ほころびの若草
「ねえキリ、わたしはもうだめかもしれない」
彼女は雪に覆われた暗い空を見ながらひとり呟いた。止むことを知らないそれは、彼女の身体から次々と体温を奪っていく。
もうどのくらいこうしているだろう。ずいぶん前から足の感覚も失っている。寒い、冷たい──と、そんなことすらわからなくなってしまった今の状況は、まるでわたしの心のようだとフブキは思う。
あなたは──。
キリは今、どこにいるの。
雨の日には大きめの傘を二人で差して、背の高いキリがわたしの身体をすっぽりと収めてくれた。晴れた日にはキリがわたしを抱えて舞って。風に乗って流れる雲のように、草原を駆けて笑い合った。それからこんな日には雪を吹き飛ばして、家に帰ればわたしの作ったスープを猫舌ながらに啜って"おいしい"と赤い瞳で微笑む。
そうやってともに季節を染めたあの人がそばにいなくなってから、もう何年になっただろう。
フブキは朦朧とする意識の中で彼女とのあたたかい思い出を巡る。
こんなわたしを愛してくれた人が、こんなわたしが愛した人が、どうして姿を消してしまったのか。なぜ何も言ってくれなかったのか。いくら考えても雪に埋もれていく淡い意識の中で答えが分かるはずもなく、少女──そう見えてしまうほど華奢な容姿を持ったフブキはひとり立ち尽くしていた。
キリの心は、どこか遠くに離れていってしまったのかしら。
わたしはまだ、彼女にそれを寄せ続けてしまうというのに。
孤独の中を歩き続けても意味はなく、ただ時間が経つごとにキリを愛しく思う心が募っていく。
そんな数年を過ごしたフブキはもう、この命を続けていく理由も意味も、すべて失ってしまったのだった。
「……**……**…」
聞こえる。
わたしを呼ぶ、あの人の少しひんやりとした声が──。
はらはらと吹雪くどこまでも白い世界。薄れゆく意識の中で聞こえたのは、フブキの心がもっとも欲するあの人の声だった。そんなわけあるはずもないのにと、フブキはついに始まった幻聴に自身の人生の終わりを感じていた。
もう、瞼も開きそうにない。あとはこの声に包まれながらゆっくりと意識を手放してしまうだけ。
そうすればきっと。
きっといつか、あなたに会える──。
「……フブ…フブ…!」
「──!!」
一歩一歩、足元のそれがきしきしと鳴ってフブキの意識が戻ってくる。そしてその声が確かに風に乗り耳を刺激していることに気がついた。
もしかしたら──。
淡い期待に胸を鳴らしながら、彼女は最後の力を振り絞って瞼を持ち上げた。
「……キリ……?」
今にも絶えそうな息を切らしながら、やっとの思いで振り向いた先にいた人。
それは、見たこともない青年だった──。
「……あなた…誰……?」
「フブ、あたしだよ?」
「だって……」
"あたし"──そう言った目の前の相手はどう見ても、性別としては自分とは反対の位置に属するもの。声色も、毎晩胸の奥をぎゅっと掴んだあの人のものではなく、フブキはあがりかけていたその肩から力をそっと抜いた。
「…わけがあって今はこの姿しかできないけど…でもどうしても、フブに会いたかったから──…」
「………」
「…信じられない…?」
そう言って青年は一歩、また一歩と雪を鳴らしながらフブキへと距離を近づけた。自分よりもずいぶんと背の高い彼の影に怯え、一歩後ずさりしたところでフブキは気づいてしまった。
身長、あの人と同じね──…。
馴染みのある背丈の感覚にフブキは足を止めるが、それでもお構いなしと言わんばかりに向かってくる青年のおかげで、二人の距離はその顔がはっきりと分かるくらいにまで近づいてしまう。
フブキは再び瞼をぎゅっと閉じて、その視線から逃れようと身を縮こまらせた。
「……フブ、怖がらないで……目をあけて…?」
耳を撫でるやさしい声。
音色は違っても、まるであの人がわたしを愛してくれるときのよう──…。
そう思ったフブキは、雪と恐怖に震える瞼をゆっくりと持ち上げた。
そして次の瞬間、呼吸が止まった。
「……キリの……瞳……」
目の前にあった深緋色に透ける宝石のような瞳が、今も心を掴んで離さない彼女のものと同じだったから──。
「やっと見てくれた」
目を和らげて不器用に微笑むその姿は、目の前の人物が男性であるということすら忘れてしまうほど、フブキの愛した"キリ"の笑みそのものだった。
「ほんとうに、ほんと……?」
「うん、あたしだよフブ」
「キリ……キリ……ッ!」
フブキは抑えられないほどにこみ上げる想いのすべてを抱えて青年──キリに飛びついた。その身に重なり積雪の上に転がると、あたたかい体温が全身を包み込み、凍っていた心までも溶かされていくようだった。
「会いたかった…ずっと……どうして急にいなくなったりなんて…」
「……ごめん…」
「それに、この姿は……?」
「……色々あって、今はこの姿でしかいられないんだ…もう少ししたらまた行かなくちゃ…」
「…やっと会えたのに……どうして…?」
「フブ、ごめん……寂しい思いさせちゃうけど……でも、」
「………」
「必ず戻ってくる。だから、そのときまでどうか──」
──この身を愛していてくれないかな。
「……キリ…ずるいわ……その瞳で言われたら断れないもの…」
「へへ、ごめん。あたしね、フブが好きだよ」
久しぶりに貰うその言葉が、彼女の赤い瞳が。
フブキの身体に熱を取り戻させる。
二人は静かな雪の夜に包まれながら、離れていた心の距離を縮めていった。
「じゃあまたね、フブ」
そう言った愛する人の言葉を信じて、フブキはその灯火を耐えさせないと胸に誓った。
いつかまた、彼女に会えるそのときまで──。
*****
「はやく!イブ!ちょうちょが逃げちゃうわ!」
「ま、まって……まってよハヤちゃん……」
まだ青い草原に静かな風が吹き抜ける。
おだやかな草原には、まだ六歳にも満たないほどの幼い少女が二人。そのちいさな手足を精一杯に揺らしながら草の上を駆け抜けていた。
ハヤちゃん──そう呼ばれた少女は指先までピンッと手を伸ばし、目の前でふわりと舞う蝶を捕まえようと夢中で追いかける。一方その後ろでは、イブと呼ばれた少女がそんな彼女に追いつこうと、拙い足取りで息を切らしていた。
「読んで字のごとくとはよく言ったものね」
あれじゃあ翻弄されているじゃない…蝶を手にしたいのは前の子だけね──と、そんな二人の様子を見守る若い女性が少し離れた高台に佇んでいた。
「今度もまた不作かしら…」
心に溜まったものでも吐き出すかのように、女性は深いため息を落とす。
こんな調子で本当に大丈夫なのかしら。被害は終息の兆しを見せず、こちらだって一向に芽生える気配もない。私の個性はなんの解決にも役立ってはいないし、こうして見守ることしかできないなんて…結局あの子の悪趣味に頼りきりね…──と、眉間にしわを寄せながら目の前でキャッキャと笑う少女たちとは対照的に彼女は頭を抱えていた。
「つかまえた!!」
そんなとき、より一層明るい声が響き渡り、彼女はゆっくりと頬を緩める。
「ハヤちゃん…はぁ……早い……」
「もう! イブってば、わたしより大きいくせに!」
「そんなこと言われても…」
「見て! きっとこれアゲハチョウよ!」
「……そうなの?」
「ええ! キイロのきれいな羽根だもの!」
「……ハヤちゃんには見えるの?」
はしゃぐ少女たちの会話が風にそよぎ、それを見守る耳元へ届くと、彼女は緩んでいた口元に力を込めて真剣な眼差しを向けた。
「まだ見えないわ! でもおとなになったらきっとわかるもの!」
「そっかぁ…ねぇ、キイロってどんなイロ?」
「あかるくてまぶしくてたのしい、げんきなイロよ」
「……あかるくてまぶしい…」
「──あれはアカボシゴマダラね…」
アゲハとよく似ているが、アカボシの羽根は黄色よりも乳白色に近いミルクのような色味。羽根の後方には赤い星のような模様があり、アゲハでないことは一目瞭然──それがまだ認識できていないということは、やはりあの子も発芽したわけではないのだろう。
それが分かった彼女はふっと乾いた笑いを溢すと、その場を後にしようとゆっくり草を踏みしめた。静かに、音も立てず。
「だからねっ、そのときはきっとねっ、イブにもすてきなちょうちょを見せてあげる!」
「…どうして?」
「だってわたし、今みたいにイブの笑った顔が見たいもの!」
「………ハヤちゃん…」
「だからきっと見せてあげる!キイロのちょうちょ!」
花が咲くように無邪気な笑顔の向かいに、色づく果実のように綻ぶ微笑み。
それを見て彼女は思う。
懐かしい──と。
箱庭にいたときの私とキキのよう。純粋で、ただ美しいものだけを見つめていたあのころの…個性なんて知らなければ、いまもきっと、あのころのようにロゼと三人で楽しく──…。
彼女は瞬きもせず、何かに引っ張られるように少女たちのずっと遠くを見つめていた。淡い藤色の瞳は穏やかながらも、その奥に透ける感情はまるで皐月雨の粒にゆらぐ紫陽花のようだった。
「……イブッ!!!」
そのとき、山並みを縫った風の勢いが増して吹きつけ、彼女の被っていたツバの大きな黒い麦わら帽がビュンッと攫われた。それを追いかけようと振り向いた先の光景に、彼女は声を失ってしまう。
「………湖が……イブ、湖が…」
「……ハ、ハヤちゃんがやったの……?」
「ちがうわ……こんな大きな湖…おとなだってできっこないわよ…」
「……これって、なにイロ……?」
──アオよ。それも、とってもきれいな。
「……イブ! わたし、あなたとこの景色が見れてうれしい!」
「う、うん」
「だってこんなにわくわくするんだもの! きっと、ずっと一番のたからものだわ!」
「……ハヤちゃん…」
「ねえ、イブもそう思うでしょ?」
「ハ、ハヤちゃんっ、い、いたいよぅ…」
乱暴に抱き合う二人を見て、彼女は笑っていた。
それは先ほどまでの微笑みとは違う。肩から力が抜け、何かから解放されるかのような。そんな安堵に満ちたものだった。
「やっと…やっと見つけたわ……あの子が……」
すっかり忘れ去られた麦わら帽は、子犬のようにじゃれ合う二人の横をスイスイと風に乗って流れていく。
まるで、黒いアゲハ蝶のように──。