21
街灯の灯りがぼんやりと夜の空気に滲み、酔いの回った笑い声が通りにこだまする。
途中でサラとも合流し、最初の店を出た後は自然な流れで二軒目へ。活気ある店内でグラスを傾け、ジェフは勢いよく陽気に「よっしゃ、三軒目も行くで!」と叫び、レイとリュカが左右から引っ張るようにして連れ出すというひと幕も。どこかホッとするような、そんな夜だった。
けれど、ひとりだけ欠けていた。
「ブロウさん、やっぱり来れないんだね」
帰り道、リュカがふと口にし、しばし沈黙が落ちる。
「どうやら仕事抜けられへんみたいやわ」
ジェフの言葉に、レイも真面目な表情で頷いた。
「無理しすぎないといいんだけどな……」
レイがぽつりとこぼすと、皆もどこか同じ想いだったのか、しばらくは夜風の音だけが響いた。
「また、落ち着いたらブロウさんも呼ぼう。少しでも力になれたらいい」
レイのその一言に、四人は頷く。
笑い合っていた道のりに、ふと静けさが降りる。
サラと別れ、四人が特別工作室のビルへ戻ってきたのは、日付が変わる寸前のことだった。
その後、部屋に戻ったレイはベッドに腰を下ろし、持ち込んでいた水を飲む。
久々のアルコールに少し浮遊感を覚えつつ、シャワールームへ向かった。
熱いシャワーがその感覚をやわらげ、再びベッドへ腰掛けると、レイはふうっと小さく息を吐いた。
リセルに来てから、実にいろんなことがあった。
街のスケールに圧倒された初日。違法魔術の摘発、広大な市街を歩き回っての調査。
酒場での張り込み、黒衣の男のこと、そのネックレスに刻まれていた謎。そして、集合墓地での出来事――ナディとの記憶。
新たな環境に押し流されるように過ごした日々の中、ようやく一度立ち止まれたような感覚が、今のレイにはあった。
思念にふけるうち、レイはそのまま静かに眠りに落ちていった。
まだ夜明け前。
ぼんやりとした意識の中、「カツッ」という硬い音が耳に届き、レイはふと目を開けた。
カーテンの向こう、バルコニーからの音。
不審に思いながらレイがそっとカーテンを開けると、そこには濡羽色の小さな鳥がいた。
足元には小さな木の実が転がっている。音の原因は、それが柵に当たって落ちたせいらしい。
鳥はじっとレイのほうを見つめていた。
「……なんだ?」
ピッ、と鳴いたかと思うと、鳥はレイの肩にひょいと飛び乗ってきた。思わず驚くレイ。
くちばしで髪をつまみ、じゃれるように動くその様子に、レイは思わず小さく笑った。
「人懐っこいやつだな」
しばらく遊んでいた鳥は、ふいに飛び立って柵の上へ止まり、またレイのほうをじっと見つめる。
ひと声鳴くと、再びバルコニーへ戻ってきて、今度は呼びかけるように鳴いた。
「……呼んでるのか?」
その奇妙な行動に戸惑いながらも、レイはなんとなく付き合ってみようという気になった。
顔を洗い、歯を磨いて着替えを済ませ、念のため腰には短刀を装備する。
静かに部屋を出ると、館内はまだ眠りの中で、しんと静まり返っていた。
階段を下り、セキュリティゲートを抜けて外へ出ると、鳥が待っていたかのように肩へと飛んできた。
レイが軽く撫でると、鳥は気持ちよさそうに目を細め、静かに体を寄せてくる。
「お前、一体どこに連れて行こうとしてるんだ?」
レイの言葉に応えるように、鳥は再び飛び立ち、前方へと導くように進んでいく。
その背を追って門の外へと出ると、少し先で鳥はまた止まり、レイを待っていた。
近づくとまた飛び立ち、少し先で待つ――まるで誘導しているかのように。
なんとも不思議な行動に、レイは首を傾げつつも、そのあとを追って歩みを進めていくのだった。
ーーーーーーーーーー
たどり着いた先は、大きな川沿いの公園だった。
二十分ほど歩いた場所にあるそこは、日中は市民の憩いの場だが、未明のこの時間には誰一人としていない。
対岸に灯る街明かりだけが、静寂の中に存在感を放っていた。
レイを導く鳥は、等間隔に鳴きながら前を飛ぶ。
その声はまるで道しるべのように、川沿いの雑木林の奥へと誘っていく。
やがて、木々の影だけが揺れる場所で鳥はふいに羽ばたき、公園の端にある古びた家のそば、濃い影の中へと飛び込んだ。
レイは目を凝らす。
そこにいたのは人影だった。黒衣を纏った銀髪の男。
顔までははっきりとは見えないが、その姿は、かつて刃を交えた男――否応なく記憶に刻まれていた、あの男のものだった。
レイは反射的に短刀を抜き、構える。
「お前……」
その男の肩に止まった鳥が、今度は彼の髪に戯れるように身を寄せた。
その不思議な光景に、レイは思わず動きを止める。
ーーーー敵意が……ない。
かつて戦ったときに感じた、鋭い殺意が、今はどこにも感じられなかった。戸惑いが心を揺らす。
「レイ・アルヴァ……だな」
男が名を呼ぶ。だがレイは答えない。ただ短刀を構えたまま、じっと男を見据えていた。
その緊迫した空気を、鳥がひと鳴きして和らげる。だが二人の間に流れる沈黙は、むしろ重みを増していく。
「俺を……呼び出したのか」
レイは低く問う。警戒を隠さずに。
しかし、男はその問いに答えず、静かに言葉を紡いだ。
「……今お前が追っている事件から、手を引け」
その一言に、レイの眉がわずかに動く。
「何故だ」
短く、鋭く返す。
「お前は今、この国の……いや、世界の暗部に触れようとしている。これ以上進めば、お前も仲間も――無事では済まない」
言葉には冷たさがあったが、同時にどこか、切実さを含んでいた。レイはその違和感に胸の奥がざわつく。
警告――それは敵の言葉というより、何かを知っている者の忠告のようだった。
「それなら、なおさら引くわけにはいかない。それが俺の役目だ。保安官として……いや、それ以前に――」
それは信念の声だった。少年時代、幼馴染から受け取った言葉からずっと貫いてきた“誰かを守る”という意志。
男はそれを聞いて、何も言わずに沈黙する。
そのときだった。
木々の隙間から、ふいに月光が差し込んだ。
静寂を切り裂くように、冷たく澄んだ光が男の姿を照らし出す。銀の髪が淡く揺れ、夜の風にかすかに揺れるその影が、まるで幻のように見えた。
レイの視線が、吸い寄せられるように男の顔に向けられる。
その瞳――深い夜の湖を思わせる、どこか寂しげで、何かを背負った眼差し。
その瞬間、胸の奥に、雷のような衝撃が走る。
レイの心の奥底に仕舞い込んでいた記憶が、一気に脳裏に溢れ出した。
まだ世界が小さく、すべてが輝いて見えたあの頃。森の中を夢中で駆けまわった日々。
野いちごを摘んでは笑い合い、泥だらけになって木登りを競った。
無邪気で、奔放で、どこまでも自由だった――黒髪の少年。
「……ゼオン……?」
言葉は、思考よりも先にこぼれ落ちていた。
レイの声に、男は反応しなかった。ただ、少しだけ視線を逸らすように顔をそむける。
それだけで、レイには十分だった。
この反応、この沈黙――何より、その瞳の奥に宿る痛みが、すべてを物語っていた。
「おい……ゼオン、だろ……? お前、ゼオンなんだろ……?」
にわかに強まる鼓動が、耳の奥でうるさく響く。懐かしさと困惑と、理解したくない現実が、心をかき乱す。
信じたくなかった。
けれど、心の奥はすでに知っていた。
目の前に立っているこの男が、十二年前に姿を消した、自分の幼馴染。
誰よりも近くにいたはずの、ゼオンだということを。
それでも何も言わず、男は静かに顔を背けた。その仕草に、否定ではなく、逃避の意図をレイは感じる。
「……ゼオンは、もういない」
男はようやく口を開いた。その声はあまりに静かで、あまりに苦しげだった。
それはまるで、自分自身を否定するかのように――
まるで、“ゼオン”という存在を殺し、別の何かになろうとしているかのように。
レイの胸に、ひとつの確信が沈み込む。
この男は、自分の知っていたゼオンとは違う。
だが同時に、今もどこかに“あのゼオン”が確かに生きている。
だからこそ、こんなにも迷い、こんなにも警告を与えてきたのだ。
そして――レイはその一瞬で悟った。
ゼオンは、何かを抱えている。それはきっと、重く、苦しく、誰にも明かせないもの。
だからこそレイは、叫ぶようにその名を呼んだ。
「ゼオン!!!」
だが、次の瞬間にはナイフが振るわれ、鋭く光る刃がレイの目の前に突きつけられる。
「警告はした。……これ以上は踏み込むな」
その言葉は冷たく、鋭い。
けれど、レイにはわかった。
その声の奥底に、必死に感情を押し殺すような苦悩があったことを。
そして男は、左手に魔術紋を浮かび上がらせると、眩い閃光がレイの視界を覆い尽くした。
白く光閃光が周囲に広がり、レイはその眩さに思わず目を背ける。
そして、次に目を開けたとき、男の姿はもうどこにもなかった。
静寂が戻った川辺で、レイは呆然と立ち尽くす。
「ゼオン……一体、何があったんだよ……」
それは問いであり、祈りだった。
闇に沈んだ幼馴染の名前を呟きながら、レイはただ、月明かりの下にひとり立ち尽くしていた。