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車を降り、下層街に足を踏み入れた途端、空気ががらりと変わる。
レイは思わずその場の空気に眉をひそめた。
舗装の剥がれた路面には雨水と油が混じった水たまりが広がり、建物の壁は剥げた塗装の下から錆びた鉄骨がのぞいていた。
軒先には粗末な屋台や露店が並び、串焼きの香ばしい匂いと薬草の強い匂いが入り混じって鼻をつく。
「……まさに”下層街”って感じだな」
レイの呟きに、隣のエリスが小さく鼻で笑った。
「そういう言い方、ここの住人に聞かれたら刺されるわよ」
「住んでる人もいるのか?」
「もちろん。好きで住んでる人は少ないけどね。逃げ場がここしかない人ってのは、どこにでもいるわ」
エリスが周囲を鋭く見渡す。雑多な音楽が複数のスピーカーからぶつかり合い、会話と叫び声が交錯する混沌の音の海。
通りには幼い子どもたちが裸足で駆け回り、路地裏ではぼろをまとった男が壁にもたれて昏々と眠っている。
ここでは法も秩序も薄れ、人々は誰にも頼らず生きている。目が合えば睨み返されるが、そこには警戒よりも“生き残ること”への本能がにじんでいた。
上層から捨てられたこの街は、今日も何かが崩れそうなバランスの上で、陽が傾くと共に、街は一層ざわつきを増していた。
「私は、一人じゃ絶対来ないわ。特に火の曜日はね」
エリスが声を潜めて言った。
「火の曜日?」
「この辺りじゃ、市場が閉まる日なの。理由は――ま、察しの通りよ。人がいない市場でここにいる人なんて想像がつくでしょう。」
リュカが口を挟んだ。
「昔、この辺で住人が複数人、行方不明になった事件があってね。そのときも火の曜日だった。以来、地元の人間も極力外に出たがらない」
「……なるほどな。今も活気はあるけど、どこか……張り詰めてる」
「上層じゃわからない“別の秩序”がここにはある。下手に踏み込めば、あっという間に呑まれるよ」
リュカの声は真剣だった。レイはその言葉を胸に刻む。
確かに、人気は多く活気はあるが、どこか張り詰めた空気が漂っている。
壁には乱雑な落書きが重なり、建物の上階からは雑多な音楽とテレビの音が漏れてくる。
しばらく進むと、道が不自然に折れ曲がり、そこに雑居住宅が密集して建っていた。元は中級層向けに作られた建物だろうが、今は手入れもされず、どこも崩れかけている。入り口の前に、数人の男がたむろしていた。
「――待って」
エリスが足を止め、前方を指さす。古びた集合住宅の入り口前、男たちが何かをやりとりしていた。手の中でちらりと光った小さな小瓶、鋭い目つきで辺りを警戒する動き。魔術が封じられたような結界の歪みも、微かに感じられる。
「見て。あれ……魔術結晶の小瓶よ」
ガラスの中で揺れる淡い青紫の結晶。魔術由来の物質が不安定にきらめいている。それはまさに、人体に直接作用する――違法魔術を含んだ薬品の証だった。
「違法な精製方法だね。普通の錬成術じゃなく、外法で作られたものだ」
「……放っておくわけにはいかないわね」
エリスが頷いた瞬間、エリスはすっと腰の魔導銃に手をかける。
「取り締まるわ。リュカ、援護お願い」
「了解」
レイも応じて前に出ようとしたその時、男の一人がこちらに気づいた。
「誰だッ!」
男たちの一人がエリスの存在に気づき、叫びながら手を上げる。掌に集まった光が、一瞬で収束し火球となって放たれた。
「っ……!」
エリスが身構えたその前に、レイの身体が割って入る。
火球がレイの腕に直撃した――かと思われた瞬間、炎は弾かれたかのように霧散し、辺りに残滓だけが舞う。
「……っ、レイ……!」
「問題ない。行くぞ」
レイが駆け出す。男たちは驚愕と混乱の中で武器を抜こうとするが、それを許す前にレイの拳が一人の腹部に叩き込まれ、次の瞬間にはもう一人の顔面を肘で打ち抜いていた。
「……あの動き、素手で……?」
エリスもすぐに追いつき、後方から援護の炎を飛ばす。男たちの背後で爆発が起こり、一人がのけぞる。レイは倒れかけた相手の足を掴み、回転の勢いを利用してもう一人を地面に叩きつける。
「くそっ、やばい、逃げ――!」
最後の一人が背を向けて走り出そうとしたところへ、リュカが男の方へ手をかざすと、男の背後に魔術紋が浮かび上がり、青白い鎖がその身体を縛り、路地に叩き倒す。
「全員確保、ね」
エリスが息を整えながら周囲を見渡す。
「レイ、大丈夫?」
「平気。何も感じなかった。むしろ、あれくらいなら正面からでも防げそうだ」
「ほんっと……その体質、チートでしょ……」
呆れながらも、エリスの目にはどこか安心の色が浮かんでいた。
リュカは倒れた男たちを見下ろしながら、小さく息をつく。
「これ、あとで上に報告しないとね。少なくとも“あの結晶”が使われてるとなれば、裏であれを精製してる何かがいるってことだね」
エリスが頷く。
「……最近特に多くなってきたわね、薬物に加えて行方不明者も」
エリスのこぼした言葉にレイが目つきを鋭くする。
「行方不明者?」
「そう、一年ほど前から行方不明者が頻発に起きていてね。その近くでは薬物の使用も見られるから何か関係してるんじゃないかって言われてるのよ」
「ただ、手がかりは何もなくて行き詰まってるのが現状。今回のこともそれに関係してるかもしれないね」
どこか漂う不穏な空気に三人は口をつぐむ。
「ま、とりあえず安全保障局に連絡して回収してもらおう」
リュカはそう言うと、デバイスを取り出し電話をし始めるのだった。
ーーーーーーーーーー
事件の後処理を終え、男たちを安全保障課に引き渡した頃には、日はすっかり傾いていた。
下層入口の車の側で、三人は立ち、少しだけ街の喧騒から距離を置いていた。鉄製の階段が軋む音すら遠く、上空には赤黒い空が広がっている。
「……今日が配置前ってのが信じられないわね」
エリスがそう言いながら、コートの襟を直す。
火照った身体に夜の冷気が心地よく染みる。
「本当にトレノスでも活躍してたのね。それに、あの動き、あそこまでやれる人、そうそういないわ。リュカが推薦したってのも納得だわ」
レイは照れ臭そうに後頭部をかく。
「正直、動けたのは勢いだけだよ。トレノスは平和だったし、ああいうの、慣れてるわけじゃないし」
「でも、躊躇はなかった。炎の直撃にためらわず飛び込める人、そうそういない。……私も、あのときは本気で驚いたわ」
ふと、エリスの横顔が柔らかくなる。
どこか意地を張っていた彼女が、ようやく一歩だけ心を許した瞬間だった。
「……ありがとう、レイ。助けられたわ」
「ああ、こちらこそ」
レイもまた、少しだけ目を細めた。
二人の間に小さな沈黙が流れたが、それを破ったのはリュカだった。
「はいはい、そろそろ戻ろうか。夕飯逃すと、エリスまた機嫌悪くなるから」
「ちょ、誰が機嫌悪くなるって!?」
「前もカレー取り損ねて3日くらい無言だったじゃん……」
「言わないで!!」
レイは思わず吹き出し、エリスもやや顔を赤らめながらリュカを睨んだ。
その空気に、さっきまでの緊張が自然と和らいでいく。
階段を下りながら、リュカがぼそりと呟く。
「でも……確かに、新しいチームとして特別工作室がスタートするには、ちょうどいい立ち上がりかもしれないね。今日の件も含めて、今後が忙しくなるよ」
エリスが頷きながら笑う。
「いいじゃない。やっと、人手も増えたことだし色々出来ることも増えるわ」
「……これから、いろんなことが起きるんだろうな」
レイは、手すり越しに広がる下層街をもう一度見下ろした。
あの光と闇が交錯する街の奥に、何が待っているのか。
そうして――
《特別工作室:始動》
その名のもとに集った者の小さな一歩が、
やがてこの都市を巻き込む大きな渦の始まりになることを、
まだ誰も知らなかった。