32
突然襲ってきた雷光に黒い獣の狙いがゼオンへ向く。
ゼオンは迷いなくナイフを抜き、獣へ向かって疾駆した。
その動きは目に捉えられず、まるで雷そのものだった。
「グオオオアアア!!」
獣が低く、喉をえぐるような咆哮をあげる。
闇をまとった巨体が揺れ、空間が震えた。
だが、ゼオンは止まらない。
一太刀。
ナイフが閃光を引き裂きながら獣の肩を切り裂く。
黒い体液が爆ぜるように飛び散り、岩壁を焼き焦がした。
二太刀。
腰から脇腹へと深く斬り上げ、再び黒い体液が舞った。
「ギィアアァ……!」
獣が断末魔のようなうめき声を漏らし、体をよじる。
それは一方的な蹂躙だった。
ゼオンは更に踏み込む。
重厚な雷鳴とともに彼の脚が地を蹴り、周囲の地面が砕け散る。
ゼオンの動きの軌跡が稲妻のような光線となり、洞窟内を閃光が走った。
霧から伸びる無数の触手が、槍のように鋭くゼオンを貫かんと襲い掛かる。
だがその瞬間、ゼオンの身体から轟音と共に雷光が奔る。
青白い稲妻が触手を包み、焼き切り、砕き落とす。
触手は千切れ、地に落ちた端から蒸発して消えた。
「グォアアアァ……アア……ッ!!」
獣は苦悶と怒りを混ぜたような濁った咆哮を上げた。
巨体がのたうち、岩壁を削り取る。
しかし、ゼオンの攻撃は止まらない。
三太刀。
喉元へ鋭く突き込み、深々と刃を沈める。
獣が喘ぎ、足元を崩す。
四太刀。
膝裏へ刃を滑らせ、片膝を地に着かせる。
鈍い衝撃音とともに地面が揺れた。
洞窟全体が戦慄き、壁の岩が崩れ落ちる。
先程まで追い詰められていた四人の状況とは一変し、
ゼオン一人の圧倒的な力が黒い獣を完全に押し込んでいた。
青白い雷光がゼオンの全身を駆け巡り、彼の影が幾重にも揺らめく。
鋭い呼吸と獣の荒い咆哮が洞窟内に響き合い、空間そのものが軋んだように感じる。
「……ッ! なんて力……」
リュカが息を呑む。
誰もが、その凄絶な戦いから目を離せなかった。
ゼオンの雷光が洞窟内を閃き、黒い獣の咆哮がまた響き渡る。
稲妻のごとき刃が飛び交い、触手と肉体を容赦なく切り裂く光景は
「ただの助っ人」などという言葉では到底済まされなかった。
「あの黒衣……倉庫街で襲ってきた黒衣の男…?どうして?」
エリスが戸惑い混じりの声を漏らす。
だが次の瞬間、その表情を引き締めた。
この隙に、と判断するとリュカとジェフに駆け寄り、両手を翳す。
彼女の指先から淡い金色の光が溢れ出し、二人の傷口をゆっくりと癒やしていく。
そしてレイへは持ち合わせて傷薬を渡した。
「助かったよ……エリス」
リュカが短く礼を告げ、眉間に皺を寄せたまま戦場へ目を戻した。
ジェフは片膝を立てながらゼオンの戦いに目を凝らしている。
「ゼオン」
その名を、レイが静かに呟いた。
指先がわずかに震えている。
リュカがはっとして目を見開く。
「ゼオンって……レイの村の幼馴染だっていう……」
「え…! ならどうしてあの時……!」
エリスが驚きの声を上げた。
つい先日、倉庫街で自分たちへ向かって放たれた閃光とナイフ。
あの時の一瞬の殺気が、鮮烈に彼女の頭をよぎる。
だが、今目の前で展開されている戦いは、あの時とは比べ物にならない。
ーーまるで、あの時は手加減をしていたかのように。
先程までの混戦とは違い、洞窟内はゼオンと黒い獣との戦いになっていた。
ゼオンのナイフが雷鳴に輝き、その軌跡が残る。足を断ち、喉元を狙い、襲い来る触手を次々と切り落とす。無数の攻撃をものともせず、ゼオンは軽やかにそれを躱した。
四人が手出しができるような隙はなかった。
「なんやあのスピード……まるで雷そのものやないか」
ジェフが低く唸るように呟いた。
治療を受けつつも、その表情は驚愕に染まっていた。
リュカも黙ったまま顎を引き、冷静さを取り戻そうとするかのよう呟く。
「あんな力、見たことないよ……」
「……彼はこんな力を、どうやって……?」
エリスが戸惑いを滲ませた声で続ける。
癒しの光に包まれたリュカとジェフの傷は徐々に塞がりつつあった。
レイはエリスから渡された傷薬を傷口に染み込ませ、固く唇を噛んだまま、ゼオンの背中を見つめ続ける。
レイの瞳に映るのは、幼い日々を共に過ごした幼馴染ではない。
雷光に包まれ、圧倒的な力で敵を蹂躙する、別人のような存在だった。
ゼオンの駆けた後には閃光の線が残る。
獣の勢いは着実に削がれ、その身を包んでいた黒いマナが剥がれ、宙を漂い始めた。
行き場を失ったそれは、洞窟内を薄暗く曇らせている。
ゼオンは獣の足を切り裂き、その膝を崩させた。
獣は低く唸り声をあげ、巨大な体を揺らす。
しかしゼオンの動きは止まらない。
雷光とともにナイフを振り抜き、次の瞬間には獣の背へと跳び移っていた。
重心を崩した獣の首筋、背骨の付け根を迷いなく突き立てる。
「ウガアアアッ!!!」
獣の苦悶に満ちた咆哮が洞窟に響く。
そして、その体表にいつの間にか魔術紋が刻まれるように光っており、それは一斉に青白く閃き、ひび割れるように閃光が走る。
ゼオンが獣から飛び降りると、ドンっという雷が近くに落ちたような轟音と共に獣が崩れ落ちると、獣の体を覆っていた黒いマナが剥がれ落ち、喉元のその奥に微かに光るものが現れた。
「核……!」
レイが息を呑む。
ゼオンは着地と同時に獣へ瞬速で近づき、獣の喉元に目がけてナイフを突きつける。
雷鳴が洞窟内に轟き、獣の喉大きく裂ける。
露わになったのは、闇色の水晶のような楕円体──禍々しく脈動する“核”だった。
核は不規則に脈打ち、周囲の黒いマナを吸い込もうとするかのように脈動を繰り返していた。
ゼオンは地面に滑るように着地しつつも、獣から距離を取る。
その蒼い瞳は冷静に核を見据え、わずかに息を整える。それでも表情に焦りはなかった。
獣は核を露出されたことで再び吠えたが、先程までの勢いはもはやなかった。
崩れかけた足取りでゼオンを威嚇するが、傷口からはドロリとした体液が溢れ、動きは鈍い。
「……仕留める気やな」
ジェフが低くつぶやいた。
レイもそれを察し、無意識にゼオンの背中へと視線を向けた。
その背に纏う雷光はより鮮烈さを増しており、ゼオンの意思が一点に絞られているのがわかる。
彼はまさに“核”を壊す、その瞬間を見据えていた。
だがその刹那ーーー
レイの目に異変が映った。
空気中を漂っていた黒いマナが渦を巻き、ゼオンの背中へと吸い寄せられていく。
「……くっ…!」
その瞬間、ゼオンが苦しげに膝をついた。
鋭く息を呑む音が、洞窟内に響く。
頭上、高く揺蕩っていた黒い雲のようなマナが突然、渦を巻きながら竜巻のごとく降下した。
ゼオンの背へ一直線に突き刺さるように流れ込んでいく。
背中の傷跡からは赤黒い光が激しく脈打ち、まるで異質な生命が蠢くように発光していた。
「ゼオン……!」
レイの胸が強く締め付けられた。
その刹那、獣の影からするりと伸びる黒い触手がゼオンを狙う。
鋭い槍と化したそれは迷いなく彼の心臓を突き抜こうとしていた。
「ゼオン!!」
レイは叫び、即座に風の魔術を紡ぐ。
指先から放たれた鋭利な風の刃が唸りを上げ、触手を断ち切った。
肉の裂ける音と共に切断された触手が床へと落ちる。
間髪入れず、レイはさらに風を操った。
巻き上げる旋風がレイの周囲に渦巻き、そのまま獣の喉元ーー輝く核へと風刃を放つ。
銀色の閃光が一直線に走り、核を正確に貫いた。
獣は耳を劈くような悲鳴を上げ、巨体をのたうち回す。
「皆! 今だ、動きを止めてくれ!」
レイの鋭い声が洞窟に響いた。
その呼びかけに応じ、リュカが真っ先に動く。
彼の足元に幾重もの魔術紋が浮かび、青く光る鎖が放たれる。
鎖は獣の四肢へと飛び、蛇のように巻き付いたかと思うと一気に締め上げ、動きを封じた。
「任せて!」
続けざまにエリスが炎の詠唱を紡ぐ。
レイとリュカの連携を逃さず、彼女の周囲に赤橙の魔力が渦を巻く。
鎖に絡めるように、獣の四肢から業火の柱が噴き上がった。
肉を焼き焦がす音と共に、獣は苦痛に吠える。
拘束された四肢はもはや使い物にならない。
「押さえは任せとけ!」
ジェフが低く呟き、両掌を地面へ叩きつけた。
重い轟音と共に地面が隆起し、鋭い石杭が幾本も飛び出す。
その一つが獣の腹を深々と貫き、地面へと串刺しにする。
呻き声を上げ、獣の巨体が大きく仰け反った。
その瞬間、レイは迷わず駆け出した。
魔術で拡張された風を纏い、レイの体は軽やかに獣の喉元へ跳躍する。
すでに亀裂が走った核へと手を伸ばし、今度こそそれを力強く握り締めた。
「はああっ!」
全身の力を込めて握り込む。
核は先程よりも明らかに脆くなっていた。
軋みを上げながら、レイの手の中で確実に砕けていく。
獣は声にもならない絶叫を放つ。
洞窟内に響く歪んだ咆哮と共に、その巨体が痙攣した。
やがて「パキィン!」と甲高い音を立て、核は粉々に砕けた。
獣は瞬間、動きを止めたかと思うと、次の瞬間、全身から黒いどろりとした体液を流し崩れ落ちる。
粘液のように溶けたそれは地面に広がり、やがて動きを失った。
重苦しい沈黙が洞窟に落ちた。
「……終わった……?」
リュカが呟くように言った。
洞窟を満たしていた禍々しい気配は、確かに消えていた。
リュカは気が抜けたように地面にへたり込む。
ジェフとエリスも思わず呆然とした表情でその場に立ち尽くしていた。
どろりとした体液はその後蒸発するかのように空気中に溶けていき、黒く揺蕩う。
そしてまたそれはゼオンの方へと向かっていった。
「ゼオン!」
レイはゼオンの方へ駆け寄る。
「ゼオン!大丈夫か!」
「……くっ、近寄るな」
ゼオンは苦悶の表情を浮かべながら、拒絶の言葉をあげて、レイを止めた。
だが、レイは膝をつくゼオンに寄り、その渦の中心となるマナに触れる。
すると、それは今度はゼオンの体を通してレイの身体の中へと入り込んで来る。
「な、なんだ」
ナディの光に包まれたときのようなマナの流れが自分の中に入ってくるのを感じた。
ゼオンが浮かべていたような苦しさはなく、何かの力がレイの中を巡るようだった。
暫くの静寂が訪れ、ゼオンがゆっくりと顔をあげて驚きの表情をレイを見た。
「これは……一体……」
空気中のマナはゼオンの背中へと集まっていくが、それはレイの手を通じ、レイの体内へと流れていく。
そしてまるでレイの体を通った黒いマナは、まるで汚れた水が清められるように澄んでいき、空気に溶けて消えていった。
「……レイ……、お前一体何をしたんだ」
ゼオンが戸惑いの声で言う。
レイはゼオンの顔を見つめ返す。
彼が自分の名を呼んだ、その声を確かに聞き取った。
「やっぱり……ゼオンなんだな」
その言葉に、再び静寂が降りた。