10
レイとエリスが歓楽街へ戻ると、喧騒はすっかり落ち着いていた。ネオンが霞む薄明かりの中、先ほどまでの緊張感がまだ街の空気に残っている。
路地に響くのは、遠くで鳴るサイレンと、誰かが小声で話す声。
店の前には安全保障部の保安官たちが立ち並び、物々しい雰囲気はまだ消えきっていなかった。
「二人とも、大丈夫だった?」
すぐに声が飛ぶ。
リュカが店の前で携帯型デバイスを操作しながら、片手を軽くあげてこちらを迎える。彼の顔には安堵の色がにじんでいた。
「えぇ、こちらは無事よ。ただ、逃げられてしまって痕跡も消えてしまったわ。そっちは?」
エリスが息を整えながら答える。レイは隣で黙って周囲の気配を探っていた。
「今僕も到着したところで、マナの残留形跡を調べてるところ」
リュカがそう言いながら、デバイスの画面をスライドし、空気中に舞う淡い光粒をスキャンしている。その指先には僅かな緊張が宿っていた。
「そう……」
エリスが短く呟いたそのとき、店の奥から重たい足音が聞こえ、ブロウが姿を現した。彼は鋭い目で二人を見据えると、すぐに歩み寄ってくる。
「二人とも無事か?」
「ブロウさん。こちらはなんとか。でも、逃げられてしまいました」
「……いや、無事でなによりだ。すまない。相当な遣い手だったみたいだな」
「おそらく、ブロウさんにも匹敵するわ」
エリスのその言葉に、ブロウはふっと眉を動かした。
「そうか……」
低く呟いた彼の視線が、すっとレイに向く。
「レイ、何かあったのか?」
その一言に、レイは僅かに唇を噛み、視線を手首へと落とした。そして、袖をまくり、手首につけたブレスレットを見せる。
「追っていた黒衣の男が、これと同じものを持っていました」
「それは……?」
「俺が昔、村で友人から最後に渡されたお守りです。偶然かもしれない。でも、どうしても引っかかって……」
緑の宝石が、街の灯りを受けて淡く輝いていた。
「レイ……」
リュカが不安そうな目を向けてくる。
「それについて、これまでに何か調べたことは?」
「トレンスで一度鑑定してもらったけど、ただの装飾品だって」
「そうか……」
ブロウは顎に手をあて、考えるように視線を落とす。
「こちらでも一度、調べてみよう。気になるな」
「ありがとうございます」
レイが静かに頭を下げた。
「ブロウさん、そちらの進捗は?」
リュカが切り替えるように尋ねる。
「ああ。店のオーナーは逃げていて、行方は掴めていない。ただ、一部スタッフからこのリストバンドを押収できた」
ブロウはそう言って、黒革の小さなバンドを取り出す。見れば、レイもポケットから似たようなものを取り出す。
「君も持っていたんだな」
「女から渡されたものです。まだ詳しくは見れてないですが」
「マナを集約するための術式が刻まれている。幻覚系の魔術との親和性を高める意図だろう」
ブロウがその紋を一瞥しながら、即座に見解を述べる。
「さらに――3階で倒れていた男が、これを持っていた」
そう言って彼が内ポケットから取り出したのは、手のひらに収まるほどの小さく折り畳まれた紙片だった。慎重に開くと、そこには黒く書かれた魔術紋があった。
「魔術紋?」
「ああ、だが作用は不明だ。今同じものを送って鑑識にかけている」
そうブロウが言う。
「ブロウさん、それ見せてもらってもの?」
リュカがそう尋ねる。
リュカは受け取ったメモから魔術紋を確認し、それを指でなぞるとふむ、と思考する。
「スキャンかけてもいいですか?」
「ああ、もちろんだ」
リュカは持ったデバイスで魔術紋にかざすと、光の軌跡が魔術紋の形をなぞるように浮かび上がり、リュカのデバイスに魔術紋がうつる。
「うん、これだけじゃ作用しないけど、何か特定の魔術がかかると作用するようになってるね。
それとどこか場所も関係してそうだ。特定の場所で作用すると動くような……まるで鍵みたいだ」
「さすが、オルトラム総合魔導工学大学を最年少で修了しただけあるな」
ブロウがそうリュカを褒める。
「だけど、これ以上はここでは読み取れないね。この魔術紋に反応するセキュリティがどこで引っかかるか調べたいとこだけど、何かまだ手がかりはあるかな」
「なら店内を見よう。一通り私たちも確認したが、君に見てもらうと何か発見がありそうだ」
4人は店内へと足を踏み入れる。
荒れた室内には、つい先ほどまでの騒動の名残が色濃く残っていた。床には割れたグラスや酒瓶の破片が散らばり、強いアルコール臭が鼻を突く。壁際には倒された椅子や、焦げ跡のような黒い痕が浮かび、空気にはまだ微かに魔術の残滓が漂っていた。
保安官たちは無言で室内を行き交い、携帯型のデバイスで空間のマナ濃度を測っている。誰もが真剣な表情で、息を潜めるように捜査を進めていた。
2階へと上がる階段も、きしむ音がやけに響いていた。誰も言葉を発さないまま、ただ重い足音だけが空間を刻む。
2階フロアはさらに酷い有様だった。壁際のソファは破れ、中身の綿が露出している。倒されたカウンターの裏からは、甘ったるい香りが漂い、空気がわずかに濁っていた。
「そういえば、2階へあがった時、やけに甘い匂いがあったんですがドラッグの押収とかはなかったですか?」
レイが周囲を見渡しながら問いかけると、ブロウが低く答える。
「逃げた客の一部から、外道に精製されたドラッグも確認されている」
「それもあの男が?」
「いや、どちらかといえば持ち込まれていたものだ。常習者のものだろう。つまりこの場所が――違法魔術の薬物の温床になっていたということだ」
レイの視線が甘い香りの元を探すように周囲を彷徨う。その視界の端、床に転がる小瓶にエリスの手が伸びた。
「エリス?」
レイの声に応えず、エリスは瓶を拾い上げ、しばらく沈黙したままそれを見つめる。その目には、懐かしさと違和感が入り混じったような色が浮かんでいた。
「この瓶、教会で使用している薬瓶と同じだわ」
「何?」
透明なガラスの瓶はどこにでもありそうな平凡な形状だが、エリスの視線はその奥を見通すように真剣だった。
「私もよく父の手伝いでよく空瓶を洗っていたから覚えてる」
「手伝いって?」
「あら、前に話さなかった?私の家、地方の教会なの」
その言葉に、レイはリセルに来たばかりの車中での会話を思い出した。
部屋の中に、一瞬だけ空気の重さが増す。冷たいガラス瓶が、まるで教会とこの違法薬物を繋ぐ手がかりのように見えた。
「薬剤をいれるのに適しているからって、連邦の中ではおそらくこの瓶が主流になっているはずよ。こんなところに落ちているなんて少し不思議だわ」
ブロウが瓶を受け取り、じっと手の中で確かめる。神経質さを感じる細い彼の指先が瓶の表面を撫でると、彼の目がわずかに細まった。
「何かマナの残留を感じるな」
「そうですね。おそらく違法精製されたドラッグが入っていたんじゃないでしょうか」
リュカが落ち着いた口調で答えたが、その目には不穏な色が浮かんでいた。魔術とドラッグ――かつては神聖であったはずの器が、今はその境界を曖昧にしている。
「広く国に流通しているから違法薬物の入れ物として使用されていたとしても不思議ではないが……ひっかかるな」
ブロウの声は低く、けれど確かな重みがあった。彼の背中越しに、窓の外では夜の帳が深まり、街のネオンがぼんやりと瞬いていた。
ブロウは保安官の一人を手招きし、瓶を渡す。受け取った保安官がうなずいて歩き去っていく背中を、全員がしばし無言で見送った。
「教会が怪しい……ということですか」
エリスの問いに、ブロウは少しだけ考えてから首を横に振った。
「いやそういうことではないが、……そうだな、怪しいとは感じている」
明確な証拠があるわけではない。それでも、状況の断片が不気味なほどに教会の輪郭をなぞっていた。
しばしの静寂のあと、ブロウがふっと息をついた。
「こんなところだな。夜もかなり遅くなってしまったから今日はこの辺りにしよう。鑑識はおそらく明け方まで続くが、何かわかったことがあれば伝える」
「わかりました」
レイが小さく頷いたとき、外から風が吹き込んできて、店内の乱れたカーテンがふわりと揺れた。
「それと……この魔術紋については、僕の方でも追ってみる」
リュカは腰のデバイスを操作し、淡く発光する複数の魔術パネルを展開した複雑な紋様が空間に描かれ、それが都市全域の魔術ネットワークと連動する。
「この構造、街のセキュリティ術式に部分的に一致してる。つまり、似た術式が使われている場所を、街の全体から一つずつ照合していくしかないね」
光のパネル上にリセル全体の都市のマップが浮かび上がり、その上に細かな術式の構造が重なっていく。リュカの手が滑らかに動くたび、対象が徐々に絞られていく。
「正直、時間もかかるし、術式層の奥まで入るのはセキュリティ上それなりにリスクもある。……まあ、あまり推奨される方法じゃないけど。でも、違法魔術も絡んでるから方法は選んでられないよね」
「ちょっと、それはダメなことじゃ……」
「でも必要なことだよ。どうせやるなら、少しでも早く確実に見つけたいから」
リュカは軽く笑って、背後に立つブロウの方に視線を向けた。
「それに……そこにブロウさんがいるから、大丈夫でしょ?」
ブロウは無言で腕を組み、背後で一部始終を聞いていた。だが何も言わない。そのまなざしは、暗黙の了承とでも言いたげだ。
「安全保障課のエースが目の前にいて、黙認してくれてるんだ。ちょっとくらいだったら怒られないでしょ?悪用するわけじゃないし」
ブロウは腕を組んだまま、黙認を貫いている。何も言わなくとも、その存在はまるで静かな後ろ盾のようだった。
「……じゃあ任せたわよ」
「うん。解析が進めば、エリア単位までは絞れるはず。」
魔術層に潜るリュカの瞳に迷いはなかった。浮かぶ光の構造体が、彼の周囲に新たな導線を描いていく。
「こうなるとリュカは終わるまではここから動かないな」
レイがため息がちにそう言うと、エリスもそれに頷く。
「なら俺たちもこのまま手伝おう。ブロウさんとも情報交換しておきたいし」
「そうね」
街はすっかり夜に沈み、騒動の名残だけがじっと静かに残っていた。
だが、その夜の静けさは、むしろ嵐の前のような不穏さをどこか孕んでいた。