16
ブロウは襲い来る炎と風の刃を、次々と氷の障壁で防ぎながら、ナディへとじりじり距離を詰めていく。
レイの目には、赤く漂う火のマナ、緑に揺れる風のマナ、そしてそのすべてを包むように黒く揺蕩うマナが映っていた。
それはただのマナではない。黒いそれは、ナディの内側から溢れ出し、周囲の魔術に干渉している。
レイは倒れた体を起こし、ブロウの後を追うようにナディへと駆け出す。
「ブロウさん!もう一度黒いマナが抑えられるか試します!触れられさえすれば…!」
レイが勢いを増して接近すると、ナディの視線がレイを捉え、次の瞬間、風と炎の刃が彼へと放たれる。
だが、それらの魔術はレイの体に触れた瞬間、霧のように消えていった。
ナディはすぐに魔術が効かないと察したのか、手にした長剣を振りかざしてレイに迫る。
「ナディ!こっちだ!」
ブロウの声が響き、同時に伸ばされた左手から放たれた氷が、ナディの肩から腕にかけて広がり、動きを封じる。
その隙を逃さず、レイは彼女に触れようと手を伸ばす——しかし、次の瞬間、ナディから溢れ出した黒いマナがレイを押し返す。
レイの特異体質ですら、完全にはそれを打ち消すことができず、足が止まり、動けなくなる。
そのときだった。
ほんの一瞬、ナディの動きが揺らいだ。
「…ブロウ、……逃げて……私の中に、誰かが……」
かすれる声が空気を震わせた。
その瞬間だけ、ナディの顔から狂気が消え、必死に何かを押しとどめるような瞳がブロウを見つめる。
まるで何かに抗うように、苦しげな声でブロウへ言葉を絞り出した。
だがその刹那、ナディの体がのけぞり、黒いマナが噴き出す。それはブロウの目にも視覚できるほど濃厚な闇。
脈打つように黒いマナが噴き出し、肉を喰らい、骨に染み込む毒のように、ナディの全身を覆っていく。
黒い染みは皮膚の下から這い上がるように広がり、ナディの「姿」を塗り潰していく。
かつての彼女の面影が、ひとつ、またひとつと消えていく。
腕が、脚が、そして顔までもが黒く染まり、人の姿を保てなくなる異形へと変貌していく。
「……ごめんなさい……もう、止められ……ない……」
滲むように広がる黒は、ゆっくりと顔の輪郭すらも覆い隠していく。
ナディの瞳にだけ、かすかな光が残り——そこから一粒、涙が零れ落ちた。
「ナディ——!!」
ブロウの絶叫を断ち切るように、黒が彼女を完全に覆い尽くす。
その身体は、別の何かのように暴れ始めた。
その身体は、もはや通常の人のものではなかった。
ナディは異形の者のように咆哮を上げると、拘束されていた右腕の氷を凄まじい力で砕き散らす。
飛び散った氷片が砕け散る音と同時に、彼女の手に握られた長剣が鋭く振るわれた。
「——ッ!」
レイの視界に銀閃が走る。
反射的に短剣を交差させて受け止めるも、刃と刃がぶつかった瞬間、身体全体が軋んだ。
女性一人とは思えぬ怪力。凄まじい衝撃が骨を軋ませ、レイの体は吹き飛ぶように弾き飛ばされる。
「うあっ——!」
壁を突き破るような勢いで別の部屋へ叩き込まれ、古びたベッドに激突。
木製のフレームが砕け、レイの背が打ちつけられた反動で鮮血が吐き出される。
口元から溢れた赤が顎を伝い、衣服に黒い染みを広げていく。
「……が、は……っ」
床に倒れたレイは、一瞬だけ視界を失う。
焼けつくような痛みと共に肺が空気を求めて痙攣し、胸の奥が軋む。
「レイ!」
ブロウの叫びも届かぬまま、ナディはすでに次の攻撃へと移っていた。
異様な気配と共に、空気が唸りを上げる。
彼女が軽く振った腕の先から、風の刃がいくつも飛び出す。
一つ一つが鋭く、速く、そして殺意を孕んでいた。
「くっ……!」
ブロウはすかさず氷の障壁を展開するが、反応が少し遅れた。
最初の一撃が氷の防壁を破砕し、鋭い刃が彼の肩口を裂いた。
刹那、鮮血が噴き出す。真紅の飛沫が宙を舞い、床に花のように散った。
「ッ……ぐあああああっ!!」
ブロウの身体はそのまま後方へ吹き飛ばされ、背中から壁に叩きつけられる。
鈍い音と共に壁が軋み、ひびが蜘蛛の巣状に広がる。
肩から滴り落ちる血が腕を伝い、指先から床へと静かに滴った。
吐き出した息が白く染まり、視界が揺らぐ。
「……ナディ……!」
かすれるような声を漏らすブロウ。
だが、そこに答える者はいない。
彼女の目は、漆黒の深淵を思わせる色に染まり、何の感情も映していなかった。
かつての面影も、理性も、すべては暴走した魔に呑まれていた。
「くそっ……」
呻き声を漏らしながら、ブロウが血に濡れた肩を押さえつつ立ち上がる。
視線の先では、ナディが黒いマナをまといながら地面に手をかざし、再び長剣を錬成する。
その剣は、まるで血と闇を纏ったように鈍く脈動し、音もなく空間を裂いていた。
そして、そのままゆらりと倒れていたレイに向かって歩を進める。
「……っ、まだ……!」
レイも激しい痛みに耐えながら体を起こし、片膝をついたまま短剣を構える。
足元はふらつき、視界も滲んでいたが、それでも目の前の存在を止めるために立ち上がる。
ナディの剣が振るわれる。
まるで風そのものが斬撃となったかのような鋭さで、レイの短剣を押し込む。
「ぐっ……!」
鋼の衝突音と共にレイの腕が痺れ、膝が崩れかける。
その隙に、ブロウが後方から駆け寄り、氷の刃で援護する。
「そこだッ!!」
だが——ナディは振り返らずに、その攻撃を読み切っていた。
体を僅かに捻ると、ブロウの氷刃を避け、そのまま足払いで彼を薙ぎ倒す。
ブロウの体が転がり、背中を床に打ちつけると同時に、ナディの追撃が容赦なく降りかかる。
「はっ、速すぎる……!」
二対一。
圧倒的に有利なはずの状況でも、ナディの動きは一切鈍らない。
むしろ、二人の攻撃をすべていなし、間合いの中で確実に反撃を繰り出してくる。
剣圧は重く、鋭く、そこには殺意も感情も何も感じられない。ただ、目の前に敵がいるからという、そういった機械じみた反応だった。
レイの短剣もブロウの氷刃も、まるで刃が紙に吸い込まれるかのように受け流され、逆に追い詰められていく。
剣が交差するたび、打ち合う音が響き、火花が散る。
床には二人の血が混じり、戦場は殺気とマナのうねりで満ちていく。
そのときだった——
「二人とも、下がってッ!!」
鋭く通る女の声。
次の瞬間、赤く眩い閃光が空気を裂き、稲妻のようにナディの胸元へ向けて突き刺さる。
「……エリス……!」
レイが苦しげに顔を上げた先、長いポニーテールを風に揺らしながら、銃口を真っ直ぐに構えるエリスの姿があった。
その隣には、魔術式のホロスクリーンを展開し、慌ただしく術式を走らせるリュカの姿。光の文様が空中を滑るように流れていく。
「ちょっと!すっごい音したと思ったら、何この状況!?マナが異常な密度で凝集してる。それに……あれは……!」
黒く塗り潰されたようなナディの姿を見て、リュカが言葉を詰まらせる。
その時——ナディが鋭く手を払った。
シュン、と空気が引き裂かれた音とともに、風の刃が二本、一直線にエリスたちへと走る。
「くっ……!」
ブロウが咄嗟に手を伸ばし、氷の魔術を展開。
淡く青白い障壁が二人の前に立ち上がり、直後、風の刃がそこへ激突した。
鋭い衝撃音と共に、障壁がきしみ、ひび割れ、粉々に砕ける。冷気と風圧が吹き荒れ、埃が地下に舞う。
「ナディだ!だが、もう完全に……何かに侵食されてる。自我を、保ててない!」
「そんな……ナディ先輩が……!」
エリスの瞳が見開かれ、わずかに震える。
かつての優しい先輩の面影をなぞるように、彼女は黒い影のようなナディを見つめる。
「俺が直接触れられれば、まだ……何とかなるかもしれない!」
レイが短剣を構え、前傾姿勢で息を整える。
「でも、どうしても動きを止められないんだ……!援護してくれ!」
「了解!」
エリスが指を鳴らすと、ナディの周囲を包囲するように赤い魔法陣が広がり、そこから噴き上がるように炎の壁が立ち上がる。
業火がうねり、燃え盛る熱風が地下を焦がす。
だが——ナディはひるまなかった。
風の魔術で一気に上昇気流を巻き起こすと、炎の壁をまるで紙のように切り裂き、散らし、煙と共に中から姿を現す。
その剣が構えられた瞬間、ナディの身体が残像を残しながら地を蹴る。
「来る……!」
エリスが魔力を収束させ、即応態勢に入る。
ナディの影が、迫る。
「来る……!」
リュカがすかさず魔術を展開し、光を纏った鎖をエリスのもとから放つ。それはナディの体を捉えるが——
「……っ!」
ナディがその鎖を剣で弾き飛ばし、その勢いのまま剣をエリスへと振り下ろす。
——間に合わないっ!
そう思ったその瞬間、ブロウの剣が間に割って入った。
「やめてくれ、ナディ!!」
剣と剣がぶつかり合い、激しい火花を散らす。
覆われたナディの顔も黒く侵食されており、目も口も見えない。返事もないまま、力だけがぶつかり合っていた。
「リュカ、今だ!」
ブロウの叫びに応え、リュカが再び魔術を展開。床と天井に陣を描き、そこから放たれた鎖がナディの四肢を絡め取る。
合わせてブロウがそれを補強するかのように氷の魔術が重なる。
鎖の放つ光が氷に反射し、光を強めるとともに、ナディの体が硬直し、手から剣が落ちた。
——一瞬の静寂が、空間を包んだ。