幕間 森の記憶
「おーい! レイ! こっちだ!」
鳥のさえずりが響く森の中、元気な声が木々の間から飛んできた。
声の主は、黒髪の少年。笑顔で手を振りながらこちらを振り返っている。
「待ってよ、ゼオン!」
小さな手足を必死に動かしながら、その背を追いかける自分。
——これは夢だ。
どこか遠くにある意識の中で、レイはそれを理解していた。
懐かしく、そして痛みを伴う記憶。幼い頃に心の奥へ沈めた、故郷の風景。
「一体どこに行くのさ」
「内緒。すっげえ場所見つけたから、レイにだけ教えてやる」
イタズラっぽい笑みを浮かべながら、ゼオンはレイの手を引いて森の奥へと進んでいく。
「……でも、ここって“女神様が住んでる森”でしょ? バチが当たるから入っちゃダメって言われてる……」
「そんなの、大人が怖がらせるために言ってるだけだって。だいじょーぶだいじょーぶ」
レイの不安げな声もどこ吹く風。ゼオンは自信たっぷりに笑い、右手の長い棒で草をかき分けながら、どんどん森の奥へと進んでいった。
葉擦れの音。風に揺れる木々。鳥のさえずりに、小川の流れる音——
森は命に満ち、陽光が木々の隙間から差し込んで、きらきらと輝いていた。
途中、ゼオンは見つけた虫をレイに見せたり、木苺をもいで手渡したりと、足を止めては小さな発見に目を輝かせていた。
レイは虫に驚き、けれどゼオンにもらった木苺を頬張っては笑った。
ふたりの冒険は、楽しげに続いていく。
やがて、三十分ほど歩いたところで、それは現れた。
森の中央にどっしりと構えるように、ひときわ太く大きな木。
そして、その根元には——
「……すごい……」
レイの口から、自然に感嘆の声が漏れた。
大人が屈んでようやく入れるほどの、ぽっかりと開いたウロ。
まるで、森が大切な何かを抱いているかのように見える。
「な? すげえだろ?」
ゼオンが誇らしげに言って、先に中へと入っていく。
「ほら、レイも!」
レイはおそるおそる後に続いた。
中は少しひんやりとしていて、木の香りと、湿った土や腐葉土の匂いが鼻をくすぐる。
静かで、守られているような、あたたかな空間だった。
「……なんだか、しんせいな感じ、するね」
「な? ここ、絶対女神様の近くなんだって。……この前、森を歩いててたまたま見つけたんだ」
「さっきは“大人のウソだ”って言ってたのに」
「そこは、言うなよ〜」
ゼオンは気まずそうに笑い、レイもつられて肩を震わせた。
ふたりはウロの奥で並んで腰を下ろし、木の隙間から見える森をぼんやりと眺めた。
その時間は、何よりも静かで、穏やかだった。
「おれさ、もう少し大きくなったら……保安官になるんだ」
「えっ……?」
「ほら、ニュースとかで見るじゃん。悪いやつらが人を困らせてるって。……ここは平和だけど、他の場所じゃ違うってさ。そういうの、なんか悲しいから……おれが、ぜんぶやっつけるんだ」
「ゼオン……かっこいいね」
「だろ?」
自信満々に笑うその横顔が、レイにはとても眩しく見えた。
「じゃあ、おれもなる!」
そう言うと、ゼオンは一瞬驚いたような顔をしてから、吹き出すように笑った。
「何言ってんだよ。森に入るのにビビってたレイじゃ、無理無理!」
「なっ……そんなこと、わかんないだろ!」
「ははは!」
ゼオンが笑いながらウロを飛び出し、レイも負けじと後を追いかける。
ふたりは、再び森の中を駆けていった。
——その景色が、少しずつ滲み、歪み、やがてぼんやりとした光の中へと溶けていく。
* * *
ぼんやりと目を開けると、まだ見慣れぬ自室だった。
特別工作室のビルの一室。
夜の静寂の中、窓から差し込む月の光が、レイの部屋を淡く照らしていた。
「……夢、か」
ぼそりと呟きながら、レイは左手をゆっくりと持ち上げる。
その手首にある小さな緑の宝石が通されたブレスレットが、月明かりに鈍く光を返していた。
遠い記憶。
穏やかだったあの日々。
あの笑顔。
レイは静かに目を閉じ、胸の奥で何かを抱きしめるようにして、再びまどろみに身を委ねた。