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荒れたフロアを降り、重たい鉄の扉を押し開けると、夜の静けさを打ち消すようなサイレンと灯光が周囲を包んでいた。

建物の前には安全保障課の社用車が数台停まり、白い制服に身を包んだ保安官たちがきびきびと動いている。


青と赤の回転灯が夜の闇に滲み、周囲の人々の顔を断続的に照らしていた。

その光の中には、まだ酒の抜けきらない顔、動揺を隠しきれず肩をすくめる者、保安官の問いかけにうまく答えられず俯く者たちがいた。

先ほどまで上の階にいた客や従業員たちだろう。

遠くからはホバードローンの羽音が聞こえ、建物の上空をゆっくりと旋回している。マナ感知と監視のための保安課の無人機だ。


「レイ、エリス。えらく派手にやったな」


その中にあって、まるで喧騒に染まらぬような落ち着いた声が二人に届いた。

振り返ると、一人の男が歩み寄ってくる。

白い制帽をまっすぐにかぶり、制服は一糸の乱れもなく着こなされている。

赤毛の髪に整った顔立ち。鋭くも冷静な眼差しが、場の空気を一気に引き締める。


「ブロウさん」

レイが短く名を呼ぶ。


「すまない、いきなり襲われたもんで」

レイは片手で髪をかき上げつつ、もう片方の手でジャケットの内ポケットからデバイスを取り出す。

通信魔術と連動したそれは、彼の指が触れた瞬間、自動的にホログラムを浮かび上がらせた。


「レイが無鉄砲すぎるの。ごめんなさい、ブロウさん。ターゲットには逃げられたわ」

エリスは淡く微笑むが、その目には戦闘後の疲れと警戒がまだ色濃く残っていた。

彼女は念話の魔術を展開し、目を閉じずとも意識の中でリュカとの会話を始めていた。


『……二人とも、残滓が見つかった。おそらく下層の方だ』

リュカの声が、エリスの意識内にすっと滑り込んでくる。

その波長は静かで、明晰。淡々とした語調は、現場経験の豊富さを物語っていた。


「リュカが痕跡を見つけた。レイ、確認して」

「了解」


レイはホログラム上の地図に指を滑らせ、すぐにマナ反応の位置を確認する。

点滅するマーカーが、現在地から1kmほど離れた倉庫街を示していた。


ブロウはそのやり取りを見ていたが、特に口を挟まず、手元の端末を淡々と操作していた。

その目は僅かに細められ、状況を的確に見通しているかのようだった。


「こちらでも追っているよ。一部のスタッフやオーナーも事情聴取の対象になる。痕跡を洗えば、協力者の存在も浮かび上がるだろう」

彼の声は冷静そのもの。しかし、どこか刃のような鋭さを帯びていた。


「私たちは追うわ。このまま倉庫街まで」

「……あぁ、そちらは任せる」


言葉を交わす間も、ブロウの指は止まらない。情報を整理し、部下に指示を飛ばすその動きに無駄は一切ない。


「二人とも、気をつけて」

ふいに、彼が二人に向かって言葉を重ねた。


「今の時間、あちらの区域には影の住人(シェイド)だけじゃない。魔術師狙いのマフィアも潜んでいる。

やつらは相手が何者であろうと、“力を持つ”というだけで狙う。気配を悟られないように」


その忠告には、現場を熟知している男ならではの現実味があった。

また、その言葉の裏には心配をするような不安な視線も混じっている。


エリスはうなずき、肩越しにブロウへ視線を送った。

「ありがとうございます。こちらはお願いします」


レイとエリスはブロウに軽く手を振って別れを告げると、パトカーの光がまだ点滅する繁華街を後にした。

足早に駅の方面へ向かう途中、街の喧騒は徐々に遠ざかり、夜の空気が肌に直接触れるような静けさが広がっていく。

駅の高架下に差しかかると、線路に流れる魔術官(マナチューブ)のぼんやりと光だけが宙に浮かぶ。

すれ違う人の数も一気に減り、ビルから漏れる明かりだけがポツポツと、闇の中に島のように浮かんでいた。


駅を越え、近代的なビル群を抜けると、街の風景は一変する。

下層部近く、整備された歩道はひび割れ、小さなゴミがところどころに散乱していた。

建ち並ぶのは古びた集合住宅。壁には雨垂れの跡が濃く刻まれ、いくつかの窓は割れたまま放置されている。

昼間は働く人々や業者である程度の賑わいを見せるが、夜となれば途端に人気が途絶え、時間だけが取り残される区域だ。


建物の隙間からは、漂うように薄暗い蒸気が立ち上っている。排気口から漏れた熱気が、わずかに埃と油の混じった匂いを運び、鼻をつく。

外灯は数本がチカチカと明滅を繰り返しており、その下を通ると影が奇妙に伸びたり縮んだりした。

足音がアスファルトに乾いた音を響かせるたび、周囲の静けさが強調される。


「ねぇレイ、怪しいわ。さっきの男、おそらく相当な遣い手よ。こんなわかりやすく残滓を残すなんてことしないわ」

エリスの声には、明確な警戒心が滲んでいた。


「誘い込まれてるって?」

「その可能性は大きいわね」

『僕もそう思う。しかも残滓の残り方に違和感がない。普通だったらそう"残る"だろうけど、逆に不自然だ』


倉庫街へと続く細い通りは、両脇に金網で囲われた敷地や、鉄扉の閉まった倉庫が並んでいた。

どれも色あせたペンキで塗られ、錆の浮いた表面が夜の湿気を反射して鈍く光っている。

遠くで猫の鳴き声が響き、風が吹けば紙くずがカラカラと転がる音が耳に残る。


「どちらにせよ、あの二人を捕まえない限り影の住人(シェイド)の目的もわからないわけだ」

エリスが低く呟くと、レイは無言で手首のブレスレットに触れた。


それは、青い紐に通された、緑の宝石が埋め込まれた一本のブレスレット。

街灯の下、その宝石は静かに淡い光を帯びていた。まるで脈を打つように、鼓動を刻むように、ほんのわずかに――けれど確かに、揺らめいて見える。

風が通り抜けるたび、紐が微かに揺れ、宝石に反射する光がレイの表情を照らした。


それは、ただの装飾品ではなかった。

過去と現在を繋ぐもの。

奪われた日々と、まだ果たされぬ約束を思い出させるもの。

そして、かつて誰かが自分に託した“想い”の証でもあった。


レイの視線が手首に落ちたまま、動かない。

その横顔を見たエリスが、少しだけ眉をひそめる。


「……レイ、――手がかりが掴めるといいわね」


声をかけると、レイはほんの一瞬だけ間を置き、小さくうなずいた。


「……あぁ」


その返事は短かったが、低く、どこか遠くを見るような響きを持っていた。

彼の目には、今ここにある光景ではなく、もっと遠い、記憶の中の風景が映っていた。


――赤く燃え上がる夜空。

――崩れ落ちる家々。

――叫ぶ声、倒れる人々。

――そして、自分の手の中で、必死に大きな樹の樹洞の中で握りしめていたこの宝石の感触。


幼い頃の記憶が、ノイズのように思考の隙間に流れ込んでくる。

あの夜、レイは一人、何も知らないまま、誰にも知られぬよう隠されて生き延びた。


今もなお、あの時のように理不尽に命が奪われ、自由が踏みにじられている場所がこの街にはある。

だからこそ、レイは追う。怒りや復讐心だけでなく、それ以上の理由があった。

自分が生き残った意味を、あの時村で何が起こっていたかの真相をこの手で掴むために。


エリスは何も言わなかった。ただその隣に立ち、彼の選んだ道を共に歩くように、静かに歩みを進めた。

やがて二人は駅を抜け、喧騒を離れていく。

繁華街のまばゆいネオンが背後で遠ざかり、街の灯りは徐々に少なくなっていった。

通り過ぎる建物も、ガラス張りの高層ビルから古びたコンクリートの集合住宅へと変わり、空気そのものがどこか乾いたものへと変化していく。


倉庫街に足を踏み入れた瞬間、レイの肌がざらつくような違和感を覚えた。夜風は止み、音のない沈黙が辺りを支配する。いつもなら微かに聞こえるはずの、遠くを走る車の音すら届かない。


「……静かすぎる」


エリスが警戒するように言葉を漏らす。レイも無言のまま頷いた。まるで、何かが呼吸を潜めて、この空間すべてを見下ろしているかのような――そんな錯覚。


一歩、また一歩。


コンクリートを踏む音だけが虚しく響いた、その時だった。


バサリ――


突然、頭上から黒い影が舞い降りた。羽のように広がるマント、顔を隠す深いフード。黒衣の男だ。


「くっ……!」


レイが即座に前へ出る。だが、マナは使えない。レイの戦い方は、相手の魔術を見切り、読み、反射的な動きと体術で切り抜けるものだ。

男は一言も発さず、手をかざす。次の瞬間、虚空に赤い光の紋様――術式が展開される。


「来るぞ!」


エリスが魔力を練り、構える。レイは足元を蹴り、男の懐へと走った。魔術の発動前に潰す。それが唯一の手段だ。


だが――遅かった。


赤光が弾け、空気が重く圧縮される。次いで、爆ぜるような衝撃。コンクリートが抉れ、火花が吹き出す。


「ぐっ……!」


レイはギリギリで身を翻し、その場を跳び退く。腕に熱が走る。コンクリートの破片がレイの腕を裂いていた。


(威力も、速度も桁違い……!)


男は魔術を重ねがけしながら、無言のまま近づいてくる。距離が詰まる。


「援護を!」


「任せて!」


エリスの掌から、火の球が迸る。瞬間的に眩い炎が倉庫街を照らす。だが男はそれすらも読んでいたかのように、一歩も動かず、ナイフを取り出して炎を受け流す。


「まさか……!? ナイフで魔術を弾くなんて――」


その間にレイは男の背後を取ろうとする。倉庫の壁を蹴り、反転、飛びかかる。

しかし男は背中越しに片手を突き出すだけで、再び空間に術式が浮かぶ。


「また……っ!」


レイには魔術は効かない。ただ、それは直接的なもので魔術によって発生して物理的な現象には意味をなさない。

男のはなった魔術はレイの足元で爆ぜて、その力によってレイは壁に叩きつけられ、体が軋む音がする。


「レイッ!」


「大丈夫だ……っ」


立ち上がりながら睨み返す。動き、反応、魔術の精度。すべてが異常だ。


ただの戦闘員じゃない。明らかに、訓練された殺しのプロ。


男がゆっくりとこちらへ向き直る。そのフードの奥、見えない視線と交差する。


そして――


男のマントが風に揺れた、その一瞬。


レイの目が釘付けになる。


黒衣の下、首元に揺れるもの。


――青い紐に通された、緑の宝石のネックレス。


「……っ、まさか……!」


まったく同じ。自分が手首につけている、あのブレスレットと。


目の前の敵が、それを持っている意味。


再び意識がそれかけたレイに、鋭く飛ぶ声。


「視線をそらさないで!!」


エリスの魔術が直撃する寸前、男は後退しながら次の術を展開しようとしていた。レイは痛む身体を無理やり前へと駆り立てる。


疑念と怒りが胸を突き上げる。心の奥で揺れるのは、かすかな希望か、それとも――


(なぜ……同じものをあいつが持っている!?)


闇の倉庫街。星と月の灯りしか灯さぬ場所で、再び戦いが始まろうとしていた。

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