33
洞窟内にはまだ静寂が続いていた。
レイはゼオンの背中に手を置いたまま、顔を上げたゼオンの顔を見る。
特別工作室の三人も二人の様子をじっと見守っていた。
その表情はどこか複雑で、レイとゼオンの間に入ることをためらうようだった
「ゼオン、……どうしてここに」
レイがゼオンへ問うた。
ゼオンの背中に吸収された黒いマナはレイの手を通って無くなり辺りの空気は澄んでいた。
洞窟に満ちていた重苦しい圧力は完全に消え失せ、ただ微かに湿った岩壁の匂いだけが残った。
ゼオンは驚きの表情のまま、レイの顔を見つめ返していた。
その双眸には動揺と、どこか安堵の色さえ滲んでいる。
だが──それは刹那のことだった。
ゼオンの視線が僅かに伏せられ、苦渋に満ちた陰がその表情を覆い、背中に置かれたレイの手を振り払う。
「……これ以上、近づくな」
低く絞り出すような声。
レイは目を見開いた。
「ゼオン……?」
「俺は……お前たちと違う場所にいる人間だ」
ゼオンはゆっくりと立ち上がった。
膝をついていた体勢からは想像もつかないほど静かで、整然とした動きだった。
マントの裾がわずかに揺れる。
「……違う場所?」
「これ以上は踏み込むな。と警告したはずだ」
ゼオンがレイの目を見てはっきりとそう言った。
「でも、こんなことが起こってる以上……放ってはおけない」
ゼオンがレイの手首に巻かれたブレスレットに一瞥する。
「余計なものを渡してしまったな……。それが導いているのか、もしくはーーー」
そこまで言いかけたところで、ゼオンは言葉を飲み込んだ。
「ブレスレットか……?」
レイが同じくブレスレットを見る。
それはレイの手首で鈍く輝いていた。
そして、ゼオンがかすかに苦笑したように唇を歪める。
「いや……忘れろ。レイ、お前は生きてなくちゃいけない」
「……どういう意味だよ」
そう言って、レイは一歩踏み出そうとしたが──その瞬間だった。
ゼオンの気配がふっと薄れた。
「……!」
視線の隅で、彼の足元から影が滲むように広がり、空間ごと揺らぐ。
そのままゼオンの姿は、まるで朝靄に包まれるように消えていく。
「ゼオン!」
「!!!」
レイの声は虚空に響き、消えたゼオンの姿に特別工作室の面々が驚きの表情を浮かべる。
だが応えるものはいない。
わずかに残った雷光の余韻と、淡く揺らめくマナの残滓だけがその場に残されていた。
ゼオンの姿が霧散するように消えた後も、洞窟に残る空気はどこか張り詰めていた。
「レイ……今のは、君の幼馴染の……?」
三人がゆっくりとレイの元へ駆け寄り、リュカが声をかけた。
「ああ……昔と様子は違うけど、間違いない」
レイの目ははっきりと確信を持ってそう答える。
「でもどうしてここに来たんや?もそも前の行方不明の事件の容疑者でもあるんやろ?」
「確かにそうだけど……、でも彼助けてくれた、のよね」
エリスが言い、さらに続ける。
「それに私達と倉庫街で戦闘になった時、多分だけど力を出してなかったと思うわ。じゃなきゃ、私達はあっという間に殺されてたもの」
先程の黒い獣とゼオンの戦闘を振り返りエリスが言う。
四人で戦っても追い詰められるほどの強敵であった。
それにジェフもエリスもリュカも安全保障課の中でも実力者である。その四人を置いたとしても、先程のゼオンの実力はそれ以上であったことは間違いなかった。
「でもなんであいつは俺達を助けてくれたんや?味方なんか?」
「わからない。だけど、ゼオンが今回のことと何か深く関わっていることは間違いない」
そう言って、レイはふと、ゼオンが立っていた床に視線を移す。
そこには──淡い銀色の光が揺らめいていた。
床に刻まれているのは、二羽の翼を広げた鳥が、一粒の宝石を守るように抱えている精緻な紋章。
鳥たちの羽は絡み合い、宝石を護る姿はまるで“封じられた何か”を象徴しているかのようだった。
「……なんだ、これ……?」
レイは思わず小さく呟き、指先を伸ばした。
その瞬間、紋章はかすかな音も立てず崩れ落ちるように消えた。
まるで最初から存在しなかったかのように。
「今のって、旧王家の紋章?」
エリスがそう答える。
「確かに、間違いないかも。リセルのお墓には同じものがあったね」
「どういうことだ?」
「ほら、お墓の墓地の地下の燭台とかお墓にもあったじゃん。消えたけど確かに旧王家の紋章と一致していたはずだよ」
リュカがデバイスを開き、操作をするとそこに先ほどと同じ旧王家の紋章があった。
三人はそれをまじまじと確認をする。
「ホンマやわ。に、してもそんな人が消えるような魔術、聞いたこともないで」
「もしかすると一種の幻覚に近い魔術なのかもしれないね。戻ったら調べよう」
リュカがデバイスを閉じて、そう言う。
「とにかく、一度町に戻りましょう。今回起こったこと、それにヴァルターと教会関係者が二人も死んでしまった……。あの祭壇に関しても詳しく調べる必要があるわ」
「そうだな……」
レイは小さく頷き、もう一度だけ銀色の紋章が消えた床へ視線を戻す。
そこにはもう何も残っていなかった。ただ湿った岩肌と、かすかに残る鉄錆の匂いだけが漂っている。
まるで、ゼオンが現れたことも、紋章が刻まれていたことも幻だったかのように。
だが──
四人の胸の奥には拭いきれない違和感が残っていた。
あの紋章。
旧王家の紋章が、なぜこんな地下の洞窟にあるのか。
そしてゼオンはなぜ現れたのか。
それが偶然ではないことを、本能が告げていた。
「……レイ」
エリスがそっと声をかける。
振り返ると、彼女の瞳にも同じ迷いと不安の色が浮かんでいた。
リュカもジェフも、誰もが“今回の事件は想像以上に深い”と悟っている。
そして──その中心にゼオンと旧王家が関係していることも。
「行こう。まずは今わかっている情報を整理しよう。町に戻ったら、資料と照らし合わせて……何か繋がるかもしれない」
レイがそう言うと、三人は無言で頷いた。
散らばった祭壇の破片、崩れた石材、そしてマナの余韻がまだ漂う洞窟を一瞥し、四人はゆっくりと出口へ歩みを進める。
四人は慎重に足元を確かめながら、洞窟の来た道を戻っていった。
湿った岩肌と、時折響く水滴の音。
重苦しいマナの気配は既に消えていたものの、空気にはまだ“何かを見落としている”ような薄い緊張感が残っていた。
誰も口を開かないまま、ただ黙々と歩を進める。
それぞれが先程の出来事──ゼオンの言葉、消えた紋章、教会の闇──を反芻していたからだ。
レイは手首のブレスレットに無意識に指先を添えた。
ゼオンが「余計なものを渡してしまったな」と言ったその意味。
そして「生きていろ」と言い残した最後の言葉。
──あれは警告か、それとも願いだったのか。
「外やな……」
ジェフが小さく息を吐き、額の汗をぬぐった。
いつの間にか外は夕暮れ時に近づき、ひんやりとした空気が、次第に生温かい夜の風へと変わっていく。
やがて四人は来た獣道を戻り、残っているヴァルターの車が見えた。
「……ヴァルターも、あんな最期になるなんて」
エリスがぽつりと呟き、三人は表情を曇らせる。
「結局、彼の目的もわからずじまいや」
「でも、大きな何かに繋がるのは間違いない」
ジェフが言葉に三人は静かに頷いた。
──ゼオンが最後に消えたときに残った旧王家の紋章。
──洞窟の奥に祀ってる祭壇。
彼が再び現れるのか、それとも既に見えない場所で次の動きを始めているのか。
四人は止めてあった車に乗り込み、森を抜け、やがて舗装された街道に出る。
その頃には日は暮れ、星々が高く瞬き始め、夜風は少し冷たくなっていた。
「……あの紋章。旧王家だけやなくて、もっと奥がある気がする」
ぽつりとジェフが口を開く。
レイは頷いた。
「ああ。俺もそう思う。ゼオンの態度も……あれは何かを隠してる顔だった」
「それに王家の紋章が教会と結びついてるってことは……、今回の事件の“根っこ”はもっと深いとこにあるのかもしれないわね」
エリスの言葉に、四人は無言になった。
──それでも進まなければならない。
誰もがそう感じていた。
帰路の車内にも、言葉は少なかった。
だがその沈黙は、決して気まずさではない。
彼らの間に流れる共通の決意と、これから向き合う“見えない敵”への覚悟が、静かに交差していた。
──そして、その背後ではまだ誰も気づかぬ小さな歯車が回り始めていた。