──。
「悪いのはお母様なのに……」
彼女は自分がラータであることを責めている。
ラータであるから、母に捨てられたのだと。
だがそれは結果に過ぎない。イブキの母は自分勝手な理由でイブキを置いていった。悪いのはイブキではなく母親のほうであり、そんな環境を作ってしまった世の中にあるのだ。
彼女はあの白猫に自分を重ねていた。ハンデがあるから、こうなってしまったのだと──。
イブキの事情をもう少し早く知っていればあんな話はしなかったのにと、ハヤテはあれから数日経った今でも自分の軽はずみな発言を恥じている。
──もう気にしてないけどね。
イブキはそうは言ったが、一瞬でもなんでも、彼女を傷つけてしまったことに違いはない。無理にそう言わせてしまった自分がハヤテは酷く情けなかった。
──酒場って男多いっしょ? 言い寄られるの面倒でさ。短くしたけど…あんま意味なかったわ。
ひとりあの別荘に身を置いていたイブキが髪を短くした理由。そんなことも知らず、なぜ短くしたんだと、冗談まじりにそんなことを言うたび、彼女の心はどんなに暗い色を滲ませていたのだろう。同性が見ても憧れを抱くほどのイブキの見た目では、きっと嫌な思いもしてきたことだろう。どうしてそんなことも気づけずに、子どもじみたことを言ってしまったのだろうと、ハヤテのため息が止まることはなかった。
「それに、なんであんなこと言っちゃったかな…」
バスが来る少し前、イブキは言った。
ハヤテの匂いを感じていると、空を泳げる気がする──と。
彼女がよく空を見ている理由──それは、憧れがあるからだと。
昔から、大きく広がるあの空をどこか懐かしく思い、憧れに近いものを感じているとイブキはそれを見上げながら言った。そして遠くにはばたく一羽の鳥を指差し、自分もあんなふうに空を飛んでみたいのだと。
──ひとりじゃさ、想像できないんだけど…。
──ハヤテが隣にいるとなんか飛べそうな気がする。昔から。
──だから、ハヤテの匂いって好き。
そのイブキの発言に、心が揺さぶられた。
夏の夕暮れの温度に、心が浮かされた。
「湖よりきれいなアオって……あーもうっ…!」
ハヤテがああ言ってしまったのは、そんなイブキと、そんな夏のせいだった。
「イブ、なんか困ってたし…絶対変だと思ってる…」
あれじゃあ夢を語ったようなもの。そもそもあの言い方じゃ、なんか…その…と、ハヤテは読んでもいない本の間に顔を埋める。呼吸の隙間に割り込んでくる古紙特有の匂いが、喚き出しそうになる心を少しばかり落ち着かせ正気を取り戻すと、ハヤテはパタンと栞も挟まずに本を閉じた。
「でも……イブ、やっぱりそういうのないってことよね…」
彼女がラータであるということ。そして、あの別荘の近くの寂れた西の町で今まで過ごしてきたということはやはり、幼少期からずっとアンコロールの中を生きているということだ。となれば、そこで生じる弊害──個人特有性質の消失、つまり"好み"という概念の希薄。
イブキには、恋や愛という感情がない。
ファンに追い回されてもそれをどうとも思わない。どうしてそんな気持ちを持つのか分からない。好きとかそういうのないし──彼女がそう言っていたのは、長期的に過ごしてきたアンコロールが原因であった。
だがハヤテは別に、自分の恋が実ってほしいという思いはなかった。恋は身勝手なもので欲の塊であると、そう思っているからだ。だから彼女から同じ想いが欲しいとは思わない。
ただそばで、彼女が笑う姿を見ることができれば。
あのときのように、綻ぶ瞳を見ることができたら。
ハヤテの思いは、それだけであった。
「……もしあのときみたいに笑ったら、イブの頬って……」
どんなふうに色づくんだろう──。
「あれぇ? ハヤテ先輩じゃないですかぁ~」
いけない考えが頭をよぎり、それを振り払おうとぶんぶん頭を振っていたイブキに声をかけたのは、一つ下の学年章を付けた甘い声色の生徒だった。
まっすぐに切り揃えられた直毛はイブキより少々長く首元を隠す。右の内側に細い三つ編みを一本下げ、彼女はハヤテを覗き込んでニッと笑った。
「あ、えっと…こんにちは?」
その顔に見覚えはなく、ハヤテは本を横へ置くと礼儀正しく頭を下げる。
「こんにちはぁ~、ひとりでなにしてるんですかぁ?」
「ちょっと読書を…」
「えぇ~、イメージぴったりぃ~!」
「…あの、失礼でごめんなさい。どこかでお会いしたかしら?」
「あれぇ~忘れちゃいましたぁ…?」
彼女は人差し指を顎のあたりにやると、まるで相手にしてもらえなかったときの子犬のようにしょぼんとした顔でハヤテを上目に見つめる。
「……えっと、ごめんなさい…」
「えへへぇ、冗談ですよぉ。わたし今日転校してきたんですぅ。ハヤテ先輩、有名だからすぐわかっちゃいましたぁ~」
「あ、えっと、そうなのね…?」
いままで触れてきたことのないタイプ──シグレのような活発的な雰囲気とも違う彼女に、ハヤテはどう応えればいいか分からず、らしくない返事を続けた。
「よかったらぁ、なかよし? してくれませんかぁ? まだ友だちいなくってぇ…」
「…ええ、わたしでよければぜひ」
ハヤテは一瞬迷ったが、後輩と話す機会も早々ない。いい機会だと彼女を受け入れることにした。
「やったぁ! うれしいですぅ!」
そう言った彼女のあどけない笑顔に釣られ、気づけばハヤテも頬を緩ませ、上品な笑みを見せていた。
「……なんか意外ですねぇ…」
「え?」
「ハヤテ先輩もネイルとかするんだなぁ~って」
「あぁ…これ…」
ハヤテは爪の先を擦った。たしかに彼女の言うとおり、あまり進んでこういった装飾をするほうではない。爪を染めたいと思ったのは、近頃になってのことだ。
「まあ校則違反ではないし、気分転換に、ね?」
ボタンの留める位置やスカートの丈、シャツの出し入れといった制服の着崩しにはそれなりの規則があるが、化粧やネイル、髪色に関しての校則は存在しない。
遠い昔──アンコロールとなる前はそういったことに対しても厳しい校則が設けられていたというが、今となってはそんなものに意味はない。施されたそれが何色であるか、判断できる人間などいないのだから──。
「えぇ~きれいですねぇ~。これ、ナニイロなんですか?」
彼女がハヤテの指に触れる。
「──アオよ…」
そう答えたハヤテは声は落ち着きのある、芯の通ったまっすぐなものだった。
そのネイルカラーは先日、外出先の中心部の町で購入したもの。店頭に並んだそれは、アンネス湖のように奥行きのある穏やかな色合いをしていた。
──きれいなアオ。
そう答えた彼女の好きな色を、ハヤテは身に着けてみたいと思ったのだ。たとえ爪に塗られた瞬間、身体の一部となって色を失うとしても。彼女にそれが伝わることはないとしても。
彼女の好きな色に、包まれていたいと──。
「……あれ、そういえば…」
イブって、好きなイロとか嫌いな食べ物ははっきりしてる…?
「ハヤテせんぱぁい?」
「あ、ごめんなさい、ちょっと考え事してて…」
ハヤテの頭に浮かんだそんな疑問は、彼女の甘い声でどこかへかき消されてしまった。
「えぇ~せっかく二人っきりなのに他のことですかぁ~? さみしいなぁもぉ~」
「ごめんなさい、わたしったらよくなかったわね…」
ハヤテが眉を下げ目を細めると、最終下校時刻を告げる鐘が校内に鳴り響いた。
「──もうこんな時間…そろそろ寮に戻らないと」
「残念ですぅ…もっとお話ししたかったのにぃ…」
「また今度お話ししましょう?」
「いいんですかぁ? ハヤテ先輩、約束しましたよぉ?」
「ええ、また今度──ええっと…あなた、お名前は?」
頭の中が幼なじみ一色だったハヤテは、そこでやっと彼女の名を聞いていないことに気がつく。席を立ち、帰り支度をしながらそう聞くと、彼女はまた数分前のようにニッと。歯を出して笑ってみせた。
「──メブキです、わたしの名前っ」
首を傾げそう言った彼女の細い三つ編み。
それをまとめる小さな赤いりぼんが、振り子時計のようにゆらゆらと揺れていた──。
*****
「なんとかうまくいきそうね……はぁ…それにしてもミュミュったら…」
局長室の立派な椅子に腰をかけ、彼女は頭を抱えていた。
先日行われた第二学年におけるパトロール研修。ミュールというよりはチュアンがうまく事を運んだようで、彼女の報告を聞く限り、順調な兆しを見せている。なんとか目的に近づいている気配があり、彼女の心はほっとしていた。
しかしどうしたものか。あの落ち着きのない後輩ときたら、チュアンと入れ替わりでやって来るや否や自分が功績をあげたと言わんばかりに尻尾を振り、褒めてくれと縋り付いてくる始末。
「どこで育て方を間違えたのかしら……」
チュアンによれば、ミュールもやっと大人の階段を登ろうと一生懸命にちいさなお頭を回しているというが、あの調子ではもう少し時間はかかるだろう。
「あの子相手じゃチュアンも大変ね……」
彼女は後輩二人の行く末がどうなるのか、同じく気にかけている生徒たち同様に、もうしばらくあたたかい目で見守ることにした。
──コンコンッ
「………また…?」
そのとき、局長室の分厚い扉が軽快なリズムで叩かれた。
彼女はまたミュールが騒ぎに来たのかと、落ち着きを取り戻していた表情を再び渋らせながら椅子から腰をあげ、扉のほうへと向かった。
そしてドアノブに手をかけ、それをゆっくりと捻る──急に飛びつかれてもいいように、身体にぐっと力を込めて。
──キーッ…
「やあ! 久しぶりだね!」
「……なんだ、あなただったのね…」
跳ねる毛を揺らし、ビー玉のような瞳を憎たらしいほどに輝かせたその姿を見て、局長は身体からふっと力を抜いた。
「なんだとはなんだい? ずいぶん久しぶりだって言うのに冷たいじゃないか」
「ちがうのよ、ちょっとミュミュに手を焼いてて…どうぞ、入って」
「ああ、あのキンギョソウみたいな子か…今はここにいるんだったね」
子って、あなたの先輩でしょう?──と局長が苦笑いぎみに扉を開けると、彼女はスッと部屋に入り静かに扉を閉めた。
「そこに座って。コーヒーでいいかしら?」
「オレンジジュースがいいな!」
「…まったくあいかわらずね…そんなものはないわ。フルーツティーで我慢して」
そちらこそあいかわらず!──と言う彼女を横目に、局長は奥の棚からティーカップを用意し、一客にはコーヒーを。もう一客にはフルーツティーを──淹れる前に、ティースプーン三杯ほどの砂糖を放り込んだ。ストレートで苦いと文句を言われてはたまらないからである。
「それで、今日はなんの用?」
テーブルにコトンとカップを置くと、局長は彼女の向かいのソファに腰を下ろす。まだ湯気の立つそれを手に取り、音を立てずに口へと運んだ。
「いやあ、どうしてるかなと思ってね?……ちょっとあっついね、これ」
ズズッ──と、お行儀もなにも関係ない彼女は豪快にそれを流し込み、配慮した部分とは異なる点で文句を垂れる。
自分の教育はやはりどこかおかしいのかもしれないと、局長はピリピリと走る頭痛を感じた。
「どうもこうも…」
「どうだい? 芽はでたのかい?」
「ええ…一応見つけたわ…まだ調整は必要だけれど」
「ほんとかい?! よかったじゃないか! それで? 花時はいつごろなんだい?」
「それは──…もうちょっと時間はかかるわね…まあ、あなたにしてみればたいしたことではないでしょうけど」
局長はゆっくり、またコーヒーを喉の奥へ流し込んだ。少し熱の落ち着いたそれは、一口目よりも苦味が控えめになって舌へと伝わる。
「ぼくのほうはね、もうすぐ花が咲きそうなんだ!」
彼女は瞳がこぼれそうなほどに目を大きく広げ、花を撫でるように手をそよがせた。
「……ロゼ、あなたいい加減に──…。リメアがいつもしかめっつらしてるのよ? かわいそうに…あなたがシオンをからかったりするから」
「クク! わかってないね!」
「ククじゃないでしょう?」
「ああ、先生……いや、ここでは局長が正解かな?」
彼女がニマニマと口を緩ませる。
「…そうね、それでいいわ」
「リリのあの顔がたまらないんじゃないか! ぼくがシシにちょっかいをかけるたび百面相して…普段から表情筋でも鍛えてるのかな?」
まるでお気に入りのおもちゃを思い出すかのように楽しそうに話す彼女を見て、局長はやれやれと顔を振ってみせる。
「まあいいわ、あなたの悪趣味のおかげで少しは助かっているし…でもリリはそろそろ上階層にあげるべきね。あの子は下級で留まるような個性の持ち主ではないし…あなたが欲しがるくらいなんだから」
「ペリウスの件かい? ぼくは草花たちと話がしたかっただけさ。だからほんのちょこっと、リリの個性を借りたまで──それに局長、リリだけを進級させるのは見当違いだよ!」
指先でこめかみのあたりを二度ほど、トントンッと叩き彼女は話を続ける。
「シシは彼女のツツジなんだ。だからリリだけじゃだめさ」
「……分かりやすく説明して」
「あれ? わからないかな? シシがいないとリリはポンコツってことさ!」
ぼく、いい例え出したでしょ?──と、彼女は自慢げに局長を見つめた。
「…リメアはミツバチってわけね?」
「そうそう! ククってば鈍いんだから」
「……二人一緒じゃないとあなたは納得しないのね」
「んん? ぼく、そんなこと言ったかな?」
とぼけている──というよりは、本当に自覚のないような表情。局長はそれを見て少し、ほんの少し安心した気持ちであった。あの二人と出会えたこと──それはきっとこの子にとって、アンコロールが染まるようなものであるのだから。
「まあいいわ、リリのことはしばらく保留にします。それよりロゼ? 約束覚えてるでしょうね?」
「……なんのことだったかな…?」
次はしっかりと。とぼけた顔をしてみせた彼女に局長は、ぐぐっと鋭い目つきを浴びせた。
「変なことにかまけてばかりいないで、早くテストを受けなさい! 今度こそ上級にあがるって約束したでしょう?!」
「ク、クク…ちょっと声が大き──」
「ククじゃないの! あなたってばいつまでも昔みたいに!」
「……お、怒ってるのかい…?」
大げさに耳を塞いだ彼女は、珍しく怯えた表情で局長を覗き込んだ。対して局長もここまで声を荒げることは珍しい。しかしここまでしてもあまり彼女には響かないと、最初からそれもお見通しであった。
「いい? あなたの悪事から目を瞑る代わりなのよ? ちゃんと言うことを聞きなさい」
「悪事って、大げさだなぁ…」
「…ロロ、あなたのしたことは許されることじゃないのよ?」
「ぺリウスに種を蒔いたことかい? それにリリの個性を利用したこと? それともシシの身体を乗っ取ったこと… いや、レディを咲かせようとしてることかな?」
「……どれもだめよ…してはいけないことだわ。でもね、ロロ──…」
局長は手に持っていたティーカップを、そっとソーサーの上に戻した。
「キキへの仕打ちだけは、何をしたって許されない」
その眼差しは、過去も未来も、まるですべての時間を止めてしまいそうなほどに力強く、揺るぎないものであった。
「私はあなたを許すつもりはないわ」
「……ああそうか、ククにはぜんぶお見通しってわけだね?…さすが、教鞭を取るだけの個性は違うねぇ…」
──会いたかった…ずっと…どうして急に…。
──……ごめんね…。
──それに、その姿は…?
──色々あって…必ず戻ってくる…だからどうかそのときまで……。
彼女は思い出していた。
遠い昔──今咲こうとしている一輪の花がその芽を出すずっと前。退屈しのぎにと手を出した、その播種の様子を。
「寒かったなぁ…あの日は…」
「……ロロ、あなたの罪は拭えない。だからせめて、その存在として正しい行いをしなさい。わかったわね?」
「うーん、ぼくは忙しいんだけど…」
「わかったわね?」
「……おっかない先生だ、従うことにするよ。そのかわり、リリの進級は目を瞑ってね?」
「はぁ…わかったわ。こんなところで油を売ってないで、上に戻ってやることをやってきなさい」
局長は飲みかけのティーカップを二客手に取ると、早く行けと言わんばかりに彼女を急かした。
「クク、忙しいのかい? そんなにカリカリしてるときみもそのうち枯れ──」
「あなたの蒔いた種を片付けているんでしょう?!!」
「うっ……耳がとれちゃうや…じゃ、ぼくはもう行くよ! またね!」
廊下まで聞こえそうなほど大声をあげた局長に、彼女は逃げるようにしてそそくさと部屋を出て行った。
「……まったく…」
チュアンもミュールも、ロゼもいなくなったあとの部屋を見て、彼女は今日一番の大きなため息をついた。急に大声をあげたせいで頭がくらくらとするが、ティーカップが染みついてしまう前に片付けなくてはと重い腰を上げる。
ロゼのしたことは決して許されることではない。もちろん、これからしようとしていることだって、彼女の個性を持ってすればお見通しであり、上に報告してしまえばきっとロゼはそこを追われるだろう。
しかし、そうすることが正解だと分かっているのにも関わらず、彼女にはそれができなかった。それはロゼが彼女にとって、他の生徒たちとは違い、誰よりも長い時間をともに過ごした妹のような存在であるからだ。
「甘いわね……紅茶も、わたしも──」
冷めたフルーツティーに口をつけ、彼女は憂わしげな表情で全開になった窓を見つめていた──。
*****
「なあコナミー、せっかくの外出許可なのにこんなとこでいいのかよ?」
「いーの。しばらく来れてなかったもん」
「…つったってよぉ……」
まだかすかに汗の滲む夏の暮れ。
引っ掻いたようなすじ雲が空をさまよう残暑の昼過ぎ。コナミはシグレと小さな公園にいた。
滅多な用でもない限り下りることのない外出許可が二人に与えられたのは、先日の研修でトップの成績を収めたことによるミュールからの褒美であった。
しかしトップとは言っても到底喜べるものではない。本来であればハヤテがその座にいるはずであったのに、イブキが邪魔をしたのか本人が手を抜いていたのか。取締科への報告件数がたった一件とは、クラス──いいや学年中が驚きの事態であった。それゆえトップと言われてもその結果を素直に喜べるわけもなく、ミュールに褒められたところでコナミはどこか後味の悪いまま。──まじ?やったじゃん!と相方のほうはそれはもう大喜びであったが。
平日でもどこでも好きな日に外出していいというその褒美に対してシグレは、コナミが行きたいとこでいいよとそう言った。本人は遊園地や映画館、動物園などを想定していたらしいが、コナミが選んだのは幼少期によく二人で通ったこの公園だった。
イエスマンのシグレもその希望先にはさすがに納得がいかなかったようで、まじで言ってる…?と執拗に訊ねては、しつこいとコナミに怒られる始末。ついにやってきたその日でさえ腰は重く、口を開けば今からでも他のとこ行かね…?とコナミを困らせていた。
「シグレは──」
「あ?」
「シグレはそんなに来たくなかった…?」
やっとシグレと同じクラスになれたというのに、教室ではいつも互いが異なるグループにいる。異なる──というよりは、シグレは誰とでも分け隔てなく話し、昔から人見知りもしない。反対にコナミは引っ込み思案で、歳を重ねるにつれだいぶマシにはなってきたものの、シグレ以外とは話す気にもなれなかった。
とはいってもそんな彼女を独占するわけでもなく、コナミはいつも適当な席に腰をかけ、ひとり静かに授業を受けていた。教室ではどうしても、シグレとうまく話すことができないのだ──そこにいるシグレはまるで、自分を見てはいないから。
他の誰かに振りまかれるその笑顔。知らないシグレの一面を見ていると、ふつふつと心の底に陰気な影がいくつも湧いて、コナミはつい小生意気な態度を取ってしまう。だから教室で二人が話すことはほとんどなかった。ご飯どきや寮の部屋にいるとき──こうして二人でいられる時間だけがコナミには大切で、やっと自分自身をさらけ出せるのだ。
気が弱いのにわがままな、どうしようもない自分を。
「んなことねーけど、コナミが楽しめなきゃ意味ねーだろ?」
「……楽しいもん…」
「そっか? じゃあまあ…いいか?」
シグレのパーカーの袖をきゅっとコナミが掴むと、なんとか納得したのかシグレは頭の後ろを掻きながら困り顔で微笑んだ。
「でもシグレ、もしわたしが遊園地って言ってもその格好だったの?」
久しぶりに見るその私服。近頃は制服ばかりだったが、懐かしいシグレのパーカー姿にコナミは嬉しくもあり、どこか複雑でもあった。
「あ? なんで? いいだろこれで、コナミしかいないんだし」
「……あっそ…」
その言葉に、コナミはそっと顔を俯けた。
「それよりコナミこそ公園くるだけなのにやけに気合入ってんな?」
「…入ってない、もん…」
自分だけが二人でいる時間を大切にしている。自分だけが、今日をデートだと思っている。いつか着ようと思っていたカシュクールのワンピース。それを拵えた自分とは対照的なシグレの姿を見て、コナミは静かに胸を締めつけた。
「ふーん? あ、これ食う?」
「……なに味?」
「焦がしキャラメル」
差し出された棒つきの小ぶりなキャンディー。それをコナミは手で受け取ることはせず、あーんと口を開けた。
「お、当たりだ」
当たり前のように外袋を開けるシグレに、コナミは首を傾げる。
「なにが?」
「んー? コナミってこういうときはだいだいキャラメル欲しがるじゃん」
「こういうとき?」
「おう。元気ないとき」
キャンディーの袋と格闘したまま、コナミに目を向けずシグレはそう言った。
「あい、取れた」
「…ありがとう、シグレ」
コナミは知っている。
シグレが鈍感というわけでもないということを。
たしかに彼女は少しアホで鈍いところはある。だが、決してすべてを分かっていないかというと、実のところはそうでもないのだ。どちらかといえば周りのことをよく見ていて、敏感だと思うことのほうがコナミには多い。ただ一つ、一点を覗いては──。
「うーわ、これ懐かしいなー」
「うん」
座ろうぜと、シグレが指を差したのは公園の端にある錆びたブランコ。湿風がそれを揺らし、彼はひとり、キーッと音を奏でていた。そんな耳を刺激する鈍い音ですら、二人にはどこか懐かしい。
「まだあったんだなーこれ」
「うん、でも…」
「コナミ? 座んねーの?」
深くそれに腰をかけたシグレが足の間をトントンと叩くが、コナミはじっと立ち尽くしていた。
「どした?」
「これ、変わっちゃったんだね」
「あー、そういや…」
シグレの足の間に手を伸ばし、コナミはそっとその板に触れた。
昔よく二人で遊んでいたそれは、掠れた黄色い座板だった。
あのころは目に見えるすべてが新鮮で、どんなものがどんな色をしているのかコナミは日々胸を躍らせたもの。アンファーであった母に頼み、そこら中のものを染色してもらうのが好きだった。
灰色に転がる砂利、柔い黄土色の砂場。その脇にひしめく緑の雑草たち。赤いベンチに、青い滑り台──それから、黄色いブランコ。
そのブランコの色が、コナミは好きだった。
二人がまだ小さいころ、すでにいくつも歳を重ねていたそれはところどころに板本来の色が見え隠れするおもしろい色──趣きがある、今ならそう表現できるのにとコナミは思う。その色味が他の物とは違い、古くあるというのにどこか目新しくコナミには感じられたのだ。
だが、今目の前でシグレが腰をかけるそれは色を失っていた。
最後に来たのは二人が中学にあがる前のこと。この数年の間に、あの古びた座板は交換されてしまったのだ。鎖がそのままのところを見ると、きっと誰かを乗せたタイミングで寿命が来てしまったのだろう。
──寂しそう…。
つるりと新しい顔であるのに、色を失ってしまったそれがコナミには乾いた表情に見えた。
だからそっと、手を伸ばした。彼に今の色を、与えてあげようと。
「──っと、まあ座れって」
その手をシグレが掴み、華奢なコナミの身体を引き寄せると自分の足の間に彼女をすっぽりと収めてしまう。
「ちょっとシグレ…」
「漕ぐぞー」
不満げな声をあげるコナミをよそに、シグレは楽しそうに砂利を足で蹴り上げた。
ギコギコと、二人を乗せたそれが静かな公園に声を響かせる。
「久しぶりだと楽しいな、コナミ」
「…うん」
背中に感じるシグレの体温。程よいあたたかさのそれと、耳をくすぐる優しい声色。そこにゆりかごのような揺らめきが加わり、コナミは子どものころからブランコに乗るとつい眠くなってしまう。
「あれ、眠みぃーの?」
ふぁっとあくびをこぼすと、それに気づいたシグレはコナミの顔を覗き込んだ。
「イブキみてーだな。あ、そいやこの前図書室の前通ったらさ! なーんか中からぼそぼそ聞こえて」
「……」
「覗いたらハヤテお嬢様が一年に絡まれててよ?! ありゃ波風立ちそうな感じだぞ?…めちゃくちゃ懐いてるっぽかったしさすがにイブキも気にすんじゃねーかな」
「ふーん…」
「そいやミューちゃんとチューさんもなーんか怪しいよな? 最近二人でコソコソして…あれぜったいデキて──…コナミ?」
軽快に話すシグレを止めたのは、ジャッ──と砂を踏みしめたコナミの白いサンダルだった。地面に擦れたそれが、ゆらゆらとするブランコをも止める。
「シグレ…今わたし、どんな顔してるかわかる?」
「……あ」
「他の人の話、今は嫌」
目の前に鏡でもあればもっと早く気づいたのだろうか。コナミはまぬけな声を漏らしたシグレを背にそう思った。
「そ、そうだよな?! 今は違うか…ごめんな? コナミ」
焦るシグレにコナミは首を小さく縦に振って返した。
シグレ。
わたしだけを見てよ──。
そう言ってしまえば簡単かもしれない。
でも、コナミはその言葉を彼女に伝えることはできなかった。
シグレが自分で気づかないと意味はない。
そう分かっているから。
「……っと、降ってきたな…朝からちょっと怪しかったもんなぁ」
そんなコナミの心を知ってか知らずか、夕暮れが近づきぽたぽたと葉を鳴らしたのは冷たく儚い、夏の雨であった。
シグレのゆるやかな髪が、雨しずくに濡れる。
滴るそれが光を反射し、コナミは手を伸ばしてしまった。
「きれい……」
「そうか? 染めてばっかだから痛んでっけど…」
「どんな色なんだろう」
「えーっと今なんだったかな? オレンジブラウンとかだったか?」
「ちがう」
「あ?」
「本当のシグレの髪──どんな色してるのかな」
「…コナミ? お前まさか色愛行為とか変なこと考えてないよな…?」
シグレがその手を掴み、瞳を揺らす。
「シグレとわたし、できると思う?」
コナミはゆっくり振り返ると、その瞳をまっすぐに捉えた。
「な、なんだその質問……だってあれって──」
──愛し合ってないと、できない行為だろ?
色愛行為──それは、身体の色を染めるソカツ。
生物に色を与えることは、中級レベルのソカツ試験に合格している者であれば容易にこなせること。しかし、人体はその限りではない。
人の身体に色を蘇生させることができるのはその身を愛した者だけであり、恋愛的・性愛的な相愛関係を築くことができた場合のみ、互いの身体に色を授けることができるのだ。だから人は愛を知ったことで初めて知る。肌、瞳、唇、髪、爪の色など、身体の一部とみなされる自分の色を──。
ただし、人体の色を認識できるのはソカツを行う方──つまり愛した相手だけであり、人間は一生、自身の色を認識できることはない。愛した者だけがその色を認識できるのだ。
もちろん相愛関係であれど、色愛行為を行わなくても問題はない。ただし、生活において身体の色を必要とする機会──体調を伺う医療機関への通院や、パーソナルカラーの情報をベースとする美容院やネイルサロンへの施術など──は少なくないため、ほとんどの夫婦が色愛行為を行っているのが普通である。病の場合はともに出向いたり、着飾る場合は色彩情報をカルテのように記録して渡したり。
ゆえにアンファーはアンファー同士で婚姻を結ぶことが最善である。しかし、分かっていてもどうにもできないのが愛情であり、ノンアンファーを相手に選ぶことも少なくはない。だからこそパレクという存在はいつまで経ってもなくなることがないのだ。
「……てかそもそもだめだろ。うちもコナミも、女なんだから──」
少し頭を悩ませたシグレがそう言ったのは、色愛行為にひとつ、ルールがあるからだ。
それは、異性間で行わなければいけないということ──。
同性間であっても、相愛関係であれば行為自体は可能である。しかしその行為はタブーであり、法律的には禁止されているのだ。執行された場合、厳罰と言われる代償が待っている。
「うちはいいけど、コナミにそんな世界見せたくねーもん」
同性間における色愛行為が行われた場合、執行の十二時間後──一日と待たないうちに、世界は暗く包まれる。アンファーでもノンアンファーでも関係なく、色を認識することができない身体になるのだ。
つまり、一生をアンコロールの世界で過ごすことになる。誰の施しも通用しないその状況はラータよりも苦境と言われ、一度色の存在を知ってしまったアンファーからすれば、まさに生きた地獄なのである。
「……ま、考えてもしゃーないけどな! どーせうちらじゃできっこないし」
「…シグレは本当にそう思う…?」
「あ? そりゃそーだろ、うちは好きでもコナミがそうじゃねーんだから」
コナミがここまでヒントを出しても、シグレは気づかない。
彼女は敏感だ。人の変化に、そこに潜む思いの欠片に。
だがそれは色愛行為と同じ──自分にだけ、通用していないのだ。
だからシグレは気づけない。
自分の中にあるコナミへの気持ちが何色をしているのか、コナミの本心がどこにあるのか──。
親同士が友人──いいやそれを越えた親友である二人は小さなころからいつも一緒だった。どこに行くにも、なにをするにも。シグレはいつもコナミの手を引いて歩いた。自分よりも小さな彼女を守るように。
だがその溺愛ぶりは家族──まるで妹に向けるようなものだった。それを分かっているから、何度好きと言葉にされてもコナミはそれを受け入れることができないのだ。
シグレが色恋にかまけ始めたのは中学へあがったころ。可愛い子を見つければ声をかけて、手を出して。そんな様子に呆れながら中学を卒業する手前、チャラけてばかりいたシグレに折り入ってされた告白。それがコナミは嬉しかった。だが、コナミがそれに応えることはなかった。
どうしてと理由を聞けば、この前コナミに告白したやつがしょーもない奴だったから──とか。なぜそう思うのかと聞いても、コナミのことが心配だから──とか。そんな黄色のような朱色のような愛情は、コナミが求めるものではなかったのだ。
コナミの中にあるシグレを想う気持ちは昔からずっと、そんな色ではないのだから──。
だが、長いことシグレを見ていればわかる。彼女が自分を特別に思ってくれているということが。それがもう、家族に向けるようなものではないということも。
コナミが気づいているそんなことに、シグレはいつまでも気づけないでいるのだ。
だからコナミは、こうして隙さえあれば彼女にヒントを出し続ける。
他人の恋愛なんてどうでもいい。早く自分の中にある気持ちに気づいてほしい──と。
「わ、けっこー強くなってきたな…どっか入るか。風邪引いたらコナミ長いもんな」
「うん……あ、ちょっと待って──」
「……いいよ、やめとこ」
「え?」
「ブランコ、色づけなくていい」
「どうして?」
「……違う色だったらやだろ? うちとコナの思い出、なくなっちゃうじゃん…」
コナミが先ほど止められたソカツを使おうとすると、シグレは寂しげな顔でそれを止めた。珍しく、夜にも呼ばないような懐かしい呼び方をして。
「わかった……ねえ、シグレ」
「ん?」
「もし違う色だったら、このブランコ……なにイロになってると思う?」
「えっ、この流れでそんなこと聞くか? キイロがいいって…」
「答えて」
「…んー……そうだなぁ…」
ふーっと。雨粒を吹き飛ばすように、シグレはあたりの植物に色を与え始める。
「んっとー……お、あれとかどう? あの色がいいな、コナミ!」
「……」
「ありゃ? だめだった…?」
「……シグレ」
──シグレが好き。でもその言葉はまだ、あなたにはあげない。
──いつか、あなたが自分の思いに気づいてくれるまで……。
「わたし、待ってるからね」
「……あ? なにを…?」
なにがなにやら、素っ頓狂な表情を見せるシグレと、穏やかにその姿を見つめるコナミ。
その横には、シグレが見つけた花が一輪、ふわふわと雨に弾む。
雨雲の合間から覗いた陽の光。
夕陽に変わる前のそれはささやかながらもまっすぐに地上に足を下ろす。
「ま、なんでもいっか。早く行くぞ、それも濡れちゃうしな」
「それ?」
「ワンピース。だめになったらもったいねーだろ? せっかくかわいいのに」
空から伸びるやわらかな光のすじを受けて、アスチルベは静かに艶めいていた──。