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うつろげな春霞


「ん……」


 薄いカーテンの隙間から差し込む朝陽のまばゆい光で目を覚ます。

 陽を受けて揺れる若葉がこんなにもあたたかい色を持っていると彼女が知ったのは、割と最近のことだった。


 まだ重たい眼で数回ゆっくりと瞬きを試みながら、タオルケットを巻き込んで寝返りをひとつふたつ。

 さて、目が覚めたはいいけどこのあとどうしようか。瞼の隙間から刺激を与える陽の誘いにも乗らず、もうひと眠りしてしまおうか──そんなことを考えながら、薄いそれを顔まで引き上げ光を遮ろうとしたとき、彼女の部屋のドアが乱暴に開かれた。


「イブキ!遅い!!!」


 "開かれた"というよりも、壁に叩きつけられたという表現の方がよっぽど正しそうなその勢い。ドアが痛いと泣いているような気さえする…とイブキはベッドの上でぼんやり思う。


 ──寝たふりし続けてたら諦めてくれないかな?


 と、しばらくイブキが熱心に狸寝入りしていると、艶やかな長い髪をきれいに結った幼なじみによってガバッとタオルケットが引き剥がされてしまった。


「あ、ハヤテの変態」

「ちょっ、あなたっ…!なななな、なんで裸なのよ!?もう!!」

「んー、夜暑かったから?」

「……どうでもいいから早く服着なさいよばか!」


 目を泳がせながら、必死にこちらを見ないように顔を背けるハヤテを見てイブキはふふっと笑う。バカ真面目なハヤテをこうして毎朝、あの手この手でからかうことが彼女の最近の楽しみであり、癒しだった。こう毎回良い反応が返ってきてしまうと、明日はどうしよう、その次はなにをしてやろうかと、普段なまけている左脳が勝手に働き始めるのだ。


 ──ハヤテが飽きないようにしてあげないと…マンネリ化はよくないもんね。


「なに笑ってんの…」

「んーん、なんでもない。ハヤテ、下着取って」

「…自分で取りなさいよ……これ?」

 ぶつぶつ文句を言いながらも、ハヤテがそれを拒まないのはいつものことである。

「あ、それはたぶん昨日のやつ? かも?」

 なんで洗い場持って行かないのよ!──と、大声を張り上げるハヤテの喉は大丈夫かなとイブキは思うが、それを口にしてはさらに大声をあげかねないのでやめておいた。

「いいじゃん別に。汚くないよ?」

「そういうことじゃ…」

「あたし、汚れるようなことしてないし?」

「……もう…いいから今日のやつがどれかさっさと教えて」


 また一段と気まづそうな顔をするハヤテに満足げな笑みを浮かべながら、それそれ、とすっかりインテリアになってしまったオルガンの上をイブキは指差した。


「──はい」


 だが、ハヤテが持ってきたのはその横の本棚の上にあった下着だった。


「あ、ちがうちがう、それは一昨日の」

「……もうつっこまないわよ…?」

「その隣のやつ」

「これ?」

「おしい、その横!」

「……もうっ!」


 痺れを切らしたハヤテが片手の平を前に出し、フゥッ──と浅い息を吹いた。


「へえ、その下着ってそんな色だったんだ」


 たちまち、乱雑に散らばったイブキの下着たちに色が蘇っていく。


「まったく……いい加減ソカツの資格取りなさいよ?」

「そのうちねえ」

「……で、どの色?」

「えーっと……アオ?」

「アオはないわ…あるのはムラサキとアカとクロ……って、あなたなんでそんな色味の下着ばっかり!」

「色見て選んでないもん。ハヤテこそ、なに想像してんの?」

「うっ、うるさい!!」


 両こぶしをブンブンしながら暴れるハヤテに、イブキはニマニマする口元を抑えられそうになかった。

 人は照れたり興奮したりすると体温が上がり、その結果、耳や顔が赤くなる。授業で聞いたそんなことを思い出して、イブキはもしかしたらと口を開いた。


「下着、今のハヤテの顔の色」

「……はい、遅刻するから早く着替えちゃって」

「あ、」

「なによ」

「やっぱり変なこと想像してたんだ?」

「ッ!! ばかイブッ──!!!」


 勢いよく投げつけられたクッション。イブキがそれにダメージを受けている間に、ハヤテはドアの外へ飛び出してしまった。


「ふっ、ハヤテってやっぱおもしろい」


 手渡された赤い下着に足を通しながら、イブキは仕方なく制服に着替える。肩にやや毛先がかかる程度の短めの髪は、風呂は楽だが朝は跳ねて面倒だ。鏡を見ながらまあいっかと、ブラシを手に取ることもなくイブキはあくび混じりに手櫛でそれを整えた。その間ハヤテは先に行くでもなく、プンプンと文句を言いながらドアの前でイブキを急かすのだった。


 その声が小鳥のさえずりのようで、なんだかひどく心地が良い。

 いつもと変わらない和やかな朝に、イブキはゆっくりとシャツのボタンを留めた。


 窓の奥に、どこまでも広がっていく四角い空を見つめながら──。




 *****



 

 イブキがこの学園に入学したのは一年前の春のこと。


 色彩学園──そう呼ばれるこの学校の門を叩くのに、最初はずいぶんと緊張したものだった。見慣れない町並みに、新しい靴。少し窮屈な制服と、馴染みのない同世代たち。

 入学の諸々が終わりはしゃぐクラスメイトたちを横目に、さっさと部屋に戻って昼寝でもしようと思ったイブキが、あくび交じりに寮の部屋を間違えてからもう一年になる。

 ドアの先にいた着替え中のクラスメイトが悲鳴を上げて、その声に眠気が飛んでいって。


 それから、その相手がハヤテだったことに驚いて──。


 イブキにとって、ハヤテはたったひとりの友人で、幼なじみ。


 といっても生まれた町も育ちも異なる二人は、たった一度、夏の終わりの時期に数日を過ごしただけの仲だった。

 イブキが生まれ育った寂れた西の町は、町と呼べるほどの活気はとうになく、貧困の進んだ薄暗い集落では同じ年ごろの子どももほとんどいなかった。遊び相手といえばもっぱら、近くの湖畔を寝床にしていたやけに首の長い野鳥といったところ。楽器のような声で鳴くので"ラッパ"とイブキは呼んでいたが、やつの本当の名前は知ったこっちゃない。

 ラッパが寝そべる穏やかな湖のほとりは以前、別荘地として有名な土地であった。廃れた町から少し歩いた場所に構える大きな家々は不思議な光景であったが、全盛期にはどちらも賑やかなものであったという。ただその家々もイブキの生まれたころにはすっかり埃の被った顔を見せ、人が訪れるような気配は微塵もなかった。


 だが、あの夏だけはそうじゃなかった。


 いつもよりやや気温の低い夏。

 過ごしやすい涼風が流れたあの日、イブキに初めてラッパ以外の友だちができたのだ。


 忘れもしないあの日の夕暮れ、イブキはぼーっと空を見つめていた。


 ──ねえ、ラッパはあの空を飛んだことはある?


 そんなことを聞いても、やつから返ってくるのは"パーッ"や"プーッ"といった、イブキには到底理解のできない言語。そっと目を閉じて、もしラッパが飛んだら──そんなことを想像してみたが、飛んでいるところはおろか翼を広げた姿すら見たこともないのだから、幼いイブキがその光景を思い浮かべるのは難しかった。


 ──うーん……やっぱりラッパって飛べないのかなぁ…。


 イブキが諦めかけたそのとき。


 飛んだのだ。

 頭の中の、ラッパが。


 それは涼風に流れ、呼吸の合間に割り込んできたその匂いを感じた瞬間のことだった。


 イブキは目を開け、流れてくる匂いを捕まえようと小走りで追いかけた。なぜ捕まえようとしたのかは分からない。ただ、妙に惹きつけられて足が勝手に動いていたのだ。

 しばらく夢中でそれを追っていると、見えてきたのは自身の住む寂れた町の路地裏。たどり着いたというよりは日が暮れて帰ってきたという日常のワンシーンであったが、見慣れたカットの中に、いつもとは違うものがひとつ。


「………ねえ、どう、したの…?」

「……」


 ぽつりとしゃがみ込んでいた。

 まるで、誰かの落とし物のように。


「泣いて、る……?」

「……泣いてないわっ……」

 初めて見る同世代の女の子に、イブキはどう声をかけていいか分からずうまく言葉が出なかった。

「……だいじょう、ぶ…?」

「………ほっといて…」

「……でも…」

「いいから、あっちにいって──!」

「……ご、ごめん…」

 顔をあげた少女はイブキが思ったとおり瞳に滴をため込んでいたが、その悲しい表情の中に、なぜか驚きという感情が混じっているような気がした。

「──……あなた、名前は…?」

「……イブキ…」

「…イブキ……──湖を知ってる?」

「う、うん」

「そう…じゃあ、そこまでわたしを連れて行ってくれる?」


 そう言って泣いている少女はイブキの手を取った。

 助けようとしたのにこれではまるで助けられたみたいだと、イブキは不思議に思いつつもその少女を湖まで案内した。だが手を引いていたのは少女の方で、イブキは後ろからあっちとかこっちとか、そんなふうに声をあげるだけ。



 これが、ハヤテとの出会いだった──。



 ハヤテは湖のほとりでも群を抜いて立派な別荘を所有する家の娘──簡単に言えばイブキとは住む世界の違うお嬢様だった。

 その夏、生まれて初めて訪れた土地でハヤテは町に迷い込み、路地裏でひとりグスグスと涙を溢していたのだ。


 ──今思うとかわいいところあんじゃん…。


 と、イブキはその姿を懐かしく思うが、当の本人には苦い思い出らしく、あのときの話をするといつも話を逸らされてしまう。


「ここでいいわ、ありがとう。じゃあ──」

「あ、あの……」

「……?」

「……また、会える…?」

「…どうして?」

「ええっと……」

 また会いたいと、そう思う理由を伝える(すべ)を知らないイブキは口ごもってしまった。

 どうしていいか分からず視線を泳がせ数秒が経ったころ。やっと口を開いたのは、イブキではなくハヤテのほうだった。

「……わたし、ひとりぼっちなの。だから──あなたが友だちになってくれる?」

「…う、うん!」

「じゃあ、たいようがあの山より高くのぼったら、またここで会いましょう?」

「わ、わかった…!」

「じゃあイブ、またあした」

「イブ……」

「イブ?」

「あっ、うん…ばいばい、えっと……」

「?」

「…おなまえ、おしえてほしい…」

「──ハヤテよ」

「ハ、ハヤ……ちゃん……ばいばい…!」

「ええ、また──」


 初めてできた友だち。初めての約束。

 初めて呼ばれた名前に、初めて呼んだ名前。


 ラッパとはできないそんなやりとりに、イブキの心は知らぬ間に踊り出していた。

 柄にもなくスキップぎみに家路についたことは、今でもハヤテには内緒にしている。


 それから二人は数日、まだ陽の長い夏の終わりを、幼ごころに精一杯過ごした。

 花を摘んだり、猫を探したり。木に登るハヤテを下から見つめたり、蝶を追うその背を追いかけたり──。


 だが次の年もまた翌年も、ハヤテがその別荘を訪れることはなかった。あとから聞いた話では、いろいろあって別荘を使えなくなったとかなんとか。そんなことはつゆ知らず、イブキは寂しさを紛らわすようにラッパと会話にならないやりとりを続け、気づけば十五になっていた。


「変態──!!!」


 数年ぶりに再会した幼なじみから浴びたその言葉の残念さに、今思い出してもイブキはクスッときてしまう。


「いや、人の部屋でなにしてんの?」

「こ、ここはわたしの部屋!!」

「……ここ何号室?」

「じゅ、じゅうさん!」

「あー間違えた、隣だ……じゃ」

「ちょ、ちょっと、謝ったりできないんですか?!」

「えっと…なにに…?」

「人の裸を見たことによ!!」

「……その裸、そんな価値あるものだった…?」

「あ、あなたねぇ──!」

「じゃ、お邪魔しました」

「ちょっ──待って! あなた、名前は!!」

「──イブキ」

「イブキ…?……もしかして、イ、イブ…──?」


 そう、名前を呼ばれて。

 振り返って。


 ぎゃあぎゃあと喚いていた相手が、幼いころ一緒に駆け回ったハヤテだとやっと気がついた。

 人付き合いは苦手だし、同じ年ごろの子たちの絡み方なんてわからない。だから、イブキはその日ずっと目を背けて歩いていたのだ。


 自分よりも十センチほど背が高くなっていた幼なじみにイブキは驚いたが、それはハヤテも同じこと。わたしより背が高いのに泣き虫で口下手で…髪だってあんなに長かったのに…あの可愛かったイブはどこにいったの?!──と、それはもう大騒ぎ。


 そりゃあ十年そこらも経てば、いやでも人は変わるもの。

 こっちだって、好きで成長が止まったわけじゃない…てか、まだ伸びるつもりだし──と、イブキは騒ぐハヤテを見ながらそう思ったものだ。


 だが、驚くのは幼なじみの成長に対してだけではない。まさかハヤテもこの学園にいるなんて──。

 そんなこと、考えもしなかったのだ。駆け回っていたあのころ、幼すぎた二人はお互いの住む家も、この先のビジョンも。そんな些細な事すら話はしなかったのだから。


 でもきっと、ハヤテのほうが驚いてる。

 あの日のことを、覚えているなら──。

 

 不自然に揺れる瞳を抱えたハヤテがなにを思うのか、イブキはその答えを出そうとはしなかった──。




 *****




「──おまたせ」

「早く行くわよ、ミュール先生もうきっと教室にいるわ」

「ほーい」

「……寝ぐせだらけじゃない…」


 第二学年にあがると、ハヤテとは同じクラスになった。

 だからイブキは、入学時に買った目覚ましを捨てたのである──毎朝何度でも鳴り響く、お気に入りのそれが他にできたから。


「ほんとにソカツのことちゃんと考えなきゃだめよ」

「まあそのうち……てか取れるかもわかんないし」

「……取れるわよ。ここに…イブはここにいるんだから」


 教室まで向かう廊下で二人がヒソヒソと話すその会話には、意図的に抜け落ちる部分があった。どうして取れるか分からないのか、どうしてここにいるから取れるのか。


 それを修飾する言葉を、二人が口にすることはなかった──。



「はい…じゃあ座ってください…授業はじめます…!」


 生徒たちの騒がしい声にかき消されそうな声量で控えめに喋り出したのは、イブキとハヤテのクラスを担当する新任のミュールであった。

 教師としての威厳などちっともないが、弱々しい小動物のような姿に生徒たちはメロメロ。皆が彼女を"ミューちゃん"と呼び、喋り出せば耳を傾けるような信頼関係ができていた。


「今日は…11ページ、色彩蘇生活動の始まり──第一年時のおさらいからですね……イ、イブキさん!お、起きてますか…?」


 教科書を広げ大きなホワイトボードの前に立つ彼女は、気合入れのため細いフレームの眼鏡をケースから取り出した。よく見える二枚のレンズを通した先──席が段々と上にあがっていく階段教室の後方窓際で、()()()()()()突っ伏している背中をミュールは捉えた。


「……」

「ちょっと、イブ…イブ…!」

「……んあ」

「起きて。先生呼んでるわよ」

 授業開始早々に机に伏せたイブキの身体を、ハヤテは何度も荒々しく揺すった。

「……まだねむい…」

「さっきまで寝てたでしょ…イブ、先生こっちに──」

「いっっって──!!」


 ハヤテの忠告も聞かず、ひだまりに溶かされたままのイブキの頭に降ってきたのは、固く握られた拳であった。


「あっ……ごめんなさい…ちょっと強かったですか…?」

「……ミューちゃん…まじゴリラ…」


 その天使のような見た目とは裏腹に、ミュールは超がつくほどの怪力であった。


「すみません…チュチュが…あ、チュアン先生が寝ているときはこうしたらいいって…」

「あいつ……」

 イブキは頭を(さす)りながら顔をしかめる。チュアン先生──第一学年時によくぶつかった相性の悪いあの石頭を思い出して。

「あいつじゃないでしょ…ミュール先生、いつもすみません」

 まったく──とぼやきながらため息をついたハヤテがイブキの代わりに頭を下げる。そんな様子もクラスメイトにはすっかり見慣れた光景である。

「あ、いえ…えっと、じゃあイブキさん、11ページ読んでくれますか?」

「ええー……めんどくさい…」

「……イブキさん、もう一発…いきますか…?」

「わ、わかった! 読む! 読みます!!」

 再び固く結われたミュールの拳に、ハヤテは閉じていた教科書を急いで広げた。あんな馬鹿力を二度も食らったら、すでに顔を出し始めているたんこぶが三日は収まらないと経験者は知っているからである。

 広げられたそれを合図にミュールが教壇へ戻っていくと、その背中を見ながらイブキは思った。ハヤテもミューちゃんも…もう少しみんな穏やかに生きられないもんかな…──と。

 そしてまだぼやけた眼で、羅列する教科書のややこしい文章を追いながらスッと口を開いた。


「その昔、人々は──……」


 "その昔、人々は目に映る世界の、そのすべての色を認識することができたという。太陽や空、山に川──動物、人間にいたるまでも。

 現在、私たちの暮らすこの世界は、そのすべてが黒と白で構成されたモノクロで在る。"アンコロール"──無色を意味するその言葉で呼ぶ者も多い。それは生を授かってから枯れ果てるまで、色というものを認識することのない人々も一定数存在するからである。生まれたての赤子のように。

 だが、決して色は無いのではない。私たち個人個人がそれを認識することができないのである。

 その昔の人々が可能であったそれができなくなったのは、今からおそよ三百五十年ほど前のことといわれている。だが、その歴史については謎が多く、今日に至っても明確には解明されていない。ある世代から徐々に──ということではなく、ある時を境に認識不能になったという説が有力視されている。

 色を失った人々は様々な弊害に悩まされた。特定物の認識が曖昧になることで起きる窃盗、詐欺などの悪事。すべてがモノクロで染まる景色の中で低下していく想像力。幼少期からアンコロールで生活することにより生じる、個人特有性質の消失──つまり"好み"という概念の希薄。その影響による人口減少など、被害は様々である。

 

 そんな人類の衰退に歯止めをかけたのが"色彩蘇生活動"──蘇活(ソカツ)である。

 ソカツとは物体や気体、液体に生物。それらが持つ本来の色を個人に認識させることのできる能力を言う。古く、失った色が蘇るとされていたことから、蘇生活動と名付けられた。

 アンコロールとなってから推測二百年ほど経ったころ、つまり現在よりおよそ百五十年前"恵者(けいじゃ)"と呼ばれる一人の女性が現れ、人々にソカツの能力を授けたと言われている。その歴史は浅く、百~百五十年の間に発展したとされている。


 現在、ソカツは世界認定資格として取得することのできるものとして制度化されており、資格所持者は"アンファー"と呼ばれる。これは、恵者の力を受け継ぐ子ら──と呼ばれていたところから派生したものだとされる。

 ソカツの資格を取得することができるのは、世界各地に設置された"色彩学園"のみであり、学園を設営・運営しているのはアンファーの育成、教育、管理を行う"色彩蘇生活動保護管理局"である。"

 

「15~16歳の世代で入学が可能となり、階級制度が深く──」

「あ、イブキさん、そこまでで大丈夫です…!」


 次のページへ進もうとしたイブキの声を、教壇に立つミュールが右手をかざして止める。


「ほーい」

「……イブキ、いつもそうやって喋ればいいのに…」

「んー?」

「なんでもない」

 普段とは違ったイブキの滑らかではっきりとした音読。ハヤテの鼓動が先ほどより大きめに音を立てていることに、イブキが気づかないのはいつものことである。


「ノートを開いてください、板書します…!」


 教室中にパラパラと紙が捲られる音が響くが、イブキはひとり、また机に伏せていた。


 色なんて、あってもなくても同じじゃん──と窓の外の景色を見つめて。


「──なので、ソカツは人々の生活を豊かにするものであり…」

 キュッキュッ──と。ミュールが背伸びをしながら攣りそうなほど腕を伸ばし、一生懸命にホワイトボードを埋めていく。

 今が授業中であると中途半端に意識した脳のせいで目を閉じてもなかなか寝付くことができず、しかたなくイブキは肘をついて、そんなに届かないなら台でも持ってくればいいのにとその姿をぼけっと見つめていた。


「AさんとBさんは同じ部屋で同じ景色を見ています。机…コタツにしましょう! コタツのうえにミカンがひとつあるとして…」

 ミュールが時間をかけて描く、売り物にでもしたらどうかというほどの絵に、なぜこの人はこんなところで色なんかについて教えているのだろうとイブキは不思議に思う。どこかの美術大で講師でもしたらいいのにと。

「ミカンには今、色はありません。そこでアンファーであるAさんは、ソカツを使いBさんに色を認識させました……じゃあ……ハ、ハヤテさん。このとき、AさんとBさんに見えているミカンの色を答えてください…!」

「Bさんはミカンがシュイロに見え、Aさんはモノクロのままです」

「せ、正解です!よくできました!」

 褒められたハヤテが微妙な表情を浮かべるのは、この内容が子どもにも分かる当たり前の話だからである。そんなことでここまで過剰に褒める教師はきっと、どこの世界を探してもミュールだけであるからして、彼女は生徒たちから愛されるのであろう。


「ソカツというのは、かけた相手にだけそれが適用されます。なのでAさんはこの場合、自分自身にもそれを行わなくてはいけません…もちろん、アンファーは自身にもソカツを使用することができます」


「──ここで分かることは、人々の目に映る景色は同じでないということです。人の数だけ、その数は存在していると言っていいでしょう…!」


「ではここで問題です…! 二人が窓を開け、空の顔色を窺おうとしています。Aさんは自分とBさんに対してソカツを使いしました。そのとき、二人に空はどう映りましたか? お隣のイブキさん」


 イブキは窓の外に目をやると、ゆっくりと口を開いた。



「変わらない。笑ってても泣いてても、空はずっとモノクロ──」



 どこか諦めたようなその声色にハヤテはイブキの横顔を覗いたが、表情の変わらない面持ちがなにを思っているのか、ハヤテには分からなかった。


「正解です!…空や海のような、広大なものに色を与える──人に認識させることは現状不可能と言われています。そこまでのパワーを人は持つことができないからです……」

「──また、小さなものであったとしても、世界中の人々に一斉に同じものを認識させることも不可能と言われています。──アンネス湖だけは例外ですが…」

「では次のページを……コナミさん…お願いできますか…?」

「……はい──15~16歳の世代で入学が可能となり、階級制度が深く関係している。入学を許されているのはペテルやパルクであり、ラータは──…」


 クラスメイトが読む教科書の続きなど、どうでもいいような顔をして。

 今は寝る時間だと、やっとそう理解した脳を連れてイブキは静かに目を閉じた。


 その隣には、そんなイブキを心配そうに見つめるハヤテの姿があった──。




 *****




「イブキー、まーた来てんぞー。お前の出待ち」

「……ハヤテ、なんで早く起こしてくれなかったの…」


 イブキがすやすやと春の日差しに溶かされているうちに、いつのまにか四限は終わりを迎えていた。もうちょっと早く起こしてよと文句を叩くイブキに、何度も起こしたわよ!とハヤテはご立腹。そんないつもの二人の会話に割り込んできたのは、第一年学年時にイブキと机を並べていたシグレだった。


「あいかわらずモテてんなー。一人くらいうちにも分けてほしいもんだわ」

 肩下まで伸びるゆるりとした髪を指でくるくる巻き付けながら、小ぶりな丸いキャンディーを頬張ったシグレが大きな声をあげる。

「……シグレ、たぶん聞こえてる」

「あ?──あ、ちょ、待っ、違うって……コナミ!!」

 イブキをからかうシグレの姿を鋭い視線で突き刺していたその人物は、もう知らない──と、そう吐き捨てて逃げるように教室から出て行った。

「………あの二人、どういう関係なの…?」

「知らない。リボンツイン、シグレがなにしてても怒ってる」

「……ちゃんと名前で呼びなさいよ…」

 コナミ──リボンツインはイブキがそう口にしたとおり、まるで幼稚園児のようなツインテールの両サイドにリボンを構えるクラスメイト。

 第一年学年時は別のクラスだったが、シグレと話している──正確には話しかけられている──だけでイブキはいつもあの視線を向けられたものだから、いやでも顔ぐらいは覚えてしまったのだ。


「ご飯いこ。お腹すいた」

「いいけど…あの子たち、どうするの?」

 むくっと立ち上がったイブキがハヤテの手を取るが、教室の前も後ろも、ドアはイブキのファンたちで埋め尽くされていた。


「ハヤテ、走ろ」

「──え?」


 まだ教科書を片付けていないうちに、ハヤテの手が強く引かれる。片腕だけで机に広がった教科書やペンケースを抱え込むと、ハヤテはされるがまま。引きずられるように慌てて駆けだした。


 ──イブキ先輩! お疲れ様ですぅ!

 ──今日も素敵すぎる!

 ──イブキ様! お菓子を焼いてきましたわ!


 キャッキャッと騒がしくなったその喧噪の真ん中を、イブキはなにも言わずにハヤテの手を引いて突っ切っていく。まるで、自分のことだとも思っていないような顔で。


「イブ待って…どこ行くの…?食堂、反対…」

「いーの。うるさいから今日は二人で食べよ」

「二人でって…」

「購買でなんか買ってけばいいよ、パンとか」


 ──さっきまで寝てたくせにどこにそんな体力があるっていうのよ…? 寝てたからこそ温存できてるってわけ?


 頭に浮かんでくるそんな考えを告げる暇もなく、ハヤテはただ暴れる飼い犬に引っ張られるように廊下を駆けていくのだった──。






 

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