18
眼前にある大きな黒い球体。
二人ーーレイとブロウを飲み込んだそれは天井にも届くほどの大きさで、怪しく佇んでいた。
「リュカ、まだ何か詳しいことはわからないの……?」
「まだ、わからない。ただ、こんな現象、本当に聞いたことすらないんだ…!」
二人が球体に取り込まれてから、すでに十分ほどが経過していた。
エリスは視線を逸らさず、銃の照準を球体に向けたまま警戒を解かない。
一度、二人に当たらないよう球体の上部を狙い、炎の槍を錬成して投げ込んだが――それはまるで吸収されるかのように、何の抵抗もなく消えた。
炎で包もうとしても、魔術を込めた銃の光線を撃っても、結果は同じだった。
その場に漂うのは、焦りと緊張。
「魔術回路を見ても、流れを見ても、釣り糸がぐちゃぐちゃに絡まったみたいで、全然解ける気がしない……」
リュカが冷静に、だがどこか焦りを感じさせる声音でデバイスを操作していく。
次々と画面が切り替わるが、そのたびに表示されるのは"エラー"の文字列。解析は一向に進まなかった。
同時に彼は、床に描かれた魔術紋と同じ図形をデバイス上に展開する。
「……それに、床の魔術紋がかなりヤバいね」
「どういうこと?」
「どちらも聖魔術をベースにした紋様だけど、左側は“吸収”、右側は“充填”が基盤になってる。……おそらく、左側の紋には、人のマナを強制的に吸い取る仕組みが組み込まれてて、右側はそのマナを受け取るようになってる」
「……どういうこと?」
「献血、みたいなものを想像すると分かりやすいよ。左側の人間のマナを、右側の人間に移すんだ」
「それって、聖魔術の治癒と同じじゃ――」
「うん、そう。ただ……これは“全部を吸い尽くして”“全部を注ぎ込む”ように組まれてる」
エリスの視線が、訝しげに床の魔術紋をなぞる。
そして再び、黒い球体の方へと向けられる。
「じゃあ、ナディ先輩は……」
「ーー考えたくはないけど、おそらくその可能性が高いね」
エリスの脳裏に、ナディの姿と、先ほど保護された行方不明者の様子が浮かんだ。
どれほどおぞましいことが、ここで行われていたのだろう。
想像した瞬間、込み上げる吐き気に思わず口元を手で覆う。
「クソっ……やっぱりこのデバイスだけじゃ解除しきれない。本部の処理能力レベルじゃないと、無理だ」
リュカがそう吐き捨てた、そのときだった。
球体に、異変が現れる。
上部にひびのようなものが現れ、そこから緑色の光が漏れ出す。
卵が孵化するかのように次第にひび割れていくそれは次第に光を強く放ち、ゆっくりと剥がれ落ちていくように黒い側面が消えていく。
突然の出来事に二人は驚きと警戒を滲ませる。
球体はまるで限界を迎えたかのように、っていた光を徐々に中央へと収束させていく。
そして――現れたのは、一つの影。
それと同時に、レイとブロウの姿が、そこに現れた。
「二人とも!無事だったのね」」
エリスが安堵を交えた声をかけた瞬間、ブロウの膝が崩れ落ち目の前に佇む影に視線を向ける。
「ナディ!!!!」
ブロウの叫びに呼応するかのように、影を包む緑の光が揺らめく。
その姿は先ほどの人型ではなかった。
頭部と思しき上部から、無数の枝のような影が幾重にも広がり、まるでスカートのように蠢いている。
一本一本の影は硬質な光を放ち、不気味さを際立たせていた。
しかし、緑の光は輪のようにその影を囲み、離そうとはしない。
その異質な存在に、エリスとリュカは思わず息を飲む。
「ブロウさん」
沈黙を破るように、レイがはっきりとした声で呼びかける。
「止めましょう。ナディさんが託したものを、無駄にしないためにも」
「しかし……あれは……」
「ナディさんは最後に、あなたの目を見て言ったんです。あなたが止めなくちゃ、ナディさんを止められない!」
発破をかけるレイに思わずブロウは目を見開く。
なぜだろうか――その横顔に、ブロウは一瞬だけレイにナディの姿が重なったように感じた。
そしてゆっくりと立ち上がると、レイをまっすぐ見据え、そして影の方へと視線を戻す。
「……すまない。取り乱していた。……これでは、ナディに顔向けできないな」
ブロウがそう呟いた瞬間、まるで待ちわびていたかのように、緑の光がゆっくりとレイへと伸びていく。
それは温かい太陽のようにレイの身体を包み込むと、静かに光を収束させていった。
――ありがとう。
そんな声が、確かに聞こえた気がした。
次の瞬間、レイの周囲に緑色のマナがふわりと漂い始める。
レイは、自分の中にこれまで感じたことのない力の流れを覚え、自然と左手を影に向かってかざす。
その瞬間、風の刃が生まれ、黒い影の一部を切り裂いた。
三人は思わず息を呑み、驚きの表情を浮かべる。
リュカが声を上げた。
「どういうこと……? レイは魔術が使えないはずじゃ……!」
その問いに、ブロウが口を開く。
「ナディだ」
その一言に、レイも小さく頷く。
「俺にもわかります。温かいマナの流れが、体の中に……。ナディさんが、力を貸してくれてる」
レイの姿に、ナディの面影が重なる。
ブロウはその姿を見つめ、決意を込めて長剣を振りかざした。
「必ず止める! レイ、みんな、力を貸してくれ!」
その言葉と同時に、レイは短剣を構え、一直線に影へと駆け出した。
影を束縛していた光の輪が霧のように消散すると、無数の影が槍のように鋭く伸び、レイを貫こうと襲いかかる。
しかし、レイは一瞬の身のこなしでそれを回避し、短剣を振りかざす。
風の刃が発生し、鋭く影を斬り裂いた。
斬られた影の一部は霧散し、痛みにのたうつように蠢く。
その隙を逃さず、ブロウが両手を前に突き出し、氷の槍を次々と錬成する。
十本にも及ぶ鋭い槍が一斉に放たれ、影の胴体を正確に貫いた。
だが、影はそのまま崩れることなく、自らの体を再生させながら再び四人に襲いかかってくる。
ブロウは氷の刃と長剣を巧みに操り、一体一体を的確に斬り伏せていく。
「エリス、今だ!」
ブロウの声に応え、エリスが高く飛び上がり、掌から巨大な火球を放つ。
炎が影を包み込み、激しい熱と光が炸裂する。
その隙にレイとブロウは距離を取り、それぞれ風と氷をぶつけ合う。
元素の衝突が生み出した嵐が、暴風と吹雪の渦を巻き起こし、轟音とともに影を飲み込んだ。
「効いてます!」
レイが声を上げた瞬間、渦の中から伸びた一本の影が、鋭くレイの腕を掠めた。
服が裂け、鮮血が散る。
「レイ!」
次の影がレイを狙い、包み込むように襲いかかる――その瞬間、空間を裂くように無数の光の鎖が出現し、影を絡め取る。
レイの身体の前に光が展開し、影の一撃を遮った。
「気をつけて!」
離れた位置からリュカが叫び、両手からさらに鎖を放ち、レイの防御を強化する。
「ナイス、リュカ!」
レイが笑みを浮かべると、渦が収束し始め、視界の奥に巨大な影の本体が見えてきた。
そこへ、ブロウが迷いのない足取りで突き進んでいく。
影の脚を一つひとつ切り落としながら、その瞳に確かな決意を宿す。
「ナディ。今から、俺はお前を止める。そして……お前が守りたかったもの、全部守ってみせる!」
怒涛の勢いで進むブロウに、レイも続く。
風の刃を的確に撃ち出し、ブロウの進路を援護する。
まるで、ナディの意思がその背に宿っているかのような動きだった。
その援護に、ブロウはわずかに笑みを浮かべる。
影の脚を全て切り落としたブロウは、左手を高く掲げる。
そこに巨大な氷の槍が形成され、一気に影の頭部めがけて放たれた。
空気を切り裂く音と共に、氷の槍が一直線に突き進み、影の中心に突き刺さる。
爆発的な衝撃音とともに、槍が砕け、影の身体を覆っていた脚がバラバラと地面に落ちる。
次の瞬間、影の全身から力が抜けたように動きを止め、淡く揺らめきながら消失していく。
残った上部の影も、重力に引かれるようにゆっくりと地面へと沈んでいった。
そしてその黒い塊が、徐々に人の姿へと戻っていく。
表面に染みついていた闇が剥がれ、色を取り戻し始める。
――そこに現れたのは、かつての姿を取り戻したナディだった。
「ナディ!」
倒れるナディに、ブロウが駆け寄り、その身体を抱き起こす。
その呼びかけに、ナディが薄く目を開き、微かに微笑む。
「ブロウ……」
「しっかりしろ!ナディ!」
しかし、だらりと落ちた手には力がなく、ナディの目は遠くを見つめていた。
それでも、浮かべた笑みだけは、どこまでも穏やかだった。
「止めて、くれて……ありがとう」
「ダメだ……ナディ。お願いだ、行かないでくれ……!」
「肝心な時に、いつも弱気なんだから……」
ふふ、とナディが力なく笑う。
その声はかすかに震えていたが、どこか安心しているようでもあった。
「ナディ先輩! 治癒を!」
エリスが駆け寄り、すぐさま魔力を注ぎ込み始める。
手から放たれる癒しの光がナディの胸元を照らす。
同時にリュカも地面に膝をつき、素早く魔術紋を描き、診断用の術式を展開する。
浮かび上がったデバイスのホログラムに、ナディの身体が映し出されるが――
「……これは……」
リュカが息を呑む。
「もう……肉体は……マナの集合体でしか維持できていない……」
その言葉に、エリスの顔から血の気が引いた。
それでも彼女は光を絶やさず、ナディの身体へ治癒を続ける。
「……エリス、ありがとう。貴女も、もう立派な一人前ね……」
「そんな……ナディ先輩……!」
エリスの声が震える。
「私があげたリボン……まだ使ってくれているのね……嬉しいわ……」
「ナディ先輩、ダメです! 私……まだ教わりたいこと、たくさんあるのにっ……!」
「大丈夫……あなたなら、きっと……」
その瞬間ナディの足元からふわりと緑に光る粒子が舞い上がり始めた。
粒子となった光が、静かに、けれど確かにナディの身体を空気の中へと溶かしていく。
「ナディ! ダメだ! 行かないでくれ! 君がいないと、私は……!」
「……ごめんなさい。でも……後のことは、貴方たちに……お願いする……」
ナディの視線がレイへと向けられる。
「レイ……ありがとう。最後の最後で、私は……“私”でいられた。あなたのおかげよ……
少しでも……この力が、役に立ったのなら……」
「ナディさん……」
レイはナディの姿から目を離せずにいた。
彼の胸に、ナディの想いと力が深く刻まれていくのを感じる。
ナディの身体が、ゆっくりと、少しずつ消えていく。
ブロウの頬を、涙が一筋、音もなく伝う。
「……ああ……ナディ……ダメだ……僕は……っ」
ブロウが嗚咽を漏らしながらナディの肩を抱く。
「……ブロウ」
ナディが微笑みながら、最後の言葉を紡ぐ。
「わたし……あなたに会えて……本当に良かった。ありがとう……いつまでも、ずっと――」
ーー愛してるわ。
その言葉を最後に、ナディの身体は完全に粒子となり、空気の中へと溶けていった。
ブロウの身体が震え、残されたナディの衣服を胸に抱きしめる。
彼の嗚咽が、静かな空間に滲んだ。
エリスは治癒の光をそっと止め、名残惜しそうに手を伸ばした。
消えゆく緑の粒子を見上げながら、彼女の瞳からも静かに涙がこぼれ落ちる。
暗い地下の部屋には、すすり泣く音と、誰かの押し殺した声だけが残されていた。
レイは空気へと溶けていく緑の粒子を静かに見送る。
唇を引き結び、拳をきつく握りしめる。
一筋の涙が、頬を静かに伝った。
――長く続いた一日が、ようやく終わろうとしていた。