まどろみの日常
「ハヤ……テ…もう……だめ……」
「イブ、もうなの?」
「……ん……げんかい……」
隣でコテンと、肩に頭を寄せる幼なじみを見て、ハヤテはハァ…とため息をついた。
「まだ2ぺージしか進んでないのに」
「あしたやる…もう、ねむい…」
そう言って目を擦る姿に、なにも言っても無駄か──とハヤテは机の上の教科書をパタリと閉じた。そして力の抜けきったその身体を支えてベッドに転がすと、片隅でぐしゃぐしゃになっていたタオルケットを広げてかけてやる。
「いっしょに、ねる……?」
「………寝ないわ。自分の部屋で──」
「……ん、おやすみぃ…」
今にも落ちそうな瞼をほんの少し持ち上げ、薄いタオルケットを捲って誘惑するその表情。弱々しくこちらを覗き込む視線によく今日も耐えきったと、ハヤテは自分を褒めながら隣の自室に戻った。
「ほんっと……もうなんなのよ…イブのばか…」
時刻は二十一時を回ったころ。ドアを静かに閉め、一人になったところで出てきたのは八つ当たりのようなそんな言葉であった。
第二学年にあがってからというもの、ハヤテは悩んでいた。
幼なじみ兼、恋心を寄せる相手が、あまりにも無防備すぎることに──。
「一緒にって……寝れるわけないじゃない……!」
第一学年時はまだよかった。
合同授業でも顔を合わせる機会がないほどイブキとはクラスが離れていたし、隣の部屋といえ、一年時は寮の見張りが厳しく、消灯時間を過ぎてから部屋を出ることなどできなかったのだから。
それに冬のソカツ試験──中級レベル──の取得に向けて忙しなく日々を過ごしていたから、イブキのことが気になっても彼女を知る余裕もなかったのだ。
本来、第一学年時は初級レベル──物体・植物への色彩蘇生──を取得することがいわゆる"普通"であるが、ハヤテはすでに入学から数週間後の春の試験で初級を取得。皆がそれを目指しているなか中級──動物への色彩蘇生──を目指すという異例のスーパールーキーであった。
だからイブキがあんなにへこたれた生活を送っているとは知りもしなかったし、想像もしていなかったのだ。
第二学年にあがった初日、イブはどこの席だろう──?と教室中を見渡したがその姿はなく、具合でも悪いのかと部屋を訪れてみれば、それはもう気持ちの良さそうにスヤスヤと夢の中。ソカツの取得どころか試験を受けてすらおらず、イブキの担任であったチュアンに尋ねたところ、総合評価は最悪であった。
──あいつ授業出ねえくせにテストだけ点取るんだよなぁ…生意気だろ?でなきゃとっくに退学にしてやるのに!あんな寝坊助!
チュアン先生がそう言ったように、イブキはやらないだけでやればできる子──これは決して幼なじみのフィルターがかかっているからとか、そういうことじゃない……はず…と、ハヤテは自信なさげに思う。
だからハヤテは、放っておけないイブキの部屋を毎朝訪れては引っ張り出し、夜になれば課題をこなせるように付き添う──。
それがどうしたものか。
朝は朝はでいたずらに嵌められ躍らされ、夜になれば甘い誘いに惑わされる。
そんな日々を過ごしていれば、心が悲鳴をあげるのも時間の問題であった。
「はぁ……ハーブティーでも淹れよ…」
ハヤテはケトルのスイッチを入れた。湯を沸かす間に、ガラス製のティーポットにシングルハーブ──レモングラス──を少々。
「……今日はちょっと甘めがいいかも…」
と、そこにハニーブッシュを同量、さらさらと積もらせていく。
「──いい香り」
ドライの状態でも香るハーブたちの安らぎで、ハヤテの心は少しばかり落ち着きを取り戻していく。
ケトルが音を立てる前に湯立つ少し前の中身をそっとティーポットへ注ぎ込むと、広がるのは濡れたそれらのまた一味異なるアプローチ。それが空気に溶けださぬように、さっと蓋をしてハヤテは一息ついた。
蒸らしている間に思い浮かべるのは、隣で夢を見ているであろうイブキのこと。
長年、彼女を想っていた。
イブキと過ごした幼い夏は、きっと集めてしまえば一日にも満たない時間だった。だが、ハヤテにはその時間がなによりも大切で、いつまでもかけがえのない宝物なのだ。
わたしより背が高いのに、泣き虫で弱虫で。
でも、幼かったわたしに。知らない町で、ひとりで泣いていたわたしに。
イブキは声をかけてくれた──。
その声が、心配そうに自分を見つめる瞳が。
ハヤテにはずっと、忘れられなかった。
そして彼女を見て思ったのだ。
運命だ──と。
「イブ……なんであんな綺麗になってるのよ…」
十年ぶりに再会した幼なじみは美しくなっていた。
もともとイブキはかわいらしい顔を持ち合わせていたが、今よりもずっと長い髪を風になびかせ、常に控えめな表情を見せる幼少期の彼女はさながら人形のようにハヤテには映っていたのだ。何をしていてもおどおどと自信のない表情を覗かせ、声をかければカタツムリのように引っ込み、笑いかければ照れてばかり。
そんな彼女がどういうわけか、冷淡で気丈な美しい女性に変身していたものだから、入学式の日、ハヤテは腰を抜かす勢いであった。
身長はあのころと真逆になってしまったが、すっかり大人の顔を見せるようになった彼女はもう、人形などではなかった。
そんなイブキを見て、ハヤテは分かってしまったのだ。
長年あたためていた胸の奥にある想いが、恋心であると──。
別荘に行けなくなってからも、ハヤテはずっとイブキを思っていた。
あの子は今どうしてるかしら…転んで泣いたりしていないといいけど──と。
いつか必ず会いたい。
あのときのように心から、彼女を笑わせたい。
そんな想いを描く自分の心が、まさか桜色をしているなんて──。
再開したあの日以降、イブキといるとハヤテの心はどうしても色づいてしまうのであった。ただ、イブキは見た目だけでなく中身も大幅に成長しており、それが彼女をこうして悩ませているのだ。どうしてあんな不純になっちゃったのよ…と、その心は色めくだけでなく、騒がしく声をあげる毎日である。
「それになんなのよ…あれ……」
イブキはモテる。
今日のようなことは、ほぼ毎日と言っていいほどに。
普通の学校と違い、色彩学園では体育祭や文化祭などの合同行事がない。部活動もなければサークルのようなものもなく、遠く離れたクラスのイブキの情報は全くと言っていいほどハヤテには届いていなかったのだ。──単純に、ハヤテはそういったコミュニティが近くになかったということもあるが。
第二学年にあがりイブキを教室に引っ張り出した日、チャイムが鳴るなり騒がしくなった廊下に初めは驚いたものである。
──あんれ、ハヤテお嬢様しらねーの? あれ、全部イブキのファン。
そう言ったのは、前の席に座っていたクラスメイト。制服をこれでもかと着崩しまくるギャル──シグレである。
彼女の話では、チュアンが痛い目を見せてやろう出した問題にすべてパーフェクトな解答を叩きつけたことで有名になったのだとか。もちろんそんなのは小さな要因であって、ほとんどの生徒が食いついているのは、イブのあの容姿であることに違いなかった。
ここ──色彩学園中心都市部──は学園の中でも数少ない女子校であり、生徒たちの半数はイブキを王子様かなにかと勘違いしているのである。もう半数は単純にかわいいと悲鳴をあげているのだから、どちらにしろシグレが遊べる相手など存在しないのであった。
──ハヤテ、あれが来る前にぜったい起こして。
そう口酸っぱくイブキに言われていたが今日の彼女は手ごわく、何度叩こうが揺すろうが、夢の中から顔を出してくれそうにはなかった。最終手段としてミュール先生の拳に頼ることも考えたが、今朝のお返しだと、ハヤテがそれ以上イブキを起こすことはなかった。
「おいしい、ハヤテも食べる?」
「──大丈夫。イブ、ついてる…」
「ん、ありがと」
逃げ込んだ先の屋上で、イブキと二人。
外で食事を取るということにあまり慣れていないハヤテは、美味しそうにサンドウィッチを頬張るその横顔を呆れた顔で見ていた。
「こんなにぼやっとしてるのに…シグレさんも気の毒ね」
「んー?」
「あなたばっかり、人気があって──」
取っても取っても次々に口元を飾るそのカスを指先でちょんちょんと掃いながら、ハヤテはシグレの気持ちに心を寄せてみる。
「いいじゃん、シグレにはリボンツインがいるし」
「…コナミさんね」
「それにあたし、別に嬉しくないし。んーーー!」
両腕を上にあげ、深く息を吐いたイブキが大きな伸びをひとつ。
「……そうなの?」
「うーん、別に。興味ない」
「……どうして…?」
「あたし好きとか、そういうのないし。なんであの子たちがあんなになってるのかもわかんない」
「恋とか、どうでもいい」
サァッと、風が吹いた。
イブキの短い髪を揺らして、二人の間をすり抜けて。
「……そう…」
「?」
それから、ハヤテの心を揺らして。
「あたしが興味あるのは美味しいご飯と──」
「──ッ!!!ちょ、ちょっと……」
イブキの顔がハヤテに向かってぐいっと近づく。二人の間のその風を、断ち切るように──。
「んぐッ…!」
抵抗する間も与えず、気づけばハヤテの口の中には甘く爽やかな酸味が広がっていた。
「──そのトマトと同じ色? になってるかもしれないハヤテだけ」
食べてくれてありがと──と嫌いなトマトを口移ししてきたイブキにハヤテは気が気でなく、午後の授業はほとんどうわの空であった。
「……なんなのよ、なんなのよあれ──!もう…イブのばか!!!」
そんな昼間のできごとを思い出し、夜であることも忘れたハヤテはひとり部屋で声を荒げる。
すっかり存在を忘れ去られたハーブティーは、渋い苦味がポット中に染み出していた──。
*****
「あー、いてえー」
「……」
「うー、これじゃ飯もくえねーなー」
「……」
「だれか食べさせてくれねーかなー…?」
「…シグレ、うるさい」
ハヤテとの課題中にうっかり──いや、しっかり──寝落ちてしまったイブキは翌日の午後、食堂でA定食を食べていた。
四限目を早めに抜け出し、誰もいない食堂に一番乗り。これがいつものイブキのお昼時である──たった一人、目の前で騒がしいシグレの姿を除いては。
「ちぇっ、あーんしてくれてもいいじゃん」
「反対の手使えるっしょ」
「ケチケチすんなよイブキぃ~」
この日の授業は一限から少人数構成の選択科目であった。成績順にクラス分けされた結果、ハヤテは一番上のガンマコースへ。そしてイブキはめでたく、シグレと同じアルファコースとなった。
朝こそ起こしには来てくれたものの、そこでハヤテと別れてからかれこれ数時間。昼食中も続くシグレのマシンガントークに、イブキはもうへとへとであった。
──リボンツイン、ちゃんと面倒見てよまじ…。
イブキが心の中で八つ当たりする相手は、中間のベータコースへいったコナミであった。
「──でな、──だろ? ほんと──かよって!」
「…てかなんなのそれ」
大きめの絆創膏を雑に貼られたシグレの右手に、イブキは疑問をひとつ。
「これ? ちょっと飼い猫に噛まれちって」
「ふーん」
「…あれだぞ? コナミのことだからな?」
イブキは視線を食事に戻す。聞きたいのはそんな惚気た話ではなく、どうしてそれがぐちゃぐちゃなのかということだったからだ。
こんな奴だが、シグレは人一倍几帳面だ。一年ちょっと一緒にいればさすがのイブキでもそのくらいのことは知っている──ハヤテだって、あんなに整ったノートの取り方はしないのだから。
──まあ、あのノートがあったからあたしはあがれたようなもんだけど。
第一学年時、授業をさぼりきっていたイブキに声をかけたのはシグレだけだった。
シグレは何にも物怖じしない明るい性格で、人見知りもしなければ勝手に好かれていくタイプ。誰とでも気さくに分け隔てなく話し、アホだがその人柄ゆえ教師からの評判もまずまず。
そんなシグレになぜだか懐かれてしまったイブキは当初、彼女を避けていた。声をかけられれば視線を逸らし、部屋の扉を叩かれれば寝たふりをして。それでも懲りないシグレは、テスト前になればドアの隙間から頼んでもいないノートのコピーを放り込んで──。イブキはだんだん、そんなシグレを突き放すことが面倒になっていった。
今でもこの学園に身を置けているのは彼女のおかげであると、そう感謝はしている。
「コナミがさ、昨日のアレでちょっと怒っちって」
「……」
「夜手出そうとしたらそのままガブッ──ってな?」
「ごちそうさま」
だが、興味のない話をこれ以上されるのは不本意以外のなにものでもなく、イブキはスプーンを置いて手を合わせた──決してシグレの惚気を召し上がったわけではない。
「──イブキ、聞いてっか?」
「質問と回答がすれ違ってる」
「あ?」
「なんでそんな雑なのって聞いたの」
空気がところどころに入り込み、粘着面が互いにくっつき合ってぐちゃぐちゃと。まるで傷口をカバーする気のないその様子を指差し、イブキは呟いた。
「あーこれか? これはなあ──!」
貼られた手の甲を前に突き出して、シグレは鼻高らかに訳を話し始めた。
──いぃぃぃぃってぇ!!!
──あっ…シグレ、ごめん……。
──くぅー…コナミ…八重歯使うなって…。
──…シグレ…ごめん、ごめんね…?
──コナミ? 泣いてんのか? へーきだってこのくらい!
──……だって、シグレのこと…傷つけちゃって…。
──大丈夫だって! こんなんコレでも貼っとけばすぐ直るし。
──……わたしが、わたしが貼る……シグレ、痛くない…?
「──つってな?!コナミが!貼ってくれたわけ!!」
「吐きそう」
「あ?なんで?」
「いや、別に…」
どんだけヤンデレなの──と、口にしかけた言葉をイブキは飲み込む。歪んでようがなんだろうが所詮は人様の事情であり、自分には関係ないのだから。
「ぐっしゃぐしゃでかわいいだろ? コナミ、昔から不器用でさ~!」
「…てかあんたとあの子ってなんなの?」
「あ? 幼なじみだけど」
「じゃなくて、付き合ってんの?」
「んや、うち振られてるから」
「……は?」
「え、なに、イブキどういう感情なん?それ」
付き合ってる──それが答えだとイブキは思っていた。もしくは"まだ"付き合っていないの可能性も少しはあるか──と。
だが微塵も想像していなかったシグレの冷めた解答に、イブキはわけがわからんと眉間に深いシワを寄せた。
「ちっちゃいころから言ってんだけどな? ぜんぜんうちに興味ねーの、あいつ」
「……へぇ…」
「まあ夢物語だよなー。コナミ、めっちゃかわいいし」
イブキとて、なにも二人の関係性が気になったわけではない。
誰が誰を好きとか、付き合ってるとか。興味などさらさらないのだから。
ただ、毎回ああして鋭い視線を向けられることにいいかげん飽き飽きして、付き合っているのならとっとと無駄な嫉妬はやめるようにと、シグレからそう伝えてほしかったのだ。
誰がどう見ても、コナミはシグレに興味がある。むしろシグレ以外のことなんてほとんど考えていないのではないかというほどに──。
そういったことに疎いイブキですらそう感じるのだから、興味がないなどとそんな単純なことではないのだろうが、関わるのも面倒そうなのでイブキは何かを助言することはしなかった。
「じゃあ睨むのやめてよまじで…」
「あー。コナミ、ちっちゃいときからやきもち妬きなんだよ」
「……」
「ちょーっと相手しないとすぐに拗ねっから…」
「から?」
「いや、だから相手を」
「──毎晩?」
「え? そうだけど」
「…頼まれたの?」
「んー……自然と?」
「…だめ、やっぱ吐きそう」
「は? 大丈夫かよ」
こいつらまじか…さっき食べたの全部出そう──と、イブキは二人の意味不明な関係に軽く吐き気を覚えた。
「てかそっちこそだろ」
「なにが」
「どうなのよ、ハヤテお嬢様と」
「は?」
なぜ今ハヤテの名前が出てくるのかと、イブキは大げさに首を傾げる。
「毎日一緒にいんじゃん。幼なじみなんだって?」
「まあ、一応?」
「なんだそれ。王子様ポジのイブキと、ペテルのハヤテお嬢様──ぴったりじゃん」
「おうじさま、ねぇ」
たまに耳に入る自分を差すその名詞に、イブキはくだらないと笑った。
「なー。髪だって別にセミショぐらいだし」
この猫っ毛まっすぐにしたら肩下まであんのにな?──と、シグレが紙パックの野菜ジュースをストローで啜りながらその毛先に触れる。
「右手使ってんじゃん…」
「……イブキってさ…」
「…なに」
まじまじと向けられる視線に、イブキは怪訝な顔をした。
「普通にかわいい顔してるよな」
「シグレ、やめて。きもい」
「あ? 別にうちはイブキでもいいけど?」
「見境なしかよ」
顎にそっと手を添えられ寒気を感じると、イブキは手の甲でシグレのそれをペチッと払いのけた。
「で? 実際のところは?」
「ハヤテと? ないない」
笑っているようで笑っていないような。そんなどこか冷めた声でイブキは告げる。
「うえーつまんねーの」
「あたし好きとかないし。ハヤテだってないでしょ」
「そうか?」
「そもそもあたしたち普通に友だちだし──あんたたちと違って…」
「あ? なんかゆった?」
「別に」
ボソッと吐き捨てた言葉がシグレに届くことはなかった。
聞こえててもハテナマーク浮かべるんだろうな──と、イブキは呆れた顔を覗かせる。
「もったいねーなぁー。ハヤテお嬢様、くっっっそ綺麗なのに」
「……シグレって、ほんと懲りないね」
「あ?」
あの子、どこで聞いてるか分からないのに──。
と、だんだん賑わいを見せてきた食堂に、イブキは嫌な予感がしていた。
「………シグレの、ばか…」
そして、それは見事に的中した。
「うわっ!コナミ?!いつの間に……って冗談だってー!!」
逃げたコナミを追いかけるシグレ。またやってるわ…とイブキは相変わらずの二人を見送ると、皿を片付けるために席を立った。
「…あいつ話長すぎ」
すっかりお昼時のムードが漂う食堂に、昨日みたいなことになっては困るとイブキは足早に返却口を目指す。
「だめよ、残しちゃ」
そのとき、ポンと肩を叩いたのは、この日数時間ぶりの再会となるハヤテであった。彼女はトレイをトンッと机に下ろし、イブキの横に腰をかける。机に並んだのは、先ほどまでイブキが食べていたものと同じ献立。
「あ、久しぶり」
「そんな経ってないでしょ。イブ、それ食べられるじゃない」
ハヤテが指差したのは、イブキが除けていたコンソメスープの中のピーマンだった。
「苦いもん、これ」
「……はぁ…」
ハヤテは手のひらを前に出し、ため息の延長上にふっと息を吹いた。
「──あ。」
「ね? 食べられるでしょ?」
色鮮やかになったそれらはイブキが想像した色ではなく、黄色と赤──正体はパプリカであった。
仕方なくイブキはハヤテの横にまた腰を下ろす。
「また追いかけっこしてたけど……シグレさんなにかしたの?」
「あー。ハヤテのこときれいだって」
「…なにそれ」
ハヤテがスプーンを手に取り、スープを上品に口へと運ぶ。
「でもシグレはやめときな? 毎晩リボンツインとヤッてるって」
「やってる? なにを?」
「えっち」
「──ッ!!!」
お嬢様が盛大にスープを噴き出して、イブ──!と大声をあげて。
そこにいることを気づかれてしまったイブキはまた生徒たちに囲まれて。
賑やかに過ぎていく午後、そんな生徒たちの騒がしい様子を見守る和やかな瞳は、ミュールのものであった──。
*****
「まじで二日連続であれは応える…」
「イ、イブが変なこと言うから──!」
その日の夜、ハヤテはいつものごとくイブキの部屋を訪れていた。
昼食時にイブキが生き埋めにされてしまったのは悪いと思うが、その原因を作ったのは本人であるからして、今回は引き分けのようなものだろうとハヤテは思う。
「シグレが言ってたんだもん。あの二人やーばいよ」
「……いいから、早く続きやっちゃいましょ」
目の前のプリントは、おそらく後輩にあたる生徒たちが解いているであろう問題がびっしりと並ぶイブキ専用のもの。進級できたとはいえ、すべてがクリアなわけではない。足りなかった必修科目の単位を補う代わりに、五十枚ほどのプリントを提出するよう、チュアンから条件を出されているのだ。
「あー、これまじで時間の無駄」
「仕方ないでしょ? イブが授業出てなかったんだから。行いは返ってくるのよ?」
何枚にも重なるそれの半数は基礎中の基礎。そんな問題に怠惰な声をあげるイブキのおでこを、ハヤテは人差し指でツンッと突いた。うだうだ言っても、結局はやらなければならないのだ。だったらこんなことは早く終わらせて、好きなだけ睡眠を楽しめばいい。つい甘やかしたくなるイブキの眠たげな瞳に負けないよう、ハヤテもよし──と気を引き締めた。
「はぁー、やるかぁー」
その思いが伝わったのか、イブキは重い腰をやっと上げて万年筆を手に取り、あーだこーだいいながら問題に手を付け始める。
「…現在においても階級制度は重要視されており、両親がともに色彩者の場合を──…色彩者ってなに?」
「アンファーのこと。昔はそう呼んだらしいわ」
「へえー。両親ともアンファーなのはハヤテ…っと」
「問題にされるなんて光栄ね? ペテルでしょ」
「お、ノリツッコみだ?」
なぜだか嬉しそうな顔を見せるイブキに、ハヤテはもうっ──と呟きながらも眉を下げて微笑む。
「では、片方のみが色彩者の場合を──?」
「……パレク…もう、なんでわたしが答えるのよ…」
「ハヤテてんさーい」
マイクのように差し出された手を軽く払うと、イブキがパチパチと拍手をしだす。これはきっと、いつだかのミュールの真似だろうとハヤテは思う。
「──てことは次の空欄はラータってわけ。」
「……ええ、合ってるわ」
「くだらない問題。階級なんてなくなっちゃえばいいのに」
「……」
ときどきイブキは、空のような顔をする。
果てしなく澄み渡り、なによりも広大な存在であるのに、その色は白と黒だけで構成され、いつもどこかにやりきれない虚しさを抱いているような。
イブキがそんな表情を見せるたび、ハヤテはなにか声をかけなければと思うが、今のように言葉は出てこない。分からないのだ。彼女のその、空と同じ表情がなにを思い、どう心を揺らしているのか。
──駆け回ってたころはそんな顔、しなかったのに。
「──と思わない?」
「……」
「ねえ、ハヤテ聞いてる?」
「あ、あぁごめん、なに?」
「ラータだけなんの資格もないなんておかしくない?って」
「──ええ」
階級制度はペテル、パレク、ラータからなる。
無色彩者──ノンアンファーを両親として持つものはラータと呼ばれ、ラータはソカツの受験資格、ましてや色彩学園への入学も認められていない。
アンファーの力量には個体差があり、ソカツを持っていれば誰しもが無限に力を使えるというわけではない。ハヤテのように難なく色彩蘇生を行える者もいれば時間を要する者もいて、一日に数回しか使えない者もいれば制限なく使える者も──それもまた、ハヤテのように。
その要因は単純に素質なんていうものも関わってはくるが、基本的にはその血筋が大きく影響する。アンファーを両親として持つものはペテルと呼ばれ、生まれながらに基礎能力が一定値保証されているため、昔で言うところの華族のようなもの。血筋が濃ければ濃いほどその力は強くなると言われており、ハヤテの母の一族はその中でも名家であった。
パレク──アンファーを片親として持つものでも、ときどきペテルのような力量を備える個体もある。そのため学園は両者を受け入れ育成するのだ。
ラータはその資格もなく、そもそもソカツの取得例も存在しない。ラータは一生ラータなのだ。アンファーとの間に子を儲ければ子孫はパレクにはなれるが、こんな世の中でわざわざラータを相手に選ぶ変わり者を見つけるのは難しい。だからラータたちは集い、固まり、アンファーのいない集落で貧困に貧困を重ねるのである。
イブキの言うとおり、ペテルであるハヤテ自身もこんな制度はおかしいと思っている。だが、生まれながらにその中に放り込まれたこの世代で、そんなことに疑問を持つものは少ないどころか、ラータを嫌う者さえいるのも事実。もちろんラータを支援する制度もあることにはあるが、進んで支援を名乗り出るアンファーの数が減っていることから、近年は人員不足に拍車がかかる一方なのだ。
「ま、別にどーでもいいけど。ハヤテの下着がシロなんて、ソカツ使わなくても分かるし」
「ちょ、ちょっと! なんでわかるのよ?!」
「あ、当たり?」
「……イブ!!」
人が真面目なことを考えているというのにどうしてこうも下品なことばかり…と思いつつ、イブキの表情が明るくなったことにハヤテはほっとしていた。
「ま、だからイロなんてあってもなくても一緒ってこと」
「……ほんとうに呪いなのかしら?」
「ああ、ぜんぶ魔女の呪いってやつ?」
「ええ。今日もそんなことを話している子がいたわ」
「さーねぇー。まあ原因なんてなんでもいいんじゃない?」
「それもそうね…さ、あと少し今日の分終わらせちゃいましょ」
昔からゴシップ好きの間で囁かれる魔女の呪い。
この世界から──人々から色を奪ったのは或る一人の魔女だという説で、信じる者もいればバカらしいとあざ笑う者もいる。古くから伝わる都市伝説のようなものであり、実際に魔女が存在したという記録はない。だが人間とは、何か発端になる原因をひとつの抽象的な存在に押し付けることで自分を正当化しようとする生き物だ。だからこそ、今日でも一定数その存在を信じる者がいて、噂が後を絶たないのである。
「あーもう眠い、無理。ハヤテが近くにいると眠くなっちゃう」
「なによそれ…」
「匂いかなあ。ハヤテってなんか懐かしい匂いするから」
「人のせいにしないの。あと三問だけじゃない、ほら、目あける」
「うー」
うな垂れるイブキをトントンと鼓舞し、手から離れてしまったそれをもう一度握らせようとハヤテは手に取った。
「そういえばこれ、いつも使ってるわね」
「あー、なんかまあ、代々みたいなやつ」
「綺麗ね、この黒い羽根」
以前、文具が混ざったらややこしいと、ハヤテは自分とイブキのものにそれぞれ色彩蘇生を行ったことがある。あまり意識はしていなかったが、ものを書くときにイブキがいつも使っている万年筆──上部に美しい黒い羽根が備わったそれは、年季の入った立派なものであった
「……魔女がいたとしてさ」
机にうな垂れたままのイブキが静かに喋り始めた──まるで、教科書を朗読するときのように。
「じゃあどうして、黒だけにしなかったのかな」
いつもとは異なるイブキの声色に、ハヤテは緊張感に近いものを感じながら喉をコクッと鳴らした。
「黒一色だったら、なんにもわかんなかったのに──」
イブキがまた、あの顔をした。
ハヤテの手の中にある、それの羽根を見つめて。
「……愛した人が、いたのかも…」
「あいしたひと?」
「黒だけじゃ、わからないから……その人も、その人の心も──」
「……ふーん」
どう声をかけようかと思った。
その瞳に、どんな言葉を。
でも、たとえわからなくても。イブが感じているものが、キイロのようにまばゆく、シュイロのようにあたたかいものじゃないことはわかる。
それは白が、残っているから──。
もし魔女がいたならきっと、今の自分と同じ想いを色めかせていたのではないかと、ハヤテはそう思いながら万年筆の羽根をそっと撫でた。
どこか儚げに揺れる黒い羽根に、夕日のような視線を向けながら──。