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レイたちは目の前の異様な光景に思わず息を呑んだ。
喉が張り付くように乾き、全身の皮膚が総毛立つ。
理性が警鐘を鳴らしていた――「逃げろ」と。
目の前には獣じみた黒い異形が四人の前で黒い霧を出しながらいた。
まるでこの世のものではない、悪魔の遣いとでも称されそうなそれは圧倒的な圧を四人へ送っていた。
「なんなの……」
「こんな、人が変形するなんて……どんな魔術……」
エリスとリュカが震えた声で呟く。
戦場を幾度も潜り抜けた二人でさえ、その声には恐怖が滲んでいた。
漆黒の獣のようなそれは、地を這うようにゆっくりと動き出した。
蠢く霧の中から、骨のような鋭い肢が滑り出し、地面を引っ掻きながら四足で低く構える。
目も顔もないはずなのに、“確かにこちらを見ている”感覚が四人を刺した。
レイは無意識に唾を飲み込んだ。
「……来るぞ!」
レイが叫んだ瞬間、黒い獣は地を割る勢いで跳びかかった。
黒い霧を撒き散らしながら信じがたい速度で迫るそれに、ジェフとリュカは咄嗟に構えを取る。
ジェフのハルバードが風を裂き、リュカの手には魔術陣から形成した小さな障壁が展開された。
「皆離れるんやっ!!」
ジェフの指示と共に四人は散り、それぞれ距離を取る。
だが獣は滑るように方向を変え、黒い爪で地面を砕きながらエリス目掛けて襲いかかった。
「くっ!」
エリスは即座に体を翻し、銃の引き金を引く。
赤い光線が獣影へ向かって、火花が黒霧の中で瞬いた――が、弾は黒い獣を貫くものの決定打とはならなかった。
「効いてない……!?」
エリスが歯噛みする隙を与えず、獣の鋭い爪が薙ぎ払われた。
だがその直前ーー
ジェフが放った岩の槍が地中から突き上がり、獣の動きを逸らした。
そしてジェフがすかさずハルバードを振りかざし獣の体を裂く。
黒い体液なようなものが響き、獣が吠えるが、次の瞬間太い右腕ジェフに振りかぶさる。
ジェフは魔術を展開させると岩の壁を立ち上げ、それを防ぐが圧倒的な力がそれを破る。
ジェフはそれをすんでのところで後ろに引き下がり避けた。
「なんやこいつは!……普通の力ちゃうぞ!人が二人合わさったにしてもこんなマナの総量ありえへん!」
ジェフの鋭い声が響く。
「くそ……一体何なんだ!」
レイの頭の中にはナディを纏った黒い影との戦闘が蘇る。短剣を逆手に握り、刃に沿って風の刃を纏わせる。
刀身が淡く輝き始めた。
「エリス、援護を!リュカはどうにか拘束できるようにしてくれ!ジェフは一緒に足止めを頼む」
「了解!」
エリスは即座に位置を取り直し、銃に魔術式を付与する。
リュカは冷静に魔術紋を展開し、鎖を出現させた。
レイは滑るように前進し、獣の側面へと回り込む。ジェフと目配せを交わし、二人はほぼ同時に間合いを詰めた。
レイの風刃が横薙ぎに閃き、獣の左脚を切り裂く。ジェフはハルバードを大きく振り被り、右肩へと斬り下ろした。
二人の斬撃が交錯し、黒い体液が再び飛び散る。
獣は唸り声をあげ、二人を弾き飛ばそうと身体をひねる。
その瞬間――
「リュカ!今や!」
ジェフの叫びと共に、リュカの魔術鎖が虚空からうねり出た。
輝く鎖が獣の両腕に巻きつき、ぎちりと締め上げる。
「まだ……完全には抑えきれない!」
リュカが歯を食いしばる中、エリスが距離を保ったまま銃を構えた。
銃口には淡く輝く魔術式が収束しつつある。
「援護する……!」
エリスは狙いを定め、引き金を引いた。
光弾が迸り、獣の頭部に正確に命中する。
衝撃波と共に霧のような黒煙が弾け、獣が大きくのけ反った。
「いいぞ……もう一撃!」
レイは呼吸を整え直し、再び間合いを詰める。
ジェフもハルバードを構え直し、左右から獣を挟み込んだ。
二人の攻撃が連続して浴びせられ、獣の動きが徐々に鈍り始める。
リュカは鎖を操りながら隙を見て、より強固に拘束を強めていく。
「動きが落ちてきた……このまま押し切れる!」
エリスも間断なく援護射撃を続け、獣の体勢を崩し続けた。
四人の連携は、初めて異形に対し優位を作り出しつつあった。
黒衣の男――「特使」は、遠く祭壇の前からその様子を静かに眺めていた。
その表情はフードの奥深くに隠され見えない。
ただ……確実に“愉悦”を含んだ気配だけが四人の心を鈍く圧迫していた。
「あなた達を処理したら、それも我が神に捧げましょう」
男の不気味な囁きが洞窟中にじわりと染み渡る。
レイは眉をひそめ、喉の奥が冷たくなる感覚を覚えた。
黒い獣は唸るような低い音を発しながら、地を蹴った。拘束していたリュカの鎖を力任せに引きちぎり、太い足でレイとジェフを牽制する。
二人は一度後方へ引き、武器を構えて様子を見た。
其の瞬間、四足の肢が岩を砕き、信じられない膂力で宙を裂いてリュカの方へ向かっていく。
速度は先ほどよりも速い――まるで“馴染み始めた”かのように。
「リュカ、来るぞ!!」
レイが叫ぶより早く、ジェフがハルバードを地面に打ちつけた。
ゴオッ――という低音とともに地面から岩壁が隆起し、突進する獣影の進路を塞ぐ。
だが、獣影は霧とともに岩壁をすり抜けるように消え――次の瞬間、壁の裏から滑り出すように現れた。
「左、回り込んでる!」
ジェフが叫ぶと同時に、リュカの展開した鎖が庇うように獣影の足を絡めとるが、圧倒的な力を持って鎖がちぎれる。破片が散る中、獣影はそのままリュカに飛びかかった。
「リュカ!!」
ジェフが声を上げ、先ほど展開した岩壁から杭があらわれ、獣へと向かう。
それは速度持って向かい、漆黒の霧を一瞬だけ引き裂いた。
裂け目の中から、骨と筋肉が歪に混ざり合った醜悪な“中身”が露わになる。
「効いたか……!?」
しかし安堵する暇もなく、獣影は霧とともに裂け目を埋め戻し、再び襲いかかった。
ジェフがさらにリュカの前に岩壁を形成させると、爪は岩壁をやぶりその圧にリュカの体が飛んだ。
「ああっ!!」
その瞬間にレイが風の刃を獣影へ向かって飛ばし、エリスが炎の槍を飛ばした。
獣影は真正面からそれらを受け止め動きが止まる。
「エリス!!リュカを頼む!!」
「ええ!」
エリスはリュカの元へ駆け寄ると聖魔術を展開しリュカの傷を癒していく。
レイが駆けた。
短剣の刃先が緑色の光を放ち、レイの体術が極限まで研ぎ澄まされる。
レイは異形の背へ回り込み、首筋へ魔術を帯びた短剣を深々と突き立てた。
「うおおおっ!!」
ブシュッ、と濁った体液が噴き出す。
そして左手で獣影本体に触れると、触れた箇所の黒いマナが溶けるように弾け、霧が一瞬四散する。
「グウウアアアアアア……!」
異形が地面を抉りながら暴れ、倒れた。レイが触れた場所に苦痛を感じているように、吠えている。
レイは獣影から距離を取り、短剣を構えた。崩壊する洞窟の床、舞う岩片、濁流のような黒霧――
「魔術の塊だ!俺が触ると少しは減る!」
ジェフが岩の槍を、エリスが引き金をひき獣影に向けて放つ。
リュカが立ち上がり青く光る鎖を展開させ、獣影の四つ足を抑え拘束した。
しかし――
その時だった。
特使の男は遠くから一歩だけ前に出た。
フードの奥の闇から、彼の視線のような圧がこちらへ注がれる。
「"魔を殺す器"……ですか。なるほどなるほど。これは厄介だがこれもなにかの因果でしょうか……」
男がレイの方を見て怪しげに言葉を放つ。
「"魔を殺す器"……?どういうことだ」
レイが男へ問うた。
「これはまだ時期尚早でしたか……。またしばらくしてからお会いしましょう」
男が笑ったかのような声音でレイへ告げると、男の掌が再び像へ向けられた。
今度はさらに濃密な黒いマナが蠢き始め、不気味な揺蕩う黒いマナが獣影へと向かって吸収されるように向かっていった
「どういうことだ!!」
レイは歯噛みしつつ短剣を握り直した。
「それはまだ先の話。また貴方の前に現れましょう。其の時にはきっと我が神もお喜びになる」
そう言って、男が言うと男の影がゆっくりと溶けるように消えていく。
そしてその瞬間、黒い獣が咆哮をあげた。
――そして更なる“何か”が来る気配。緊張が極限まで高まる。
洞窟の空気が沈み込み、全員の喉を締め付けた。
異形の獣は黒霧を纏いながら再び身を起こし、拘束された光の鎖を引きちぎった。
首筋から噴き出した濁った体液は、地面に落ちた瞬間に煙を上げながら蒸発する。
それでもなお、獣は崩れなかった
男の掌から現れた黒いマナが獣影へ纏うと、ぐつ、ぐつ、と煮えたぎるような音が異形の内部から響き始める。
その体表が波打ち、霧が渦を巻き――全身から“飢え”が溢れ出すようだった。
「……っ!」
その瞬間、潜んで隠れていたヴァルターが腰を抜かしたまま、必死に地を這い後退し始めた。
顔は蒼白、息は荒く、目は恐怖に見開かれている。
「なんだこれは……、こんなことが」
喚きながら後ずさるヴァルターを、異形はゆっくりと振り返った。
霧の奥に覗く歪んだ眼孔――
「や、やめろ……近寄るな……俺は協力したんだ、俺は……!」
もはや意思などない、ただの“空洞”。
だがその虚ろな眼差しは確かに、ヴァルターを「獲物」として捉えていた。
その様子にレイが風の刃を飛ばし、獣を裂くが何も痛む様子はなくヴァルターへ歩みを進める。
「ヴァルター!逃げろ!!」
「来るな……来るなぁあああっ!!」
ヴァルターは踵を返し、洞窟の出口へと這うように逃げ出す。
だが――遅かった。
跳躍しヴァルターの前方へ進行を遮るように立ちふさがる。
その不気味な影はヴァルターは腰を抜かし、また逆の方向へ這うように逃げ出すが、獣影の不気味に開いた口がヴァルターの足を捉えた。
「ぎゃああああああっ!!」
ヴァルターの絶叫が洞窟に木霊した。
獣影は一気にヴァルターの下半身を骨ごと押し潰すように咀嚼していく。
肉が潰れ、骨が砕ける音がはっきりと聞こえた。
必死に逃げようともがくが、それは逃さずヴァルターをゆっくりと飲み込んでいく。
「いやだ!!やめてくれ!!たすけ――」
獣の影は大きな口を開き、ヴァルターの上半身に一気に飲み込むように潰すと、ヴァルターの声は途中で潰えた。
酷い咀嚼音が洞窟の中に静かに響き渡る。
ヴァルターの断末魔すら呑み込んで、彼の身体は跡形もなく獣影の中へ消えた。
ズチュ……ズチュ……
まるで内臓を啜るような、湿った咀嚼音が響き続ける。
レイたちは全員、その場から動けなかった。
誰一人、武器を構えたまま微動だにできなかった。
ただ、信じがたい光景を、凍りついたまま見つめるしかなかった。
獣の胴体から、かすかにヴァルターの顔のようなものが浮かび上がる。
口を開け、助けを求めるような表情――
だが次の瞬間、それも霧に溶けるように掻き消えた。
異形の獣は、ヴァルターの全てを“喰らい尽くした”のだった。
そして、再びゆらりと四足で立ち上がると、レイたちへと目のない顔をを向けた。
その身体は先ほどよりも一回り巨大になり、レイが触れて霧散した場所もいつの間にか元に戻っていた。黒霧の濃度もさらに増している。
背筋を氷で撫でられるような悪寒が、全員を貫いた。